2022年07月24日「最高の出会い」

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聖句のアイコン聖書の言葉

15:12 私があなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合うこと、これが私の戒めです。
15:13 人が自分の友のために命を捨てること、これよりも大きな愛は、誰も持っていません。
15:14 私が命じることを行なうなら、あなた方は私の友です。
15:15 私はもう、あなた方をしもべとは呼びません。しもべなら、主人が何をするのか知らないからです。私はあなた方を友と呼びました。父から聞いたことを全て、あなた方には知らせたからです。ヨハネによる福音書 15章12節~15節

原稿のアイコンメッセージ

 「人生は出会いで決まる」と、昔からよく言われてきました。確かに、私たちがどんな人と出会うかは、その後の私たちの人生や私たちの性格、更に言いますと、人格形成に何らかの影響を与えると思います。

 私自身のことを少しお話させて頂きます。どれ位影響を受けたかは分りませんが、両親の真面目さとふざけっぽさ、優しさと忍耐強さ、それと小学校3、4年の時の担任から、自分の過ちを認める勇気、正直さを教えられたと思います。クリスチャンになり、牧師になってからも、色々な方との出会いの中で、自分の足りなさに一杯気付かされ、人としてのあり方を教えられました。

 淀川キリスト教病院に勤務していた時にも、感謝な出会いを沢山頂きました。ホスピスで関ったある患者さんからは、毎日どんなに小さなことでも、実際、死の直前でも、一つ一つ神に感謝することの大切さを、また避けられない試練については、神の御旨として受容する穏やかさを、その方との出会いを通して深く教えられました。

 別の患者さんからは、神の前でのピシッと筋の通った凛とした信仰の姿勢を、また彼女をお世話する方々の見事な愛と祈りと具体的で献身的なケアのあり方を教えられました。本当に感謝なことです。

 きっと皆様にも、今まで出会った人の中で、その人の言葉や姿がいつまでも心に残っているという人があると思います。出会ったものの、ある人たちから受けたイヤな想い出もあるでしょう。そういうものはいつまでも心に貯め込まず、ポーンと後ろに投げ捨て、でも感謝すべき大切な想い出は、しっかり心のポケットにしまっておきたいと思います。

 他方、乱暴でいつもガミガミ言う親や家族に、幼い時から自分を認めてもらえず、否定され、あるいは無視され、愛され体験が少ないとか、情緒が不安定で多感な思春期に良い人たちとの出会いに恵まれなかったという人もあるでしょう。その結果、何歳になっても自分を扱う方法がよく分らず、人との良い関係もうまく築けない人もあります。また良くない友人や悪い人たちと出会ったため、不幸な道を選んでしまった人もいると思います。とても悲しいことです。

 こうして見ますと、私たちがどういう人と出会うかは、非常に重要であることが分ると思います。

 今お話しましたのは、分りやすくするために、幸いな例と不幸な例を上げましたが、実はたとい良い人と出会ったとしても、完全な人は決してこの世にいません。うんと近くで実際にその人の色々な面を知りますと、がっかりさせられることも多々あります。「私はあの人を最高に素晴らしい方だと思い、100%尊敬し、信じていたのに、あの人のああいう面を見て、ガッカリ!私はもう誰も信じられない」と言い放つ人が時々います。しかし、聖書のローマ3:10が「義人はいない。一人もいない」と言いますように、人には皆生れながらに罪の性質があり、100%完全な人との出会いを期待する方が無理なのです。

 しかし、そうだとしますと、私たちはどうすれば良いのでしょうか。特に、幼い時から良い人や優れた人との出会いや交流の経験が殆どなく、心に傷のある人は、どうすれば良いのでしょうか。絶望しかないのでしょうか。

 いいえ、ここに福音があります!それは、この天と地を創られた真(まこと)の神、すなわち、天の父なる神との出会いであり、特に神の許から救い主として世に来られた神の御子イエス・キリストとの出会いです。

 では、父なる神また御子イエスとの出会いが、何故そんなに尊いのでしょうか。

 第一に、イエスを自分の救い主として心から信じ、受け入れ、依り頼む時、私たちは、ある時は知りつつ、ある時は知らずに犯した情けない罪や不信仰も全て、神に赦して頂けるからです。

 今まで、一切嘘をつかず、ずるいことをしたこともない人が、いるでしょうか。神は全てをご存じです。ヘブル4:13と9:27は言います。「神の目には全てが裸であり、さらけ出されています。この神に対して、私たちは申し開きをするのです。…人間には、一度死ぬことと死後に裁きを受けることが定まっている」と。死んだ後、私たちは皆、神の前に立ち、生涯の間に犯した思いと言葉と行いにおける全ての罪に対し、裁きを受けます。誰が大丈夫でしょうか。

 でも、ここに福音があります!私たちが受けて当然の裁きを、神の御子イエスが私たちに代り、十字架で全部受けて下さったのです!ですから、私たちはイエスを自分の救い主として、ただ心から信じ、受け入れ、依り頼むなら、必ず神に赦され、永遠の命を頂けるのです。ヨハネ3:16は言います。「神は、実に、その独り子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠の命を持つためである。」

 出会いは出会いでも、真(まこと)の神またイエス・キリストとの出会いは、私たちを罪と永遠の滅びから救い、永遠の命を与え、永遠の世界への扉を開きます。讃美歌21-575の3節に「命の終りは 命の始め。恐れは信仰に、死は復活に、ついに変えられる永遠の朝。その日、その時を、ただ神が知る」とありますが、本当にこうなります!何と幸いな出会いでしょうか。

 第二に、私たちはこの出会いを通して、この世においても神に喜ばれ、人との良い出会いをも生み出せる幸いな者へ、少しずつ作り変えられて行くからです。特に主イエスと出会い、聖書から神の御心をますます知ってそれに従い、また幼子が親に一杯話しかけ、それに親が応えるように、祈りにより私たちが、愛と慈しみに満ちた、きよい神と交わり続ける時、神は私たちを「神の作品」(エペソ2:10)として徐々に御心に適う者へ作り変えて下さいます。

 先程、幼い時から良い人との出会いや愛され体験が少なく、心が傷つき、あるいは歪み、人とも自分とも、良い関係を築きにくい人の場合を上げました。しかし、たとい私たちがそうだとしても、天の神は私たちの本当の父として、また御子イエスは永遠の救い主として、必ず私たちのどんな傷をも癒し、修復することがおできです。神の、また御子イエスの愛を深く豊かに味わい知る時、人は魂の底から癒され、魂が再生されます。

 そして、神との縦の関係が太く豊かになりますと、私たちは人との横の関係でも強くされ、赦し赦され合うことをベースに持つ、人との新しい嬉しい出会いを作り出せ、自分との関係もうまく行くようになります。

 今日お読みしましたヨハネ15:14、15で、御子イエスは弟子たちを「友」と呼ばれました。勿体なくも、イエスはご自分を信じる信仰者の「友」となられ、語りかけ、いたわり、傍らにいて、生涯を最後まで支えて下さる方なのです。

 先程、讃美歌21-493「慈しみ深い」を私たちは歌いました。この作詞者ジョウゼフ・スクライヴンは、1819年、アイルランドで生れ、1886年に亡くなりました。ダブリンのトゥリニティ大学卒業後、ある女性と出会い、婚約しました。ところが、結婚式の前日、彼女が友人たちとボートに乗っていますと、突然、防風が襲い、ボートは転覆し、彼女だけが命を落としました。連絡を受けたスクライヴンは、悲しみと失意のどん底に突き落とされました。

 しかし、その苦悩の中で彼は祈って全てをイエスに委ね、苦しみの中から立ち上がる経験をし、イエスの慈しみを身に沁みて味わいます。この辛い経験の後、彼はイエスに自分の全生涯を献げる歩みを始めました。

 25歳の時、アイルランドからカナダの東海岸にあるポートポープに移住しました。学校の教師をし、イエス・キリストを伝えるために献身的に働き、プリマス・ブレズレンという教派に属して隣人愛の実践にいそしみ、「ポートポープの良きサマリア人」とまで呼ばれるようになりました。こうして彼は婚約者の死を忘れ、悲しみを乗り越えようとしました。それでも15年かかりました。

 1860年、41歳の彼は23歳の女性にもう一度恋をしました。しかし悲しいことに、今回も婚約者を結核で失います。さすがに彼も落ち込んだでしょう。しかし、自分の人生の中に神の愛を見出した彼は、人生も神も呪うことをせず、イエスへの信仰をますます深めて行きました。この歌は、そういう体験の中から生れました。

 作詞の年は分っていませんが、1節は24歳以前、2節は25歳以降、3節は41歳以降と、彼の体験に基づき、夫々の時期に書かれたのではないかと言われています。1、2、3節と、魂の深まりが見られるからです。このように頭の中だけの観念的信仰ではなく、スクライヴンの辛い経験や葛藤、そして信仰の深まりの中で、イエス・キリストとの出会いと交わりを深め、一つ一つ詞が作られたことを思って歌いますと、一層深く心に響くと思います。

 元の英語の歌詞では、三つの節の夫々に「祈りにおいて」という言葉が2回出てきます。スクライヴン自身、悲しい時も辛い時もイエスに祈りつつ生き、これを作ったのでしょう。ですから、私たちも祈る気持でこれを歌いますと、疲れや不安、弱さ、孤独の中で打ちひしがれている時も、イエスが私たちをお分り下さり、かたわらで慰め、励まし、重荷を一緒に背負い、私たちの手を取って導いて下さる友であられることが、きっとよく分ると思います。

 父なる神また御子イエスを、幼子のように信じ、依り頼むことで、最高の出会いを許され、その幸いを是非ご一緒に体験できることを、心から願っています。

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