2020年07月02日「主の祈りの学び13 第三祈願 1」

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主の祈りの学び13 第三祈願 1

日付
説教
田村英典 牧師
聖書
マタイによる福音書 6章9節~13節

聖句のアイコン聖書の言葉

6:9 ですから、あなた方はこう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名が聖なるものとされますように。
6:10 御国が来ますように。みこころが天で行われるように、地でも行われますように。
6:11 私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。
6:12 私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。
6:13 私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。』
    (新改訳聖書 2017年度版)マタイによる福音書 6章9節~13節

原稿のアイコンメッセージ

 今日も、主イエス・キリストが祈りの模範としてお教え下さった主の祈りを学びます。第三の祈願、「御心が天で行われるように、地でも行われますように」に進みます。

 ところで、イエスは何故このような祈りをお教えになるのでしょうか。それは、愚かにも私たちが自分の考えや計画、自分の判断を過信して物事を進める結果、罪を犯したり惨めな失敗をすることを主はよくご存じであり、私たちを救いたいと思っておられるからです。

 無論、私たちは自分の知識、情報、体験などをフルに活かし、刻々と変る状況の中でも、その時点で最善のものを把握し、また先のことを少しでも早く正確に知り、判断し、前進しなくてはなりません。

 私たちは、神と人の前で無責任でいることは許されません。困難が分っているのに知らない振りをするとか、目をつむり、或いは背を向けて退散するとか逃避しても、何にもなりません。むしろ、自分に出来る最大の努力をすべきです。

 しかし、所詮、私たち人間には限界があります。この点をよく弁(わきま)えていないといけません。この世には、私たちの知識や予想を遥かに超えた分らないことがいっぱいあります。むしろ、分らないことの方が、私たちの分っているものよりも遥かに多いでしょう。例えば、突如、何の前触れもなく私たちを襲い、私たちの前に岩のように立ちはだかり、私たちや私たちの家族を振り回し、一挙に奈落の底に突き落とさんばかりの恐ろしい災害やトラブル。全く予期しない重い病気とか、事故、大けがなど。他にも様々な厳しい試練が絶えず私たちを待ち受けています。

 そういう時、私たちはどうすれば良いのでしょうか。どうあるべきなのでしょうか。生れながら罪の下にある私たちは、皆、本当はとても弱い者です。私たちは欠けだらけで、愚かでもあります。私たちはどうすれば良いのでしょう。

 実は、こういう時こそ、私たちを極みまで愛して下さっている主イエスの教えられた主の祈りの中の「御心が…行われますように」と祈る信仰が、とても大切です。

 そして、この祈りから教えられる大切なことの一つは、私たちが自分の力や知識や直感を過信したり、それだけを頼みとして、やみくもに事を押し進めたり打って出るのではなく、まず神の前にへりくだって平伏し、根本から神に尋ね、自分自身を後ろに引くことです。その大切さを教えられます。

 自分の知識、経験、勘だけは絶対大丈夫だなどと、誰が言えるでしょうか。自分を過信し、強引に推し進めた結果、どれだけ多くの人が失敗し、破滅してきたことでしょう。人類の歴史は、このことを証言しています。国による強引な武力進出や無謀な戦争。その延長線上にある到底許されない人種差別や弾圧、迫害。愚かで近視眼的な判断が引き起した不幸で悲惨な出来事は、枚挙にいとまがありません。人間はそのために、自分だけでなく、周りの人々も国々をも、どんなに混乱と絶望と破滅に陥れ、悲惨な結末を招き、また大きな傷や負の遺産を次の世代の者に残してきたことでしょう。

 もし、人が神の御子イエスのお教え下さった「御心の天になる如く、地にもなさせ給え」(文語文)というこの祈りを心に留め、そこでしっかり一旦停止をし、静まってこれを心から祈り、自分というものを後ろに引き下げたなら、大きな不幸や悲劇はどんなに避けられたことでしょうか。

 何故なら、自分の弱さ、足りなさ、罪深さ、不信仰を深く自覚してこう祈る者を、神は決してお見捨てにならないからです。箴言3:34(新共同訳聖書)は言います。「主は不遜な者を嘲り、へりくだる人に恵みを賜る。」ヤコブ4:6も言います。「神は高ぶる者には敵対し、へりくだった者には恵みを与える。」神は高ぶる者の祈りは退けられますが、悔い砕けた魂をもって御前(みまえ)に平伏す者を顧み、その祈りに耳を傾けて下さるのです。

 自分を過信し、自分の判断や考えを何が何でも通そうと意地を張り、それが叶えられない時には、神も人も何もかも恨むというようなことを、私たちは絶対にしてはなりません。私たちの救い主イエスは、全世界の贖いのための十字架を前にして、どう祈られたでしょうか。ルカ22:42は伝えます。「父よ、御心なら、この杯を私から取り去って下さい。しかし、私の願いではなく、御心がなりますように。」

 自分の小ささ、足りなさをこそ、へりくだって深く覚え、「神様、どうか私の思いではなく、最終的には一番正しいあなたの御心がなりますように!あなたの御心が天で100%行われているように、地の上でも行って下さい」と、自分自身を後ろに引き、心から祈る所に、天の父が御目(おんめ)を留め、私たちに豊かな憐れみをもって臨んで下さる尊い秘訣の一つがあります。

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