2023年03月12日「イエスは十字架につけられ ⑵(使徒信条の学び19)」

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イエスは十字架につけられ ⑵(使徒信条の学び19)

日付
説教
田村英典 牧師
聖書
マルコによる福音書 8章31節~38節

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8:31 それからイエスは、人の子は多くの苦しみを受け、長老たち、祭司長たち、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日後によみがえらなければならないと、弟子たちに教え始められた。
8:32 イエスはこのことをはっきりと話された。するとペテロは、イエスをわきにお連れして、いさめ始めた。
8:33 しかし、イエスは振り向いて弟子たちを見ながら、ペテロを叱って言われた。「下がれ、サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」
8:34 それから、群衆を弟子たちと一緒に呼び寄せて、彼らに言われた。「誰でも私に従って来たければ、自分を捨て、自分の十字架を負って、私に従って来なさい。
8:35 自分の命を救おうとする者はそれを失い、私と福音のために命を失う者は、それを救うのです。
8:36 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の益があるでしょうか。
8:37 自分の命を買い戻すのに、人はいったい何を差し出せばよいのでしょうか。
8:38 誰でも、このような姦淫と罪の時代にあって、私と私の言葉を恥じるなら、人の子も、父の栄光を帯びて聖なる御使いたちと共に来る時、その人を恥じます。マルコによる福音書 8章31節~38節

原稿のアイコンメッセージ

 古代教会が告白し、その後も教会がずっと大切にして来ました使徒信条により、キリスト教信仰の中心点を学んでいます。今朝も、先週に続き、神の独り子(ひとりご)・主イエス・キリストについての告白の中の「主は…十字架につけられ」という点を学びます。

 念のために、少し前回の学びを振り返ります。主イエスの十字架は、第一に私たち罪人のためのイエスの想像を絶する苦痛を私たちに覚えさせ、第二に私たちに自分の罪を深く自覚させ、第三に神を恐れるという極めて大切なことを私たちに教えることを学びました。

 今朝はその続きです。四つ目は何でしょうか。主の十字架は、私たちに「神の絶大な愛」を繰り返し覚えさせ、私たちを励ますということです。

 「主は…十字架につけられ」と告白した古代教会の人たちも、神の愛を繰り返し心に留めたと思います。現に聖書がこれを教えているからです。例えば、ローマ5:8は言います。「私たちがまだ罪人であった時、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられ」ると。

 健康が守られ、喜びや楽しみもあり、日々何とか過ごせることも、皆、神の愛のお蔭です。本当に感謝なことですね。

 けれども、神の最高の愛は、何と言っても、そのままでは永遠の死に至る私たちに目を留め、無力で惨めな私たちに永遠の命を与えるため、自分の愛しい(いとしい)独り子を世に遣わし、十字架につけられた愛です。Ⅰヨハネ4:9、10は言います。「神はその独り子を世に遣わし、その方によって、私たちに命を得させて下さいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために宥め(なだめ)の捧げ物として御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」

 十字架はまた当然、御子イエス・キリストの私たちへの愛をも示します。ヨハネ15:13で「人が自分の友のために命を捨てること、これよりも大きな愛は誰も持っていません」と言われたイエスご自身、私たちのためにご自分の命を捨てられたのです。ですから、Ⅰヨハネ3:16は言います。「キリストは私たちのために、ご自分の命を捨てて下さいました。それによって私たちに愛が分ったのです。」

 繰り返します。十字架により私たちは、主イエスが私たちのためにどんなに酷い(ひどい)苦痛を味わわれたかを覚え、自分の罪と不信仰を悲しんで心底謙り、罪への神の怒りと呪いを思って神を恐れることを教えられます。

 しかし十字架はまた、ただ御子イエスへの信仰によって私たちを赦し、義とし、ご自分の子とし、ご自分の聖さに与らせ、最後に天の国に入れて下さる神の絶大な愛を表しています。実際、十字架は、イエスを信じる者を、どんなものも神の愛から引き裂くことができないことの絶対的保証なのです。ですから、パウロは言いました。ローマ8:37~39「これら全てにおいても、私たちを愛して下さった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です。私はこう確信しています。死も、命も、御使い(みつかい)たちも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、高い所にあるものも、深い所にあるものも、その他のどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」

 本当は身の毛もよだつ残酷な死刑の道具である十字架を、何故教会が喜んで自らのシンボルとし、それどころか、希望とし誇りとさえして来たかが、よく分ると思います。ですから、「主は…十字架につけられ」と使徒信条を唱える時、私たちも代々の教会と共に、十字架に表された神の計り知れない救いの愛をよ~く思い巡らし、主への信仰をますます強められたいと思います。

 第五に、イエスの十字架は私たちに、自分の十字架を負う決意を新たにさせます。

 イエスは言われました。マルコ8:34「誰でも私に従って来たければ、自分を捨て、自分の十字架を負って、私に従ってきなさい。」

 しかし、自分の十字架を負うとは、どういうことでしょうか。クリスチャンの中にも時々これを誤解している人がいます。つまり、私たちが病気や障害や辛い試練に遭うことを指して、十字架を負う、と表現していることがあります。しかし、そうではありません。十字架は単に苦痛や辛さを指すものではないのです。十字架は死刑の道具です。ですから、死を意味します。先程のイエスの御言葉、マルコ8:34はこうです。「誰でも私に従って来たければ、自分を捨て、自分の十字架を負って、私に従ってきなさい。」

 「自分の十字架を負って」の前に、「自分を捨て」とあります。「自分を捨て」とは、私たちが古い自分、つまり、自我に死ぬことです。洗礼を受けるとは、罪人の古い自分が、ローマ6:6が言いますように「キリストと共に十字架につけられた」こと、すなわち、死んだことを意味します。従って、クリスチャンとは、キリストに結ばれ、神に向って生きるために、例えば、すぐ何かを得意げに自慢したり、自分の我を通したり、自分を人に高く評価させようとしたりする、要するに、自己中心的な古い自分、自我と戦い、自我に死ぬ者なのです。十字架を負うとは、このことを指しているのです。

 と同時に十字架は、神のきよい御心に従って生きることに伴う色々な苦しみを背負うことも意味します。この世は、本質的には神を否定し、神を無視し、神に敵対する世です。イエス・キリストのご生涯を見ると、このことがよく分ると思います。神の御子、主イエスは、一体どれだけ、この世から苦しめられ、排斥されたことでしょう。

 そうであるならば、クリスチャンも同じです。クリスチャンは御言葉に従い、例えば、偶像礼拝をしません。国家権力が神の御心に反して、偶像を拝むこととか、ある人間や特定の思想を神のように崇めることを強制しても、従いません。そのため、1世紀後半から4世紀初めにかけて、教会はローマ帝国と住民たちからとても辛い迫害を受けました。

 しかし、その中でも、クリスチャンたちは主の日の礼拝毎に「主は十字架につけられ」と皆で唱え、告白しました。「そうだ、私たちの主イエスも苦難を受けられたのだ。それも私たちのために」と主の十字架の苦しみを一層深く想ったでしょう。

 そして、私たちを罪から贖うためのキリストの苦しみとは性質が違いますが、主イエス・キリストに倣い、正に(まさに)十字架を負ってでも神の御心に従い、善に生きようとしました。ですから、Ⅰペテロ2:20~21は言います。「罪を犯して打ち叩かれ、それを耐え忍んでも、何の誉れになるでしょう。しかし、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、それは神の御前に喜ばれることです。このためにこそ、あなた方は召されました。キリストも、あなた方のために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、あなた方に模範を残された。」

 そして実は、迫害され苦しめられ、殉教者を出しながらも、クリスチャンたちが自分の十字架を負い、主イエスに倣って迫害する人たちのために祈り(ルカ23:34、マタイ5:44参照)、隣人愛に生きたことが、人々への無言の証しとなり、却って多くの人たちが真(まこと)の神に立ち返り、クリスチャンになりました。苦しみの時にこそ、信仰に基づくその人の人格が現れるからでしょう。

 紀元312年、コンスタンティヌス大帝が出した「ミラノ寛容令」とか「ミラノ勅令」と呼ばれるものにより、キリスト教はローマ帝国内でようやく公認され、自由が認められました。

 ところが、その50年後、キリスト教を捨てて背教者と呼ばれた皇帝ユリアヌスの一時期、キリスト教は再び抑圧されました。しかし、ユリアヌスはクリスチャンを迫害しましたが、クリスチャンの愛の実践には感銘を受けていました。ですから、紀元361年、声明書を発布し、「キリスト教徒たちが我々の神の強力な敵になった理由は、病人や貧困者に対する彼らの兄弟愛のためである」と述べ、全てのローマ市民はこの精神を学ぶように、と命じたのでした。何と興味深い事実でしょう。

 「主は…十字架につけられ…。」この短い告白の持つ意義は、大変深く、豊かだと思います。私たちも、多くの信仰の先輩たちに続き、この告白に真実に生き、主イエス・キリストの御足(みあし)の跡を、今日も明日も、一歩一歩辿って行きたいと思います。

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