2022年11月13日「イエス・キリストを信ず ⑵(使徒信条の学び11)」

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イエス・キリストを信ず ⑵(使徒信条の学び11)

日付
説教
田村英典 牧師
聖書
ヘブライ人への手紙 9章11節~14節

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聖句のアイコン聖書の言葉

9:11 しかしキリストは、すでに実現したすばらしい事柄の大祭司として来られ、人の手で造った物でない、すなわち、この被造世界の物でない、もっと偉大な、もっと完全な幕屋を通り、
9:12 また、雄やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度だけ聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられました。
9:13 もし、雄やぎと雄牛の血や、若い雌牛の灰を汚れた人々に振りかけると、それが聖なるものとする働きをして、体をきよいものにするなら、
9:14 まして、キリストが傷のないご自分を、とこしえの御霊によって神にお献げになったその血は、どれだけ私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者にすることでしょうか。
ヘブライ人への手紙 9章11節~14節

原稿のアイコンメッセージ

 神の導きの下にキリスト教会が告白して大切にし、それに基づき伝道し、教会を打ち建てて来ました使徒信条から、今朝も大切なことを学びます。

 使徒信条は、父・子・聖霊なる三位一体の神について順次告白しています。前回から、使徒信条の第二部「我はその独り子、我らの主イエス・キリストを信ず」から始まる神の独り子イエス・キリストについての所に入りました。ここは、イエスのご人格と御業(みわざ)に関する二つの部分から成っています。

 前回は、まずイエスのご人格を扱い、「キリスト」、つまり救い主ということの中で、使徒信条は細かく触れていませんが、イエスが真(まこと)の預言者・祭司・王であられること、そしてまず真の預言者だという点を見ました。

 従って、私たちは今や真の神とその御心を知る上で、他の何かを求める必要はなく、聖書を通してイエス・キリストを知り、イエス・キリストに聞けば良いことを改めて確認しました。ヘブル1:1、2は言います。「神は昔、預言者たちによって、多くの部分に分け、多くの方法で先祖たちに語られましたが、この終りの時には、御子にあって私たちに語られました。」ヨハネ1:18は言います。「いまだかつて神を見た者はいない。父の懐におられる独り子の神が、神を説き明かされたのである。」イエス御自身も言われました。ヨハネ14:9「私を見た人は、父を見たのです。」

 今朝は、御子イエスが真(まこと)の祭司であられるという第二の点に進みます。

 祭司と言っても、今の時代の私たちには殆ど馴染みがありませんが、旧約時代には、神の憐れみにより神の民とされたイスラエルの民のために、祭司たちは,大祭司を筆頭に,大変尊い務めをしました。

 余談になりますが、出エジプト39、40章などから分りますように、祭司となる人は全身を水で清められ、聖別の油を注がれ、また非常に美しい服を着せられて、働きに就きました。それ位、これは畏れ多い聖なる務めであり、同時に神の美しさをもよく示す務めでした。

 さて、祭司の働きには色々ありますが、大きく二つの点がとても大事でした。

 その一つは、人間の罪の身代りとして、牛や羊や山羊など動物を屠(ほふ)り、血を祭壇の所に流し、また犠牲の動物を焼いて献げることでした。

 本来、神の前に犯された様々な罪は、神に背くものですから、人の命をもって償われなくてはなりません。つまり、人は自分の罪のために死ぬしかないわけです。

 しかし、そういう私たち人間を神は憐れまれ、人間の代りに動物の命をもって人間の罪を赦し、受け入れることを良しとされたのです。ヘブル9:22は言います。「血を流すことなしには罪の赦しはありえない…」と。

 とはいえ、所詮、動物は動物でしかありません。動物の命で人の罪を償い、人を贖うことは、本当はできるものではありません。実は、旧約時代に祭司が献げた色々な動物犠牲は、私たち人間の本当の罪の身代りであり、完全な犠牲であられる神の御子イエス・キリストの予型、雛型、影だったのです。

 神のご計画通り、やがてイエスは私たちの大祭司として世に来られました。しかも旧約時代のような不完全なものではなく、私たちの罪のための、しみも傷もない完全な犠牲、神の小羊として、何とご自分を十字架で献げ、自分では自分を決して救えない私たち罪人の贖いを完成して下さったのです。ですから、ヘブル9:12は、この大祭司イエスについてこう言います。「御自分の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられた」と。

 これは何を意味するでしょうか。私たちは、自分の罪が全て赦され、神に受け入れられ、永遠の命に与るために、イエス・キリストを心から信じ、受け入れ、依り頼むだけで、本当に十分だということです。

 自分で納得できるところまで善行を重ね、罪を一切犯さず、自分を完全に制御でき、或いは、愛のある立派な人間にならなければ、私たちは救われない、のではありません。

 神の戒めを完全に守ることで自分の罪を償うなど、私たち人間には元より不可能です。それどころか、信仰を持った後も、私たちは、思いと言葉と行いにおいて、どんなに罪を繰り返し犯しているでしょうか。自分を深く省みるなら、罪が貯まりだけで、私たちは罪の重みで絶望の泥沼にどんどん沈んでいくだけではないでしょうか。現に使徒パウロですら、ローマ7:16、24でこう述べました。「私には、自分のしていることが分りません。自分がしたいと願うことはせずに、むしろ自分が憎んでいることを行っているからです。…私は本当に惨めな人間です。誰がこの死の体から、私を救い出してくれるのでしょうか。」

 しかし、主の御名は誉むべきかな!こんなどうしようもない私たち罪人を天の父なる神は憐れみ、愛し、遂にご自分の愛してやまない御子を大祭司イエスとして世に遣わされました。

 そのイエスは、罪も咎も全くありませんのに、私たちの罪を償うため、喜んでご自分を犠牲として十字架に献げて下さいました。一体、この方以上にどんな完全な犠牲があるでしょうか。まさに大祭司イエスは、全世界、全宇宙を贖って、なお余りある完全な贖いを、ご自分の命を献げて完成して下さったのです。この方が、ただ私たちの信仰の故に、私たちの永遠の救い主でいて下さるのです!

 ですから、クリスチャンを迫害する権威者たちの前で、ペテロはハッキリこう述べました。使徒4:12「この方以外には、誰によっても救いはありません。天の下でこの御名の他に、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。」

 世の終りの最後の審判の時、私たちは一人一人神の法廷に立ちます。しかしその時、主イエスが、ご自分を心から信じる信仰者の弁護人として、ご自分の命で私たちの罪を全部償ったことを根拠として、私たちを弁護して下さるのです。何という主の愛、何という信仰者の幸いでしょうか。イエスが大祭司であられるとは、こういうことなのです。これ以上の幸せがあるでしょうか。

 さて、祭司の務めには、もう一つ、人間を神に執り成すということがあります。

 今イエスは天において、それを信仰者のために、日夜、して下さっています。ヘブル7:25は言います。「イエスは、いつも生きていて、彼らのために執り成しをしておられるので、ご自分によって神に近づく人々を完全に救うことがおできになります。」

 とはいえ、神の御子に私たち弱い人間のことが分るのでしょうか。分ります!何故なら、イエスは、聖霊により、人間マリアから誕生することで、罪を除いては人間の性質を完全にお持ちであり、真の人間でもあられるからです。

 そして罪がないだけに、私たちより遥かに感受性豊かなお方です。そのようなイエスが、人々に理解されず、権力者から命を狙われ、捕えられ、鞭打たれ、十字架に釘付けされ、嘲られ、一切体を動かせず、絶命するまで放置されました。どれ程、辛かったでしょう。

 ですから、イエスは私たちの痛み、苦しみ、悲しみ、不安、恐怖、孤独、「一体どうすれば良いのか」と混乱し切っている私たちをも、よくお分り下さるのです。

 それどころか、私たちがどういう時に罪を犯しやすく、悪魔・サタンに唆され、後で自分の罪深さ、情けなさ、恥かしさに泣くようなことになるかも、よく分っておられます。ですから、ヘブル4:15、16は言います。「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、全ての点において、私たちと同じように試みに遭われたのです。ですから私たちは、憐れみを受け、また恵みを頂いて、折に適った助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」

 イエスは、私たちの限界も全て分っておられる憐れみ深い大祭司です。これ以上、私たちの体も心も耐えられないという時になれば、私たちの魂をスーッと包み込むようにして天に召して下さいます。

 またイエスは、私たちが疲れで前後不覚なまでに眠り込んでいる時も、出エジプト12:42が伝えますように、何と「寝ずの番」をして天の父に執り成していて下さいます!

 これが大祭司イエスというお方です。ですから、私たちも、自分の今と今後と永遠の行き先について一切合切、主に委ねたいと思うのです。

 この世で私たちは全く予期せぬ問題にしばしば直面します。特に、先の見えない問題を前に、私たちはどう考えて良いか分らず、「主よ、どうしてですか」と叫ばずにはおれない時もあります。が、そんな時こそ、ヨハネ14:13に従い、<イエスの名によって>父なる神に願い求めるのです。イエスは最高の執り成し手、仲保者だからです。

 また、ローマ8:28「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画に従って召された人たちのためには、全てのことが共に働いて益となる」という御言葉を覚え、改めて自分が神を本当に愛しているかどうかを謙虚に問いたいものです。そして、自分の今できること、今なすべきことを誠実に果たし、特に神と人に自分を献げ、仕えることに励みたく思います。

 最後にもう一つ。主イエスに倣い、私たちもいわば小さな祭司として、互いに執り成し合い、信仰を励まし合い、伝道し、つまりイエス・キリストを信じて生きる幸せを更に多くの方に紹介し、教会が真にキリストの体となる教会形成に、ご一緒に励みたいと思います。

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