2022年09月18日「ザアカイの救い」

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ザアカイの救い

日付
説教
田村英典 牧師
聖書
ルカによる福音書 19章1節~10節

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聖句のアイコン聖書の言葉

19:1 それからイエスはエリコに入り、町の中を通っておられた。
19:2 するとそこに、ザアカイという名の人がいた。彼は取税人のかしらで、金持ちであった。
19:3 彼はイエスがどんな方かを見ようとしたが、背が低かったので、群衆のために見ることができなかった。
19:4 それで、先の方に走って行き、イエスを見ようとして、いちじく桑の木に登った。イエスがそこを通り過ぎようとしておられたからであった。
19:5 イエスはその場所に来ると、上を見上げて彼に言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。私は今日、あなたの家に泊まることにしているから。」
19:6 ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。
19:7 人々は皆、これを見て、「あの人は罪人のところに行って客となった」と文句を言った。
19:8 しかし、ザアカイは立ち上がり、主に言った。「主よ、ご覧下さい。私は財産の半分を貧しい人たちに施します。誰かから脅し取った物があれば、四倍にして返します。」
19:9 イエスは彼に言われた。「今日、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。
19:10 人の子は、失われた者を捜して救うために来たのです。」ルカによる福音書 19章1節~10節

原稿のアイコンメッセージ

 お読みしましたルカ19:1~10は、子供の教会学校で昔から人気のある所です。ザアカイの様子が面白くて楽しいからでしょうね。

 そこで、聖書をもう一度、見ます。1節「イエスはエリコに入り、町の中を通っておられ」ました。エリコは死海のすぐ北でヨルダン川の西にある町でした。ザアカイは2節「取税人のかしらで、金持ち」でした。取税人は、物品を持って道を行き交う人から通行税を取り、それを当時、ユダヤを支配していたローマ帝国に納めていました。同胞のユダヤ人から取った税を、ローマ帝国の手先となってローマに納めるのですから、それだけでユダヤ人から嫌われていました。

 その上、取税人はローマ帝国との間で取り決めた金額以上の金を取り、それで生活し、しかも勝手に多く取って自分のものに出来ましたので、一層皆から憎まれていたのでした。

 それなら、ザアカイは取税人を辞めれば良いのにと思われますが、それはしません。彼は取税人の頭(かしら)で、沢山お金が入って来たからです。「世の中、結局、お金だ。金ほど強いものはない。」彼はこんな気持でいたかも知れませんね。

 とはいえ、後ろめたさや孤独感もあったのでしょう。ですから、他のユダヤ教の教師たちとは全く違い、聖書の御言葉に基づき、遥かに深く、鋭く、豊かに神の御心を教え、神を現される、今、噂で持ちっきりのイエスに、強い関心を抱いたようです。

 そこで、イエスがどんな方かを見ようしましたが、背が低く、群衆のために見ることが出来ません。群衆の方もわざと意地悪く、邪魔をしたかも知れませんね。しかし、それで諦めるようなザアカイではありません。4節「それで、先の方に走って行き、イエスを見ようとして、いちじく桑の木に登った。イエスがそこを通り過ぎようとしておられたからである。」

 いちじく桑は、木は桑に似て、実はいちじくに似ているそうです。高さは10m、枝の広がりは40mに及ぶものもあると言いますから、大きいですね。しかし、枝は低い所から広がっているため、ザアカイでも登れました。とはいえ、背が低く、小太りの中年男が木に登っている姿は、何とも滑稽です。教会学校の子供たちに受けるのも、分ります。

 大切なのはこの後です。それは、何と言っても神の御子イエスの愛です。

 第一に、イエスはご自分からザアカイに声をかけられました。5節「イエスはその場所に来ると、上を見上げて彼に言われた。『ザアカイ、急いで降りて来なさい。』」

 私たちにも覚えがないでしょうか。ある感じの良い人がいて、でもどういう人か分らず、気になっている。ところがある日、その人の方から声をかけてくれたならば、どんなに嬉しいでしょう!天に昇るような気持になるかも知れません。

 ザアカイはどんなに驚き、嬉しかったでしょうか。しかも、イエスは彼の名前を呼ばれました。イエスは近くにいた誰かにザアカイの名を聞かれたかも知れませんが、むしろ、神の御子としての力で分られたのでしょう。

 大事なことは、私たちがイエスを知る前に、イエスの方が先に私たちをよくご存じであり、実は色々な折に私たちの名を呼び、声をかけて下さっていることです。ザアカイのように、私たちが何か後ろめたいことをして心が痛んでいる時、何かのことですごく淋しい時、誰か素晴らしい人に会って感謝な時を初め、色々な折に、実はイエスは私たちをご覧になり、名前を呼び、私たちの心に声をかけておられるのです。気付きさえすれば、私たちをよくご存じの神の御子イエスは、私たちの名を呼んでおられる!私たちを愛し、それ故、私たちの心に呼びかけておられるイエスのお声!是非、それに気付き、「はい、イエス様」と、その都度、答えて行きたいと思います。

 第二にイエスはザアカイに、5節「私は今日、あなたの家に泊まることにしている」と言われました。ここにも、イエスの愛を更に覚えさせられます。

 ザアカイはユダヤ人たちから嫌われ、彼の家族と取税人仲間以外は、殆ど誰も彼に近づかなかったでしょう。ユダヤ人の多くは、ザアカイを見るのも不快で、彼を避け、彼の家族とも関りを避けていたと思われます。しかし、そんなことは何もかもご存じの上で、イエスは言われます。「私は今日、あなたの家に泊まることにしているから」と。

 昔のユダヤでは、親しい人を家に泊めることが、よくありました。しかし、ザアカイにはそれは、もう、ずっとありません。ですから、この時、彼はどんなに驚き、嬉しかったことでしょう。従って、6節「ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。」それこそ、飛び跳ねたいぐらい、嬉しかったと思います。イエスは、何と彼の家にも来られ、彼と同じように淋しい思いをしていた彼の家族にも親しくお会いになり、夜は泊まって下さる!何という主イエスの愛でしょうか。

 実はイエスは今も同じです。私たちが心を開きさえすれば、私たちの心の中に喜んでお出で下さり、私たちの心に泊まり、私たちの心を住いにして下さるのです。

 それだけでなく、私たちを通して、私たちの大切な家族にも親しくして下さるのであり、本当は、私たちの家族とも喜んでお交わりになりたいのです。このイエスの愛に、是非気付きたいと思います。

 第三にイエスは、ザアカイを神に喜ばれる真に幸いな者へと変えて下さいました。

 7節が伝えますように、イエスがザアカイの家に行かれたことで、人々は文句を言います。しかし、イエスはそんなことにはお構いなく、ザアカイの家へ行くことを喜ばれます。

 イエスは、ザアカイやその家族と親しく交わり、いつものように御言葉を語り、神を現されたでしょう。すると、ザアカイに変化が起りました。8節「ザアカイは立ち上がり、主に言った。『主よ、ご覧下さい。私は財産の半分を貧しい人たちに施します。誰かから脅し取った物があれば、4倍にして返します。』」

 彼は「私は今からはこうするので、私の罪を赦し、天国へ入れて下さい」と、救いの交換条件としてこう言ったのではありません。自分がイエスを心から信じること、そしてただ神の愛と憐れみによって救われることが分り、その感謝の徴として自発的に8節のことを申し出たのでした。立ち上がってこう言ったことに、彼の決意がよく表れています。彼は、誰かに強く言われたとか、その場の雰囲気に呑まれて、不承不承こう言ったのでありませんでした。

 大事なことは、イエスが、ザアカイを感謝と喜びの人に、また貧しい人たちのことにも思いを向ける、本当の意味で幸せな人へと救い、変えて下さったことです。

 これは今日も同じです。私たちは善いことをし、人を助け、自分が立派な人間になるなら、救われて天国に入れる、というのでは全くありません。大切なことは、父なる神が私たちに賜った御子イエスを、私の救い主として、ただただ心から信じ、受け入れ、依り頼むことだけです。あとは心を頑なにせず、イエスから離れず、御言葉を聞き続ければ、イエスご自身が私たちを神に喜ばれる者へと変えて下さいます。ローマ10:17に「信仰は聞くことから始ま」るとある通り、御言葉を聞くこと、御言葉を聞ける所に自分を置くことが大切です。

 第四に、イエスが来られたのは、あくまで私たちの救いのためだという点を見て終ります。

9節「イエスは彼に言われた。『今日、救いがこの家に来ました。』」

 この日、ザアカイの家族もイエスを信じたのでしょう。人がイエスを信じる時、イエスはその家族をも愛し、家族にも救いを広げようとしておられることを教えられます。

 イエスは10節「この人もアブラハムの子なのですから。人の子は、失われた者を捜し出して救うために来たのです」と言われました。アブラハムは、イスラエル・ユダヤ民族の先祖で、信仰の父と呼ばれた優れた人でした。ザアカイも、血筋の上ではアブラハムの子孫であり、信仰を受け継いだと思いますが、いつの間にか信仰から離れ、神の目には失われた者になっていました。しかしイエスのお蔭で、再び彼は神に立ち帰ることが出来ました。

 大切なことは、「人の子」、つまり、神の御子イエス・キリストが今から2千年前、歴史の真只中に人間となって世に来られたその目的です。それは、神から見れば、ザアカイ同様、創り主なる神から離れてさ迷い、何も分らないまま、永遠に失われて行く私たちを、ただただ愛により捜し出し、救うためでした。

 実は今、天におられるイエスは、神の目に失われた者である私たち罪人を、知り合いのクリスチャンや教会を通して捜し出し、片時も休まず、救おうとしておられます。大切なことは、こういう御子イエスの私たちへの熱い真実な愛と捜索に気付き、自分が立派になってからではなく、ザアカイのように今、私たちを本当に愛しておられる父なる神に、御子イエスを通して、ハッキリ立ち帰ることです。

 こうして、私たちも皆で、アブラハムの子ならぬ、「永遠の神の子」に是非ならせて頂きたいと思います。

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