2022年08月21日「全能の神を信ず ⑵(使徒信条の学び 5)」

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全能の神を信ず ⑵(使徒信条の学び 5)

日付
説教
田村英典 牧師
聖書
マルコによる福音書 10章17節~27節

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聖句のアイコン聖書の言葉

10:17 イエスが道に出て行かれると、一人の人が駆け寄り、御前にひざまずいて尋ねた。「良い先生。永遠の命を受け継ぐためには、何をしたらよいでしょうか。」
10:18 イエスは彼に言われた。「なぜ、私を『良い』と言うのですか。良い方は神おひとりのほか、誰もいません。
10:19 戒めはあなたも知っているはずです。『殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽りの証言をしてはならない。だまし取ってはならない。あなたの父とい母を敬え。』」
10:20 その人はイエスに言った。「先生、私は少年の頃から、それら全てを守って来ました。」
1:21 イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けていることが一つあります。帰って、あなたが持っている物を全て売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を持つことになります。その上で、私に従って来なさい。」
1:22 すると彼は、この言葉に顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った。多くの財産を持っていたからである。
10:23 イエスは、周囲を見回して、弟子たちに言われた。「富を持つ者が神の國に入るのは、何と難しいことでしょう。」
1:24 弟子たちはイエスの言葉に驚いた。しかし、イエスは重ねて彼らに言われた。「子たちよ。神の国に入ることは、何と難しいでしょう。
10:25 金持ちが神の国に入るよりは、らくだが梁の穴を通るほうが易しいのです。」
10:26 弟子たちは、ますます驚いて互いに言った。「それでは、誰が救われるこpとができるでしょう。」
1:27 イエスは彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことです。しかし、神は違います。神にはどんなことでもできるのです。」マルコによる福音書 10章17節~27節

原稿のアイコンメッセージ

 キリスト教会が歴史を通じて告白してきました使徒信条により、キリスト教信仰の大切な点を今朝も学びます。

 前回は、全能の神が私たち信仰者の父であられ、しかし全能の神にも出来ないことがあること、全能の神について人間の理解を超えたこともあることなど、三つの点を学びました。今朝は、私たちにとって神が全能者であられることの感謝な面を二つ学びます。

 一つは、私たちクリスチャンは、自分の罪の赦しと永遠の命をハッキリ確信出来ることです。これはキリスト教信仰において最も重要で素晴らしいことの一つです。が正にその点で、私たちは揺るぎない確信を持つことが出来ます。

 先程のマルコ10:17以降をご覧下さい。ある時、一人の人がイエスの前に駆け寄り、ひざまずいて尋ねました。17節「良い先生。永遠の命を受け継ぐためには、何をしたら良いでしょうか。」

 イエスは19節で、この人の考え方に敢えて合わせて、要するに神の戒め・律法を守ることだとお答えになりました。すると彼は、20節「先生、私は少年の頃から、それら全てを守ってきました」と言います。

 そこでイエスは21節、彼を見つめ、慈しんでこう言われました。「あなたに欠けていることが一つあります。帰って、あなたが持っている物を全て売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を持つことになります。その上で、私に従って来なさい。」

 すると22節「彼は、この言葉に顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った。多くの財産を持っていたからである。」

 マタイとルカの並行箇所によりますと、彼は青年であり、また指導者でした。幼い頃からきっと真面目で一生懸命神の戒めを守り、正しく生きようとしてきたのでしょう。そのため、まだ若いのですが、今や人々の指導者になり、尊敬されていたと思われます。

 けれども、彼自身では、まだ何かが足りず、救いの確信と平安がなく、心は晴れなかったのでした。彼は自分に正直な人だったと思われます。

 しかし、後の24、25節のイエスの言葉から分りますように、人間は、どんなに真面目で、皆から尊敬もされ、自分に正直だとしても、それだけでは救われません。現に私たちは、自分で分りながら、また時には気付かずに、思いと言葉と行いにおいて、毎日、自己中心な罪をどんなに犯していることでしょうか。

 宗教改革者ルターを苦しめたのも、罪の問題でした。修道僧として彼は真面目に聖書を研究し、神の戒めを完全に守ろうと努めました。でも無理でした。どうしようもなく罪深い自分をよく知っていた彼は、絶望的でした。

 しかし、ついに聖書の中に救いの福音を見出します!ローマ1:17に「福音には神の義が啓示されていて、信仰に始まり信仰に進ませる」とあります。この翻訳については少し議論がありますが、今は触れません。とにかく、ここの言う「神の義」とは、神の下さる義のことで、救いを指します。つまり、救いはただ信仰を通して神が下さるのであり、行いによらず、神の恵みによるということです。そしてその信仰もエペソ2:8が言う通り、神の賜物です。ですから、ローマ3:23、24は言います。「全ての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められる」と。

 自分の力で自分を何とか救えると思っていた先程の青年が悲しみながら立ち去ったあと、「では、誰が救われるのか」と困惑する弟子たちに、イエスは言われます。マルコ10:27「それは人にはできないことです。しかし、神は違います。神にはどんなことでも出来るのです。」

 その通り、私たちが善い行いに努め、善い人間になろうとしても、それは、泥の中で沈んで行く左足を支えに右足を上げようとするのと殆ど同じなのです。ですから、パウロも言いました。ローマ7:24「私は本当に惨めな人間です。誰がこの死の体から、私を救い出してくれるのでしょうか。」

 しかし、ここに福音があります!全能の神による救いです。神は御子イエスにより、私たちを罪からお救いになれるのです!ローマ8:3は言います。「肉によって弱くなったため、律法にできなかったことを、神はして下さいました。神はご自分の御子を、罪深い肉と同じ様な形で、罪の清めの為に遣わし、肉において罪を処罰されたのです。」

 サタンは私たちにささやきます。「罪深いお前が、どうして救われよう?」しかし、私たちのために神の戒めを完璧に守り、また私たちの罪を全部背負い、十字架で私たちに代って神の罰を受け、命を献げて下さったイエスは言われます。「神にはどんなことでもできます!」

 ですから、御子イエスを心から信じ、依り頼んで、尚救われない人など、一人もいません!神は、どんな罪人をもただ信仰だけで救うことのお出来になる全能の神なのです。

 二つ目は、私たち信仰者は、どんな苦しみにも最終的には必ず耐えることが出来ることです。

 神が全能者だということは、神の子供とされた私たちクリスチャンを、神が許可された以上に何かが勝手にひどいやり方で襲うことは出来ない、ということです。

 Ⅰペテロ1:6は初代教会の信徒たちに言います。「今暫くの間、様々な試練の中で悲しまなければならないのですが…。」クリスチャンになれば万事旨く行くなどと、調子のいいことを聖書は一つも言いません。苦難や試練はあるとハッキリ言います。しかしそれは「今暫くの間」なのです。心頑なな者に対する死後の永遠の裁きに比べれば、今この世で私たちに臨む試練は「今暫くの間」でしかありません。そして、試練は神が定められた時に来て、神が定められた時に去って行くのです。試練の強さも長さも神の支配下にあり、それ以上には決してなりません。

 ですから、Ⅰコリント10:13はこう約束します。「あなた方が経験した試練は皆、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなた方を耐えられない試練に遭わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練と共に脱出の道も備えていて下さいます。」

 私たちから命を奪う試練であっても、全能の父なる神は、ご自分の子供たち、つまり、信仰者のために限界を設けておられるのであり、耐えられない試練は絶対に来させられません。この全能の神に信頼し、また私たちが兄弟姉妹たちにこの神に祈ってもらえることは、何と幸いでしょう。

 苦難には、意味や理由が分らないという苦しみもあります。「何故私がこんな目に遭うのか」と私たちは困惑し、つい苛立ってしまう。ヨブ記が伝えるヨブを苦しめたのもこれでした。

 しかし、彼が再び神の前に平安を得たのは、ヨブ記38~41章が伝えますように、神が全能者であられることを、神から懇々と教えられたからでした。理解出来ないことをいくら人間の知恵で論じても分りませんのに、ヨブはそれをして、ますます苛立ち、苦しみ、惨めになりました。がとうとうその愚かさを彼は悟り、一切の疑問を神に預けました。ヨブ記のクライマックスとも言えます42:2で、ヨブは神に「あなたには、全てのことができること、どのような計画も不可能ではないことを、私は知りました」と、神の全能性を告白する言葉で語り始めます。そうして彼は、それまではどんなに議論しても得られなかった揺るぎない平安を得ました。

 今この世で私たちに臨む苦難の問題を扱うヨブ記と、世の終りに臨む苦難の問題を扱う黙示録に、全能の神についての言及が夫々旧約聖書と新約聖書において一番多いという事実は、興味深いと思います。ここに最も慰めに満ちた私たちの究極の拠り所が、神御自身から用意されているということではないかと思います。

 キリストの福音のために絶えず苦難を味わっていたパウロが、最後まで福音に仕えることが出来たのも、実は神の全能性にありました。苦難の意味について彼はこう述べました。Ⅱコリント1:9「自分自身に頼らず、死者を甦らせて下さる神に頼る者となるためだったのです。」

 自分のどうしようもない罪の問題!また様々な苦難と試練!その最後は死ですが、この罪と死の問題は人間の最大の問題です。でも、一体誰がこれを自分の力で完全に解決出来るでしょう。

 しかし、ここに福音があります!御子イエスを十字架につけられた程に私たちを愛し、約束通り御子を死の中から復活させ、ご自分の右に座させ、私たちの永遠の救い主として下さった全能の父なる神が、私たちの神となって下さることです。

 Ⅰコリント15:26が言いますように、「最後の敵」は死です。しかし、その死の中から御子イエスを復活させられた父なる神以上に強い者は、この宇宙に一切存在しません!その全能の神が、ただ御子イエスを信じる信仰の故に、私たちの永遠の父でいて下さる!何という幸せでしょう!

 私たちが自分の罪と不信仰、また困難や試練のために、苦しみ、悶え、不安な時こそ、御子を死の中から復活させ、私たちに永遠の命を与えることにおいても、私たちを支え困難に耐えさせることにおいても、全能であられる神を、凛として見上げたいと思います。

 また私たちも、御子イエス同様、「アバ、父よ、あなたは何でもお出来になります」(マルコ14:36)と祈り、「神にはどんなことでも出来るのです」(マルコ10:27)と、神を全身全霊をあげて信じ、神に一切を委ね、皆で手を携え合って、主の道を固く踏みしめて行きたいと思います。

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