2023年04月13日「ナルドの香油 イエスを愛する 2」

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ナルドの香油 イエスを愛する 2

日付
説教
田村英典 牧師
聖書
ヨハネによる福音書 12章1節~8節

聖句のアイコン聖書の言葉

12:1 さて、イエスは過越の祭りの六日前にベタニアに来られた。そこには、イエスが死人の中からよみがえらせたラザロがいた。
12:2 人々はイエスのために、そこに夕食を用意した。マルタは給仕し、ラザロは、イエスと共に食卓に着いていた人たちの中にいた。
12:3 一方マリアは、純粋で非常に高価なナルドの香油1リトラ取って、イエスの足に塗り、自分の髪でその足を拭った。家は香油の香りでいっぱいになった。
12:4 弟子の一人で、イエスを裏切ろうとしていたイスカリオテのユダが言った。
12:5 「どうして、この香油を三百デナリで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」
12:6 彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではなく、彼が盗人で、金入れを預かりながら、そこに入っているものを盗んでいたからである。
12:7 イエスは言われた。「そのままさせておきなさい。マリアは、私の葬りの日のために、それを取っておいたのです。
12:8 貧しい人々は、いつもあなた方と一緒にいますが、私はいつも一緒にいるわけではありません。」ヨハネによる福音書 12章1節~8節

原稿のアイコンメッセージ

 先週の受難週祈祷会では、過越祭の6日前、イエスがベタニアで、マルタ、マリア、ラザロ3兄弟の中のマリアからナルドの香油を注がれた出来事を見ました。そしてヨハネは、この時のマリアの姿を通して、イエスを愛するとはどういうことなのかを伝えようとしていること、特に徹底した謙り(へりくだり)と一体となった愛という点を学びました。今日はその続きです。

 第二に、マリアの愛は人の目を全くはばからない、純粋で芯の強いものであったことを思います。

 現代の女性の中には、人前でも髪の毛を平気でほどくことが出来る人も、あるいは、いるかも知れません。しかし、当時のユダヤでは、これはあり得ませんでした。非常識、礼儀知らず、はしたないとされていたからです。従って、高貴な女性は、髪の毛をしっかり束ねただけでなく、常にその上に被り物(かぶりもの)をしていました。

 ところが、マリアは髪の毛をほどき、その髪でイエスの足に塗った香油を拭ったのです。皆はどんなに驚き、目を丸くしたことでしょう。でも、マリアはそうしたのでした。それ程、主を愛していたのです。ここに私たちは、真(しん)に神を信じ、主イエス・キリストを愛するとは、どういうことなのかを、改めて教えられるように思います。

 私たちを愛しておられるイエスは、群衆の面前で、しかも裸で十字架に釘付けされて死ぬという、恥辱と想像を絶する苦痛を受けられました。しかし私たちは、主への愛を表すのに、余りにも人の目を気にする臆病な信仰者に留まってはいないだろうかと考えさせられます。

 この時、マリアは違いました。何でもテキパキと状況を読んで片付けていくマルタと違い、ルカ10:39の、つまり、主の足許に座って主の言葉に静かに聞き入っていたマリアの様子をも併せて、マリアは大人しく、内面的な女性だと、受け取られやすいと思います。そうかも知れません。しかし私たちは、彼女の内に秘められた信仰から来る非常に強固な意志と、主イエスに対する何ものをもはばからない強い純粋な愛を見落としてはならないと思います。やや内向的、内省的で器用でもない。けれども、肝心の時には人目もはばからないマリア。彼女のように、大胆に主への信仰と愛を表せる者でありたいと思います。

 第三に、主イエスへのマリアの愛は、何ものをも惜しまない愛でした。

 「ナルドの香油」のナルドとは、チベットとインドの間にあるヒマラヤの高地に育つ芳香性のハーブのようです。そんな所からラクダなどで運んだのですから、当然、非常に高価なものでした。1リトラ(約328g)は、5節によりますと、300デナリの価値がありました。1デナリは人の1日分の給料です。ユダヤ人は安息日には必ず休みました。従って300デナリとは、実質上、1年間の全収入だったのです。マリアのしたことの凄さが、よく分ると思います。

 しかし、ユダはマリアの行為を咎めて言いました。5節「どうして、この香油を300デナリで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」もっともな非難だとも思えますが、事の真相を6節が明かします。ユダはきっと計算に強い人だったのでしょう。皆の財布の管理をする務めをしていました。しかし、彼は6節「そこに入っていたものを盗んでいた。」怖いことですが、誘惑はしばしば自分の得意なことや賜物豊かなことを通して来ることを、改めて教えられ、襟を正されます。よく肝に銘じておきたいと思います。

 とにかく、穴埋めをしなくてはならないユダからすれば、マリアの行為は、勿体なくて頭に来たことでしょう。人間とはこういうものだと思います。貧しい人々に施す気などなくても、本能的に勿体ないと思い、口にする。結局、自分が出て来るのです。理由は後から、いくらでも、それらしく付けられます。

 しかし7、8節が伝えますように、イエスは彼女の行為を弁護されます。無論、イエスは貧しい人々への行為を低く評価しておられるのではありません。しかし、物事には、どうしてもその時でなければならない、ということがあります。マリアはイエスの死の近づきを知らなかったでしょうが、何故かこの時、どうしてもイエスへの愛を表したかった。何かしら内側から動かされるものがあったのでしょう。

 全てをご存じの主は、これをご自分の葬りへの備えとして受け止め、喜ばれました。ご自分の死と葬りが、この世に真(しん)の救いと命をもたらす決定的なことの始まりであり、しかも、マリアの惜しみない愛がありましたので、主は一層喜ばれました。言い換えますと、彼女は、イエスによる全世界の救いというこの最も尊いことに、知らないで貢献していたのでした。

 イエスを真に愛してする行動は、イエスに喜ばれると共に、イエスはそれを用いて救いの御業(みわざ)を進めて行かれることを、ここに教えられます。

 私たちも、夫々自分にとってのナルドの香油を喜んで主に献げ、それを主が更に多くの人の救いのために、どうか、豊かにお用いに下さいますように!

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