2022年10月23日「ぶどうの木と枝」

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聖句のアイコン聖書の言葉

15:5 私はぶどうの木、あなた方は枝です。人が私に留まり、私もその人に留まっているなら、その人は多くの実を結びます。私を離れては、あなた方は何もすることができないのです。ヨハネによる福音書 5章5節

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 今年も秋になり、果物が、今、美味しいですね。皆様は何がお好きでしょうか。それはともかく、私は岡山へ来る前は、ここは桃がよく取れる県だと思っていました。しかし、本当はとても美味しいぶどうの産地でもあることを知りました。大変甘くて大きく、皮ごと食べられるぶどうもありますね。どれも農家の方が丁寧に作られたものです。私は、ぶどう園で直接見たことはありませんが、枝にぶどうが実っている様子は、想像するだけで嬉しくなります。

 ところで、神の御子イエスは、ご自分を信じ、ご自分に従う弟子たちに、ヨハネ15:5で「私はぶどうの木、あなた方は枝です。人が私に留まり、私もその人に留まっているなら、その人は多くの実を結びます」と言われました。ぶどうの枝がぶどうの木に留まっているなら、多くの実を結ぶように、私たちがイエスを信じ、イエスに繋がっているなら、必ず豊かに実を結ぶというイエスのお約束です。

 大事なことは、私たちがイエスに繋がり、離れないことです。これを強調するために、イエスは5節の終りでこう言われます。「私を離れては、あなた方は何もすることができないのです。」

 二千年前、イエスは、こう述べたあと、人類の罪を背負って十字架で死なれ、人間を滅びから救う贖い(あがない)を完成して三日目に甦り、今、天の父なる神と共に、昼も夜も私たちを見ておられます。

 そこで大事なことは、その御子イエスを、私たちが自分の救い主として心から信じ、依り頼み、どんな時にも天を仰いでイエスに祈り、イエスの教えを喜び、イエスに従順であることで、イエスに繋がっていることです。

 すると、どうなるでしょうか。イエスご自身が、豊かな実を、私たちの内面に結ばせて下さるのです。

 では、それはどんな実でしょうか。

 第一に永遠の命があります。

 ヨハネ4:36に「永遠の命に至る実」という表現があります。これは、直接には永遠の命に与る信仰者を指しますが、言い換えますと、イエスは永遠の命を信仰者に下さるということです。イエスは言われました。ヨハネ10:28「私は彼らに永遠の命を与えます。彼らは永遠に、決して滅びることがなく、また、誰も彼らを私の手から奪い去りはしません。」

 私たちは、病気や事故、自然災害、またあってほしくないですが、テロや戦争、そして何かのために、いつ命を失うか分りません。その覚悟が必要です。

 しかし、更に大切なことは、死んだあとです。どうなるでしょうか。

 私たちは、神と人を愛して生きるように造られた、神の裁きを受けます。ヘブル9:27は言います。「人間には、ただ一度死ぬことと死後に裁きを受けることが定まっている…。」私たちは死後、必ず神の裁きを受けます。神は、私たちの心の中も、口にした悪い言葉も、隠れた罪深い行いも全てご存じです。罪を全く犯したことのない人が、どこにいるでしょうか。私たちは永遠の滅びに至って当然ではないでしょうか。

 ところが、何と神はこんな私たちを憐れみ、ご自分の御子を救い主として賜りました!全く罪のない神の御子イエスが、私たちの罪をそっくり背負って十字架で死なれ、贖いを完成し、復活して救い主でいて下さいます!このイエスを心から信じ、従い、イエスに繋がるだけで、イエスは、罪の赦しと共に、神と一緒に生きる永遠の命という最高の実を下さるのです。

 この世でどんなに成功し、地位や名声を獲得し、あるいは、辛いことに耐えたとしても、死んで永遠に滅ぶなら、何と悲惨で空しいことでしょうか。しかし、イエスは今も生きておられ、ご自分に繋がる信仰者には、いつ死んでも構わない永遠の命を下さいます。イエスは言われました。ヨハネ11:25「私は甦りです。命です。私を信じる者は死んでも生きる」と。

 以上、永遠の命という大切な実について学びました。

 しかし、これだけではありません。ガラテヤ5:22、23は、「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」と言います。これらは、御霊なる神が信仰者の内面に結ばせて下さるきよい性質を指し、イエスがご自分に繋がる者に結ばせて下さる実と同じです。これらが私たちの内面にあるなら、何と幸いで感謝なことでしょう。

 今朝、これら九つの実を一つ一つ詳しく学ぶことはできませんが、最初の「愛」を一つ取り上げてみるだけでも、如何に大切かが分ると思います。

 世の中の人間関係の難しさを、私たちは皆、経験していますが、原因は何でしょうか。聖書はズバリ私たち人間が、創り主なる真(まこと)の神から離れているため、生れながらに持っている罪の性質のためだと指摘します。その結果、私たちは愛に欠け、自己中心で、人に対しては厳しく批判的ですのに、自分には甘く、身勝手で、人への思い遣りの欠けた冷たい意地悪な所もあります。

 Ⅰコリント13章の初めに、知識などにどんなに優れていても、「愛がないなら、私は無に等しい」というパウロの言葉がありますが、本当にそうだと思います。何と愛は大切でしょうか。そのあとに書かれていることも読みます。13:4からです。「愛は寛容であり、愛は親切です。また人を妬みません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、苛立たず、人がした悪を心に留めず、不正を喜ばずに、真理を喜びます。」

 どうでしょう。イエスが、信仰によってご自分に繋がる者の内面に結んで下さる愛が、私たちにとって、如何に大切な実であるかが、よく分ると思います。そして、こういうことをパウロが書けたのは、彼自身、イエス・キリストに結びつくことで、変えられたからです。

 他にも変えられた人がいます。ヨハネ福音書を書いたヨハネです。兄のヤコブと共にヨハネは若い時からイエスを信じ、イエスに従う生涯を歩みました。しかし、元々二人は気性の激しい兄弟でした。マルコ3:17によりますと、イエスは彼らに「ボアネルゲ」、つまり、雷の子という面白いあだ名を付けられました。それ位、激しかったのでした。

 のちに、イエスは弟子たちとエルサレムへ向う途中、サマリア人の村に入られましたが、そこの人たちは、エルサレムに向うイエスを歓迎しませんでした。その時のことを、ルカ9:54はこう伝えています。「弟子のヤコブとヨハネが、これを見て言った。『主よ。私たちが天から火を下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか。』」イエスは直ちに二人を叱られましたが、彼らが随分気性の荒い人たちであったことが分ります。

 元はこんなヨハネでしたが、のちには神の愛を伝え、信者相互の愛を繰り返し勧める人になっていました。彼は書いています。ヨハネ3:16「神は、実に、その独り子をお与えになった程に、世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることがなく、永遠の命を持つためである。」15:12、13では、イエスの教えをこう伝えています。「私があなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合うこと、これが私の戒めです。人が自分の友のために命を捨てること、これよりも大きな愛は誰も持っていません。」

 伝承によりますと、老化が進んだ晩年のヨハネは、何を聞かれても「神は愛です」「互いに愛し合いなさい」と答えたそうです。ぶどうの木であるイエスに彼がいつも繋がり、イエスの教えを喜び、聞き従い、イエスと親しく交わってきたことが、彼を愛の人に変えたのです。

 愛について見ましたが、これに続く「喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」も、皆どんなに素晴らしい性質でしょうか。

 確かにこの罪の世では、私たちが寛容で親切で善意に満ち、誠実で柔和であることにより、人に騙され、損をするとか、悲しいイヤな思いにさせられることもあります。箴言が教えるように、神からの賢い知恵や洞察力も併せて必要です。

 しかし、どこまでも正しく、きよく、愛と憐れみと真実に満ちた神の前での、もっと高い大きな視野と永遠の次元で自分を考えると、どうでしょう。「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」のある自分でいたくないでしょうか。そういう自分になりたくないでしょうか。

 こんな私たちに、イエスは言われます。ヨハネ15:5「私はぶどうの木、あなた方は枝です。人が私に留まり、私もその人に留まっているなら、その人は多くの実を結びます。」

 私たちに、生れつきの気質は生涯残ります。しかし、性質や性格を含めた私たちの人格は、他の人格との接触、交流により随分影響を受け、変えられます。ですから、罪も汚れも全くなく、きよくて、正しく、しかも永遠の命を自らお持ちになり、その上、深く真実で豊かな「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制心」に満ちた神の御子イエス・キリストとの血の通った親しい交わりを持たせて頂くこと!このことは、どんなに幸いで感謝に満ちた影響を、私たちの心、人格、生き方、そして永遠の行き先にまで与えることでしょう。

 ぶどうの幹にしっかり繋がっていれば、枝は必ず豊かに実を結びます!同じように私たちも、神の御子イエスを、幼子のように素直に信じ、受け入れ、依り頼み、イエスの御言葉に親しみ、従いたいと思います。イエス・キリストとのそういう真実な交わり、繋がりを通して、天地の創り主なる父なる神に喜ばれ、隣人の救いと幸せのためにも私たちが用いられ、また自分自身も感謝できる、真(しん)に幸いな人生を、是非ご一緒に送らせて頂きたいと願います。

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