2022年07月21日「十戒の学び11 第二戒3」

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十戒の学び11 第二戒3

日付
説教
田村英典 牧師
聖書
出エジプト記 20章4節~6節

聖句のアイコン聖書の言葉

20:4 あなたは自分のために偶像を作ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、いかなる形をも造ってはならない。
20:5 それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主である私は、ねたみの神。私を憎む者には父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、
20:6 私を愛し、私の命令を守る者には、恵みを千代にまで及ぼすからである。出エジプト記 20章4節~6節

原稿のアイコンメッセージ

 今日も十戒を学びます。

 私たちは、どの戒めも、教会の長い歴史の中で信仰の先輩たちが考え、研究し、解説したことを土台にして学んでいます。今日は直接、それらを少し見てみます。

 英国で1643~48年に持たれたウェストミンスター神学者会議で作られた大教理問答はどうでしょうか。問108は言います。「第二戒で求められている義務は、次の通りである。すなわち、神が御言葉のうちに定められた全ての宗教的礼拝と規定を、純粋完全に受け入れ、守り、保つこと。特にキリストの御名による祈りと感謝。御言葉の朗読、説教、傾聴。礼典の執行と受領。教会政治と戒規。教職とその維持。宗教的断食。神の御名による誓約。神への誓願。全ての偽りの礼拝を非難、憎悪、反対すること。各自の地位と職責に応じて、偽りの礼拝と全ての偶像礼拝の記念物を除くことである。」

 長くて少々分りにくいですが、教えられる一つのことは、第二戒を、礼拝内容を中心としつつも、「教会政治と戒規。教職とその維持。宗教的断食。神の御名による誓約。神への請願」といった教会の重要な行為にも適用していることです。第二戒の精神を、神の臨在を覚えてなすべき厳粛な教会の様々な行為にも広く適用した先輩たちの、非常に真剣な礼拝的意識を教えられます。

 第二に、前回も申しましたが、正しい礼拝内容の確保だけでなく、礼拝者自身の姿勢や意識をも問います。ですから、「御言葉の朗読、説教」だけでなく、「傾聴」にも触れ、「礼典(洗礼と聖餐)の執行」だけでなく、「受領」にも言及します。それでこそ、礼拝が真(しん)に礼拝となり、神に受け入れられ、祝福されるからです。

 問109も見ます。「第二戒で禁じられている罪は、次の通りである。すなわち、神ご自身によって定められたのではないどんな宗教的礼拝でも、全て、案出したり、相談したり、命令したり、使用したり、とにかく承認すること。偽りの宗教を大目にみること。三位一体の全部についても、どの人格についても、内面的に心の中ででも、外面的にどんな被造物のどんな種類の像や似姿ででも、神の描写をすること。全てそれを礼拝したり、それにおいて、あるいはそれによって神を礼拝すること。どんなものでも偽りの神を表わすものを作り、全てそれを礼拝したり、それに属する奉仕をすること。自分自身で発明して採用したにしろ、他人からの伝承によって受け継いだにしろ、たとえ大昔からのものだという名目、習慣、敬虔、善意、その他どんな口実によるにせよ、神礼拝を腐敗させ、それに対して付加または削除する、全ての迷信的考案。僧職売買、聖物俗用。全て、神が定められた礼拝と規定への無視、軽蔑、妨害、反対である。」

 ここでも、正しい礼拝精神を、教会内の多くのことにも適用しようとする信仰の先輩たちの非常な熱心を思います。ここは、特に当時のローマ・カトリック教会内の問題を意識し、戦っています。

 絵や像による礼拝の不適切さについては、ウェストミンスター小教理問答の問51が分りやすいですので、読んでみます。「第二戒が禁じていることは、像による神礼拝、または神の御言葉に規定されていないあらゆる他の方法による神礼拝です。」

 ハイデルベルク信仰問答の問96、97も「どのような方法であれ神を形作ったり、この方が御言葉において命じられた以外の仕方で礼拝してはならならない…。神は決して模造されえないし、またされるべきでも」ないと述べます。また問98は「しかし、画像は、信徒のための書物として、教会で許されてもよいのではありませんか」という問に、「いいえ。私たちは神より賢くなろうとすべきではありません。この方は御自分の信徒を、物言わぬ偶像によってではなく、御言葉の生きた説教によって教えようとなさるのです」と見事に答えます。

 以前、私が勤めていました淀川キリスト教病院のブラウン記念チャペルに、主イエス・キリストの誕生から昇天までのご生涯を描く10枚のステンドグラスを2002年に入れた時、私は、チャプレンまた伝道部長として、イエスのお顔は描かないように、と主張しました。「しかし、それだと、のっぺらぼうのお化けみたいで、子供たちが怖がる」などの反対意見もありました。しかし、イエスの顔を書くと、それを拝む人が出るかも知れず、またそのイメージに人は捉われやすいため、私は譲らず、他の登場人物たちも全て、顔は輪郭だけにしました。イエスのお顔は各自の想像に委ねました。結果的には「良かった」との声を聞くことができました。

 子供のための教会学校では、イエスの顔や姿を、子供たちへの分りやすさから描くこともありますが、本当は分らないことを伝えた上で、すべきでしょう。

 とにかく、神がご自身を教える方法について、ハイデルベルク信仰問答の問98が「物言わぬ偶像によってではなく、御言葉の生きた説教によって」と見事に応えているこの重要な点を、改めてしっかり覚えたいと思います。

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