2023年01月08日「神の独り子イエスを信ず(使徒信条の学び13)」

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神の独り子イエスを信ず(使徒信条の学び13)

日付
説教
田村英典 牧師
聖書
ヨハネによる福音書 20章24節~29節

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聖句のアイコン聖書の言葉

20:24 12弟子の一人で、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られた時、彼らと一緒にいなかった。
20:25 そこで、ほかの弟子たちは彼に「私たちは主を見た」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じません」と言った。
20:26 八日後、弟子たちは再び家の中におり、トマスも彼らと一緒にいた。戸には鍵がかけられていたが、イエスがやって来て、彼らの真ん中に立ち、「平安があなた方にあるように」と言われた。
20:27 それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、私の手を見なさい。手を伸ばして、私の脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」
20:28 トマスはイエスに答えた。「私の主、私の神よ。」
20:29 イエスは彼に言われた。「あなたは私を見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。」ヨハネによる福音書 20章24節~29節

原稿のアイコンメッセージ

 使徒信条から再びキリスト教基本教理を確認したいと思います。

 私たちは、使徒信条の第二区分、つまり、イエス・キリストについての部分を学んで来ました。今朝はイエスが「神の独り子」だという点を学びます。

 使徒信条は、イエスを「神の子」ではなく、「神の独り子」と言います。何故でしょうか。クリスチャンも神の子とされていますが、イエス・キリストは私たち被造物とはハッキリ区別される「人となられた神」だからです。

 旧約聖書を経典とするユダヤ教もイスラム教も、イエスを神の独り子とせず、預言者の一人とします。

 世界の四大聖人という言い方がありますね。孔子、釈迦、イエス、ムハンマドです。孔子は儒教、釈迦は仏教、ムハンマドはイスラム教の創始者で、夫々偉大な宗教者たちです。しかし、イエスは「神の独り子」、すなわち、人となられた真(まこと)の神なのです。

 正統的キリスト教と異端との違いも、イエスを神とするか否かにあります。紀元325年、ニカイア信条を採択したニカイア会議は、イエスは神なのか、それとも神に似た存在なのかという議論に決着を付けるためのものであり、イエスを神とするアタナシオスなど正統派の主張が受け入れられ、アリウス派が退けられました。

 今日では、エホバの証人もイエスの神性を否定します。イエスを神の子と教える聖書箇所について、彼らは「神の子とは救い主という意味だ」と言い、イエスは天使長ミカエルで、神に最も近い天使だとします。従って、イエスをあくまでも被造物とします。しかし、聖書では、如何に偉大な人間であれ天使であれ、被造物を崇拝することは、偶像礼拝の罪に他なりません。彼らは矛盾していますね。

 改めて確認しておきます。私たちが自分の全存在を上げて救い主と信じ、受け入れ、依り頼む主イエスは、「神の独り子」です。力と栄光において父なる神と等しく(ウェストミンスター小教理問答 問6参照)、受肉、つまり、人の性質を取られた真の神なのです。

 そこで、念のために、イエスの神性を聖書で少し確認しておきます。まず、ヨハネ1:1は言います。「初めに言(ギリシア語ではロゴス。ここではイエスを指します)があった。言は神と共にあった。言は神であった。」ヨハネ1:3は言います。「全てのものは、この方によって造られた。」つまり、人間となられる前、神の独り子イエスは万物の創造にも関られたのでした。更に1:18はイエスを「父の懐におられる独り子の神」と言います。

 後にイエスの復活を疑った弟子のトマスは、復活されたイエスが目の前に現れられた時、思わずヨハネ20:28「私の主、私の神よ」と言いました。これを、イエスはそのままご自分への信仰告白として受け入れられました。つまり、イエスは真の神なのです。

 ローマ9:5も言います。「キリストは、万物の上にあり、とこしえにほむべき神」と。

 イエスを預言したイザ9:6は言います。「一人のみどり子が私たちのために生まれる。一人の男の子が私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる。」

 もう十分でしょう。異端の人に答えるためにも、これらの聖句を覚えておくと良いと思います。

 では、神の独り子が何故神としての本性の上に人間性を取り、人となられたのでしょうか。

 それは、ただただ私たち罪人の救いのためでした。

 罪とは何でしょう。ウェストミンスター小教理問答の問14が言う通り、「神の律法への一致に少しでも欠けること、あるいは、神の律法に背くこと」です。そして罪の結果は死と滅びです。ローマ6:23は言います。「罪の報酬は死です。」従って、生れながらの私たち罪人が罪を赦され、永遠の死から救われるためには、私たちが本来受けるべき神の怒りと刑罰を誰かが代りに受けて死んでくれなければなりません。ヘブル9:22「血を流すことがなければ、罪の赦しはありません。」

 しかし、その誰かに罪があっては、身代りになる資格はありません。では、一切罪がなく、全くきよく、しかも悲惨な永遠の刑罰を私たちに代って全部引き受けられる人は、いるのでしょうか。いません!人間には無理なのです。詩篇49:8、9は言います。「兄弟さえも、人は贖い出すことが出来ない。自分の身代金を神に払うことは出来ない。魂の贖いの代価は高く、永久に諦めなくてはならない。」人は人を決して救うことが出来ないのです。

 そうだとしたら、私たちは絶望的ではないでしょうか。いいえ!何とこういう惨めな私たちを神は憐れみ、ご自分の独り子を人間イエスとして世に送り、イエスによって私たちの罪の贖いを完成して下さったのです!

 普通の人間には皆、生れながらに罪があります。しかし、神の独り子が人となられたイエスは違います。罪の全くない清い方ですから、私たちの身代りとなって私たちを救うことがお出来なのです。

 それと、普通の人間なら、私たちの罪を引き受けて、あの十字架で神の怒りに耐えることは出来ません。不可能です。でも、イエスは神の独り子です。その神のご性質によって、人としての性質を支え、私たちの身代りとなり、十字架で神の怒りの一切合切を耐え忍ばれたのです。

 そうです。イエスは単に愛に満ちた偉大な方などではありません。神の独り子が人となられたお方です。ですから、あの十字架の救いの力は、全世界を救って、なお余りある程絶大です。ここに神の驚くべき愛があり、知恵があります。正にⅠコリント2:9の言う通りです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、人の心に思い浮んだことのないものを、神は、神を愛する者たちに備えて下さった」と。

 従って、私たちは、自分の救いについて、100%主イエスを信じて構いません。裏切られることは決してありません。イエスは神の独り子、真の神だからです。

 さて、使徒信条がイエスを単に「神の子」ではなく、神の「独り子」と呼ぶことについて、最初に少し触れましたが、これは、クリスチャンも神の子と呼ばれることと関係付けているのかも知れない、と言われます。確かに使徒信条には、クリスチャンが神の子の身分と特権に与ることについての言明はありませんね。どうやら、イエスについてのこの部分に、これが含まれているということなのでしょう。つまり、私たちが信仰によって結ばれている「神の独り子イエス」の故に、私たちも「神の子」という最高の身分と特権に与ることを、本当に許されるということです。

 そう言えば、ローマ8:29やヘブル1:6は、イエスを「長子」、長男と言います。驚くべきことに、クリスチャンは、何と、主イエスを長男とする弟また妹、つまり、神の家族とされている!ということは、天の父がご用意下さっている永遠の御国とその栄光についても、イエス・キリストとの共同相続人にされているということです。ローマ8:17は言います。「子供であるなら、相続人でもあります。私たちはキリストと、栄光を共に受けるために苦難を共にしているのですから、神の相続人であり、キリストと共に共同相続人なのです。」神の独り子イエスを信じるとは、これ程の恵みが伴うものだったのですよね。

 それだけではありません。イエスにより、私たちは神をハッキリ知ることが出来ます。神の独り子イエスは、神の存在、知恵、力、聖さ、正しさ、愛、真実を見事に現しておられるからです。ですから、イエスは言われます。ヨハネ14:9「私を見た人は、父を見たのです。」従って、私たちは、神を求めて当て所のない旅を延々と続ける必要がありません。イエスを知れば良いのです。特に日曜礼拝を大切にし、日々聖書の御言葉に触れ、イエスの御声に心の耳を澄まし、祈ってイエスに語りかけ、イエスと共に歩み、イエスと交わっていれば、益々神が分るようになるのです。

 主イエスが、神と私たちの間を取り次いで下さる仲保者だという点も、何と感謝なことでしょう。主は1人の人間として、かつてユダヤで生き、この世の問題も人間の弱さも限界もご存じです。どんな時に私たちが自分を失い、潰れそうになり、どんなことで不信仰になり、罪を犯しやすいかもよくご存じです。こういうお方が、父なる神への執り成しを喜んで引き受けて下さるとは、何という恵みしょう!私たちも、ある方との問題の解決のために、他の誰かにお願いしなければならない時には、私たちのことをよく分り、しかも相手の方とも親しく十分に話せる人を間に立ててお願いしますね。神の独り子イエスは正にそういう方であり、弱い私たちを天の父なる神に最もよく執り成して下さるのです。

 私たちは信仰の成長の誠に遅い者です。しかし、イエスは憐れみに満ちた忍耐強い神の独り子ですから、私たちも絶望せず、神の子として生きていけます!またイエスの執り成しがありますから、罪と不信仰を何度でも悔い改め、パウロのように自分を打ち叩いて神に自分を服従させることも励まされます。

 「神は、実に、その独り子をお与えになった程に、世を愛された。それは御子を信じる者が一人として滅びることなく、永遠の命を持つためである。」(ヨハネ3:16)

 要するに、神の独り子イエスは、私たちへの神の救いの愛の確かな証しであり保証なのです。イエスを信じることには、想像を絶する驚くべき神の恵みが伴っているのです。

 「我はその独り子、我らの主イエス・キリストを信ず」と使徒信条を唱える時、私たちはこのような神の愛と恵みと憐れみを思い、「神様、感謝致します。私はあなたの独り子イエス様を信じます!」と、繰り返し心の中でハッキリ告白し、自分の一切合切を神に明け渡したいと思います。

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