2023年04月02日「主イエスは葬られ(使徒信条の学び21)」

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主イエスは葬られ(使徒信条の学び21)

日付
説教
田村英典 牧師
聖書
マルコによる福音書 15章42節~47節

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聖句のアイコン聖書の言葉

15:42 さて、既に夕方になっていた。その日は備え日、すなわち安息日の前日であったので、
15:43 アリマタヤ出身のヨセフは、勇気を出してピラトのところに行き、イエスの体の下げ渡しを願い出た。ヨセフは有力な議員で、自らも神の国を待ち望んでいた。
15:44 ピラトは、イエスがもう死んだのかと驚いた。そして百人隊長を呼び、イエスが既に死んだのかどうか尋ねた。
15:45 百人隊長に確認すると、ピラトはイエスの遺体をヨセフに下げ渡した。
15:46 ヨセフは亜麻布を買い、イエスを降ろして亜麻布で包み、岩を掘って造った墓に納めた。そして、墓の入口には石を転がしておいた。
15:47 マグダラのマリアとヨセの母マリアは、イエスがどこに納められるか、よく見ていた。マルコによる福音書 15章42節~47節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝の礼拝は、神の独り子イエス・キリストの特に十字架の苦難を覚える受難週礼拝として持っています。

 私たちは、昨年の7月から、古代教会が聖書に基づいて告白し、その後も代々(よよ)の教会が大切にしてきた使徒信条により、キリスト教信仰の基本内容を順次確認しています。

 そして今、人間となられた主イエスが、十字架につけられ、「死にて葬られ」という所まで来ました。3月19日の礼拝では、「死にて葬られ」という告白の前半部分、つまり、主イエスが死なれたこととその重要な意義を確認しました。今朝は、後半の「主は葬られ」に注目致します。

 前回も言いましたが、使徒信条は主イエスの死について、結構、丁寧に告白しています。十字架はローマ帝国による最も残酷な処刑方法でしたから、これは確実に死を意味しました。それにも関らず、使徒信条は尚も「死にて葬られ」と告白します。そこで前回は、使徒信条が、十字架にかけられたイエスの「死」をわざわざ告白する理由と意義を確認しました。念のために、簡単にそれを振り返っておきます。

 第一に、イエスの十字架の死は、イエスをキリスト、すなわち、救い主として心から信じ、受け入れ、依り頼む者を、罪と永遠の死から本当に救う、他にはない全く特別な意味を持つ死だということです。

 第二に、心からイエスを信じる者には、死は絶対的な恐れではなくなったことです。

 死の恐れには、死ぬ時の苦痛や孤独に対する恐れと、死後、自分はどうなるのか、つまり、生きていた時の私たちの思いと言葉と行いによる罪を全部ご存じの神の永遠の裁きへの恐怖があります。しかし、イエスの十字架の死は、私たちの罪の一切合切を償う死です。従って、イエスを心から信じ、依り頼む者は、最後の審判で必ず赦されます。

 また、十字架の孤独で残酷な死を私たちと同じ一人の人間として体験され、しかし甦って、今や天と地の一切の権能をお持ちの主イエスは、耐えられない苦痛が臨むことから信仰者を必ず守られます。主の御許し(みゆるし)がなければ、私たちの髪の毛一本、地に落ちません。更に、真(まこと)の信仰者の内に常に聖霊によっていて下さる主イエスは、信仰者が死ぬ時にも、聖霊により、信仰者の内にも傍らにもおられ、死の手前でも向こう側でも、共にいて下さいます。

 これらを前回学びました。代々の教会は、使徒信条の結構詳しいイエスの死についての告白を大事にして来ました。この一言(ひとこと)に、深い慰めと励ましを与えられ、死を天の御国への入口に変えて下さった主の愛と恵みを鮮やかに覚えさせられるからです。

 今朝は、その続き、すなわち、主が「葬られ」たことについて学びます。

 マルコ15:43以降が伝えますように、息を引き取られたイエスの体は十字架から降ろされ、アリマタヤ出身の議員ヨセフの墓に葬られました。この人は、神を恐れる真面目な信仰者でしたが、他のユダヤ人たちを恐れて密かにイエスの弟子になっていました。けれども、この大事な時に彼は、43節「勇気を出してピラトの所に行き、イエスの体の下げ渡しを願い出」て、46節「墓に納め」たのでした。

 死んだ後は、当然、葬られますが、使徒信条はわざわざイエスの葬りの様子に言及します。どうしてでしょうか。

 第一に、イエスの死が絶対確かだったことを、更に強調しているのだと思われます。

 第二に、救い主についての旧約聖書の預言の一つ、イザヤ53:9に「彼の墓は、悪者どもと共に、富む者と共に、その死の時に設けられた」とありますように、あくまでも罪人の一人として墓に葬られるというメシア預言が、イエスにおいて確かに成就した点も確認しているのでしょう。

 しかし第三に、私たち自身のことにも結び付けているように思われます。どういうことでしょうか。

 私たちもいつか死に、その後、イエス・キリストがそうであられたように、私たちにも必ず葬りがついて来ます。

 マルコ15:40~47が伝えますように、イエスは多くの婦人たちの見守る中で、またアリマタヤの議員ヨセフの勇気と愛の内に、46節「岩を掘って造った墓に納め」られました。他には何もない、とても淋しい葬りでした。しかし一方で、これは当時の死刑囚の葬りとしては異例であり、悲しみを秘めてはいましたが、真実なとても深い愛に包まれていたと思います。

 これは、愛と聖さと真実に満ちた主イエスのご人格に対する婦人たちとヨセフの心からの信仰の現れであり、悲しみの中ですが、イエスのご人格への彼らの深い真実な愛の自然な現れだったと思われます。使徒信条は、聖書に基づき、愛する救い主イエスがこのように葬られたことを告白し、主が今見て来たような葬られ方をされたことも、自然と思い起させます。

 ところで、私たちは死んだ時、どういう葬りをしてもらうのでしょうか。「死んだ後のことなど、私にはどうでも良い」というのも、一つの考え方でしょう。しかし、私たちクリスチャンは常に、今、天におられる主イエスを見上げ、熱い思いで仰ぐと共に、イエスの地上でのお言葉、お姿、歩まれ方をも心に留め、主の御足(みあし)の跡を最後まで辿りつつ生きる者でもあります。

 ということは、私たちクリスチャンは、自分の死と共に、自分の葬式や葬りについても考え、備えるように、聖書と使徒信条から、いいえ、主ご自身から教えられていると言えるでしょう。

 主がそうであられたように、私たちの場合も、その時の事情で、会葬者は少ないかも知れません。しかし、会葬者の皆さんの心からの哀悼を込めた深い真実な温かい愛に包まれ、質素で地味な葬りであっても、主の愛と聖さと真実が少しでも証しされ、神を賛美して頂けるならば、どんなに感謝なことでしょうか。

 そのためには、私たちの主イエスが生涯そうであられましたように、信仰者としての私たち自身の、真(しん)に神を恐れ、神と人に愛をもって本当に誠実に仕えようとする人間性と真摯な生き方を離れてはありません。

 ご承知のように、スイスの精神科医であり心理学者でもありましたC.G.ユングの有名な言葉、「人は、生きて生きたように、死んでいく」があります。私も今までいくつかの教会と特に淀川キリスト教病院で、多くの人の最期のお世話をさせて頂きました。ほんの数人、最期の時にイエスの福音に触れて人柄が変られ、穏やかな死を迎え、ご家族も感謝できた方もあります。しかし、殆どの方は、ユングの述べた通りだったと記憶しています。

 私たちも、「クリスチャンだというあの人は、どういう人柄で、どのように生きた人だったのだろう。神と隣人にどのように仕えて生きた人だったのか」との問いに、少しでも私たちのことが分って頂けるような生き方と死に方であれたらと願います。

 「主は…死にて葬られ。」使徒信条の言葉は短いです。しかし、言葉を切り詰めて告白した古代教会の信仰の先輩たちの、まさに信仰と希望と愛が込められていて、含蓄に富んでいます。そして、時代の激しい移り変りがあり、戦争や大変な疫病の時もあり、多くの人の死を体験しながら、代々の教会がこれを大切にして来た理由もよく分ると思います。

 私たちも改めてこれを思い巡らし、代々の、また全世界の教会の兄弟姉妹たちと共に、自らの死と葬りにおいても、主イエス・キリストの真実で、清い、温かい福音を飾り、キリストの香りを放つものでありたいと思います。そして残される方々に、イエス・キリストにある慰めと希望が与えられ、まだ真の神を知らない方々の魂の救いのために少しでも証しとなるなら、どんなに幸いでしょうか。

 主が、どうか私たちを導いて下さいますように!

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