2023年02月05日「主は聖霊によりて宿り(使徒信条の学び15)」

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主は聖霊によりて宿り(使徒信条の学び15)

日付
説教
田村英典 牧師
聖書
ルカによる福音書 1章26節~38節

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聖句のアイコン聖書の言葉

1:26 さて、その六か月目に、御使いガブリエルが神から遣わされて、ガリラヤのナザレという町の一人の処女のところに来た。
1:27 この処女は、ダビデの家系のヨセフという人のいいなずけで、名をマリアといった。
1:28 御使いは入って来ると、マリヤに言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」
1:29 しかし、マリヤはこのことばにひどく戸惑って、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ。
1:30 すると、御使いは彼女に言った。「恐れることはありません、マリア。あなたは神から恵みを受けたのです。
1:31 見なさい。あなたは身ごもって、男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。
1:32 その子は大いなる者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また神である主は、彼にその父ダビデの王位をお与えになります。
1:33 彼はとこしえにヤコブの家を治め、その支配に終わりはありません。」
1:34 マリアは御使いに言った。「どうしてそのようなことが起こるのでしょう。私は男の人を知りませんのに。」
1:35 御使いは彼女に答えた。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は聖なる者、神の子と呼ばれます。
1:36 見なさい。あなたの親類のエリサベツ、あの人もあの年になって男の子を宿しています。不妊と言われていた人なのに、今はもう六か月です。
1:37 神にとって不可能なことは何もありません。」
1:38 マリヤは言った。「ご覧ください。私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように。」すると、御使いは彼女から去って行った。
ルカによる福音書 1章26節~38節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝も使徒信条により、キリスト教信仰の基本教理を学びます。

 使徒信条は、第一部で父なる神、第二部で神の独り子(ひとりご)イエス・キリスト、第三部で聖霊について、つまり、三位一体の神について順次告白しています。ここ数回は、神の独り子、主イエス・キリストについての二つ目の部分を学んでいます。、

 そしてここは、主イエスはどういうお方か、つまり主のご人格と、主が何をされ何をしようとしておられるのかという主の御業(みわざ)についての部分からなります。今日から、主イエスの御業についての学びに進みます。

 使徒信条は言います。「主は聖霊によりて宿り、処女(おとめ)マリヤより生れ」と。これはイエス・キリストの処女降誕(しょじょこうたん)とか受肉(じゅにく)と言われる重要な教理を述べています。

 イエス・キリストの誕生を祝うクリスマスによく読まれますルカ1:26~38は、イエスの処女降誕の事実を伝えています。御使い(みつかい)ガブリエルがマリアに現れ、31節「見なさい。あなたは身ごもって男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい」と告げますと、彼女は34節「どうしてそのようなことが起るのでしょう。私は男の人を知りませんのに」と言います。すると御使いは、35節「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたを覆います。それ故、生れる子は聖なる者、神の子と呼ばれます」と答え、マリアは神の御心を受け入れ、やがて主イエスを産みます。男性を知らないマリアが聖霊によって身ごもり、神の独り子が人間として誕生された!これが処女降誕ですね。

 しかし、これにどんな意味があるのでしょうか。

 第一に、ここにキリスト教の顕著な特徴の一つが表れています。何でしょうか。「事実」を重んじることです。

 いくら2千年前でも、処女が身ごもり子供を産むことなど、誰も信じません。馬鹿にされるだけです。従って、紀元1世紀の初代教会のクリスチャンたちも、より多くの人に神の独り子・全世界の救い主イエス・キリストを伝えたいのであるなら、人に躓きを与えそうな処女降誕には触れない方が良かったでしょう。ところが、彼らは、伝道する上で不利になることが分っていても、イエスの処女降誕を伝えたのです。どうしてでしょう。これが事実だからです。これがキリスト教なのです。

 使徒17章は、アテネのアレオパゴスにおけるパウロの伝道説教を伝えています。アテネの人々はパウロの話に興味を抱き、耳を傾けました。しかし、パウロがキリストの復活を話しますと、ある者は嘲笑いました。死者の復活など、馬鹿げて躓きでしかなかったのです。しかし、弟子たちは、それを人々に伝えました。どうしてでしょうか。キリストの復活が事実だからです。

 勿論、キリストの復活にもキリストの処女降誕にも大切な意味がありますが、今確認したいのは、人々が嘲笑い、人々が立ち去っても、事実だから伝える!これがキリスト教だということです。実際、どんなに脅かされても、ペテロとヨハネはユダヤ議会で大胆にこう語りました。使徒4:20「私たちは、自分たちが見たことや聞いたことを話さないわけにはいきません。」彼らはそれに命まで賭けました。これがキリスト教なのです。こういうことですので、私たちも聖書の福音を心から信じ、喜んで従うのです。

 第二に、イエス・キリストの処女降誕が、私たちにとって神の計り知れない愛と知恵による素晴らしい恵みであることを、改めて覚えたいと思います。

 神の御子は、何故、処女から生れるという特別な方法で世に来られたのでしょうか。それは、ただ私たちの救いのためでした。

 そもそも神には、私たち罪人を救わなければならない義務はありません。創世記3章のアダムとエバの堕落の出来事が伝えますように、傲慢にも神のようになろうとして神の命令に背き、その結果、人類が罪と悲惨の状態へ堕落した原因は、人間にあります。味わわなければならないあらゆる悲惨の原因と責任は人間自身にあり、神には人間を救わなければならない義務はありません。

 それにも拘らず、神はご自分に背いた私たち人間を深く憐れみ、愛し、そこで救いの手を差し伸べて下さったのです。どんな救いの手でしょうか。

 私たちは、思いと言葉と行いによる醜い自己中心の罪のために、そのままなら皆、神の聖なる怒りの下に裁かれ、永遠の滅びに至ります。こんな私たちが罪を赦され、救われるためには、ただ一つ、誰かが私たちの身代りとなって神の怒りと刑罰を引き受けて死に、私たちの罪を全部償ってくれる外、ありません。ヘブル9:22は言います。「血を流すことがなければ、罪の赦しはありません」と。

 しかし、ここに難問があります。第一に、私たちの身代りになる者は、私たちと同じ人間でなければなりません。確かに、旧約時代には、人間の罪の赦しのために動物が犠牲となりました。しかし、それらは一時の代用品でしかありません。人間の罪は、人間の命でしか本当は償えないのです。

 しかも第二に、身代りとなる人自身に罪があってはなりません。罪があるなら、人の身代りになる資格はないからです。しかし、罪も汚れも全くない人が、この世のどこにいるでしょうか。一人もいません。だったら、私たちには絶望しかありません。

 ところが、正に(まさに)この条件を満たすため、神の御子が聖霊によりマリアの人間性をとって人として生れられたのです。処女マリアによる出生を神が選ばれたのは、処女が聖さの象徴であり、罪人の代表である男性によらないという点があるからでしょう。つまり、普通の出生では、原罪という腐敗した性質がどうしても受け継がれます。そこで主は、聖霊により処女マリアから誕生されることにより、人間性を完全に備え、しかも全く罪のない聖い(きよい)者として生れられたのです。

 そして主イエスは、十字架で命を献げ、私たちの罪を完全に償って下さいました。神は御子イエスにより、ご自分を心から信じ仰ぐ者の罪を十字架で全部処理されたのです。ローマ8:3は言います。「神はご自分の御子を、罪深い肉と同じ様な形で、罪のきよめのために遣わし、肉において罪を処罰されたのです」と。

 それと共に、全く聖い主イエスは、無力な私たち罪人に代り、また私たちのために、神の律法を完全に守り、永遠の命を獲得して下さったのでした。

 こうして見ますと、主が処女マリアから生れられたことが、如何に素晴らしい神の知恵であり愛であるかが、よく分ると思います。Ⅰヨハネ4:9、10は言います。「神はその独り子を世に遣わし、その方によって、私たちに命を得させて下さいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めの供え物として御子を遣わされました。ここに愛があります。」

 それと、ここには神の驚くべき熱心と壮大な計画がありました。主イエスがマリアから誕生される七百数十年前、預言者イザヤにより、神はこのことをこう約束しておられました。「見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産み」と。

 「主は聖霊によりて宿り、処女マリアより生れ」という使徒信条の文言には、神の驚くべき知恵と愛、熱心と壮大な救いの計画が込められており、これらを私たちに繰り返し告白させ覚えさせて、私たちの信仰を励ますのです。

 神の恵みについてもう一言(ひとこと)言いますと、主イエスは罪を除いては私たちと全く同じ人間の性質を持っておられますので、私たちの弱さを全部分って下さいます。実際、主は孤独の悲しみや辛さ、心が傷つけられることの痛みもよくご存じです。また、体を持って生きることにしばしば伴う激しい痛みや苦しみ、私たちの限界もお分りです。それどころか、人生最後で最大の試練である死の恐怖も苦しみも、死ぬこと自体も、十字架で味わわれ、しかもそれに打ち勝って復活され、私たちが生きている時も死ぬ時も(ハイデルベルク信仰問答 問1の答 参照)共におられ、天の父なる神の御前まで伴って下さいます!何という主の恵みでしょうか!

 こうまでして、神は小さな私たちを顧みて下さる!ですから、今後のことも一切合切神に委ねて歩みたいと思います。Ⅰペテロ5:7は言います。「あなた方の思い煩いを、一切神に委ねなさい。神があなた方のことを心配して下さるからです。」

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