2023年07月02日「我は聖霊を信ず ⑵(使徒信条の学び29)」

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我は聖霊を信ず ⑵(使徒信条の学び29)

日付
説教
田村英典 牧師
聖書
ヨハネによる福音書 14章16節~17節

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聖句のアイコン聖書の言葉

14:16 そして私が父にお願いすると、もう一人の助け主をお与え下さり、その助け主がいつまでも、あなた方と共にいるようにして下さいます。
14:17 この方は真理の御霊です。世はこの方を見ることも知ることもないので、受け入れることができません。あなた方はこの方を知っています。この方はあなた方と共におられ、また、あなた方の内におられるようになるのです。

14:26 しかし、助け主、すなわち、父が私の名によってお遣わしになる聖霊は、あなた方に全てのことを教え、私があなた方に話した全てのことを思い起させて下さいます。ヨハネによる福音書 14章16節~17節

原稿のアイコンメッセージ

 私たちは使徒信条により、キリスト教信仰の基本内容を学んでいます。前回は、「我は聖霊を信ず」という所に進み、私たちの信じるべき大きな二つの点を確認しました。第一に、聖霊あるいは御霊(みたま)は神であり、三位一体(さんみいったい)の神の第三位格(だいさん いかく)であられること、第二に、聖霊は私たちをイエス・キリストに結び付けてイエスの獲得された救いの恵みに与らせ、私たちの救いのプロセスの最初から最後まで全てに関られるということでした。

 それだけに、聖霊を悲しませず、また聖霊に言い逆らい、聖霊を冒瀆しないように、という大事な注意も学びました。

 今朝も聖霊の尊い御業(みわざ)を学びます。私たちは毎年ペンテコステ礼拝で聖霊について学んでいますので、繰返しになりますが、大事なことは何度学んでも良いですね。昔から言われて来ましたように、忘れやすい私たちにとって、繰返しは最良の教育方法なのです。

 今朝は四つ学びます。

 第一に、聖霊は真理の御霊として、私たちに真理、特に神の救いの恵みと知恵を分らせて下さいます。

 イエスは、十字架の前夜、何となく不安がる弟子たちに、世を去るご自分の代りに御霊を遣わされることを、こう言って約束されました。ヨハネ14:16、17「私が父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与え下さり、その助け主がいつまでも、あなた方と共にいるようにして下さいます。この方は真理の御霊です。」

 実際、御言葉には神の真理と知恵が満ち満ちています。詩篇119:130は言います。「御言葉の戸が開くと、光が射し、浅はかな者に悟りを与えます。」その前の98節も「あなたのおおせは、私を敵よりも賢くします」と言い、神をほめ称え(たたえ)ます。

 そこで、私たちが「あぁ、これは本当に御言葉の通りだ」と、御言葉を思い出し、自分が体験していることと御言葉が一致する、いわゆる御言葉体験が大切です。がまさに、それを真理の御霊、聖霊はして下さるのです。イエスは言われました。ヨハネ14:26「助け主、すなわち、父が私の名によってお遣わしになる聖霊は、あなた方に全てのことを教え、私があなた方に話した全てのことを思い起させて下さいます。」

 聖書の真理がよく分り、強い信仰者になるために、私たちは是非聖書をよく読み、心に貯え、分りにくい所は註解書や聖書辞典で調べると共に、聖霊が私たちの心を照らし、生活の中で御言葉を体験させて下さるように、是非、祈り求めたいと思います。

 第二に、聖霊は信仰者の内に絶えず住んでいて下さいます。何と感謝なことでしょう。

 不道徳な点もありましたコリント教会の人たちに、Ⅰコリント6:19は「あなた方の体は、あなた方の内におられる、神から受けた聖霊の宮」なのだから、自分の体を清く保ちなさい、と教えました。今、特に心に留めたいことは、キリスト者の体は、聖霊が住まわれる宮、神殿だという点です。驚くべきことに、本当にそうなのです。

 前にも申しましたが、私たちは主イエスを自分の救い主と信じていても、自分の体のことはあまり考えず、暴飲暴食とか、体をキチンと管理しないで放置するとか、一方で急に酷使するなど、体を粗末にすることはないでしょうか。しかし、クリスチャンの体は聖霊の宮、神殿です。このことをよく考えたいと思うのです。聖霊なる神は、本当に私たちの頭の天辺(てっぺん)から手の先、足の爪先(つまさき)に至るまで住んでいて下さるのです。

 しかし、どうしてそこまでなさるのでしょうか。聖霊が私たちを愛しておられるからです。従って、私たちが罪深いことや世俗的なものに支配されず、神に愛される神の子として成長し、またローマ12:1が言いますように、私たちが体ごと「神に喜ばれる、聖なる生きた献げ物」として、聖化が完成されるためなのです。

 聖霊が私たちの体をご自身の宮、神殿として常に喜んで住んでいて下さる!こんな光栄、幸せ、喜びがあるでしょうか!ですから、私たちも天に召される時まで、自分の体をより良く管理し、健康で清く保ちたいと思います。

 第三に、どんな時にも聖霊なる神が私たち信仰者の味方であられることも、よく覚えたいと思います。大変力づけられ、勇気づけられます。これを知っているか否かで、随分違います。

 ヨハネ14:26で、イエスは聖霊を「助け主」と呼んでおられます。元のギリシア語は「呼ばれて、そばに来てくれる者」という意味の言葉であり、慰め主、弁護者、仲保者とも訳せます。要するに、聖霊は、御子イエスを心から信じ、受け入れ、依り頼む信仰者の味方であられるということです。ヤコブ4:5の別訳として、「神が私たちの内に住まわせた御霊は、妬むほどに私たちを慕い求めておられる」とあります。その通り、聖霊は私たちを妬むほど愛され、どこまでも私たちの味方、助け手であられるのです!

 どうして聖霊はそうであられるのでしょうか。聖霊を私たちに遣わされた御子イエスが、十字架でご自分の命まで献げて贖って下さったほどに、私たちクリスチャンを本当に愛しておられるからです!これを思い起すだけで、辛い時にも、どんなに慰められ、楽になり、平安を与えられることでしょうか。

 第四に聖霊は、私たちが祈れないほど弱っている時にも、私たちを全能の父なる神に、必ず、それも最善に執り成して下さるお方です。

 私たちは皆、本当に弱いと思います。順調な時には祈れます。感謝もできます。しかし、物事がうまく行かず、自分の力に余る大きな大きな困難に直面すると、どうでしょう。

 前にもお話しましたが、昔、私が病気で高熱に襲われた時、熱のために頭が働かず、祈れないことがありました。「僕は今祈れないのだ!」と焦りました。

 しかしその時、ローマ8:26の、御霊自らが言葉に表せない呻きをもって私たちを神に執り成して下さるという御言葉を思い出しました。「そうだ。僕が祈れなくても、御霊が祈って下さるのだ。」これが分った時、本当に安心しました。

 とにかく、色々なことで、祈れないという時が、誰にもありますね。

 しかし、辛くて祈れないからといって、私たちは決して絶望したり自暴自棄になってはなりません。そういう時こそ、聖霊の執り成しを思い出すのです。

 その上、ローマ8:27が言いますように、聖霊は「神の御心に従って、聖徒たちのために取り成して下さ」います。私たちの願い事には、その時はそれが一番良いと思えても、後から見ますと間違っていることもあります。しかし、聖霊は違います。聖霊は私たちの今現在も未来も全てご存じです。ですから、その時には私たちに理解できなくても、私たちが神を信じ、神を愛しているなら、最終的には必ず私たちの益となるように(ローマ8:28参照)、全能の父なる神に、主イエス・キリストと共に執り成して下さるのです。何と感謝なことでしょうか!が正に(まさに)これが、私たち信仰者に主イエスが遣わして下さった聖霊なのです。

 そこで最後に、聖霊が私たちに働いておられることを知る方法の一つを申し上げたいと思います。

 イエスはヨハネ16:14で「御霊は私の栄光を現され」る、と言われました。聖霊は、主イエスの栄光を現され、イエスに栄光を帰されるのです。従って、私たちが何かとすぐ自分を誇り、自分自身に栄光を帰するようならば、何かのことでうまく行っていても、少なくともその点に関する限り、聖霊は私たちに働いてはおられません。そこでは、私たちは未だに罪深く、古い肉のままの人であり、自己中心的です。

 一方、どんな喜びでありましても、私たちが、自然と、心から主イエス・キリストに感謝し、主イエス・キリストの素晴らしさをほめ称え、栄光を主イエスに帰する者であるならば、聖霊は確かに私たちに働いて下さっています。何と感謝なことでしょう!

 是非、様々な時に自分をよく観察し、そして自分にではなく、一切の栄光を御子、主イエス・キリストと、その御子を私たちに遣わして下さった父なる神に、ひたすら帰する私たちでありますように!

 そうして聖霊が、私たちを確かに愛しておられ、私たちにお働き下さっていることの、何ものにも替えがたい清い喜びと感謝と幸せを、ますます味わわせて下さいますように!

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