2023年04月16日「イエスは陰府にくだり(使徒信条の学び22)」

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イエスは陰府にくだり(使徒信条の学び22)

日付
説教
田村英典 牧師
聖書
ペトロの手紙一 3章18節~22節

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聖句のアイコン聖書の言葉

3:18 キリストも一度、罪のために苦しみを受けられました。正しい方が正しくない者たちの身代わりになられたのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、あなた方を神に導くためでした。
3:19 その霊においてキリストは、捕らわれている霊たちのところに行って宣言されました。
3:20 かつてのノアの時代に、箱舟が造られていた間、神が忍耐して待っておられた時に従わなかった霊たちにです。その箱舟に入ったわずかの人たち、すなわち八人は、水を通って救われました。
3:21 この水はまた、今あなた方をイエス・キリストの復活を通して救うバプテスマ(=洗礼)の型なのです。バプテスマは肉の汚れを取り除くものではありません。あおれはむしろ、健全な良心が神に対して行う誓約です。
3:22 イエス・キリストは天に上り(のぼり)、神の右におられます。御使いたちも、もろもろの権威と権力も、この方に服従しているのです。ペトロの手紙一 3章18節~22節

原稿のアイコンメッセージ

 私たちは今、代々(よよ)の教会が大切にして来ました使徒信条により、キリスト教信仰の基本内容を順次、確認しています。今朝は、神の独り子イエスが「陰府に下り」という所に進みます。

 既に学びましたように、神の御子・主イエスは十字架で死なれ、葬られました。しかし、使徒信条は尚も「陰府に下り」と続けます。これは、どういう意味でしょうか。

 使徒信条の土台となるもっと古いローマ信条にこの言葉はなく、紀元359年にシルミウムという所で開かれた教会会議で加えられたとも言われます。いずれにしても、その後、キリストの陰府下りが教会の中で言われるようになります。ドイツの神学者モルトマンによりますと、この一句が加えられたのは、イエスが十字架で死なれたことを強調するためだったようです。

 そう言えば、主が死んで「葬られ」というのも、イエスの十字架の死を強調するためのものでした。「陰府に下り」を追加した時にも、同様の狙いがあったのでしょう。しかし、一旦加えられますと、別の意味がそこから引き出されるようになります。

 さて、「陰府に下り」という一句は聖書のどこに基づいて加えられたのでしょうか。これが難しいのですが、一つは、先程のⅠペテロ3:19「霊においてキリストは、捕われている霊たちの所に行って宣言され」という所のようです。実は、ここは聖書の中で解釈の最も難しい所の一つですが、どういう意味でしょうか。

 代表的な解釈の第一は、「捕われている霊たち」を、20節から見て、生前はキリストの福音を聞く機会がなく、死んだ後、陰府で苦しんでいる人たちの霊魂と取り、キリストはそういう人たちの所にも死後下って福音を伝え、救いのチャンスを与えられたというものです。

 聖書では、陰府と地獄は、厳密には違います。地獄は、神に対してあくまでも不信仰で心が頑なで不従順な罪人が、神による最後の審判の後、行く所であり、最も悲惨な永遠の滅び、永遠の裁きの状態を指します。一方、陰府は旧約聖書によりますと、死者が一旦行く死者の世界でした。新約聖書では、よく分りません。

 とにかく第一の解釈によりますと、ノアの時代の不信仰な人たちにも、死後、キリストの福音を聞く機会があり、今もイエス・キリストの恵みは陰府にいる人たちに及ぶとします。ローマ・カトリックはこれに近く、プロテスタントにも殆ど同じ考えの人たちがいます。日本のある有名な説教者は言います。「陰府に下りというのは、主イエスがただここで、生きている人間だけの救いを心配して下さっているのではなくて、死の世界を越えて、いわば陰府に下り切って、そこでなお恵みを明らかにしようとして下さるのだということを言い表すというのであります。……あのノアの大洪水の時にも滅ぼされたような不信仰な人々が、悔い改めるいとまもなく、意志も持たず、陰府に降ったとしても、その人々を祝福の中にもう一度招き入れようとする、大きなキリストの恵みがここにあるのです。」

 しかし、死後にも救いのチャンスがあるという考えは、聖書全体の教理体系から見ますと、無理でしょう。

 第二の解釈は、十字架の死と復活までの間に、イエスは霊において陰府に下り、罪と死と悪魔に対しご自分の勝利を宣言し、また堕落した天使と人間の霊に対し裁きを宣言された、とします。宗教改革者ルターがこの考えだったと思います。

 しかし、四つの福音書は、イエスがご自分の死と復活までの間にこのようにすると言われたことを全く伝えていません。使徒パウロもキリストの陰府下りを一切語っていません。「聖書の分りにくい箇所は、聖書の他の箇所からの光によって解釈する」という、信仰の類比と呼ばれる大切な聖書解釈原理から見ますと、第二の解釈も無理ですね。

 第三は、アウグスティヌスなどの解釈です。すなわち、ここは聖霊によるキリストの、旧約時代の宣教活動のことを語っているのであり、19節初めの「霊において」は「御霊において」とされます。御霊によるキリストの旧約時代の宣教活動は、1:11でも言われていました。ですから、3:19の「捕われている霊たち」とは、不信仰だったために昔、死んで、今も捕われている者たちの霊のことであり、昔、キリストが御霊により活動された時には宣教対象だった人たちのことだ、というものです。

 しかし、何故ノアの時代のことが引き合いに出されるのでしょうか。こういうことです。つまり、「創世記6、7章に伝えられているあの時も、人々は不信仰であり、キリストが御霊によりノアを通して宣教されても聞き従わず、その結果、あの大洪水で皆滅ぼされ、救われたのは主の言葉に従って箱舟に乗り込んだノアたち8名だけだった。今も私たちの回りは、それと同じ不信仰な状態である。だから、あなた方信仰者は今、迫害や試練で辛いが、忍耐し、洗礼が表しているキリストの救いの恵みの内に留まりなさい」と、ペテロは励ましているとされます。

 この解釈も少々無理な感じもしますが、今の所、一番良さそうですね。絶対にこれというのではありませんが、聖書学が進んで、より良い解釈のできる日まで、私たちは、ある程度、解釈の幅を認めつつ、聖書の最終的解釈者である聖霊の導きを祈りたいと思います。

 以上、使徒信条の「イエスの陰府下り」の出どころとされますⅠペテロ3:19を検討しました。

 実は、かつてはエペソ4:9も、イエスと陰府を結びつける聖書箇所とされましたが、今では違います。また、旧約聖書の詩篇16:10「あなたは、私の魂を陰府に捨て置かず、あなたにある敬虔な者に滅びをお見せにならない」も考えられたそうですが、ここはむしろイエス・キリストの復活と関係があります。

 結局、使徒信条の「主は陰府に下り」は、聖書のどこから来ているのか、よく分りません。使徒信条の元となったローマ信条に、これはありません。また、この一句のためにしばしば聖書全体の教理体系を踏み外す解釈がされました。ですから、聖書にのみ固く立とうとした宗教改革時代に、「これは取り除かれるべきではないか」と主張した真面目な聖書学者がいたのも当然だと思います。

 ただ、歴史的に見て、これはイエスの十字架の死を強調するために加えられたようですから、それをキチンとわきまえているなら、残しても良いでしょう。

 宗教改革者カルヴァンがこの点をよく把握していたことが、彼の書いたジュネーヴ教会信仰問答(1545年)から分ります。また彼の影響の強いハイデルベルク信仰問答(1563年)でも同じです。その問44を読んでみます。

 問44「なぜ『陰府に下り』と続くのですか。」

 答「それは、私が最も激しい試みの時にも、次のように確信するためです。すなわち、私の主キリストは、十字架上とそこに至るまで、御自身もまたその魂において忍ばれてきた、言い難い不安と苦痛と恐れとによって、地獄のような不安と痛みから、私を解放して下さったのだ、と。」

 つまり、イエスの十字架の死は、私たち罪人がそのままだと味わうことになる永遠の地獄の刑罰を、私たちに代って味わわれた死であり、三日間墓の中に留まられたことで、主は想像を絶する地獄のような不安と痛みの一切合切を私たちに代って忍ばれた。だから、私たちが神の独り子イエス・キリストを自分の救い主として心から信じ、受け入れ、依り頼むなら、もう私たちには地獄は関係なく、この世にあっても地獄のような不安と苦痛もない。こういういうことです。

 「主は陰府に下り」の一句は、信仰の仲間がしばしば殺され、自分の明日の命すら分らない困難な時代に生きた多くのクリスチャンに、深い慰めと励まし、力、勇気、希望を与えて来たのでした。

 今の私たちクリスチャンも、この世で地獄のような痛みと苦しみに遭うことがあり、今後、世の終りに向って、そういうことがますます増えるかも知れません。実際、弟子たちに向って、主イエスはマタイ24:4以降で、偽キリストの登場、戦争や戦争のうわさ、民族や国同士の敵対、飢饉や地震、イエス・キリストの名の故に受ける迫害や憎しみ、大勢の偽預言者の出現、不法のはびこり、多くの人の愛が冷えることなどを挙げ、だからこそ、最後まで耐え忍ぶように教えられます。私たちは、世の終りが近づく程、厳しい辛い時代を迎えるのです。

 しかし、主イエス・キリストのお蔭で、耐えられない試練は、Ⅰコリント10:13が言う通り、決して臨まない。「主は陰府に下り」という一句を通して、多くの信仰の先輩たちが受け留め、そこに凛(りん)として立ち、歩んで来ましたこの約束を、改めて深く心に刻みたいと思います。

 最後に、厳しい試練を、主イエスを仰ぎつつ耐え忍んでいました紀元1世紀の初代教会時代のクリスチャンたちへの使徒ペテロの励ましの言葉を読んで終ります。

 Ⅰペテロ1:6、7「そういうわけで、あなた方は大いに喜んでいます。今暫くの間、様々な試練の中で悲しまなければならないのですが、試練で試されたあなた方の信仰は、火で精錬されてもなお朽ちていく金よりも高価であり、イエス・キリストが現れる時、称賛と光栄と誉れをもたらします。」

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