2023年06月18日「キリストの再臨と審判 ⑵(使徒信条の学び27)」

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キリストの再臨と審判 ⑵(使徒信条の学び27)

日付
説教
田村英典 牧師
聖書
マタイによる福音書 16章24節~28節

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16:24 それからイエスは弟子たちに言われた。「誰でも私について来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、私に従って来なさい。
16:25 自分の命を救おうと思う者はそれを失い、私のために命を失う者はそれを見出すのです。
16:26 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら何の益があるでしょうか。その命を買い戻すのに、人は何を差し出せばよいのでしょうか。
16:27 人の子は、やがて父の栄光を帯びて御使いたちおと共に来ます。そして、その時には、夫々の行いに応じて報います。
16:28 まことのい、あなた方に言います。ここに立っている人たちの中には、人の子が御使いたちと共に来るのを見るまでは、決して死を味わわない人たちがいます。マタイによる福音書 16章24節~28節

原稿のアイコンメッセージ

 6月4日の礼拝説教では、古代教会が聖書に基き告白しました使徒信条から、「キリストの再臨と審判」という重要なテーマを取り上げました。ただ、時間が足りませんでしたので、今朝はその続きを学びます。

 イエスは、十字架の死によって私たちの罪をすべて償い、復活され、天の父なる神の右にあって万物を治め、また教会により福音を全世界に宣べ伝え、ご自分を信じる者たちの救い主として、今も働いておられます。

 しかし、それはやがて終ります。使徒信条は、イエスが「かしこより来りて、生ける者と死ねる者とを審き給わん」と言います。すなわち、世の終りにイエスは天から再び来られ、全人類を裁かれるのです。先程お読みしましたマタイ16:27でイエスは言われます。「人の子は、やがて父の栄光を帯びて御使いたちと共に来ます。そしてその時には、夫々その行いに応じて報います。」

 罪に満ちた今の世界は、その時、Ⅱペテロ3:10が言いますように、焼け崩れ、神は新しい世界を創られ、最後まで耐え忍ぶ信仰者は神と共に永遠に生きる者とされます。

 しかし、こういう世の終りについては、昔から勝手なことを言う人が後を絶ちません。そこで前回は、聖書から四つの点を確認しました。

 第一に、聖書はキリストの再臨がいつなのかを語っていません。従って、徒(いたずら)に詮索してはなりません。

 第二に、世の終りには前兆があります。今の世界を見ますと、正(まさ)にそれらが見られます。ですから、心して備える必要があります。

 第三に、再臨は突然起ります。前兆はありますが、主イエスの再臨そのものは突然やって来ます。そこで、霊的に目覚めていることが極めて大切です。

 第四に、再臨のイエス・キリストは、生きている人と死んだ人とを裁かれます。死んだ人も生きている人同様に裁かれます。「その時に、自分はもう生きていないだろうから」などと考えて安心するのは大間違いです。

 さて、今朝は、世の終りにキリストによる裁きが私たち一人一人にあるというこの厳粛な事実を深く心に刻むと共に、実はこのことが私たち信仰者にとって幸いであることを、確認したいと思います。五つ申し上げます。

 第一に、最後の審判を覚えることで、私たちは自分自身を真剣に問い直し、自己中心の罪を悔い改め、罪と戦い、神の清い御心に少しでも従おうとして自分を整えられますので、幸いです。

 人間は最後のことを考えませんと、どうしても、考え方も生き方も、だらけます。ただその時々を巧くやりさえすればいいと考え、人をも自分をもごまかして生きてしまいます。しかし、その結果はどうでしょうか。そんなことで、私たちの思いも言葉も行いも全てご存じの神とキリストの前に、最後の時に立てるでしょうか。そういう生き方は、私たちを人間として本当に高めるでしょうか。

 最後の審判を考えますと、当然、私たちは気が重くなると思います。しかしそのお蔭で、私たちは神の前に自分を正直に振り返り、自己中心の罪や不信仰と戦い、神の清い御心に少しでも従おうとしてイエス・キリストに繋がり、神と人に対しても誠実になり、結果的に必ず自分を整えられます。ですから、やはり幸いです。

 第二に、信仰者は最後の審判の時、あらゆる罪を公に赦され、はっきり神の前に義とされますから幸いです。

 最後まで不信仰な人は、この世で行なった罪を全て皆の前で暴かれ、裁かれ、永遠に地獄で償わなければなりません。またマタイ7:21でイエスが言われますように、「主よ、主よ」とイエスに言ってはいても、口先だけの信仰は、決して私たちを救いません。自分の罪深い思いと無益な言葉と利己的な行いを露(あらわ)にされ、イエスからマタイ7:23「私はお前たちを全く知らない。不法を行う者たち、私から離れて行け」と言われ、永遠に後悔しなければなりません。何と悲惨なことでしょうか。

 しかし、イエス・キリスト以外に自分の救われる希望が一切ないことをよく知り、イエスの憐れみに寄りすがり、しかし弱さからまた罪を犯し、その都度心底悲しみ、赦しをイエスに真剣に願う人は、どうでしょうか。

 最後の時、父なる神の前に、その人は、勿体なくも主イエスご自身に弁護して頂けます。そして全世界を贖って、尚余りある主イエスの十字架の絶大な贖いのお蔭で全く罪赦され、永遠の命に定められた無数の信仰者たちの中にいて、感謝と喜びに震えている自分自身を発見することでしょう。

 第三に、心からイエス・キリストを信じ、その主イエスへの感謝から、神に喜んで頂こうとして御言葉に従順で、神と人に真心から仕え、自分を献げた人は、最後の審判で必ず報いを受けますから、幸いです。

 私たちの罪はイエスの十字架の故に全て塗り消され、私たちの信仰による善い行いは―と言っても、本当に貧しいものであり、しかも当然の行いなのですが―、イエスは全部記憶され、必ず報いて下さいます!主は私たちに報いることを喜びとしておられるのです!何という主の愛でしょう。

 最後の審判の光景が語られていますマタイ25:31以降をご覧下さい。特に、辛い状態にある人たちに殆ど何もしなかった人にイエスは言われます。45節「まことに、お前たちに言う。お前たちがこの最も小さい者たちの一人にしなかったのは、私にしなかったのだ。」

 一方、辛い状態にある方々に仕え、しかも自分がした善いことなどすっかり忘れている信仰者たちに、最後の審判でイエスはこう言われます。40節「まことに、あなた方に言います。あなた方が、これらの私の兄弟姉妹たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、私にしたのです。」最後の審判で必ず報いを受けます。ですから、幸いです。

 第四に、真(まこと)の信仰者は、最後の時にイエス・キリストにお会いする際、イエス・キリストに似て完全に清い者に変えられますから、幸いです。Ⅰヨハの手紙 3:2は言います。「愛する者たち、私たちは今既に神の子です。やがてどのようになるのか、まだ明らかにされていません。しかし、私たちは、キリストが現れた時に、キリストに似た者となることは知っています。キリストをありのままに見るからです。」

 最後の時、栄光に輝く御子イエスのお姿、その恵みと慈しみに満ちたお顔を拝して圧倒される私たち信仰者を、主イエスは御自分に似る者にして下さいます。私たちはその喜び、光栄、感謝に、驚き、震え、大声で神を賛美することでしょう。

 第五に、最後の審判のあと、真(まこと)の信仰者は、この世でのあらゆる悲しみ、痛み、嘆き、労苦から解放され、神の永遠の慰めに与りますので、幸いです。

 この世では、真の信仰者であっても、「何故こんな苦しみが続くのか。神様、私をこの苦しみから一時でも早く救って下さい」と叫ばないではおれないことが多々あります。旧約聖書の詩篇42~44などには、神に向って「主よ、何故ですか」と問う言葉が何度も出て来ます。42:9「私は、わが巌なる神に申し上げます。『何故、あなたは私をお忘れになったのですか。』」44:24「何故、御顔を隠されるのですか。私たちの苦しみと虐げをお忘れになるのですか。」

 そして、その答が分らないまま、私たちは命を終えることもあります。

 しかし、神は決して私たちの悲しみ、嘆き、叫び、涙をご存じないのではありません。黙示録21:3以降は言います。「見よ、神の幕屋が人々と共にある。神は人々と共に住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、共におられる。神は彼らの目から、涙をことごとく拭い取って下さる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。」

 イエス・キリスト.の再臨と審判の時、神は私たちを完全に癒し、私たちの叫びと涙に必ず応え、慰め、また苦しんだ分、喜びに変えて下さいます。信仰者としての私たちのこの世でのどんな悲しみも労苦も涙も、決して無駄にはなりません。

 キリストの再臨と審判は必ずあります。それは、神を侮る人には永遠に後悔することになる恐るべき時となるでしょう。しかし、「時、既に遅し」なのです。

 しかし、心から神を畏れ、自分を頼みとせず、キリストをのみ頼みとし、ただ神への感謝と愛から、神と人に喜んで仕えた人には、人間に許されたこれ以上ない喜びの時となるでしょう。

 Ⅰコリント16:22は言います。「主よ、来て下さい。」原文には、当時のユダヤの言葉アラム語で「マラナ・タ」とあります。その通り、私たちも繰り返し天を見上げ、ハッキリ申し上げたいと思います。「マラナ・タ!主よ、来り(きたり)ませ!」と。

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