2022年11月06日「イエス・キリストを信ず ⑴(使徒信条の学び10)」

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イエス・キリストを信ず ⑴(使徒信条の学び10)

日付
説教
田村英典 牧師
聖書
ローマの信徒への手紙 3章21節~26節

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3:21 しかし今や、律法とは関わりなく、律法と預言者たちの書によって証しされて、神の義が示されました。
3:22 すなわち、イエス・キリストを信じることによって、信じる全ての人に与えられる神の義です。そこに差別はありません。
3:23 すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、
3:24 神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるからです。
3:25 神はこの方を、信仰によって受けるべき、血による宥めのささげ物として公に示されました。ご自分の義を明らかにされるためです。神は忍耐をもって、これまで犯されてきた罪を見逃してこられたのです。
3:26 すばわち、ご自分が義であり、イエスを信じる者を義と認める方であることを示すため、今この時に、ご自分の義を明らかにされたのです。ローマの信徒への手紙 3章21節~26節

原稿のアイコンメッセージ

 使徒信条を続けて学んでいます。使徒信条は、キリスト教会が千数百年前から告白し、その上に立って教会も信徒も異端の教えを退け、信仰と生活を健全に保ち、神に喜ばれるものへ高められるために大切にして来ました。今朝も、使徒信条からキリスト教信仰の基本を確認し、私たちが一層神を喜び、福音宣教に用いられ、また主イエスがご用意して下さっている天の御国(みくに)への救いの道を、右にも左にも逸れることなく、皆で踏みしめて行きたいと思います。

 さて、これまで私たちは使徒信条の第一部、つまり、天地の創り主、全能の父なる神についての部分を9回に分けて学びました。今朝は第二部、つまり、神の独り子(ひとりご)イエス・キリストについての部分に進みます。

 第二部は、「我はその独り子、我らの主イエス・キリストを信ず」という主のご人格についての部分と、「主は聖霊によりて宿り」から「かしこより来りて、生ける者と死ねる者とを裁き給わん」までの主の御業(みわざ)についての部分からなっています。使徒信条は、イエスのご人格と御業という二つの面をキチンと分けて認識しています。見事ですね。

 ところで、信仰には三つの要素があると言われています。

 第一は、知識です。真(まこと)の神についての正しい十分な知識が何より大切です。日本で昔から言われてきました「鰯(いわし)の頭も信心から」といったいい加減なものではなく、神についての正しい十分な知識、認識が不可欠です。

 第二は、従うことです。御言葉(みことば)で示され教えられたことを知っているだけでなく、実際に神の御言葉に従い、行うことが大切です。ヤコブ1:22、23は言います。「御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけません。御言葉を聞いても行わない人がいるなら、その人は自分の生れつきの顔を鏡で眺める人のようです。眺めても、そこを離れると、自分がどのようであったか、すぐに忘れてしまいます。」

 第三は、信頼です。聖書により、特に御子イエスにより、ご自分を十分に現された真の神への信頼、つまり、幼子が自分の親を全く信頼するように、心から神に依り頼み、自分の一切合切を神に明け渡し、委ねることです。

 以上、信仰の大切な三つの要素と言われるものを確認しました。これはイエス・キリストへの信仰においても同じです。

 では、イエス・キリストを信じ、受け入れ、従い、依り頼むと、私たちはどうなるでしょうか。無論、救われます!今までの自分がどんなに不信仰で罪深くても、イエス・キリストを心から信じるなら、私たちはあらゆる罪を赦され、義と認められます。先程のローマ3:22が言いますように、「イエス・キリストを信じることによって、信じる全ての人に」神の義が与えられ、24節「神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められる」のです。

 ローマ3:10が「義人はいない。一人もいない」と言いますように、人間は皆、生れながらに何と自己中心で罪深いでしょうか。しかし、そんな私たちでも、イエスを自分の救い主として心から信じ、受け入れ、従い、依り頼む、ただその信仰により、いわばイエス・キリストの真白な義の衣を頭からスッポリ被せられ、罪のない義人と見なされ、神の子とされ、天に国籍を与えられます。信仰はこの全てを可能にするのです。

 そこで、もう少し詳しく「イエス・キリストを信ず」ということについて学びます。

 まず「イエス」という点ですが、これは神の御子の人間としての名前、固有名詞です。しかし、この名前に既に大切な意味が込められています。

 神は、御子が誕生される時、名前を「イエス」とするようにわざわざ命じられました。天使はヨセフに、マタイ1:21「マリアは男の子を産みます。その名をイエスと付けなさい」と命じ、「この方がご自分の民をその罪からお救いになる」と教えました。イエスとは、ヘブル語のヨシュアがギリシア語化したもので、「主は救い」という意味の名前です。

 旧約聖書が伝えますように、モーセに導かれてエジプトでの奴隷生活から救われた古代イスラエル民族を、ヨシュアは約束の地カナンへ導き入れました。

 神が御子にイエス、「主は救い」という名をつけられたことは、イエスもご自分を信じる者を罪の奴隷状態から救い、解放し、栄光の天の国に導き入れて下さるということです。「イエスを信じる」と言う時、私たちはイエスを今申しましたそういう救い主としてハッキリ心で確認した上で信じ、感謝してイエスを受け入れ、依り頼み、また喜んでイエスに従いたいですね。

 もう一つ、使徒信条が教える大事な点があります。「我はイエス・キリストを信ず」、すなわち、「キリスト」なるイエスを信じるのです。イエス・キリストと言う場合は、イエスの方に強調点がありますが、キリスト・イエスと言う場合は、キリストに強調点があります。

 いずれにせよ、「キリスト」とは、どういう意味でしょう。これはギリシア語であり、ヘブル語ではメシア、つまり、「油を注がれた者」という意味です。昔、イスラエルでは、預言者、祭司、王という職務に人が就く時、頭に油を注がれました。イスラエルが神の民として、神のきよい意志に従い、主なる神を証しして正しく歩む上で、これら三つの職務の人たちが重要な働きをしました。現実には、イスラエルは偶像礼拝に耽り、道徳的に堕落し、神の罰を受け、他の民族や国に支配される苦しみを度々味わいました。しかしそんな彼らが悔い改めて神に助けを求めますと、神は彼らを憐れみ、神は、やがて預言者、祭司、王の働きを備えた完全なメシア、キリスト、すなわち救い主を送ることを、色々な時に色々な形で約束されました。

 ところが、時至って、御子イエスがキリストとして実際に世に来られた時、イスラエル・ユダヤ人たちは、当時、彼らを支配していたローマ帝国からの政治的・軍事的解放者としてのキリストを求めました。一時はイエスに期待もしましたが、自分たちの求めるキリストではないと分ると、彼らはイエスを十字架につけました。

 しかし、そこに驚くべき神の深いご計画があり、イエスは十字架で全世界の罪を償い、また復活し、ご自分が神の約束の救い主であることを立証されたのでした。ですから、「我はイエス・キリストを信ず」、つまり「キリストなるイエスを信ず」とは、神の民のために決定的な救いの働きをする預言者・祭司・王の三つの働きを備えた完全な救い主であるイエスを信じる、ということです。

 そこで、これらの働きを見ますが、時間が残り少ないですで、今朝はイエス・キリストが真の預言者であることを確認して終ります。

 預言者は、将来のことを告げる場合もありますが、何よりも神の言葉を預り、それを人々に伝える働きをします。イエスも正にそれをされました。ヘブル1:1、2は言います。「神は昔、預言者たちによって、多くの部分に分け、多くの方法で先祖たちに語られましたが、この終りの時には、御子にあって私たちに語られました。」群衆は大預言者が現れたと言い(ルカ7:16)、イエスの語られる言葉を一つも聞き漏らすまいと耳を傾けました。

 イエスはまたご自分の人格と御業を通して、天の父なる神を鮮やかに示されました。ヨハネ1:18は言います。「いまだかつて神を見た者はいない。父の懐におられる独り子の神が、神を説き明かされたのである。」イエス御自身も言われました。ヨハネ14:9「私を見た人は、父を見たのです。」

 今、イエスは天におられ、聖霊と聖書によって神とその御心を教え、私たちの魂を養い、罪からきよめ、地の塩・世の光として世に遣わし、多くの人の救いのために私たちを用い、信仰者を天の国に向けて導かれます。

 万物の創り主、摂理の主でもあられる真の神を知る上で、またその神に喜んで頂ける真実な生き方を知る上で、今や私たちは一切他の何かへ行く必要がありません。イエスこそ真の預言者であられ、救いと真理はイエス・キリストの中にあるからです。

 従って、私たちは、聖書を丁寧に読み、また熱心に説教を聞き、「主よ、お語り下さい。僕(しもべ)は聞きます」(Ⅰサムエル3:10参照)と言って、何度も天を仰ぎたいと思います。そうすると、その存在、知恵、力、聖、義、愛、真実、美しさにおいて最高の真(まこと)の神とその御心を、私たちはいよいよ知り、箴言4:18の御言葉「正しい人の進む道は、あけぼのの光のようだ。いよいよ輝きを増して真昼となる」を必ず体験することを許されるでしょう。

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