2023年06月11日「共に生きるために」

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共に生きるために

日付
説教
西 牧夫 牧師
聖書
ルカによる福音書 10章25節~37節

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聖句のアイコン聖書の言葉

10:25 さて、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試みようとして言った。「先生。何をしたら永遠のいのちを受け継ぐことができるでしょうか。」
10:26 イエスは彼に言われた。「律法には何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」
10:27 すると彼は答えた。「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい』、また、『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』とあります。」
10:28 イエスは言われた。「あなたの答えは正しい。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」
10:29 しかし彼は、自分が正しいことを示そうとしてイエスに言った。「では、私の隣人とはだれですか。」
10:30 イエスは答えられた。「ある人が、エルサレムからエリコへ下って行ったが、強盗に襲われた。強盗たちはその人の着ている物をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。
10:31 たまたま、祭司が一人、その道を下って来たが、彼を見ると反対側を通り過ぎて行った。
10:32 同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。
10:33 ところが、旅をしていた一人のサマリア人は、その人のところに来ると、見てかわいそうに思った。
10:34 そして近寄って、傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで包帯をし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行って介抱した。
10:35 次の日、彼はデナリ二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』
10:36 この三人の中でだれが、強盗に襲われた人の隣人になったと思いますか。」
10:37 彼は言った。「その人にあわれみ深い行いをした人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」
ルカによる福音書 10章25節~37節

原稿のアイコンメッセージ

  はじめに

 本日の説教題を「共に生きるために」とさせて頂きました。とても平凡な題ですが、その内実は、いつの時代でも、どこにおいても、私たちの現実に深い問いをもたらしてきます。「一人で生きる」のではなく、他者と「共に生きる」のです。

 この「共に生きる」ことの困難さを覚える今の時代の雰囲気を、私たちはどこかで感じているのではないでしょうか。貧富の格差による貧困の問題が広がっています。動植物の共生を困難とする地球規模の環境破壊が進み、その気候変動が問題となっています。無縁社会に象徴されるコミュニティの崩壊による孤立化、さらには、全体主義政治の台頭による自由や人権の抑圧、特に、今も続いているウクライナとロシアの戦争や各地の紛争、それに伴う増加する難民の問題は深刻です。

 そのような現実の中で、「共に生きるため」の道がどこにあるのか。そのことを、今朝は、「善きサマリア人の譬え」と呼ばれる有名な聖書の御言葉から、共に聴いて参りたいと思います。

  命への問い-「何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」

 この場面は、ある律法の専門家が、イエスという方を試そうとして、次のように問い掛ける所から始まります。「先生。何をしたら永遠のいのちを受け継ぐことができるでしょうか」(10:25)。

 彼が聖書の専門家であることを知っておられた主イエスは、逆にこう問い返されます。「律法には何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか」(10:26)。すると律法の専門家は答えます。「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい』、また、『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』とあります」(10:27)。彼はここで、旧約聖書の申命記6章5節とレビ記19章18節の御言葉を引用し、律法を要約した模範的な回答を返すのです。

そこで主イエスはこう言われます。「あなたの答えは正しい。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます」(10:28)。主イエスはここで、律法の要約である「神と隣人を愛せよ」との戒めを、言葉だけでなく、あなたの日常生活の中で、実際に「実行しなさい」と命じられます。「そうすれば命を得られる」と。

  隣人への問い-「では、私の隣人とはだれですか」

 しかし、律法の専門家は、「自分が正しいことを示そうとして」、つまり、「自分を正当化しようとして」(新共同訳)、再びこう問い掛けます。「では、私の隣人とはだれですか」(10:29)。彼は「実行せよ」とのイエスの命令に反論はできません。しかし、「愛せよ」と命じられる「自分の隣人」の範囲はどこまでなのか、と問い返すのです。〈自分にとって、どこまでが隣人の範囲なのか〉、その境界線を問題にするのです。この問題は、移民や難民問題等に直面する現代でも、また日本でも深刻な問いを投げかけて来ます。

 当時のユダヤ社会では、「隣人」とは、通常、家族や同郷の者や同胞、同じ民族、ユダヤ教に改宗し同じ契約に結ばれた人々を指していました。では、律法に従わず、自分たちとは異なる考え方をする外国人や寄留者、さらには、人間として受け入れがたい事をするような人々。これらの境界線の外にいる人々であれば、彼らを愛する義務はなくなるのでしょうか。律法の専門家が引用したレビ記19章の律法でも、隣人の定義と範囲は必ずしも明確ではありません。ですから、彼の問いは当然かも知れません。しかし彼は、実際、律法の要求する隣人愛を実行しきれていない自分を正当化しようとして、主イエスに問い返すのです。「では、私の隣人とはだれですか」(10:29)。

  「善きサマリア人の譬え」

 しかし主イエスは、その問いには直接答えられません。そうではなく、全く別の視点から、「善きサマリア人の譬え」を語り始められます。「ある人が、エルサレムからエリコへ下って行ったが、強盗に襲われた。強盗たちはその人の着ている物をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。たまたま、祭司が一人、その道を下って来たが、彼を見ると反対側を通り過ぎて行った。同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。ところが、旅をしていた一人のサマリア人は、その人のところに来ると、見てかわいそうに思った。そして近寄って、傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで包帯をし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行って介抱した。次の日、彼はデナリ二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』」(10:30~35)。

 

 非常に分かり易い譬えです。この譬えのテーマは、「強盗に襲われた人の隣人になったのはだれか」です。ここに登場するのは、強盗に襲われた者、祭司、レビ人、彼らは皆ユダヤ人。そして、ユダヤ人とは歴史的にも宗教的にも敵対していたサマリア人の旅人です。「エリコ」は、「エルサレム」から東へ約27キロの距離にあり、エルサレム神殿で働く祭司やレビ人の居住地の一つでした。実際に、エルサレムからエリコへ下る険しい坂道は、追い剥ぎに襲われる危険の多い道でした。

 宗教的指導者であった祭司やレビ人は、おそらく、エルサレムでの一週間に亘る神殿奉仕を終え、逸る(はやる)思いで自宅のあるエリコに帰って行こうとしていたのでしょう。すると、その途中で、道端に倒れている傷付いた人が目に入る。しかし気の毒に思っても、それを見て見ぬ振りをして、「道の反対側を通り過ぎて」行ってしまう(レビ21:1参照)。そこには、隣人となる出会いは生まれません。

 反対に、ユダヤ人と敵対関係にあったサマリア人は、「その人のところに来ると、見てかわいそうに思い」、「近寄って、傷の手当をして、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行って介抱した」のです(10:33~34)。そればかりか、宿屋の主人に治療費を払って彼を委ね、費用がもっとかかったら帰り道で支払うと約束して最善を尽くした後、再び旅を続けるのです。

  「隣人になったのは誰か」-視点の逆転

 そこで主イエスは律法の専門家にこう問い返されます。「さて、この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか」(10:36)。

 初めの律法の専門家の問いと、この主イエスの問いとの間には、大きな落差があります。律法の専門家は「では、私の隣人とはだれですか」と問いました。その前提となっているのは、まず自分にとっての隣人の範囲を定め、その内側にいる者は隣人として愛するべきだが、その外側にいる者は隣人ではないので愛する義務はないという考え方です。そこで自分の隣人かどうかを判断するのは、あくまでも自分自身です。それは、「自分にとって」という、「自分を中心として見ている世界」です。この視点を、しかし、主イエスは「だれが隣人になったか」という問い返しによってひっくり返されます。問い掛ける者が問い返される者となる。それは、「自分を中心として見ている閉じられた世界」から、「他者を中心として見えてくる開かれた世界」への、視点の根本的な逆転です。

 「さて、あなたはこの三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか」(10:36)。主イエスからのこの問い返しに、律法の専門家は、あえて一般化して、「その人にあわれみ深い行いをした人です」(10:37)と答えます。そこで、主イエスはこう命じられるのです。「あなたも行って、同じようにしなさい」(10:37)。

  「善きサマリア人」の解釈-キリスト者の模範

 キリスト教会は、この「善きサマリア人」を、しばしば、「キリスト者の模範」として理解してきました。そして、そこに現されたキリスト者が実践すべき生き方、態度を勧めてきました。つまり、〈自分で隣人を限定せず、むしろ、敵味方を超えて、民族や国家、宗教の違いや対立をも超えて、目の前で傷つき助けを求めるどんな人に対しても、隣人になろうとしなさい〉と。確かにこの譬えのポイントはそこにあります。

 しかし、「ユダヤ人の模範」であるべき「律法の専門家」のように、「隣人愛」という戒めを知っていても、それを本当に実行することは、私たちにとっても、きわめて困難なことでしょう。実際に、瀕死の状態の助けを求める人に遭遇して、ただ「深い憐れみ」に突き動かされて、そのように体が自然と動いて行動を起こすということは、まれに起こるかも知れません。しかし、そのような行動が、日常生活の中で、いつも取れるとは、必ずしも云えません。

 では、「自分にとっての隣人とはだれか」と考えてしまう「自分に中心を置く閉じられた姿勢」から、「相手にとっての隣人となろう」と実際に実行する「相手に中心を置く開かれた姿勢」への根本的な転回は、どのようにしたら起こるのでしょうか。しかも、どのようにしたら、それが継続的に起こり続けるのでしょうか。

  「善きサマリア人」とはだれか

 それを理解するための鍵が、サマリア人を「隣人となる」行動へと突き動かしていった「かわいそうに思う」「憐れに思う」と訳されたギリシア語「スプランクニゾマイ」という特別な動詞にあります。この動詞は、「はらわた」を意味する名詞「スプランクノン」から派生した動詞で、「はらわたが震えるような憐れみに襲われる」という強い意味があります。共観福音書(マタイ、マルコ、ルカの三つの福音書のこと)で使用される十二例のうち、九例は奇跡を行う「イエス」に用いられ、残りの三例はイエスが語る譬えの中で「神」を暗示する人物に用いられます。つまり、この特別な動詞に現されるのは、人間が抱く憐れみや同情を遙かに超えた、神御自身の最も内なるところから溢れ出て来る「神の深い憐れみ」です。

 そうであれば、この譬えの中に登場する「善きサマリア人」とは、単なる「模範的キリスト者」を指しているだけなのではありません。むしろ、その源では、この譬えを語っておられる主イエス・キリスト御自身を指し示していることになります。すなわち、「憐れに思う」「善きサマリア人」とは、先ず何よりも、父なる神から遣わされた御子イエス・キリスト御自身にほかならないということです。

  「倒れ傷ついた旅人」とはだれか

 はじめに、律法の専門家は、「何をしたら永遠のいのちを受け継ぐことができるでしょうか」と問い掛けました。主イエスが「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と問い返されると、彼は、「神と隣人を愛せよ」という律法を要約した正しい模範的な回答を返したのでした。

 確かに、「共に生きるため」の「愛の戒め」が与えられているのです。それを実際に実行すれば、「命」を得るのです。しかし、私たち人間は、真実の「命」へと導く筈の「愛の戒め」を実際に果たす力を、自分では持っていない現実に、繰り返し直面してしまいます。そのような自分を、いくら自分で正当化しようしても、それは空しいことです。

 私たちは、頭では「愛の戒め」を知りながらも、実際には、その「命を得る道」を歩むことができず、「命」から離れ、死と滅びに向かっている現実に、繰り返し苦しまずにはおれない。それが、この譬えで、瀕死の傷を受けて道端に倒れ、「隣人」からの助けを待っている旅人の姿に現されてはいないでしょうか。その姿は、実は、神の御前にある私たち人間の現実の裸の姿です。

  「神の深き憐れみ」による人生の転回

 そのような「隣人」からの助けを待つ「惨めな者」(ローマ7:24)を、しかし神は、死と滅びに向かうままにはされません。むしろ神御自身の方から、「見て」、「憐れに思い」、御子イエスを遣わして、「近寄」って来て、「隣人」となって下さった。そして、十字架で御自分の命を差し出すまでに、傷付いた者を無償で愛して、「介抱し」、復活の新しい「命」へと引き上げて下さったのです。

 この「隣人」となって下さったイエスとの出会いにおいてこそ、私たちは、「神の深き憐れみ」を自分自身が心底から経験するのです。この「無償の愛」を経験するからこそ、「憐れみ」を必要とする自分の本当の姿を知るのです。そして、「憐れみ」を受ける者の立場に立って、相手の「隣人になる」とはどういうことか、内側から知らされていくのです。この根本的な転回を経験する時、出会いに開かれた「愛の交わりに生きる命の道」が、すなわち、「神の深き憐れみ」に促されて、相手の「隣人になる自由の道」が開かれるのです。

  繰り返される物語

 サマリア人と出会ったこの強盗に襲われた人も、人生の根本的な転回を経験した筈です。おそらく、自分の傷が癒された後、今度は自分が「行って、同じように」、相手の「隣人になる」人生へと押し出されていったことでしょう。

 その意味で、この譬えは、一人一人の「人生」が、他者と深く結びつきながら、他者と出会うための時間であること、そこに生かされている「命」は、「隣人になって」共に生きる愛の交わりにおいてこそ満たされるものであることを、繰り返し物語り、教えています。

 私たちは道を歩いて行けば、必ず「隣人の助け」を待つ人に出会います。主イエスはそこで、私たちに呼び掛け、招いて、こう言われるのです。「行って、あなたも同じようにしなさい」。

  祈り

 神よ、慈しみはいかに貴いことか。

 あなたの翼の陰に人の子らは身を寄せ、あなたの家に滴る恵みに潤い、

 あなたの甘美な流れに渇きを癒す。

 命の泉はあなたにあり、あなたの光に、わたしたちは光を見る。(新共同訳聖書 詩編36:8~10)

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