2023年08月06日「行ってあなたも同じようにしなさい」

問い合わせ

日本キリスト改革派 岡山西教会のホームページへ戻る

行ってあなたも同じようにしなさい

日付
説教
服部宣夫 神学生
聖書
ルカによる福音書 10章25節~37節

Youtube動画のアイコンYoutube動画

Youtubeで直接視聴する

聖句のアイコン聖書の言葉

10:25 さて、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試みようとして言った。「先生。何をしたら永遠のいのちを受け継ぐことができるでしょうか。」
10:26 イエスは彼に言われた。「律法には何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」
10:27 すると彼は答えた。「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい』、また、『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』とあります。」
10:28 イエスは言われた。「あなたの答えは正しい。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」
10:29 しかし彼は、自分が正しいことを示そうとしてイエスに言った。「では、私の隣人とはだれですか。」
10:30 イエスは答えられた。「ある人が、エルサレムからエリコへ下って行ったが、強盗に襲われた。強盗たちはその人の着ている物をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。
10:31 たまたま、祭司が一人、その道を下って来たが、彼を見ると反対側を通り過ぎて行った。
10:32 同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。
10:33 ところが、旅をしていた一人のサマリア人は、その人のところに来ると、見てかわいそうに思った。
10:34 そして近寄って、傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで包帯をし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行って介抱した。
10:35 次の日、彼はデナリ二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』
10:36 この三人の中でだれが、強盗に襲われた人の隣人になったと思いますか。」
10:37 彼は言った。「その人にあわれみ深い行いをした人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」
ルカによる福音書 10章25節~37節

原稿のアイコンメッセージ

 岡山西伝道所の皆様、お久しぶりです。神戸改革派神学校3年生の服部宣夫です。昨年2022年の11月に、こちらで奨励奉仕させていただきました。今回は夏期伝道として8月の1か月間、集中的に奉仕させていただきます。よろしくお願いします。

 さて、7月の派遣教会、静岡教会では、マタイによる福音書のイエス様の譬え話からメッセージを聞き取りましたが、8月は、第3週の伝道説教を除いて、すべてルカ福音書のイエス様の譬え話から奨励を試みたいと思います。今朝、示されている譬え話は、教会学校CSでも度々取り上げられるなじみ深い「善きサマリア人の譬え」からメッセージを聞き取ります。

 

 ところで私は、詳しくは知らなかったのですが、この「善きサマリア人の譬え」が元になった「善きサマリア人の法」という法律が、欧米諸国にはあるのだそうです(英語:Good Samaritan laws)。岡山西の兄弟姉妹方の中には、この法律に詳しい方がいらっしゃるかもしれません。Wikipediaによれば、「災難に遭ったり急病になったりした人などを救うために無償で善意の行動をとった場合、良識的かつ誠実にその人ができることをしたのなら、たとえ失敗しても結果責任を問われないという趣旨の法である」と解説されていました。なるほど思います。無償で、誠実に、良識的な処置を施したのなら、仮に失敗しても結果責任は問われない、訴えられることはないことを保証する法律。「善きサマリア人」という名を付けることは適切です。

 なおWikipediaによれば、アメリカやカナダ、オーストラリアなどで施行されており、2023年現在日本でも立法化すべきか否かという議論がなされている」と解説されていました。やはりそうかと思います。日本ではまだ議論の段階かと。少々残念な気持ちにさせられました。同時に、そこには文化的な質の違いがあるようにも思えます。

 今、文化的な質の違いということを申し上げましたが、この譬えが示している文化的な違いについて申し上げると、例えば、日本人が長らくその教えに親しんできた仏教では、四苦(四つの苦しみ)の教え、「生老病死」(しょうろうびょうし)があります。人間には四つの苦しみがある。生きること、老いること、病にかかること、死ぬことである。確かに、人間の姿をえぐり出している言葉であり、鋭い教えであります。しかし、この「善きサマリア人の譬え」は、すなわち聖書は、さらに深く、根底から人間の真実の姿を指し示しています。

 例えば「律法の専門家」が口にした「永遠のいのち」、イエス様が仰った「いのち」、例えば「律法」の中に記され、「サマリア人」が実際の行動によって示した「愛」があります。「いのち」「愛」と申し上げましたが、さらに譬えの中には、「いのち」と「愛」を結びつける重要な言葉があります。これは聖書以外には決して指摘できない言葉、聖書だからこそ取り上げることができる言葉です。それが「傷」です。34節に出てきました。

 この「傷」という言葉は、原典ではtρaύµa traumaです。私たちにとっても日常の言葉になっているあの「トラウマ」です。一般の辞書などでは、この言葉は、ドイツ語から来ていると解説されますが、元々はギリシア語であったのです。この「傷」について聖書が示しているところは、非常に深いといわなければなりません。旧約聖書から二つだけ取り上げます。

 詩篇109:22「私は苦しみ そして貧しく 私の心は私のうちで傷ついています。」

 イザヤ53:5「しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。」

 このように、この譬えには「いのち」「永遠のいのち」、そして「愛」、そして「傷」という主題が底流にある。そのことを踏まえて、早速、御言葉を見ていくことにしましょう。

 10:25「さて、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試みようとして言った。『先生。何をしたら、永遠のいのちを受け継ぐことができるでしょうか。』」

 どのような経緯から「律法の専門家」がイエス様を「試みよう」という思いに駆られたのかは不明です。ただ彼がどうやらパリサイ派であったことは間違いなさそうですし、この「律法の専門家」を含めた彼らパリサイ派にとって、「永遠のいのち」、その「永遠のいのちを受け継ぐこと」が最も大切なテーマであること、しかも「何をしたら」といっているとおり、自らの行為に信頼を置いていること、が明らかにされています。はからずもパリサイ派の考えの本質が浮き彫りにされています。しかしイエス様は、彼の質問の動機はともかくとして、この問いが善い問いであることを評価されました。

 10:26「イエスは彼に言われた。『律法には何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。』」

 優れた切り返しだと言わなければなりません。「律法の専門家」である彼に向かって「『律法』から、あなたは答えを出せないのですか?」と切り返えされたからです。しかも、「律法は何と書いて」と仰って、「律法は客観的にどのように記していますか?」、そして「あなたはどう読んで」と仰って、「あなたは主体的にどのように読んでいますか?」と切り切り返えされた!そこで驚くべきことが起こります。彼はこう応じたのです。

 10:27「すると彼は答えた。『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい』、また『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』とあります。」

 彼の答えは、イエス様の教えと一致しています。全く同じ御言葉がマタイ22:35-40にあるからです。ですから、イエス様は、彼を高く評価されました。

 10:28「イエスは言われた。『あなたの答えは正しい。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。』」

 ところがです。この瞬間に「律法の専門家」、パリサイ派の限界がイエス様の前に明らかにされます。

 10:29「しかし彼は、自分が正しいことを示そうとしてイエスに言った。『では、私の隣人とはだれですか。』」

 この「自分が正しいことを示そうとして」は興味深い言葉であり、反応です。新共同訳聖書は「自分を正当化しようとして」、口語訳聖書は「自分の立場を弁護しようとして」と訳します。直訳は「彼自身を義とすることを願って」となります。あるいは「彼自身を罪がなく潔白であると願って」です。

 多くの説教者は概ね次の二つの解釈を示します。

 ・彼は自分が口にした律法の御言葉によって、イエス様から正しいと評価されたことに対し、立場上、自分の方がイエス様よりも正しいのだ、と示そうと心に思ったのだとする解釈

 ・彼は自分が口にした律法の御言葉によって、かえって自分の良心が咎めを感じて自分を正当化しようと心に思ったのだとする解釈

 いずれの解釈も根拠があると思われます。そして、彼は言います「では、私の隣人とはだれですか。」

 私たちは、彼の、このような、自分を上に見せたいとか、自分の良心を誤魔化したいという動機があったにもかかわらず、イエス様は決してお怒りになることなく、あの譬え、「善きサマリア人の譬え」をお語りくださったことを覚えたい、感謝したいと思うのです。

 ただここでお断りしておきたいことは、この「善きサマリア人の譬え」は、よく知られている譬えであり、またイエス様の設定が極めて巧みであるため、譬えの物語を聞いていると、その中の登場人物たち、そのだれにでも自分を重ねることができますし、できるように作られていることです。私たちは、この譬えの登場人物のだれに自分を重ねるでしょうか?ある人?祭司?レビ人?サマリア人?あるいは譬えの外に出て、この譬えをリアルに聞いている「律法の専門家」? それぞれであってよいと思います。後々、皆さんそれぞれの感想や黙想を語り合い、共有できればと願います。では30節から見ていきましょう。

 10:30「イエスは答えられた。『ある人が、エルサレムからエリコへ下って行ったが、強盗に襲われた。強盗たちはその人の着ている物をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。』」

 登場する「ある人」は、「エルサレム」から「エリコ」へ下っていく途中でした。聖書学者によれば、およそ距離は27㎞、高低差は400メートルとも900メートルともされており、まさに「下って」いました。ただしこの道は、人気がなく、「血塗られた道」と呼ばれるほどで、盗賊らが出没していました。旅人を守るためにローマの砦と守備隊が必要であったということです。果たして、待ち構えていたように「強盗たち」が現れ、彼を取り囲み、「その人の着ている物をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った」のでした。

 この「ある人」は、譬えの前提として、間違いなく「ユダヤ人」であります。神殿のある「エルサレム」から下ったのですから、決して、敵対していた民族「サマリア人」ではありません。そして彼がまさに「エルサレム」から下ってきたことから、彼は「巡礼者」であったのではないか、あるいは祭司が多く住む「エリコ」に向かっていることから、彼もまた「祭司」であったのではないかと推測されています。このことについてイエス様は、示してくださっていないので分かりませんが、譬えの中の事実として、この「ある人」が、襲われて、着ているものは剥ぎ取られて半身裸となり、殴りつけられて倒れ、助けがなければ回復の見込みがない半殺しの状態に陥ったこと、すなわち死と隣り合わせの状態にあったことは、譬えの中の事実として間違いのないことであります。この倒れている彼を、この後、二人の人が見かけますが、両者ともにこうしました。

 10:31「たまたま祭司が一人、その道を下って来たが、彼を見ると反対側を通り過ぎて行った。」

 10:32「同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。」

 祭司と続くレビ人、彼らは恐らく、神殿での奉仕を終えたばかりで、神聖な任務のために少々長い休暇を取ろうとして祭司たちの住まいであったエリコに下ろうとしていたのだと言われています。「下った」。この動詞は、祭司がのんびりと歩いていたことも暗示しています。

 ただ「彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った」という二人の行為について、説教者の間では二つの意見に分かれます。

 ・一つ目は、「何ということだ。ユダヤ人であり、同胞の一人が、襲われて倒れ、うち捨てられているのに。二人ともその姿を自分の目で『見』たのに。『反対側を通り過ぎて行っ』とは!助けるどころか、言葉さえも掛けないではないか」という意見

 ・二つ目は、「彼らを心の温かさのかけらもないなどと言って非難するのは簡単だ。彼らの立場に自分を置いてみるがいい。孤独な谷間を一人で下っていたら、突然目の前に瀕死の姿が飛び込んできたのだ。不安や恐怖に陥ったとき、私たちだって同情心とは逆の方向に突き進むことがあるではないか」という意見です。

 いずれにせよ、祭司とレビ人の姿は、実は、当時の神殿を中心としたユダヤ教の信仰に限界があったことへと私たちの思いを向けさせますし、直後に登場するサマリア人という人物が際立った行いをすることへと私たちの目を向けさせます。

 今、「私たちの目を向けさせます」と申し上げましたが、むしろ反対から、逆から申し上げた方がよいかも知れません。つまり、イエス様という方によって、その譬えによって、サマリア人という特異な存在が示されたからこそ、あの祭司とレビ人の姿がいかに不快であり、情に欠けているかが示されてくるのだと。それほどにサマリア人の姿、その言葉と行動は際立っているのです。

 10:33「ところが、旅をしていた一人のサマリア人は、その人のところに来ると、見てかわいそうに思った。」

 10:34「そして近寄って、傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで包帯をし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行って介抱した。」

 10:35「次の日、彼はデナリ二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』」

 サマリヤ人は、自分が旅の途中であったにも関わらず、ユダヤ人であるこの人を見て、彼に近寄ります。傷口を確認し、オリーブ油とぶどう酒を注ぎます。包帯もします。すばやく自分の家畜に彼を乗せます。さらに宿屋に連れて行きます。何と一晩中彼を介抱します。次の日には、宿屋の主人に賃金を支払い、引き続き介抱を依頼します。追加費用の支払いも約束します。

 何と敏速な対応でしょう。 何と臨機応変な処置でしょう。何と自己犠牲的で献身的な姿勢しょう。何と徹底した行動でしょう。何と忍耐をもって接していることでしょう。何と冷静であったことでしょう。これが愛ということではないでしょうか。今私たちは示されています。愛するとはこういうことであると。そして、これこそイエス様がなしてくださった十字架の愛であると。

その愛の根本にあったのは、「見てかわいそうに思った」という心の動きです。あるいは、その心そのものです。「かわいそうに思った」は、他の訳では「憐れに思い」(新共同)、「気の毒に思い」(口語)とありますが、原典ではspλaγχνίζοµaι splagchnizomai といい、 辞書では「腸から溢れ出てくるように憐れみ、同情」とされる言葉です。マタイ、マルコ、ルカたちが報告するイエス様の憐れみの心を表す特別な言葉なのです。ところが、その同じ言葉をイエス様ご自身が譬えの中で用いておられる。聖書が示す興味深い事実です。「見てかわいそうに思」う。ここから、あの一連の行為は、すなわち愛は出て来るのです。

 さて、譬えの物語はここで終わり、リアルな対話、現実の場面に戻ります。イエス様は「律法の専門家」に問いかけます。

 10:36「この三人の中でだれが、強盗に襲われた人の隣人になったと思いますか。」

 彼の答えは、最初のときと同じように再び的確でした。

 10:37「彼は言った。『その人にあわれみ深い行いをした人です。』」

 イエス様は、彼の応答を肯定して、こう言われました。「するとイエスは言われた。『あなたも行って、同じようにしなさい。』」

 こうしてイエス様の譬えの物語は終わり、「律法の専門家」とイエス様の問答と対話も終わりました。

 ルカはこの対話の直後に、彼が何をしたか、どのようになっていったかをまったく記していません。聞き手と読者に委ねたのだと思われます。「あなたも行って、同じようにしなさい」。彼はどのように応答したのでしょうか?

 「はい、主よ、私の隣人が誰かではなく、私が隣人となることが大切なのですね。分かりました。同じようにします」と喜んでイエス様に感謝を申し上げて、イエス様のもとを辞したのでしょうか?あるいは、あの「金持ちの青年」のようにイエス様の御言葉を聞いてむしろ悲しみを覚え、イエス様のもとを立ち去ったのでしょうか?私たちは、このことを問いたいと思います。この「律法の専門家」は、「サマリア人」になれたかどうか?と。

 「律法の専門家」は「サマリア人」になれたか?を考える上で、大切なことは、やはりイエス様が、ユダヤ民族と敵対するサマリヤ人に御自身を託されたこと、すなわち譬えにおいてあの「サマリア人」とはイエス様であったことを覚えておくことです。その上で、35節にもう一度注目します。こうありました。

 10:35「次の日、彼はデナリ二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』」

 「サマリア人」が「宿屋」に傷ついた人を連れて行って一晩介抱した後、「宿屋の主人」にその後を依頼するという譬えの展開です。この展開は、非常に興味深いのです。旅を続けるサマリア人が、宿を取った宿屋の主人に彼を託すということは、愛するということ、徹底して愛することを教えているように思えます。しかし、憐れみの心からする愛は、宿屋で一晩中彼を介抱したということ、34節までで十分に示されていたはずです。

 宿屋の主人の登場と存在。ここにこの譬えの深淵があります。多くの正統的な説教者たちは、この譬えをあまりにも信仰者の現実に引き付けて考えることを戒めています。しかし、この善きサマリヤ人が、傷ついた人を託すことができる存在が「宿屋の主人」であった。つまりこの「宿屋の主人」とは、聖霊の御神を暗示している。そうして、この主人の「宿屋」とは、教会を暗示している。そのように考えることができるのです。

 思い出せば、イエス様は、ペトロの信仰告白の後、3回に分けて、御自身の苦しみ、十字架、死、そして復活を予告されていました。さらに、過越の祭が始まると、エルサレム神殿の崩壊と世の終わりと御自身の再臨とをはっきりと予告されています。そしてヨハネ福音書では、まさに最後の過越の祭の告別説教で、イエス様は、御自身が復活されて、天に昇られた後、聖霊の御神が地上に下られることを予告しておられます。イエス様が、御自分についてなさった予告には、苦しみ、十字架、死、復活、昇天、聖霊降臨、再臨までの一切が示されています。そうであるならば、この善きサマリヤ人の譬えに、御自身が天に昇られた後に下られる約束の聖霊の御神を既に暗示して語っていることは、十分に考えられるのです。

 もしそうであるならば、この傷ついた「ある人」とは、教会に招かれている者たち、すなわち私たちを指していることになります。

 そしてここに集められている私たちは、確かに全員が、何らかの傷のある、様々な傷を負った者たちではないかと思うのです。傷を負った者とは、自損や事故の場合を除いて、傷つける者によって受けたくはなかった傷を負わされた者です。傷つける者と傷つけられる者との関係が必ずそこにはあります。人と人との関係です。その関係の中でどうしても起きてしまう傷、発生してしまう傷。

 しかし、聖書は、深淵を語っています。特にヨブ記では、神が人に傷を与える、負わせることがあり得るのだと。しかし同時に聖書は、神が傷を包んで下さる方であることを伝えています(ヨブ5:18「神は傷つけるが、その傷を包み、打ち砕くが、御手で癒やしてくださるからだ。」)

 同時に私たち全員が、あのサマリア人がしたような憐れみの心を注がれた、その愛を受けた一人一人であると思うのです。イエス様、すなわち神様が私に近寄ってきてくださった経験を、イエス様、すなわち神様が私の体の傷も心の傷も癒やしていただいた経験を、イエス様、すなわち神様が私の傷を包んでくださった経験を、イエス様、すなわち神様が倒れていた私を運んでくださった経験を、イエス様、すなわち神様が私を一晩中付き添って見守ってくださっていた経験を、そしてまさにイエス様、すなわち神様が私を教会へと連れて行ってくださった経験を、私たちは与えられた一人一人であると思うのです。

 しかし、さらにそれ以上のことを聖書は証言します。傷を受けた方とは神様御自身がであると。先ほどイザヤ書53:3を朗読しましたが、そこを引用したペテロの証言です。

 Ⅰペテロ2:24「キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。」

 私たちは、この譬えの登場人物のだれに自分を重ねるでしょうか?と皆さんに問いかけました。また、この「律法の専門家」は、「サマリア人」になることができたでしょうか? とも問いかけました。一つの答えが見えてきたと思います。

 私たちは譬えの中で傷を負った「あの人」です。また「律法の専門家」が、イエス様の御言葉の通りの「サマリヤ人」になれたかどうかは、やはり分かりません。ただイエス様の憐れみを彼が知り、イエス様の憐れみを経験すれば、それは可能となる。そのように言うことができるでしょう。

 とするならば、傷を負いながらも憐れみを受けた「あの人」が、今度は「サマリヤ人」となっていく。そのことも暗示されています。しかしながら、傷を負いながらも憐れみ、愛を受けたのは「あの人」だけではありません。私たちが「あの人」でした。そうであるならば、私たちが「サマリヤ人」となれる。このことまでもが暗示されているのです。これがイエス様による「善きサマリヤ人の譬え」です。

 私たちは、「サマリヤ人」に自分を重ねることができます。私たちは「サマリヤ人」とされていきます。ただ「サマリア人」になることは、地上にある間の最後までの課題であり、完成は御国が到来したときでしょう。しかし、そこを目指して歩みます。これが神の御国を目指す生活であり、今から始まる一週間の生活であります。祈ります。

関連する説教を探す関連する説教を探す