2023年03月19日「主は死にて葬られ(使徒信条の学び20)」

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主は死にて葬られ(使徒信条の学び20)

日付
説教
田村英典 牧師
聖書
マルコによる福音書 15章42節~47節

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聖句のアイコン聖書の言葉

15:42 さて、既に夕方になっていた。その日は備え日、すなわち安息日の前日であったので、
15:43 アリマタヤ出身のヨセフは、勇気を出してピラトのところに行き、イエスの体の下げ渡しを願い出た。ヨセフは有力な議員で、自らも神の国を待ち望んでいた。
15:44 ピラトは、イエスがもう死んだのかと驚いた。そして百人隊長を呼び、イエスが既に死んだのかどうか尋ねた。
15:45 百人隊長に確認すると、ピラトはイエスの遺体をヨセフに下げ渡した。
15:46 ヨセフは亜麻布を買い、イエスを降ろして亜麻布で包み、岩を掘って造った墓に納めた。そして、墓の入口には石を転がしておいた。
15:47 マグダラのマリアとヨセの母マリアは、イエスがどこに納められるか、よく見ていた。マルコによる福音書 15章42節~47節

原稿のアイコンメッセージ

 使徒信条により、キリスト教信仰の基本内容を確認しています。

 ここ暫く、使徒信条の第二条項、すなわち、神の独り子(ひとりご)、主イエス・キリストの部分を学んでいます。今朝は、その中の「主は…死にて葬られ」に進みます。

 私たちは既に、「主は十字架につけられ」を学びましたが、使徒信条は随分丁寧に主イエスの死について告白していると思います。十字架は非常に残酷な処刑方法でした。従って、これは当然、イエスの死を意味します。ところが、使徒信条は尚も「死にて葬られ」と言います。どうしてなのでしょうか。

 新約聖書が書かれた後、様々な霊的戦いを経て造られた使徒信条は、主は「死にて葬られ」と敢えて告白することで、大きく二つの点を覚えようとしたと思われます。

  一つは、主イエスが確かに十字架で死なれたこと、そしてもう一つは、主が葬られたことです。今朝は、主が十字架で確かに死なれたことについて、改めて学び、確認し、4月2日の受難週礼拝では、主の葬りについて学びたいと思います。

さて、神の独り子・主イエスが十字架で確かに死なれたことについてですが、これはそれ程重要なのでしょうか。無論、重要です。では、どんな点で重要なのでしょうか。少なくとも二つあります。

 第一に、主イエスの十字架の死は、主を救い主と心から信じる者を、罪と永遠の死から本当に救う、特別に意味のある死だからです。

 古代教会には、霊肉二元論に立つギリシア哲学の影響を受けてイエスの死を否定する人たちも現れました。物質的・身体的なものは悪であり、必ず滅びる。他方、霊的・精神的なものは善であり、永遠に存在する。このように考えられていました。こういう考えが一部のクリスチャンに影響を与え、彼らは「聖い(きよい)神の御子イエスに人間の罪深い肉体などなく、従って、死ぬこともない。体のように見えたのは幻のようなものだったのだ」と主張しました。仮現論と呼ばれる異端の考えです。

 こういう考えは、既に1世紀末の初代教会時代にも出始めていました。ですから、Ⅰヨハネ4:2、3は「神からの霊は、このようにして分ります。人となって来られたイエス・キリストを告白する霊は皆、神からのものです。イエスを(そのように)告白しない霊は皆、神からのものではありません。それは反キリストの霊です」と言い、厳しくこれを退けました。

 この考えは、どこが問題なのでしょうか。

 まず、事実に反します。マルコ15:33以降が伝えますように、イエスの死は、多くの人たちが極近くで目撃していますし、46節が伝えますが、イエスの遺体は十字架から降ろされ、亜麻布で包まれ、岩を掘った墓の中に納められました。これが事実だったのです。

 それと、もし主イエスに本当は体がなく、イエスが私たちのために十字架で死ななかったのであるならば、私たちの救いはないことになります。ヘブル9:22が言う通り、「血を流すことがなければ、罪の赦しは」ありません。従って、主は私たちを救うことがお出来にならない。

 これはとんでもないことです。ですから、使徒信条は、主は「死にて葬られ」と敢えて告白し、主の十字架が、信仰者を間違いなく罪と永遠の滅びから救う死であったことを明確にするのです。

 私たちも、「主は…死にて葬られ」と唱える時、「そうなのだ。主は、私のために本当に肉体をもって十字架で死なれ、私の罪を全部償って下さったのだ。何という主の恵みでしょう!主よ、あなたが確かに死んで下さったことに心から感謝し、あなたを賛美し、あなたを更に信じます!」と、心の中でしっかり告白したいと思います。

 主イエスが十字架で確かに死なれたことの二つ目の意義に進みます。何でしょうか。主を心から信じる者には、死がもはや絶対的恐怖でなくなったことです。主イエスも、私たちと同じ体を持つ人間として、しかも私たちの死とは比較にならない恐ろしい死の苦痛を、あの十字架で体験されたからです。

 人間は何といっても死が怖いです。地上百mの建物の屋上の端で、両手を挙げて立ち、下を見て、全然怖くないという人がいるでしょうか。いません。

 体の具合が悪くて、病院で精密検査を受けたところ、医者から「大事な話があるので、明日、必ずご家族と一緒に来て下さい」と言われて、全く平気な人がいるでしょうか。いません。医者からそう言われて、私たちはその日のあとの時間を、どうやって平静に過ごせるでしょうか。「その日、病院からどうやって家に帰ったのか、全然覚えていない」という人は、何人もいます。自分をその立場に置きますと、よく分ると思うのです。もう、頭の中は真白!そして、自分に残された時間が一挙に少なくなったと思いますと、まともに、ものも考えられません。

 私たちは理屈抜きに死が怖い!私たちはどうすれば良いのでしょう。ですから、聖書により、死について教理的に正しく確認しておく必要が誰にもあります。

 ところで、ひと口に死の恐れと言っても、死後についての恐れがあり、死そのものへの恐れもあります。

 死後については、私たちクリスチャンは、毎年、イースターの時に礼拝説教で繰り返し学びますし、キリスト教の葬儀に出ることも多く、割合大丈夫だと思います。

 とはいえ、イエス・キリストの十字架の贖いの恵みについて十分な教理理解とキリスト信仰の確信が薄いですと、私たちが病床で平安であることは難しいですね。特に死後についての聖書の教理を、今から十分身に着けておきたいと思います。

 もう一つ、死そのものについての恐れも小さくありません。つまり、死ぬことについての恐れです。それには少なくとも二つあります。一つは死の苦痛です。何しろ死は未体験ですから、どんなに苦しいのか、検討もつきません。不安です。

 もう一つは、孤独感です。死は、独りで立ち向うしかありません。これは、この世で最大の孤独でしょう。私たちは独りで苦痛に耐え、独りで死と向き合わなければならない。そしてサタン・悪魔は、私たちの信仰の弱い所を突き、不安を煽り(あおり)ます。ですから、死は私たちがこの世で体験する最大の試練となります。私たちは大丈夫でしょうか。

 でも、忘れてはなりません。「主は死にて葬られ…。」そうです。主イエスは、ご自分の体験しない苦痛や恐怖を、私たちに体験させられません。主もまた生身をもって、死を体験されたのです。イエスは神の御子ですのに、死の苦痛も孤独も、私たちと全く同じ人間として、しかも私たちのために、それも十字架という想像を絶する恐怖と苦痛を全て体験され、また復活して死の力の限界を明らかにされたのでした。ですから、ヘブル2:14、15は言います。「そういうわけで、子たちがみな血と肉を持っているので、イエスもまた同じように、それらのものをお持ちになりました。それは、死の力を持つ者、すなわち、悪魔をご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖によって一生涯奴隷としてつながれていた人々を解放するためでした。」

 私たちにとって、死は、この世での最後で最大の試練です。しかし、聖書は約束します。Ⅰコリント10:13「あなた方が経験した試練は皆、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなた方を耐えられない試練に遭わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練と共に脱出の道も備えていて下さいます。」

 私たちは、必ずいつか死にます。しかし、私たちの救い主イエス・キリストは、既にその死を私たちのために体験されました。また復活され、今や、天と地の一切の権能をお持ちの主は、耐えられない苦痛が臨むことを、ご自分を心から信じ、受け入れ、依り頼む者に、決してお許しになりません。主の御許し(みゆるし)がなければ、私たちの髪の毛一本も落ちることがないのです。

 また真実な信仰者たちの内に、常に御霊により内住されましたように、今も主イエスは、私たちの死の時、御霊によって、私たち信仰者の内にも傍ら(かたわら)にも、また死の手前でも向こうでも、共にいて下さいます。使徒の働き7:56が伝えますが、ステパノが殉教した時のように、天が開けて、私たち信仰者にも、人の子イエスが、天の父なる神の右に立っておられるのを見る幸いを、許されるかも知れません。私はそれを心から願っています。

 主は「死にて」葬られた!これもただ私たちのためだったのでした。ですから、代々(よよ)の教会が、使徒信条の詳し過ぎるぐらいの主イエスの「死」についての告白を、大事にして来た理由がよく分ると思います。この一言(ひとこと)に、大きな慰め、励まし、勇気を与えられ、死を麗しい永遠の天の御国(みくに)への入口に変えて下さった主イエスの愛と慈しみを、鮮やかに覚えさせられるからです。

 私たちも、愛する主イエスがどれ程のことをして下さったのかを、このレント(四旬節、受難節)の時期、ご一緒に是非、聖書の御言葉によって、改めて豊かに瞑想したいと思います。

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