2022年11月27日「闇から光へ」

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闇から光へ

日付
説教
千 禎鎬(チョン・ジョンホ) 牧師
聖書
ヨハネによる福音書 1章1節~18節

聖句のアイコン聖書の言葉

1: 1 初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
1: 2 この方は、初めに神とともにおられた。
1: 3 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。
1: 4 この方にはいのちがあった。このいのちは人の光であった。
1: 5 光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。
1: 6 神から遣わされた一人の人が現れた。その名はヨハネであった。
1: 7 この人は証しのために来た。光について証しするためであり、彼によってすべての人が信じるためであった。
1: 8 彼は光ではなかった。ただ光について証しするために来たのである。
1: 9 すべての人を照らすそのまことの光が、世に来ようとしていた。
1:10 この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。
1:11 この方はご自分のところに来られたのに、ご自分の民は、この方を受け入れなかった。
1:12 しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。
1:13 この人々は、血によってではなく、肉の望むところでも人の意志によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。
1:14 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。
1:15 ヨハネは、この方について証しして、こう叫んだ。「『私の後に来られる方は、私にまさる方です。私より先におられたからです』と私が言ったのは、この方のことです。」
1:16 私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けた。
1:17 律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。
1:18 いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。ヨハネによる福音書 1章1節~18節

原稿のアイコンメッセージ

 説教の前にまず、皆様に感謝の言葉を伝えます。息子の優成のために、田村先生を初め、岡山西伝道所の皆様が続けて祈ってくださっていることを感謝いたします。まだ、優成は意識がありませんが、私と妻と家族は皆様の祈りと神様の慰めと励ましによって絶望と挫折から立ち上がり、神様の御心がどこにあるのかと探し求めています。苦難を通して私たちに対する神様のご計画が表されるように祈り、忍耐しています。私たちの家族が、神様が喜ばれる魂の救いに心を尽くして働くことができるように、お祈りをお願い致します。

 田村先生から、岡山西伝道所は第四週目には伝道礼拝をするので、私にも伝道説教をして頂けないかというお願いを頂きました。特定主題をもって説教をするのは簡単なことではありません。範囲の限界があるからです。しかし、ご要望に沿いたいと思い、短いですが説教の準備をしました。

 今日の聖書箇所の内容は、すでに皆様がご存じであると思います。弱い人間が伝えますが、ここを主の御言葉として受けとめ、ご一緒に御言葉を聞きたいと思います。

 今日の説教題は「闇から光へ 」です。まるで刑務所の中に書いてある標語のような題目です。神様はこの世で生きているすべての人をこのようにお招きになります。“闇から光へ”。

 今日の御言葉をよく読みますと、人を“闇”だと表現しています。神様から離れている人々を指す言葉です。今日の御言葉は、人々を見て“闇に従っている”とは言いません。人々に向って“闇の中にいる”とも言いません。人々に向って人間自体が“闇”だと言います。5節を見てください。「光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。」 

 光はイエス・キリストであり、闇は人々、人間であります。人がなぜ闇でしょうか。簡単に同意できません。人、つまり人間がどんなに堕落したとしても、人が、人間が“闇”だという表現はひどいでしょう。人間の中には、善を行おうとする心があり、平和を愛する心も、愛を伝える心も、良心と道徳を守ろうとする心もあります。動物や自然を愛し、守ろうとする心もあります。このような人々を“闇”だと言うのは、ひどく、言い過ぎだろうと世の中の人々は言います。しかし、今日の御言葉は、人に対してはっきり“闇”だと言います。

 人が、人間がなぜ闇でしょうか。どういう意味で、人が闇なのでしょうか。創世記1章2節にこのように書いてあります。「地は茫漠(ぼうばく)として何もなく、闇が大水(おおみず)の面(おもて)の上にあり…。」茫漠(ぼうばく)と闇という言葉が出て来ます。新共同訳には、混沌(こんとん)と闇と書いてあります。どのような意味でしょうか。創造の時の地は、無秩序で何もなく、真っ暗だったということです。このように、神様がいない人生は、無秩序で無意味な人生です。また神様から離れた人生は、何もない真っ暗な人生なのです。

 イエス様を心の中で信じる以前の私たちの人生は、そのような状態ではありませんでしたでしょうか。イエス様を受け入れ、信じる前の私たちの姿は、まるで無秩序で何の意味もなく、何が真理で何が正しいのかも分らず、そして何によっても満たされず、満足がなく、真っ暗だったかも知れません。イエス様を信じる信仰がなければ、その人生は永遠の死の暗闇であります。

 神様がいらっしゃらない政治、経済、社会、文化、芸術、教育、スポーツなども輝いて見えますし豊かに見えますが、これらも無秩序で無意味なものではないでしょうか。自分が高に立つために、他の誰かを足で踏まなければなりません。権力と力が表され、不正、腐敗が起こります。神様がおられないのであれば、どのような人生も「闇」 なのです。

 しかし、今日の御言葉は、すべての人を照らす光があると言います。闇である人間を、また世を照らす光です。その光を“まことの光”だと言います。9節を見てください。「すべての人を照らすそのまことの光が、世に来(こ)ようとしていた。」闇を照らす光があります。すべての人を照らすまことの光があります。そのまことの光は、無秩序で空しい人生を、また闇と永遠の死に至るすべての人を照らす光であります。何の目的もなく希望もない人生を照らす光です。

 その光とは何でしょうか。そのまことの光は誰でしょうか。その光、まことの光は、主イエス・キリストです。すでにこの世に来られた主イエス・キリストであります。3節を見てください。「すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。」4節を見ますと「この方には命があった」と書いてあります。そして10節を見ますと、この方はもとから世におられ、世はこの方、つまり主イエス・キリストによって造られたと書いてあります。まことの光は、創造者である主イエス・キリストなのです。

 皆様。まことの光は、初めから言葉としておられた主イエス・キリストなのです。1節に書いてありますように、「言葉」であり「まことの光」は神様と共におられる主イエス・キリストです。私たちの命です。この命は、人々のための光です。まことの光は、私たちの所にすでに来られ、私たちと共におられます。まことの光であるイエス‧キリストの中にあるすべての人生は、命と希望と未来があるのです。

 父なる神様は、その光をこの世に伝えるようにされました。6~7節を見ますと、洗礼者ヨハネを通して、まことの光である主イエス・キリストを証しするようにされました。洗礼者ヨハネは、光ではありません。ただ、まことの光を証しするために神様に用いられた人です。8節を見てください。「彼は光ではなかった。ただ光について証しするために来たのである。」神様はまことの光である主イエス・キリストを証しするためにヨハネを用いられ、彼を通して、すべての人を照らすまことの光が世に来られたことを伝えるようにされました。

 また、まことの光である主イエス・キリストが世に来られ、ご自身を伝えられました。さらに神様の御言葉と聖霊を通して伝えられました。今も、神様は私たちにまことの光を伝えておられます。神様は教会を通してまことの光を伝えるようにしておられます。イエス・キリストがまことの光であることを、神様ご自身が伝えておられます。神様の約束の御言葉を通して、聖霊を通して、まことの光をお伝えになっておられます。

 しかし、そのまことの光は人々に拒否されました。5節を見てください。「光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。」どういう意味でしょうか。人々はまことの光を理解できませんでした。10節の最後の部分を見ますと、「世はこの方を知らなかった」と書いてあります。また11節を見ますと、「この方はご自分のところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れなかった」と書いてあります。

 今の時代も、世の多くの人は、まことの光である主イエス・キリストを知りません。また、受け入れずに拒否しています。周りの人々に、まことの光である主イエス・キリストが正しく知らされていますでしょうか。また周りの人々が、まことの光である主イエス・キリストをどのくらい受け入れていますでしょうか。

 その中でも、闇から光へ来る人々がいます。誰でしょうか。12節を見ますと、この方を受け入れた人々です。すなわち、その名を信じた人々です。すなわち、まことの光である主イエス・キリストを受け入れ、その名を信じる人々は、闇から光へ来る人々です。

 まことの光に照らされるならば、必ず何かが変わります。まことの光である主イエス・キリストを受け入れ信じる人々には、人間の思いや考えをはるかに超えた変化があります。どのような変化でしょうか。12節の最後の部分を見てください。「神の子供となる特権をお与えになった。」罪によって失ってしまった特権を回復されます。神様の子供とされ、神様の相続者の地位を回復されるのです。神様の御国の主人公となるのです。

 さらに闇から光へ来てイエス様を受けいれ、信じる人は、イエス・キリストの栄光を見ることができるのです。14節の二行目から見てください。「私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られた独り子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」この素晴らしいすべての祝福が与えられるのです。これこそ、神様の恵みです。

 闇から光へ来ることも、イエス・キリストを受け入れ信じることも、神様の子供となることも、私たちの力によるものではなく、すべてが神様の恵みです。まことの光であるイエス・キリストを受け入れ信じてから、神様に与えられたことです。13節を見てください。「この人々は、血によってではなく、ただ、神によって生まれたのである。」すべては神様の恵みです。今、私たちが生きているすべてが恵みであります。見ることも、食べることも、歩くことも、感じることもすべてが神様の恵みです。そして、この時間、私たちが呼吸しながら讃美と祈りを捧げ、礼拝を捧げることも神様の恵みなのです。最近、息子の優成を通して、このことを私はより深く悟ることが出来ました。この素晴らしい神様の恵みを深く考え、喜びと感謝をもって生きて行きましょう。

 今日(こんにち)、ロシアのウクライナ侵攻(しんこう)によってウクライナの国民が多くの苦難の中で生きています。またウクライナだけではなく、ヨーロッパを含め、全世界が経済的に多くの苦しみを受けています。またコロナの影響によって苦難を受けている人も、まだ多くいます。挫折と落胆の中で生きる人々が多くいます。未来に希望がなく、絶望の中で生きる人が多いです。さらに、自然災害や事件、事故、犯罪が絶え間なく起こっています。多くの人の命が失われています。まるで闇の中で生きているようです。

 それにも関わらず、闇の中で生きている人々は、まことの光である主イエス・キリスト、イエス様を知らず、受け入れることも信じることもしていません。闇であった私たちはまことの光によって神様の子供となりました。そして、神様の御子であるイエス‧キリストの栄光を見ることが出来ました。この素晴らしい恵みを、イエス様を知らない家族と友人に、また多くの隣人に、証しする伝道者の人生を生きて行きましょう。

 お祈りを致します。

 まことの光である主イエス・キリストの父なる神様、この時間、あなたの尊い御言葉を聞かせてくださり感謝いたします。罪によって神様から離れ、闇であった私たちのためにまことの光である主イエス・キリストをこの世に送ってくださり、その光を照らし、再び神様の子供とならせてくださったことを心から感謝いたします。

 しかし、それにも関わらず、それぞれの環境において、再び闇に戻ろうとする時があります。神様がお赦しくださり、神様の子供として揺れることなく、まことの光である主イエス・キリストに従い、信仰を持って生きていけるように助け導いてください。

 

 ここに集まって礼拝を捧げているお一人お一人の上に、神様の子供として主の栄光を見ることができる恵みを与え、神様の子供としてふさわしく生きるように導いてください。特に岡山西伝道所の聖徒の皆様を通して、まことの光である主イエス・キリストを多くの人に証しすることができるように用いてください。そして、多くの人がまことの光である主イエス・キリストを受け入れ、信じる事が出来、また神様の子供となる恵みと主の栄光を見ることができる祝福を与えてください。

 神様、岡山西伝道所に御言葉を伝え、まことの光である主イエス・キリストを伝えるために立ててくださった田村先生の上に主の力と知恵を与え、任せてくださった福音伝道や牧会の働きを正しく果たすことができるように導いてください。また委員の方々の上にも神様の力と御心を与え、まことの光である主イエス・キリストを証しすることができるように用いてください。また必要なすべての物を備えてくださり、支えてください。

 神様、私たちの周りの人々の中には、まだイエス様を信じない人が多くいます。闇から光へ来ることができるように。またまことの主イエス・キリストを受け入れ信じ、神様の子供となる恵みを与えてください。挫折と落胆の中に生きている人々がまことの主イエス・キリストを信じ、新しい力を得、天国の希望を持って生きる幸いを与えてください。

 すべてのことを主に委ね、主イエス・キリストの御名によってお祈りを致します。

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