2022年10月30日「無垢な人間の尊さ」

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無垢な人間の尊さ

日付
説教
柏木貴志(岡山教会)牧師
聖書
ヨブ記 1章1節~8節

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聖句のアイコン聖書の言葉

1:1 ウツの地に、その名をヨブという人がいた。この人は誠実で直ぐな心を持ち、神を恐れて悪から遠ざかっていた。
1:2 彼に七人の息子と三人の娘が生まれた。
1:3 彼は羊七千匹、らくだ三千頭、牛五百くびき、雌ろば五百頭、それに非常に多くのしもべを所有していた。この人は東の人々の中で一番の有力者であった。
1:4 彼の息子たちは互いに行き来し、それぞれ自分の順番の日に、家で宴会を開き、人を遣わして彼らの三人の姉妹も招き、よく一緒に食べたり飲んだりしていた。
1:5 宴会の日が一巡すると、ヨブは彼らを呼び寄せて聖別した。朝早く起きて、彼ら一人ひとりのために、それぞれの全焼のささげ物を献げたのである。ヨブは、「もしかすると、息子たちが罪に陥って、心の中で神を呪ったかもしれない」と思ったからである。ヨブはいつもこのようにしていた。
1:6 ある日、神の子らがやって来て、主の前に立った。サタンもやって来て、彼らの中にいた。
1:7 主はサタンに言われた。「おまえはどこから来たのか。」サタンは主に答えた。「地を行き巡り、そこを歩き回って来ました。」
1:8 主はサタンに言われた。「おまえは、わたしのしもべヨブに心を留めたか。彼のように、誠実で直ぐな心を持ち、神を恐れて悪から遠ざかっている者は、地上には一人もいない。」ヨブ記 1章1節~8節

原稿のアイコンメッセージ

 この朝は、ヨブ記にあらわされた人間の在り方から、宗教改革の意義と言いましょうか、聖書が教える人間の在り方について教えられたいと願いました。

 宗教改革は、救いというものが、人間の行いや功績によるものではない、ただ信仰のみによる、ただ神の恩寵のみによるという、聖書が教える真理へ立ち帰ろうという運動ですけれども、それは優れて、人間は何者かということを問い直す運動であったということができます。

 人間は、ただ信仰によって生かされる、神の恩寵によって生かされる、ただ聖書によって生かされる、その幸いを取り戻す運動であったと言うことができます。

 マルティン・ルターは、あるところで、こういうことを書いています。

 「キリスト者は絶望ですら、選び取る勇気を持つ」。そして、「罪とは、すべての望みが絶たれ、神からも見放され、絶望の底にあってどこにも出口がない状態に追いやられることである。しかし、ただひとつ残された出口がある、それはキリストである」と書きます。キリストだけが、キリストだけは、私たちの手元に残される。ただひとつ残された出口となってくださる。それが、人間の望みだと、ルターは書きます。

 だから、キリスト者は絶望ですら選び取る勇気を持つことができると。

 この人間というものについて、キリストを希望とする人間というものについて、この朝、私たちはヨブ記の御言葉から教えられたい。

 ほとんど一つの言葉に注目いたします。1節にありました「この人は誠実で直ぐな心を持ち」という、「誠実」という言葉です。この言葉に注目したい。

 そこで申し訳ありません。今日の説教題を「無垢な人間の尊さ」と致しました。

 それは、「新改訳2017」が「誠実」と訳しましたところを、新共同訳では「無垢」と訳しているからです。決して新共同訳が優れているとか新改訳が優れているというお話をしたいのではありません。どの翻訳にもそれぞれの目的と良さとがあるものです。ただ、わたしは「無垢」という言葉がしっくりきまして、説教題に「無垢な」とつけさせていただきました。「無垢」という日本語は、「けがれがなく純真なこと」という意味です。それが、わたしとしてはぴったりくるんです。ちなみに、新改訳三版は「潔白で」訳しています。それぞれの訳を思い浮かべながら、この御言葉を味わって行きたいと思います。

 ヘブライ語では「タム」と言います。「タム」は、聖書のなかで大切な言葉です。人間に使われる場合は、人間はこうあるべきだという、ある模範的な姿をあらわす言葉となります。もともとは「完全に」という意味です。非の打ち所のない、完ぺき、パーフェクトであるという意味。「タム」なる人。それが、とりわけ旧約聖書が差し示す、あるべき人間の姿でして、ですから、ヨブは、その「タム」なる人のモデルです。ですから、ヨブ記にはこの「タム」という言葉が繰り返しでてきます。その意味で、ヨブ記は、聖書が言う「無垢な人」、「誠実な人」、「完全な人」とはどういう人間あるのかという教科書であるということができます。今日はヨブ記全体を追いかけながら、この「無垢」という意味を探っていきたいんです。

 さて、ヨブという人物は、ヨブ記の冒頭に、東の国一番の富豪と紹介されています。

 3節「この人は東の人々の中で一番の有力者であった。」

 家族にも恵まれまして、誰がどう見ても非常に順風満帆な、何ひとつ欠けることのない生活をしていたようです。が、ヨブ記はそのことを「完全」とは言いません。

 ヨブは、サタンの策略のなかで、たちまちのうち、子供たちも、家畜も、財産も失うことになります。自分の体も病気になる。それが、ヨブ記の始まりです。そこで、その  ヨブの「無垢さ」、「誠実さ」、「完全さ」が問われることになる。それがどういうものであるかがあらわされていく。それが、ヨブ記という物語の性格です。

 ヨブの完全さ、タムを最初に問いましたのは、ヨブの奥さんでした。

 2章9節に、こう記されています。「すると、妻が彼に言った。『あなたは、これでもなお、自分の誠実さを堅く保とうとしているのですか。神を呪って死になさい。』」

 非情にきつい言葉ですけれども、奥さんとしましては、財産を失い、子供を失い、そういう状況になりながらもなお、「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」と神様への賛美をやめないヨブが不憫に思えたのでしょう。おかしくも見えたのかもしれない。そういう信仰を捨てた方が、神様を呪って生きた方が楽になると思えたのかもしれない。奥さんは、ヨブの誠実さを批判的に語っています。

 が、ヨブは、2章10節「私たちは幸いを神から受けるのだから、わざわいも受けるべきではないか」と、奥さんをたしなめるんです。幸いだけを受け取るのは欠けがあるからです。神様からいただくもののすべてを頂くのではない、そういう在り方をヨブは拒みます。幸いも災いも受ける。すべてをいただく。そうした態度をあらわすことで、奥さんの信仰も守るような、奥さんの信仰も失われないような言葉をヨブは語ります。

 さあ、それから、友人たちがやってきます。友人たちも、その人たちなりの同情や友情をもって、ヨブを慰めたり、励ましたりするんですけれども、その言葉は、ヨブにとりまして、自分を攻撃しているようにしか聞こえない。自分を馬鹿にして、あざ笑っているようにしか聞こえないものでした。

 そのうちに、こういう言葉を落とさざるを得なくなる。

 9章20節「たとえ私が誠実でも、神は私を曲がった者とされる。」

 「タム」という、「誠実」という言葉は、「まっすぐ」という言葉とセットです。

 1章でも、ヨブが「この人は誠実で直ぐな心を持ち」と言われていました。

 誠実であるということは、一つ真っすぐであるということなんです。

 神様に対して、まっすぐに信頼をしている。それがねじ曲がっていない。

 罪というヘブライ語は「的外れ」という言葉から来ています。曲がっているから、的を外すわけです。そうではない。まっすぐだと。ヨブは、自分では誠実にまっすぐに生きてきたつもりでした。が、神は私を曲がった者とされる。そう友人たちが言う。

 そうして、12章4節。私は自分の友の笑いものとなっている。神を呼び求め、神が答えてくださった者なのに。正しく誠実な者が笑い者だという言葉を落とす。

 ここにまた「タム」なる者がどういう人間であるのかが示されています。

 それは、神を呼び求め、神が答えてくださった者です。

 神との交わりの中に生きる者。神と共に生きる者。それこそが「タム」なる人です。

 ヨブが追い求めてきた人間の在り方です。「タム」なる人は、神を呼び求め、神が答えてくださった者という手ごたえ、その喜びに生きる人のことです。

 それを日本語訳は、「誠実」という言葉であらわし、「無垢」という言葉であらわし、「潔白」という言葉であらわし、「完全」という言葉であらわしてきました。

 それが、聖書が求める人間のあるべき姿なんです。神様にまっすぐ従う人。

 そのことを、もう少し掘り下げて、三つの点から教えられたい。

 神様にまっすぐに従う誠実さとはどういうものか。

 第一に、神様にまっすぐに従う誠実な人は、しかし、揺れ惑わない人間ではない。そういう意味の完全無欠な、パーフェクトな人間ではありません。

 ヨブは、激しく揺れ惑うんです。神様を信じているから、神様にまっすぐに従いたいからこそ、神を深く愛しているからこそ、どうして、こんなことが起こるのか。自分の身に、家族の身に、隣人の身に、どうして、こんな不幸が起こるのか。こんなにも辛いことが起こるのか。ヨブは激しく揺れ惑う。

 先ほどの、9章20節のあと、21節でヨブはこう言っていました。

 「私は誠実だ。しかし私には自分が分からない。私は自分のいのちを憎む。」

 ヨブは「タム」を手放しませんよ。でも、分からなくなっている。そんなこと考えたくもない。生きていたくもない。神様に向かって嘆きを発している。

 揺れているんです。動揺しているんです。嘆いているんです。

 が、逆に、ここに、ヨブの「誠実さ」があるんですね。それが、ヨブ記の視点です。

 ヨブは心の内にあること一切を吐き出して、すべて神様にぶつけています。

 ヨブにはもう言葉を選んでいる余裕なんてありません。

 もう心を丸裸にして、神様、あなたはなんてことをしてくれるんだと。

 もう生きていたくない、それほどに自分は苦しんだと。

 いろいろな言葉を、ヨブは、神様にぶつけていくんです。

 これを真っすぐだと、完全だとヨブ記は言うんです。

 

 当然、そこで、どういう言葉を使ったか。神様を汚すような言葉を使ったということにつきましては、ヨブは、あとで神様に怒られます。

 が、ヨブ記におきまして、非常に特徴的でありますのは、いろいろなことを言いますヨブに対しまして、神様は、黙れとは言われないんです。

 一言も、そんなことは言われません。

 そんな不敬虔な言葉を並べる奴はゆるせん、黙れとは言われない。

 むしろ、逆です。もっとしゃべれと求められる。もっと向かって来いと求められる。

 ついに、ヨブの言葉が尽きようとしたときにも、神様は言われるんです。

 40章2節「神を責める者は、それに答えよ。」

 もっと喋れと言われる。もっと、言葉をぶつけてこいと言われる。

 神様は、まっすぐに御自身に向かってくるヨブを喜んでおられる。

 どのような言葉であれ、それが祈りというかたちをとるものであれ、そうではないうめきのようなものであれ、御自身にむかってくるヨブを、神様は喜んでおられる。

 それがひとつ「誠実さ」の、「無垢な」もののかたちだからなんですね。

 微動だにしないというのではない、揺れながらも、神様を求めてやまない人。

 揺れ惑いながらも、丸裸で神に向かう人。そういう人間を神様は求めておられます。

 第二に、誠実な者とは、時が至った時に、神に悔い改める者であるということです。

 ヨブ記42章5、6節「私はあなたのことを耳で聞いていました。しかし今、私の目があなたを見ました。それで、私は自分を蔑み、悔いています。ちりと灰の中で。」

 

 わたしたちも、神様に対しまして、いろいろな思いを抱くことがあります。

 いろいろな葛藤を抱くことがあります。

 神様を信じることなんて、やめてやると思うことがあるかもしれません。

 しかし、そのように思った人に、神様は出会ってくださる。

 その出会いの時を導いてくださる。そして、神様の御前にひれふすという、すべておゆだねいたしますという、悔い改めの時を導いてくださる。

 自分として思うことは後ろに退けまして、悔い改めます、という時です。

 そういう時を、神様は、或る人には、この一度、決定的だという出会いとして与えられるでしょうね。また或る人には、日々のなかでの小さな出会いというんでしょうか、少しずつ神が今、共にという、そういう仕方で与えてくださりもするんでしょうね。一人ひとりにとって、本当にふさわしい仕方で、その時を導いてくださいます。

 聖書が言う誠実な人であるということは、そのような、神様がわたしのところに来てくださったとしか言いようのない、神様がわたしに触れてくださったとしか言いようのない、その瞬間を大切にする人です。

 その出会いの前に、自分の思いを退けることができる人のことです。

 ヨブは、そういう無垢な人でした。神様が見ておられた通りに、無垢な人であった。「私は自分を蔑み、悔いています。ちりと灰の中で。」

 いろいろなことを言ったんですけれども、いろいろなことを思ったんですけれども、そのときは必死だったんですけれども、やっぱり間違っていたこともあって、それに気づかされて、悔いています。やり直しがきかないかもしれないんですけれども、悔いています。神様はこの時まで待ってくださいます。待ってくださって、やり直しがきかないなんてことはなくて、やり直させてくださる。

 

 それが、第三のことに繋がります。いかにやり直すかです。

 誠実な人は、自分の罪を悔いて、嘆いて、それから、神様に立ち上がらせられ、友のために、隣人のために、祈り始めます。

 ヨブ記は、その多くを、ヨブとその友人たちとの対話に費やします。

 そうしたなかで、ヨブは、友人たちから浴びせられる言葉にひどく傷つき、そうであるがゆえに、神様への信仰さえも揺らぎました。

 が、それでも、ヨブは友人たちのために祈るんです。

 まず、神様は友人たちに語りかけられます。42章8節のところ。

 神様は友人たちに怒っていると言われながら、「今、あなたがたは雄牛七頭と雄羊七匹を取って、わたしのしもべヨブのところに行き、自分たちのために全焼のささげ物を献げよ」と言われる。

 それは、友人たちがヨブと一緒に礼拝をするためです。神様への悔い改めも感謝の思いをひっくるめて、ヨブと一緒に礼拝するためです。

 そうしましたならば、「わたしのしもべヨブがあなたがたのために祈る。わたしは彼の願いを受け入れるので、あなたがたの愚行に報いるようなことはしない。あなたがたは、わたしのしもべヨブのように、わたしについて確かなことを語らなかったが。」

 

 赦されるのです。神様は赦してくださる。

一緒に礼拝をささげる者たちを赦してくださる。

 だから、共に礼拝をささげよ、と神様は言われまして、友人たちは、その通りにいたします。そうしますと、42章10節「ヨブがその友人たちのために祈ったとき、主はヨブを元どおりにされた。」

 

 ヨブは友人たちのために祈りました。

 それは、友人たちのことを赦したということです。

 散々なことを言われた友人たちを赦し、ヨブは友のために祈ったのです。

 さらに、その後、11節「こうして彼のすべての兄弟、すべての姉妹、それに以前のすべての知人は、彼のところに来て、彼の家で一緒に食事をした。」

 みんな、ヨブから離れていった人たちです。

 関りを避けて、ヨブを見捨てた人たちです。

 が、ヨブはその人たちと食事を共に致します。彼らのことも赦したからです。

 そのヨブを、「主は……前の半生に増して祝福された。」

 その祝福のときに至るまで、どれほどの月日が必要であったのか、どれほど心の葛藤が必要であったのか、ヨブ記は何も記していません。

 決して無傷に、怒りや憎しみとは無縁でということではなかったはずです。が、そのなかで、神様を手放すことなく、絶望しかかりながらも、神を最後の希望とした。

 そうして、ヨブ記が記すのは、神の憐れみに導かれ、生かされたヨブが隣人を赦したということです。そこに、神に従い抜いた誠実な、無垢な人の姿があるということ、その人をヨブ記は「完全」と呼ぶということです。

 神様から送られるものはいつもまっすぐです。それは祝福です。

 人間はそれを捻じ曲げて受け止めますので、それが呪いのように見えたりします。

 けれども、神様がくださるものは、いつもまっすぐです。試練も困難も、でも、それは呪いとしてではなくて、祝福として送られているものです。

 まっすぐに受け止めたい。試練も困難も、神を、キリストを奪い取るものとしてではなく、既に私たちに与えられているものに気づかせようとするための祝福だと信じたい。キリストは既に、わたしたちの手の中にいてくださる。神は共にいてくださる。

 そのことを見失って、分からなくなって、揺れ惑うんですけれども、キリストは変わらず、いつも共にいてくださいます。ヨブはその希望を手放しませんでした。

 まっすぐに、誠実に、無垢に、手放しませんでした。

 そういう人間を、この世界は必要としています。神様の祝福を全身で浴びている人を、この世界は必要としています。キリストをどう語るか、どう証しするか。が、それよりも前に、キリストが共にいてくださることを、私たちは畏れをもって感謝をしたい。キリストを抱きしめている人が、そこにいる。もうそれだけで、神様の祝福はその地に広がっている。そういう人間がこの世界には、この岡山には必要です。

 キリストを希望として生きることをまっすぐに受け止めたい。

 その人間像を、宗教改革者は追い求め、私たちは追い求めています。

 神様にまっすぐに叫んで、まっすぐに悔い改めて、またまっすぐに立ち上がらせていただきたい。キリストが最後の希望として、私たちの手の中にあります。

 恐れるべきものは何もない。まっすぐにその道を歩みたい。

 歩ませていただきたい。キリストと共に。

 神様の祝福を求めて、共に祈りましょう。

   祈り

 私たちは幸いを神から受けるのだから、わざわいも受けるべきではないか。

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