2022年06月19日「イエスの憐れみ」

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9:35 それからイエスは全ての町や村を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆる患いを癒された。
9:36 また、群衆を見て深く憐れまれた。彼らが飼い主のいない羊の群れのように、弱り果てて倒れていたからである。
9:37 そこでイエスは弟子たちに言われた。『収穫は多いが、働き手が少ない。
9:38 ですから、収穫の主に、ご自分の収穫の為に働き手を送って下さるように祈りなさい。マタイによる福音書 9章35節~38節

原稿のアイコンメッセージ

 マタイ9:35は、イエスのガリラヤ伝道の初期の様子を伝える4:23とよく似ています。ガリラヤ伝道の最後の記述は15:20ですが、そのほぼ真中に当る今朝の個所には、イエスの伝道の性格がよく表れていると思います。

 イエスの伝道の中心にあるものは、あとで見ますが、「人への憐れみ」です。しかしその前に、イエスの伝道方法を見てみたいと思います。三つの点に注目します。

 第一は教育です。35節「イエスは全ての町や村を巡って、会堂で教え」られました。イエスは、神とその御心などについての教育を重んじられました。いきなり「信じなさい」と訴え、決断を迫るのではなく、イエスは人間の知性を重んじ、人間が知るべきことを教育されました。これは大変大事な点だと思います。

 聖書、神、人間と罪、キリストと救い、聖霊、教会、クリスチャンの生活など、基本知識が希薄で曖昧なため、残念ですが、クリスチャンになってもずっと信仰が不安定な人たちがいます。一方、欠けや失敗はありますが、キリスト教の基本をしっかり学んだために、大きくぶれもせず、イエスに固く繋がり、福音に喜んで生きている人もいます。教育が大切です。イエスは教育的伝道を重んじられました。これが第一点です。

 第二は、35節「福音を宣べ伝え」ることです。人がキリスト信仰だけで神の恵みによる永遠の救いに与るという福音を告知し、それに与るように促すことと言えるでしょう。

 人は、神、人間、救いなどの知識はあっても、自分の罪深さを心底自覚して神に平伏して、救いの約束や導きに自分を自然と委ねられるわけではありません。イエス・キリストによる罪の赦しと永遠の命の約束、神の恵みの支配や導きに、心底自分を明け渡すことを、促される必要があります。マルコ1:14、15によりますと、イエスはガリラヤへ行き、「神の福音を宣べ伝えて言われた。『時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』」と人々に迫られました。イエスは、「福音」、良い知らせを告げ、人々の知性と共に感情と意志にも働きかけ、「御国」、すなわち、神の恵みの支配を受け入れるように、促して伝道されました。

 第三は癒しです。イエスは35節「あらゆる病気、あらゆる患いを癒され」ました。「病気」(元のギリシア語では、病名のはっきりしたもののようです)や「患い」(ギリシア語では、病名がはっきりしないもののようです)は、人類が神に背き、堕落したために入り込みましたが、体に苦痛を与え、心も萎えさせます。しかし、イエスは神の御力により、人を苦しめるあらゆる病を癒し、苦痛から人を解放されました。それにより、人は創り主なる真(まこと)の神に立ち返り、人の生きる真(しん)の目的、すなわち、神と親しく交わり、神を喜び、また人間が互いに愛し合い、補い合い、支え合って生きるという、真(しん)に幸いな者とされるためです。

 私たちには、イエスのような癒しの奇跡はできません。しかし、病気や障碍で苦しむ方々に、愛をもって寄り添い、その結果、人が救われ、そうして主イエスの働きに加えて頂くのです。

 以上、イエスの伝道の三つの面を見ました。私たちの伝道にも是非生かしたいと思います。

 ちなみに、歴史を振り返りますと、宣教師たちは正に、教育(言葉を教え、学校を建てる)・宣教(福音を伝え、教会を建てる)・医療(病を癒し、医学を教え、病院を建てる)の三つにより、最終的には人々の魂の救いのために働いて来たことが分ります。

 では、イエスの伝道の中心的性格・動機は何でしょうか。人間への憐れみです。第二にこれを学びます。主は36節「群衆を見て深く憐れまれた。彼らが飼い主のいない羊の群れのように、弱り果てて倒れていたからである。」

 人々をこのように描くことは、旧約聖書にしばしば見られました。エゼキエル書34:5「彼らは牧者がいないので散らされ、あらゆる野の獣の餌食となった。こうして彼らは散らされた」、ゼカリヤ書10:2「人々は羊のようにさ迷い、羊飼いがいないので苦しむ。」

 昔、イスラエルの宗教指導者の多くが堕落し、人々の魂は飢え渇き、悲惨な状態にあることがしばしばありました。これは御子イエスが人となって世に来られた時にもありました。ユダヤの宗教の専門家たちには、煩瑣な宗教規程を沢山作って一般の人々に要求し、しかし、自分は人から注目されることに熱心な人たちが結構いました。マタイ23章には、偽善に満ちた彼らへのイエスの非常に強い非難の言葉が見られます。例えば、23:4「彼らは、重くて負いきれない荷を束ねて人々の肩に載せるが、それを動かすのに自分は指一本貸そうとも」しない、などです。

 無論、一般の人々にも問題がなかったのではありません。人には皆、生れながらに罪の性質があります。幼子も嘘をつき、暴力を振るい、人の物を取って自分のものにしようとするなど、自己中心性があります。イエスは人間の罪深さをよくご存じです。

 しかし、人々が魂の教育も養いも受けず、魂の飢餓状態のまま放置され、自分でどうすれば良いのか分らず、さ迷い、打ちひしがれている様子を、イエスは深く憐れまれたのでした。そして、これこそがイエスの伝道の根本的動機だったのです。

 主イエスは全くきよい神の御子です。ですから、人間のあまりの利己主義や偽善や傲慢を、どんなにお嫌いでしょう。それなのにイエスは、そのままでは滅んでしまう人々の魂を36節「深く憐れまれた。」この「深く憐れむ」と訳されているギリシア語は「はらわたを揺さ振られる」というのが元々の意味だそうです。誰かを見て、「あぁ、気の毒」とちょっと同情する程度ではありません。人の苦しみ、痛み、悲しみ、不安を知って、自分が揺さ振られる位、相手と近くなる心の状態(深い共感!)です。イエスはそれ程私たちを思っておられる!ご自分の内臓が痛む位、主は私たち罪人を憐れんでおられる!何という主の愛でしょうか。

 実際、主は地上の生涯で、何度人々のために涙を流されたでしょうか。私たちは不信仰な罪人ですが、それでもイエスは、私たちが何に苦しみ、何に耐え忍んでいるかを、よくご存じなのです。これがイエスの憐れみです。ですから、かつてナチスに抵抗し、39歳で殉教した牧師ボンヘッファーは言いました。「人が何をするか何をしないかということよりも、何を耐え忍んでいるかという点に目を向けることを、我々は学ばねばならない。」

 これが私たちの主イエス・キリストの伝道の動機です。今も主の憐れみがあらゆる人に向けられていることを、常に忘れないでいたいと思います。

 第三に、この伝道のためにイエスが私たちに望んでおられることを見て、終ります。

 37節「そこでイエスは弟子たちに言われた。『収穫は多いが、働き手が少ない。ですから、収穫の主に、ご自分の収穫の為に働き手を送って下さるように祈りなさい。』」

 「収穫」とは、救われる人のことです。「収穫の主」とは、天の父なる神を指します。

 ここでイエスは「収穫は多い」と言って、伝道の大きな幻をお与えになります。イエスはまずユダヤ人伝道から始められましたが、十字架の死からの復活後、弟子たちにこう言われた。マタイ28:18、19「私は天においても地においても、全ての権威が与えられています。ですから、あなた方は行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。」イエスの望まれる伝道は、世界大のものです。「収穫は多い。」

 しかし、これはまた弟子たちが本気になって伝道すれば、「収穫は多い」ということでもあるでしょう。本当は魂の飢え渇いている人たちの多いことを、イエスはよくご存じです。ですから、のちにイエスはパウロにこう言われました。使徒18:9、10「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。私があなたと共にいる…。…この町には、私の民が沢山いるのだから」と。

 ところが、ここで問題があります。働き手が少ないことです。ですから、イエスは38節「収穫の主に、ご自分の収穫のために働き手を送って下さるように祈りなさい」と言われます。働き手が少ない!多くの魂が実は、36節「羊飼いのいない羊の群れのように、弱り果てて倒れ」ている!本人は気付いていなくても、人間をよくご存じのイエスからご覧になれば、そうなのです。

 ですから、神が働き手をもっともっと送って下さるように、私たちは祈らなければなりません。自分で自分を推薦する人ではなく、神から召しを受けた献身者が、そういう神学校への入学者が、もっと与えられるように真剣に祈りたいと思います。40代、50代、60代の人でもかまいません。

 いいえ、全てのクリスチャンが「働き手」であることをイエスは願っておられます。必要な時には、いつでも福音を教え、信仰を促し、愛をもって人に寄り添うことで、イエスの伝道、イエスの憐れみのお働きに与る!主は今も私たち皆にそう期待しておられます!

 主イエスに仕えるようにして、インドのコルカタで貧しい人や病気の人に一生懸命仕えたマザー・テレサの「主よ、私をお用い下さい」という祈りを読んで終ります。

 「主よ、今日一日、貧しい人や病んでいる人を助けるために、私の手をお望みでしたら、今日、私のこの手をお使い下さい。

  主よ、今日一日、友を欲しがる人々を訪れるために、私の足をお望みでしたら、今日、私のこの足をお貸しいたします。

  主よ、今日一日、優しい言葉に飢えている人々と語り合うため、私の声をお望みでしたら、今日、私のこの声をお使い下さい。

  主よ、今日一日、人は人であるという理由だけで、どんな人でも愛するために、私の心をお望みでしたら、今日、私の心をお貸し致します。」

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