2022年07月10日「一粒の麦が死ぬ時」

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聖句のアイコン聖書の言葉

12:20 さて、祭りで礼拝のために上って来た人々の中に、ギリシア人が何人かいた。
12:21 この人たちは、ガリラヤのベツサイダ出身のピリポのところに来て、「お願いします。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだ。
12:22 ピリポは行ってアンデレに話し、アンデレとピリポは行って、イエスに話した。
12:23 するとイエスは彼らに答えられた。「人の子が栄光を受ける時が来ました。
12:24 まことに、まことに、あなた方に言います。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。
12:25 自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世で自分のいのちを憎む者は、それを保って永遠のいのちに至ります。
12:26 私に仕えるというのなら、その人は私について来なさい。私がいるところに、私に仕える人もいることになります。わたしに仕えるなら、父はその人を重んじて下さいます。ヨハネによる福音書 12章20節~26節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝は、私たちが常に覚えていたい大切な神の御心の一つを、ヨハネ12:24から学びます。

 イエスがこう言われたのは、20、21節が伝えますように、何名かのギリシア人が、イエスに会いたい、とピリポに頼んだからでした。「ギリシア人」とありますが、これはギリシア語を話す異邦人を広く指します。異邦人の中にもユダヤの宗教に心をひかれる者がいました。明確な一神教と高い倫理性にひかれたのでしょう。使徒8章や10章の伝えるエチオピア人の宦官やローマ軍の百人隊長コルネリウスのように、真(まこと)の神を畏れ敬う敬虔な異邦人は、結構沢山いました。

 とにかく数名のギリシア人が、過越祭のためにエルサレムに上って来たユダヤ人たちに混じっていました。イエスの噂を聞き、或いは、12~15節が伝えますが、群衆の歓声の中、ロバの子に乗ってエルサレムに入城されたイエスのお姿を見たかも知れません。

 彼らは21節、イエスの弟子ピリポに、イエスに会いたいと頼みました。ピリポという名がギリシア人の名前だったからか、それとも、彼がギリシア語をうまく話せたからかも知れません。 

 彼らは真剣でした。21節「お願いします」は、直訳しますと「主よ」です。謙遜でいて、とても真剣でした。

 ピリポは困惑したと思います。何しろ相手は異邦人だからです。でも、彼らをイエスに会わせて上げたい気もする。そこで22節、同じ弟子仲間のアンデレに話し、二人でイエスに伝えました。

 すると、イエスは言われました。23節「人の子が栄光を受ける時が来ました。」人の子とはイエスご自身を指します。では、「栄光を受ける」とは何でしょうか。これはあとに復活が伴うところの、じつはイエスご自身の十字架の死を意味します。イエスは元々全人類の救い主です。しかし、歴史の中でまずユダヤ人にご自分を表し、彼らの中からイエスを信じる者たちが大勢出ました。

 しかし今や、異邦人の中からも真剣に救いを求める人たちが現れる新しい時代が来ていました。ユダヤ人だけでなく、全世界に神の御子イエスによる罪と滅びからの救いが広がる時が到来しつつある。こういう時こそ、イエスが十字架で命を捧げ、全世界の罪の贖いの業(わざ)をされるのに最も適した時です。ですから、23節「人の子が栄光を受ける時が来」たと言われたのです。

 注目したいのは、イエスが何をご自分の栄光と考えておられたか、です。何と主は、私たち罪人のために命を捧げることを栄光と考えておられたのです。

 イエスは言われます。24節「まことに、まことに、あなた方に言います。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。」

 イエスは自然界の様子を例に上げ、ご自分の死の持つ意義を語られます。一粒の麦は、そのままなら何も変らず、一粒のままです。しかし、人が死んで埋葬されるように、一粒の麦が地に落ち、土に埋められたら、どうでしょうか。芽を出し、やがていっぱい実を結びます!「私の死はそれと同じなのだ」とイエスは言われるのです。ご自分が死ぬことで、人を罪と永遠の死から救う贖いが完成し、驚くほど多くの人に救いが拡がるのです。

 このことを、実は旧約聖書も預言していました。例えば、イザヤ53:10は来るべき救い主について、「彼が自分の命を代償の献げ物とするなら、末永く子孫を見ることができ」と述べていました。

 注目したいのは、私たち罪人が罪と永遠の滅びから救われるために、あの惨い十字架でご自分が死ぬことを、イエスは栄光と考えておられたことです。そこまでイエスは私たちを愛しておられるのです!

 ところで、このことは、イエスを信じる人の生き方にも関ることを、続いてイエスは語られます。それは、私たち人間の皆に生れながらにあります罪深い自我、すなわち、古い自分に死ぬことの大切さです。イエスは言われます。25節「自分の命を愛する者はそれを失い、この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至ります。」

 「自分の命を愛する」とは、自分のことだけを考える自己中心な生き方のことです。しかし、そのように生きる人は、却って「それを」、つまり、命を、魂を「失う」。ここの「失う」は「滅ぼす」という意味のギリシア語です。創り主なる神の前に、人として最も尊い、清くて豊かな人格に至らないばかりか、自分の魂を永遠に滅ぼすことになる、と主は言われるのです。

 ですから、私たちは25節「自分の命を憎む」者であれ、ということです。これは、自分の利益や安心や安全、自分の満足のみを追求する生き方を捨て、利己的な古い自分に死ぬことを意味します。マタイ16:24のイエスの御言葉、「自分を捨て、自分の十字架を負」う、というのと同じです。

 無論、このこと自体が、私たちを罪から救ったり他の人を救えるというのではありません。それどころか、私たちはイエス・キリストの十字架の贖いの力に、何一つ付け加えることはできません。私たちを罪と永遠の滅びから救えるのは、しみも傷も一切ない、全く清い神の永遠の御子イエスの十字架だけです。それで十分なのです。

 しかし、私たちがつい自己主張や自己PRに走りやすい古い自我に死ぬことは、私たちの中に、イエス・キリストが聖霊によって臨在され、救いの業を展開される場を差し出すことになり、ますます神の恵みと祝福の中に私たちは歩ませて頂けることになります。

 また、そうして私たちは、ヨハネ12:26で言われていますように、主イエスに一層よく仕え、役立つことができます。イエスに「仕える」ことが、ここで3度も言われていて、この点が強調されているのが分ります。そして26節「私がいる所に、私に仕える者もいることになります。私に仕えるなら、父はその人を重んじて下さ」る、とありますように、天の父なる神による更なる祝福が約束されています。

 一粒の麦として地に落ちて死ぬ!すなわち、古い自我に死ぬことは、いよいよ私たちに主イエスの救いの恵みの中で感謝に満ちた実を結ばせます。また教会の中でも、皆で主によく仕えることができ、教会をキリストの体として一層清く作り上げ、多くの人と一緒に神の救いの恵みに豊かに与れます。一粒の麦が死ぬ時、実際、何と多くの麗しい実を結ぶことを許されることでしょうか。

 聖書の示すこういう神の恵みの真理は、自然界にも似たことがあります。もう随分昔のことですが、医学関係の本に次のような興味深い話が出ていました。生命の研究をしている女性の書いたものです。

 彼女は以前、研究所の仲間から、鶏の足ができていくプロセスを追った2枚の写真を見せられました。1枚は大和芋のような塊で、もう1枚はその一部が欠けて4本の指ができかけている様子を写したものです。彼女は大体、次のように言います。「生き物の研究の中でも、最も面白くてしかも難しい課題の一つが、形作りだ。私たちの体を見ても、手足、顔のように表に出ている部分だけでなく、心臓などの臓器も特定の形をしている。ちょっと上を向いた愛嬌のある鼻、ツンとおすましの高い鼻と色々あるけれど、とにかく顔の真中にこんなものをどうやって突き出すのか。鶏の足の写真から見ると、どうもその作り方は彫刻のように行われるらしいと分る。まず大雑把な形を作っておいて、不要な部分を削り取ってゆくのだ。彫刻ならノミや小刀が形を作ってゆくが、生物の場合はどのようにして?ここでは削り取られる部分にあたる細胞が、自ら死んで行くことが分った。体が出来上がる過程の中で、必ず決まった時期にこの細胞死が起きる。そこでこのような死を“プログラムされた細胞死”と呼ぶ。オタマジャクシが蛙になる時、尻尾がどこかに消える。これがプログラムされた細胞死である。」

 文章はなお続きます。要約しますと、通常、私たちは死というものにマイナスのイメージを抱くと思います。しかし、今見てきました細胞死は、それとは違い、新しい誕生を生み出し、死に際も奇麗だといいます。壊死(ネクローシス)では細胞が溶解して内容物が流出し、炎症を起すのが常です。しかし、今見てきました死(アポトーシス)では細胞が縮み、食べられて周囲に迷惑をかけず、むしろ全体を美しく作り上げるのです。

 これは何と興味深いでしょう。我々個々人においても、イエス・キリストの霊的な体である教会においても、この逆説の真理は非常に大切だと思います。

 ガラテヤ5:15は「気をつけなさい。互いに、咬みつき合ったり、食い合ったりしているなら、互いの間で滅ぼされて」しまうと言います。自我に固執していると、本当にこうなります。

 しかし、私たちが自分の損得や名誉や面子、自分の知識や体験だけに基づくものの見方、自己主張などを神の前に捨て、すなわち、古い自我に死ぬならどうでしょうか。それ自体美しい上に、主の体なる教会の多くの兄弟姉妹たちの中に、清い麗しい霊的な実が結ぶことに、必ず役立たせられます。また教会外の方々にも、イエス・キリストの福音を、言い換えますと、人としての真に幸いな生き方を証しでき、いつか魂の永遠の救いに与って頂けるという尊い奉仕に用いて頂けます。何と感謝なことでしょう!

 イエスは言われます。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。」

 この真理を今朝、夫々が改めて深く心に刻み、是非これを覚えて歩みたいと思います。

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