2022年06月26日「ただ一つの救いの道」

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ただ一つの救いの道

日付
説教
小川 洋 牧師
聖書
使徒言行録 4章10節~12節

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4:10 皆さんも、またイスラエルのすべての民も、知っていただきたい。この人が治ってあなたがたの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけ、神が死者の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの名によることです。
4:11 『あなたがた家を建てる者たちに捨てられた石、それが要(かなめ)の石となった』というのは、この方のことです。
4:12 この方以外には、だれによっても救いはありません。天(てん)の下でこの御名(みな)のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。」
使徒言行録 4章10節~12節

原稿のアイコンメッセージ

 《 はじめに ~言葉の力~ 》

 かつて私が居た教会で、カウンセリングのビデオ教材での学び会をした。カウンセラーの講師は改革派教会のある牧師であった。ビデオの中で、講師の先生は、幼少期から腎臓が悪く、ご自分の小学校のときの体験を話された。走ると体に障るので、歩くことを医者から命じられ、忠実に守られた。そんな自分を友達は、また学校の教師も、“のろま”という何気ない言葉で呼んだ。自分でも“自分はのろま”と心に刻んでしまった。そうすると、不思議なことに、無意識のうちにあえて“のろま”な自分を演じてしまうようになったという。周りが期待している“のろま”、そして自分でも“のろま”でなければならない、という規定を作ってしまい、さらに遅刻が多くなった。

 そういう心の呪縛から解かれたのは、後に高校時代にキリスト信仰を知り、教会に通うようになってからであった。教会である奉仕を手伝ったとき、牧師夫人から“あなた、何でも早くて助かるわ”という言葉を掛けられたことだったと、証しされた。

 この講師の体験から教えられることは、言葉によって心が縛られ、身動きが出来なくなることがあり、暗示にかかってしまうと精神をも病んでしまうということ、しかし反対に、健全で人を建て上げる言葉によって、人格が支えられることもあり得る、ということである。

《 本論 Ⅰ. 》

 キリスト信仰は、言葉を大切にする。聖書の御言葉が、本来の神の言葉として、そのまま伝わると、人間に変革が起こり、社会さえも変える力がある。しかし、それを伝えたいと思って伝道するが、神の御言葉が起こす大きな力を、削ごうとしたり、御言葉の力を弱めようとすることが、この世には起こり得る。

 

 それは初代教会に起こったことから証明できる。ペテロとヨハネの言葉―本日の聖書箇所、使徒4章11~12節にある―を聞いて、ユダヤ教の議会が行なったのは、どういうことだったか。それを4章16~18節がこう伝える。「『あの者たちをどうしようか。あの者たちによって著しいしるしが行われたことは、エルサレムのすべての住民に知れ渡っていて、われわれはそれを否定しようもない。 しかし、これ以上民の間に広まらないように、今後だれにもこの名によって語ってはならない、と彼らを脅(おど)しておこう。』 そこで、彼らは二人を呼んで、イエスの名によって語ることも教えることも、いっさいしてはならないと命じた」。

 約470年前に、宣教師フランシスコ・ザビエルによって日本にもたされたキリスト信仰は、その後、神の言葉の影響力が国政の邪魔になり、鎖国して、江戸幕府が神の言葉の伝播を遮断してしまった。幕府をおびやかす新しい思想を断つという観念操作が行われたのだ。明治になってプロテスタント信仰が入るが、明治政府は近代化を西洋に倣いながら、キリスト信仰が、国家の統制に反する力となることを厭(いと)い、斥(しりぞ)けようとした。聖書にあるユダヤ教議会が、初代のキリスト教会を抑え込もうとした動きと同じである。

 

 その上、当時のキリスト教会も、明治政府に迎合するかのように、信仰教理の要約である信条を外した。明治のキリスト教会が、自らの信仰告白になっておらず、教理基準を使いこなせなかった、ということもあろうが、政治や社会の実情に合わせようとする考えが働いたのだ。そのため、教会は「何を教えるか」よりも、「いかに納得させるか」に重点が移ってしまった。

 その結果、どういうことが起こったか。キリスト教会の力が削がれてしまったのである。

 例えば、「神の国」という言葉がある。その言葉が当然持っている爆発的な大きな力は和らげられ、国家と摩擦を起こす言葉は、ほとんど無意味なものにされた。「神の国は近づいた」と聖書を読んで告げられても、悔い改めを生む力を持たない言葉に弱められたのである。

 「福音」を信じ貫けば、学校でいじめられるかも知れない、会社や親戚の人間関係が崩れるかも知れない…。そう配慮し、教会は黙ってしまうのだ。昔、「福音」をそのまま告げると、国家の方針に抵触すると脅されて、「福音」の内容をわざと落として伝えたような構造が、今も教会にはないだろうか。

 そういう教会観を、わずか160年くらいの間に日本のキリスト教会が形作ったのではないか。教会は、それなりの真摯さを持って、世間の力と摩擦を起こさないような内部構造を作ったと言える。それは、長所であると錯覚するほど巧妙であるが、社会的地位と立場が動かされないような、安全な仕組みを作ったと言えないだろうか。

《 本論 Ⅱ. 》

 福音の言葉の力が失われた。「悔い改め」という信仰の言葉は、人間が変革させられる力のある言葉である。「悔い改め」が起こり、聖書を理解できるようになり、語ることができるようになるはずである。しかし、「悔い改め」は、自分を押さえつける足かせのような言葉にすり替えられてしまったのではないだろうか。

 本当に聖書の神に出会ったら、私たちは変えられるはずである。使徒4章13節は言う。「彼らはペテロとヨハネの大胆さを見、また二人が無学な普通の人であるのを知って驚いた」と。それに比べて、私たちは、知らず知らずに、キリスト信仰を守っているつもりで、摩擦や差し障りを避け、信仰の言葉の力を弱めているのではないか。そして、さらに、信仰から堕ちて行く歯止めを、自分でも気付かないうちに外してしまってはいないだろうか。

 今日の聖書の12節の言葉を読む。「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間にあたえられていないからです」。

 

 この言葉は、「私たちを救い得るお方は、この世界でただお一人、イエス・キリストだけだ」と言う。キリスト教会は、キリストを救い主と信じる。もし、“天皇こそが神に勝(まさ)るお方、国王こそが救い主”、あるいは、“仏教でもイスラム教でも救われる”などと平気で言うなら、キリスト教会である必要はない。この言葉は、「世界中で、主イエス・キリストだけが唯一の救い主である」と言い切る。「誰でも、この主イエスの御名による以外に救われることはない。」そう確信しているからこそ、キリスト教会は困難があっても、世界に向けて伝道するのである。

 もちろん、不作法に他宗教を斥け、非難して良いのではない。謙遜に、しかし確信を持って「主イエス・キリストの御名による以外に救いはない」と言うのだ。これは、譲れないことである。

 伝道も同じである。イエスとは誰か、主イエスの御名による救いは何か、それを証し続けることなのである。イエスとはどういうお方か。それは10節にある通り、「あなた方が十字架につけ、神が死者の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリスト」なのである。この「あなた方」の中には、私たちも含まれており、全世界の総ての人間に責任があるということである。

《 本論 Ⅲ. 》

 主イエスが十字架につけられるとき、ペテロも含めた弟子たち全員が逃げてしまった。ペテロはかつて、「あなたとご一緒なら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております」(ルカ22:33)と言ったが、為政者による裁判の庭で、「わたしはその人を知らない」(ルカ22:57)と言って逃げた。ペテロは、のちに十字架を思うときには、そんな自分を恥ずかしく思い出したに違いない。弟子たちは皆、主を見捨て逃げてしまったが、神はそのイエスを甦らせ、救い主としての名を冠せられた。そこで、4章11節は言う。「『あなたがた家を建てる者たちに捨てられた石、それが要の石となった』というのは、この方のことです」。

 ここは、旧約聖書、詩篇118篇22節の引用の言葉である。「家を建てる者」とある。すなわち、神の民イスラエルの民の指導者たちが、家を建てる大工にたとえられている。そのイスラエルの指導者たちが、イエスという者は神の民の役には立たない、と捨ててしまったのだ。しかし、そのお方イエスが基(もとい)となって、教会が新しい民として建てられた。新しい救いの御業が始まったのである。知恵ある人間たちの捨てた名が、唯一無比の名として建ったのだ。それが、キリスト教会が語る真理なのである。これを、教会はいつでも大胆に語り伝えなければならない。

《 まとめ 》

 「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、わたしたちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。」(4:12)

 教会がこのことを毅然として語るとき、私たちは神のものとして生かされる、ということを意味する。“生きる”という動きを生み出す、力ある言葉が、神の言葉である。教会は、譲れない真理を、これまでもこれからも継続する真理を持っているのである。

 だが、今の時代の為政者の誰が、キリスト信仰の力に恐れ(また畏れ)を抱いているか。教会は骨抜きにされたままではないか。しかし、聖書の言葉の栄光は、決して失われない。この方以外の誰によっても、救いは得られない!イエス・キリストによってのみ救われる!この言葉を聞いたなら、そして受け入れるなら、私たちは変えられ得る。知らないうちに骨抜きにされようとしている私たちを、主は“目を覚ませ”と励ましてくださっているのである。

 最後に4章17節~20節を読む。「『17節 しかし、これ以上民の間に広まらないように、今後だれもこの名によって語ってはならない、と彼らを脅(おど)しておこう。』18節 そこで、彼らは二人を呼んで、イエスの名によって語ることも教えることも、いっさいしてはならないと命じた。19節 しかし、ペテロとヨハネは彼らに答えた。『神に聞き従うよりも、あなたがたに聞き従うほうが、神の御前に正しいかどうか、判断してください。20節 私たちは、自分たちが見たことや聞いたことを話さないわけにはいきません』」。

 《 お祈り 》

 主イエス・キリストの父なる御神よ。神の言葉が神の言葉として語り聞かれますように。神の教会が神の教会として在り続けることが出来ますように。生ぬるい信仰、冷たい信仰から、本当に力あり輝く信仰へと変えるべく、今日、私たちに、御言葉をもって迫り、心を揺さぶり、目覚めさせてくださり感謝いたします。神の福音が、全世界に伝えられ、神の国が必ず来ますように。あなたに栄光が世々限りなくありますように。主イエス・キリストの尊い御名によってお祈りいたします。アーメン

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