2022年12月15日「マリアの信仰 3」

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マリアの信仰 3

日付
説教
田村英典 牧師
聖書
ルカによる福音書 1章54節~55節

聖句のアイコン聖書の言葉

1:54 主はあわれみを忘れず、そのしもべイスラエルを助けてくださいました。
1:55 私たちの父祖たちに語られたとおり、アブラハムとその子孫に対するあわれみを、いつまでも忘れずに。」ルカによる福音書 1章54節~55節

原稿のアイコンメッセージ

 マリアの賛歌を今日も学びます。

 マリアの賛歌は三つの部分からなります。第一部が47~49節a、第二部が49節b~53節、第三部が54、55節です。ただ、余り厳密に分ける必要はないでしょう。

 少し振り返ります。真(しん)に謙虚であったので、マリアは自分の受けた恵みがよく分り、そこで心から神に感謝し、神を称えました。それが第一部でした。

 しかし、それに留まらず、第二部で、彼女は自分の属するイスラエル・ユダヤ民族の歴史、いわゆる救済史にまで信仰の視野を広げ、神の聖さ(きよさ)と憐れみによる数々の逆転劇を洞察し、神を称えました。

 今日は第三部を見ます。彼女は歌います。54節「主は憐れみを忘れずに、そのしもべイスラエルを助けて下さいました。」

 ここから教えられるマリアの信仰の一つは、第一部、第二部同様、まずは謙虚さです。50節同様、彼女はここでも主の「憐れみ」に言及し、また自分の民を主の「しもべ」と呼びます。ここで「しもべ」と訳されているギリシア語には、「子供」という意味もあります。つまり、しもべはしもべでも、神に愛されている神のしもべという意味です。

 これは旧約聖書が伝えている通りのことです。彼女は年若いですのに、今の自分を形作っている霊的なルーツ、つまり、旧約時代のイスラエル・ユダヤ民族が主の前でどんな者であるかをよく理解していました。すなわち、罪をいっぱい犯してきた先祖たちを、神が尚もしもべ、それもご自分の子供という位、愛し憐れみ、存在させて下さったという認識です。

 憐れみといいますと、卑屈に思えて抵抗を感じる人もあるかも知れませんね。しかし、歴史をよく振り返り、自分の属する民族や国の存在を、神の憐れみによるものとして謙虚に受け留められないなら、それこそ傲慢ではないでしょうか。

 マリアから私たちは、自分と自分の国や民族、更に言いますと、自分の教会や教派についても、このような歴史認識にまで及ぶ真(しん)に謙った信仰を教えられます。

 教えられるもう一つは、更に根本的なものです。すなわち、私たちに対する神の約束と契約への明確な信仰と信頼です。マリアは歌います。55節「私たちの父祖たちに語られた通り、アブラハムとその子孫に対する憐れみをいつまでも忘れずに」、つまり、イスラエルへの神の憐れみは、父祖アブラハムへの選びと約束に基づくのであり、神が契約を結んで下さったからに他ならないということです。事実、創世記12:2、3、18:18、19、22:18などに繰り返しこの点が神からアブラハムに言われています。イスラエルの歴史における諸々の逆転劇を神の聖さと憐れみの下に捕え、しかし更に遡(さかのぼ)り、アブラハムに対する神の一方的憐れみによる選びと約束と契約に、彼女はイスラエルの存在の根拠を見事に捉えていたのです。

 この信仰は彼女独自のものではなく、彼女自身も育てられてきたイスラエルの信仰共同体の中に連綿と受け継がれて来たものです。しかし、神の憐れみによる選び、約束、契約を深く認識し、そこに根差す信仰を、彼女は見事に自分のものにしていたのです。「楽しい!面白い!気持が安らか」といった情緒的な点に自分の信仰の土台を置くのではなく、何より神ご自身の選び、約束、契約に一切の根拠と信頼を置くマリアの何と見事な信仰でしょうか!

 ところで、先程少し触れましたが、神の憐れみの下にイスラエルが「しもべ」と呼ばれていることや、アブラハムへの神の約束にまで遡る信仰を考えますと、新約時代の私たちクリスチャンとキリスト教会の使命についても考えないではおれません。

 先程、アブラハムへの神の約束・契約を伝える創世記の聖書箇所を幾つか上げました。そこには皆、アブラハムの子孫が神に祝福されて大いなるものになるということと共に、彼らが「全世界の祝福」となることも言われています。これは、神の愛により一方的に選ばれ、信仰を与えられ、神の憐れみの下に新しい霊のイスラエル、アブラハムの霊的子孫として生かされている、今の私たち個々のクリスチャンとキリスト教会の存在目的が何にあるのかをも、ハッキリ示します。それは単に私たち自身の平安や喜びのためではありません。主イエスご自身がそうであられるように、私たちもまた世の祝福となるために、主に仕えるしもべとされ、主に結ばれ、神の計り知れない憐れみの下に、生かされ存在することを許されているということです。

 第三部でもマリアの謙った、しかし、神の約束と契約に堅く立つ信仰に改めて教えられます。と同時に、マリアの賛歌を通して確認させられたこと、つまり、私たちもアブラハムの霊的子孫であり、新しい霊のイスラエルとされているこの使命と光栄を改めて覚え、主の憐れみの下、2023年も、地の塩、世の光として、心を一つにして歩むことを是非許されたいと思います。

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