2022年08月14日「全能の神を信ず ⑴(使徒信条の学び 4)」

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全能の神を信ず ⑴(使徒信条の学び 4)

日付
説教
田村英典 牧師
聖書
マルコによる福音書 14章32節~36節

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14:32 さて、彼らはゲツセマネという場所に来た。イエスは弟子たちに言われた。「私が祈っている間、ここに座っていなさい。」
14:33 そして、ペテロ、ヤコブ、ヨハネを一緒に連れて行かれた。イエスは深く悩み、もだえ始め、
14:34 彼らに追われた。「私は悲しみのあまり死ぬほどです。ここにいて目を覚ましていなさい。」
14:35 それからイエスは少し進んで行って、地面にひれ伏し、出来ることなら、この時が自分から過ぎ去るようにと祈られた。
14:36 そしてこう言われた。「アバ、父よ、あなたは何でもお出来になります。どうか、この杯を私から取り去って下さい。しかし、私の望むことではなく、あなたがお望みになることが行われますように。」マルコによる福音書 14章32節~36節

原稿のアイコンメッセージ

 教会が歴史を通じて告白してきましたキリスト教信仰のエッセンスとも言えます使徒信条を、今朝も学びます。イエス・キリストによる救いの道を、私たちが右にも左にも逸れることなく歩み、またこの世で私たちが少しでも神に喜ばれ、神を賛美し、神を喜ぶ人生を送るためです。

 今朝の話に入る前に、「父なる神を信ず」という前回の説教で触れなかった点に、少し触れておきます。

 改めてお話する必要はないだろうと思い、触れませんでしたが、使徒信条は、第一に父なる神、第二に子なる神イエス・キリスト、第三に聖霊なる神という、いわゆる三位一体の真(まこと)の神について、順番に告白する構造になっています。しかし、前回の説教では、三位一体的構造について特には触れず、御子イエスへの信仰の故に、父なる神が「私たちの永遠の父、お父様でいて下さる」というその恵みと祝福について、重点的にお話しました。以上、簡単ですが、補足させて頂きます。

 今朝は「全能の神」について学びます。多くの大切な点がありますが、今朝はそのいくつかを選んでお話致します。

 第一のことは、全能の神が私たちの「父」でもあられるという点です。前回申しましたが、使徒信条のラテン語本文では、「父」という言葉のすぐ後に「全能」という言葉が続きます。両者は切り離せないのです。

 これは、イエスご自身の祈りからも分ります。明日は、私たち罪人の罪を全部背負い、私たちの身代りとなって十字架で命を捧げるという非常に厳しい状況で、先程お読みしましたマルコ14:36が伝えますように、イエスは「アバ、父よ、あなたは何でもお出来になります」と祈られました。父なる神を「アバ、父よ」と親しく呼ばれた主イエスは、「あなたは何でもお出来になります」と、直ちに神の全能性を告白されます。イエスは、神が父であられ、同時に全能者であられることを祈り、弟子たちと後(のち)の教会は、その意味を悟り信じて、やがて襲うローマ帝国などからの厳しい迫害や苦難にも耐えたのでした。

 神は、「全能」というだけではありません。もし、それだけなら、何でも好き勝手にやる暴君のような存在ということもあり得ます。しかしまた神は信仰者の「父」というだけでもありません。それだけなら、優しいですが、肝心な時に子供を置いたまま逃げる弱い父親のような存在かも知れません。しかし、そうではありません。御子イエスと聖書を通して私たちに自己紹介され、私たちを愛して下さっている天の神は、文字通り「全能の父なる神」なのです。私たちの父というだけでも最高に嬉しいですのに、加えて、無から有を生じさせることのお出来になる全能者でもあられる!信仰があっても、ちょっとしたことですぐオロオロし、自分を失いやすい弱い私たちにとって、これは何と感謝なことでしょうか。天地を創られた全能の神が、私たち信仰者の父でもあって下さる!この素晴らしい事実を、今朝、改めて深く心に刻みたいと思います。

 二つ目に進みます。それは、全能の神にも出来ないことがおありだという点です。

 全能の神にも出来ないことがある?変ではないでしょうか。いいえ、その通り、神にもお出来にならないことがあるのです。

 では、それは何なのでしょう。何が出来ないのか。悪です!神は、悪だけは決してお出来になりません!

 でも、どうしてそうなのでしょう。

 ウェストミンスター小教理問答の問4が答える通り、神はその「存在、知恵、力、聖、義、善、真実」という全ての属性・ご性質において、「無限、永遠、不変」の霊であられます。つまり、神は力においてだけ無限のお方なのではありません。力において無限の神は、同時に聖さ(きよさ)においても、義(正しさ)においても、善(特に愛)においても、そして真実においても、無限のお方だからです。

 Ⅱテモテ2:13は言います。「私たちが真実でなくても、キリストは常に真実である。ご自身を否むことが出来ないからである。」ここで言われていることは、父なる神においても全く同じです。「私と父とは一つです」とイエスがヨハネ10:30で言われましたように、御子イエス・キリストと父なる神は、一つであられますから、神は偽ることや悪をお出来にならないのです。

 そして、偽りや欺き、ごまかし、意地悪といった悪だけは決してお出来にならないことは、神にとって少しも不名誉ではなく、大いに名誉であり、喜びであり、光栄であられるのです。私たちの喜び、希望であられる救い主イエス・キリストといつも一つであられ、私たちのとこしえの父でいて下さる天の神が、このような神であられるとは、何と感謝なことでしょう!私たちクリスチャンは、一体、どこまで幸せなのだろう、と思わないではおれません。

 三つ目の点をお話して、今朝の説教は終ります。今度は観点が少し変りますが、「全能の神」ということに関連して、私たち人間には分らず、理解できないこともあるという点です。それをよく弁(わきま)えておきたいと思います。

 時々、クリスチャンでない方から、質問というか次のような疑問の声も聞きます。「神が全能なら、何故こんな悲惨なことを早く止めないのか。何故早く介入して、私たち人間を助けようとしないのか」と。

 確かに、このように思える余りにもひどく、残酷で、赦せないようなことが、この世界ではしばしば起ります。旧約聖書では、よく「剣と飢饉と疫病」と言われていますが、今で言うなら、残酷な戦争やテロ、想像を絶する自然災害や飢餓、食糧危機、人間をひどく苦しめ、痛めつけ、死に至らせる病気!世界規模で見られるパンデミックな感染症があります。

 実際には、これらだけではありません。余りにも非人道的、非人間的な差別、不公平、搾取、暴力。国家権力による弾圧、迫害、情報操作。汚い政治的やり方があります。こういう現実を前にしますと、「神は何故早く介入して助けて下さらないのか」と、私たちクリスチャンでも嘆きたくなりそうなことがあります。ですから、この世の悪の存在は、神の全能や善や正義と矛盾するのではないのか、どうなのか、という神義論が昔からあったわけです。

 これは簡単な問題ではありません。このことで、私たちは軽々しくものを言うことを差し控えたいと思います。しかしそれでも、留意しておきたい点を、二、三、確認しておきます。

 第一に、この世では私たち人間に分らないこともあることをよく心に留め、謙虚でありたいと思います。

 旧約聖書のイザヤ55:8、9で神は言われます。「私の思いは、あなた方の思いと異なり、あなた方の道は、私の道とは異なるからだ。――主の言葉――天が地よりも高いように、私の道は、あなた方の道よりも高く、私の思いは、あなたの思いよりも高い。」

 「神は全能者で正しい方なのだから、こうあるべきだ」と、私たちはつい私たち人間の論理で神にも要求しがちです。でも、私たち有限な者は、無限のお方であられる神に、私たちの尺度を当てはめてはならず、元々当てはめられないのです。私たちの理解を超えた神の御心については、そこで留まり、沈黙する謙虚さが大切です。

 第二に、だからといって、私たちは何もしないのではなく、現わされていて、私たちの理解出来る神の御心にキチンと従うのです。

 2011年3月11日、東日本大震災が起った後、神がいるなら、何故こんなひどい災害が起るのを止めないのか、という疑問と不満の声も聞かれました。しかし、分らないことをアレコレ思い、不満を覚えるより、救援に行くことが何より神の御心だと判断し、淀川キリスト教病院では直ちに医療チームを編成し、出発したことを思い出します。

 とにかく、分らないということで云々するのではなく、ハッキリ分っている神の御心に従う!神の前ではこの姿勢が大切です。旧約聖書の申命記29:29は言います。「隠されていることは、私たちの神、主のものである。しかし現わされたことは永遠に私たちと私たちの子孫のものであり、それは私たちがこの御教え(みおしえ)の全ての言葉を行うためである。」

 第三に、人間の悪については、その罪深さにとことん人間が気付くまで、全能の神が敢えて介入されないこともあることを知っていたいと思います。これは、ロンドンのウェストミンスター・チャペルの元牧師で、20世紀最大の説教者の一人と言われましたM.ロイドジョンズが、第二次世界大戦の時、その余りの悲惨さ、邪悪さに、「何故神はこれを放っておくのか」と多くの人が言ったことに対して、述べたことです。

 実際、旧約聖書から分りますが、かつてイスラエル民族が頑なで罪に耽り(ふけり)ながらも、その罪を余り感じていなかった時、神は大国がイスラエルを攻撃し、支配し、暴虐を働いても、放置されました。神にイスラエルを救えないのではありません。彼らが自分の罪と不信仰と愚かさを徹底的に悟り、心底悔い改め、神に立ち返るためでした。

 そういう時に大切なことは、全能の神の前に心からひれ伏し、憐れみを祈り求め、救いの時を待つことです。旧約聖書のハバクク2:3で神は言われました。「もし遅くなっても、それを待て。必ず来る。遅れることはない。」事実、神はご自分の定められた時に介入され、悪人を退け、滅ぼし、約束を履行されました。

 一口(ひとくち)に「全能の神を信じる」と言っても、聖書は、様々な角度と深みをもって教えます。極力全体をよく理解して、私たちは短気にならず、全能の父なる神をじっくり仰ぎ、従い、信頼し、神が私たちのために必ずご用意下さっています祝福と恵みに、是非、ご一緒に与りたいと思います。

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