2020年05月03日「聖なる者となりなさい」

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聖なる者となりなさい

日付
説教
田村英典 牧師
聖書
ペトロの手紙一 1章13節~16節

聖句のアイコン聖書の言葉

1:13 ですから、あなたがたは心を引き締め、身を慎み、イエス・キリストが現われるときに与えられる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。
1:14 従順な子どもとなり、以前、無知であったときの欲望に従わず、
1:15 むしろ、あなたがたを召された聖なる方に倣い、あなたがた自身、生活のすべてにおいて聖なる者となりなさい。
1:16 「あなたがたは聖なる者でなければならない。わたしが聖だからである」と開いてあるからです。
ペトロの手紙一 1章13節~16節

原稿のアイコンメッセージ

 今、世界中が新型コロナウィルス問題で右往左往し、先の見えない不安の中にあります。そこで今朝は、こんな中で、私たちはどういうことを教えられ、また、どう生きるかを、多少とも考えることが出来ればと思います。

 旧約聖書を見ますと、心の頑ななイスラエルの民に、神はエレミヤ書27:8などで「剣と飢饉と疫病」という三つの大きな災いを臨ませると言っておられます。今、私たちを襲っている大きな疫病の苦難も、根本的なことを言えば、私たち全人類の罪と不信仰に原因があります。創世記3章が伝えますように、アダムとエバに代表される人間の罪のため、人間も自然界も呪いと悲惨の下に置かれてしまいました。このことを私たちはまず謙(へりくだ)ってよく弁(わきま)えなくてはなりません。

 しかし同時に、神は、私たちが神の憐れみを求め、示されることをしっかり心に留め、祈りと愛と知恵により、人が助け合い、困難を乗り越えることを願っておられます。私たちはただ苛立ったり嘆いたり溜息をつくだけではなく、神から頂いた信仰により、自分と周囲の事態を冷静に見つめ、学ぶべきを学び、自分と人のために良く生かしたいと思うのです。

 今回、私たちは改めて多くのことを教えられたと思います。

 第一に、私たちは実は死と隣り合せに生きていることをリアルに教えられました。普段、私たちは何も考えずに人と接触し、人混みにも出かけ、色々な物を手で触って楽しみ、口にし、様々な場所の空気を普通に吸っています。けれども、実はそれは決して当り前のことではなく、本当は神の憐れみにより許されていたことなのです。

 今までも人類を襲った恐ろしい疫病は沢山あります。例えば、1918年1月から1920年12月にわたり全世界を襲ったスペイン風邪と呼ばれたインフルエンザの感染者は5億人で、死者は1700万~5千万人と言われ、日本でも39万人近くが亡くなりました。

 数字的なことはともかく、心に留めたいことは、何か事が起ると分るのですが、私たちは実は死と隣り合せに生きているという、この事実です。言い換えると、自分が今まで生きてこられたのは、ただ神の憐れみによる奇蹟的なことだったのです。ですから、私たちを生かして来られた神の憐れみを良く覚え、改めて神に感謝し、神を讃(たた)え、また生かされている命を本当に大切にしたいと思うのです。自分と人の命を大切にしないことは、非常な不信仰と言わざるを得ません。

 さて今、命と死という根本的なことを覚えました。他にも大切なことは沢山あります。二つ目は、私たちクリスチャンは何を一番大事と考え、それを如何に心と生活の中で位置付けるかという物事の優先順位について、今回のことは重要なケーススタディ、事例研究だということです。

 日本のみならず世界中の正統的なキリスト教会は皆、感染の危険の中で、主の日の礼拝をどうやって守るかということを最優先してギリギリまで祈り、考え、決断しました。世間から見れば、感染危険度の高い礼拝など、すぐやめれば良く、やめるべきだ、となるでしょう。礼拝などクリスチャンの自己満足の集りに過ぎない、と思う人も世間にはいるかも知れません。

 しかし、神の御心は違います。聖書全巻から明白なように、神はそもそも人間をご自分に向けて創られました。神ご自身との愛による生きた人格的応答関係に生きるように、人は創られました。そして、永遠に至るその親しい人格的交わりの関係を、生き生きと、正しく、しっかり保つために、実は日曜日の公同礼拝があるのです。ですから、罪を赦され神の民とされた信仰者たちは、どんな時も礼拝を第一とし、礼拝を確保するために他のことを良く考え、調整してきました。困難の中にいた初代教会のクリスチャンたちに、ヘブル10:25は言います。「ある人たちの習慣に倣って自分たちの集りをやめたりせず、むしろ励まし合いましょう。その日が近づいていることが分っているのですから、ますます励もうではありませんか。」

 ですから、今後も起り得る様々な緊急事態の折にも、周りの空気に押されるのではなく、礼拝や他の重要事項も含め、神の前に私たちは何を優先するかを、良く問うことを教えられたと思います。

 と同時に、第三に、今回のことを通して、私たちは改めて社会的責任もしくは社会的意識の重要性をも再確認したと思います。神を真に畏れ、崇める者として、クリスチャンには決して譲れないことがあります。けれども、譲ることが出来、むしろ周囲の人や社会全体を誰よりも良く考え、社会に貢献すべきこともあります。今回、教会で集団感染を起さないという社会的責任に加え、教会は進んでそれに努めているという積極的な証しや社会的貢献の面から考えることも改めて教えられたと思います。

 創世記12:2で、神はアブラハムに「あなたは祝福となりなさい」と言われました。根本的には、ここは全世界に対して救いの信仰を証しし、霊的祝福となれ、という意味ですが、道徳的・倫理的領域でも良い証しを立て、祝福となれ、ということでもあります。

 そしてこれはアブラハムの霊的な子孫であるキリスト教会と私たちクリスチャンの尊い使命でもあります。マタイ5:13、14の主イエスの教え通り、「地の塩、世の光」であるべきことを、今回、一段と強く自覚させられたと思います。本当に感謝なことです。

 第四に、今回のことを霊的な観点から見て、教えられることも沢山あります。

 例えば、無症状感染という危険な状態があります。感染しているのに症状がないため、安易に人と接触し、感染を広げてしまうという危険です。

 信仰の点でも似たことがあります。本当は信仰がかなり変になり、いびつになっているのに、自覚がないため、知らない間に他の人に悪影響を与えていることがあります。これは、自分はキリスト教信仰が良く分っており、人に教えることが出来ると思っている人に起り得る問題です。新約聖書を見ますと、初代教会の様々な教会に多くの問題が起りましたが、その殆どは、自分はキリスト教がよく分っていると自負している人たちによって起されたことが分かります。ですから、パウロは、牧師をしていた弟子のテモテに向って、「自分自身と教えとに気を配りなさい。…そうすれば、あなたは自分自身と、あなたの言葉を聞く人々とを、救うことになる」(Ⅰテモテ4:16、新共同訳聖書からの引用)と鋭く注意しました。

 ということは、無自覚のまま、間違った教えや考えに自分が感染し、いつしか純粋な救いの信仰が壊されていたという恐ろしいことも起り得ます。

 ですから、歴史的・正統的教理に基く正しい教えを繰り返し聞き、学び、御言葉の糧を十分に受け、いわば霊的免疫力を高めることが大切です。Ⅱコリント11:14が言うように、サタンは「光の天使」にさえ偽装し、隙を狙い、イエス・キリストへの従順な信仰を破壊するために常に働いていることをよく自覚したいと思います。

 第五に、結局、私たちは特にどうあるべきか、という点を見て終ります。お読みしましたⅠペテロ1:15、16は「聖なる者となりなさい」と命じます。今朝、最後に心に留めたいことはこれです。

 今回の問題の中、私たちは常に死と隣り合せにあること、クリスチャンは何を最優先するかということ、また社会的責任や貢献をよく自覚すること、そして霊的教訓とサタンへの警戒をも学びました。これらを意識し、結局のところ、聖なる者となれ、という御言葉を、私たちは自分の目標とすべきものとして改めて心に刻みたいと思うのです。

 少し前、ホスピスに関するあるドキュメンタリー記録を見ていて、「命の仕舞い方」という言葉が心に残りました。心に留めるべき大切なことは沢山あります。しかし、私たちの目指す栄光の天の御国(みくに)をしっかり見据えて歩むことを思いますと、自分は神から預かっている命をどのように仕舞うか、すなわち、どのように神に命をお返しするかを、整理しておく重要性を思わずにはおられません。そしてこれに対する聖書の教えの一つは、「聖なる者となれ」ということです。

 では、これはどういう意味でしょうか。消極面から言いますと、それはこの世的、肉的で、神の御心から離れたものから、自分がキッパリ遠ざかることです。「聖」は、ヘブル語では「分離したもの」というのが基本的概念と言われます。その通り、神と全然関係がなく、主の御心からは程遠く、俗っぽくて肉的な思いや考え方、良くない言葉、肉的な行動から、自分を遠ざけ、分離するのです。いつ命が終るか分らないことを真剣に考え、自分の命の責任ある仕舞い方を思いますと、肉的で余りにも世俗的なことは、終りにしたいと思うのです。ペテロは1:14で言います。「以前、無知であった時の欲望に従わず」と。

 次に積極面から言いますと、聖なる者になるとは、ウェストミンスター小教理問答の問4が答えますように、「存在、知恵、力、聖、義、善、真実において、無限、永遠、不変の霊」なる真(まこと)の神に少しでも似る者とならせて頂くことです。そのために、御言葉によく親しみ、私たちの内に「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」(ガラテヤ5:22、23)などの実を結んで下さる御霊を求め、生活のどの場面でも、主イエスに倣い、主に語りかけ、神を喜び、賛美するのです。

 無論、四六時中そうすることは無理ですし、それは神も良く分っておられます。けれども、フーッと自分自身に帰る時、神を仰ぎ、神に祈りと笑顔で向かうのです。

 困難な問題に囲まれている今だからこそ、自分の命の仕舞い方として、神の愛と憐れみを覚え、私たちはますます神の近くに自分を置き、そうして神の麗しい聖さに一層与ることを許されたいと思います。ペテロは旧約聖書のレビ記11:44、45、19:2などを引用し、1:15で私たちに教え、諭し、励まします。「あなた方を召された聖なる方に倣い、あなた方自身、生活の全てにおいて聖なる者となりなさい。」アーメン

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