2022年06月02日「十戒の学び 4 第一戒1」

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十戒の学び 4 第一戒1

日付
説教
田村英典 牧師
聖書
出エジプト記 20章3節

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20:3 あなたには、私以外に、他の神があってはならない出エジプト記 20章3節

原稿のアイコンメッセージ

 ここ暫く、私たち人間が生きていく上で大変重要な規範として神が与えられた十戒を学んでいます。

 十戒は、歴史的に言えば、3千数百年前に神が古代イスラエル民族に与えられたものですが、同時に、全人類に与えられた非常に大切な道徳基準でもあります。

 今の世を見て、特に近年、道徳感や倫理感の欠如した人が増えていると感じる人は、少なくないと思います。しかし、Ⅰコリント14:33の言うように、決して「神は混乱(無秩序)の神では」ありません。

 神が私たちのために下さった戒めを無視し、好き勝手に生きても、当座は特に変ったことは起きないかも知れません。でも、毎日の食事の質や量を考えず、また不規則な生活を続けていると、徐々に健康が損なわれ、いつしか大変な体になっていることがあります。それと同じように、神が下さった戒めを無視し、気ままに生きていますと、罪と不信仰は、私たちの知らない間に確実に私たちの心と魂を蝕みます。

 また私たちは死後、自分の一生の思いと言葉と行いに応じて神の裁きを受けます。ヘブル9:27は言います。「人間には、一度死ぬことと死後に裁きを受けることが定まっている…。」Ⅱコリント5:10も言います。「私たちは皆、善であれ悪であれ、夫々肉体においてした行いに応じて報いを受けるために、キリストの裁きの座に現れなければならないのです。」

 無論、私たちには主イエスがいて下さいますから、感謝なことに、救いの希望があります。とはいえ、十戒を私たちが常に重んじ、これに生きようとする姿勢のあるかないかで、私たちの人生にも人間性にも、更に言って人格にも大きな違いが生じます。十戒に生きることは、どんな時代、どんな状況にあっても、とても重要で尊いのです。

 さて、今まで、第一に十戒の目的・役割について、第二に十戒の心、つまり大切な愛について、第三に十戒の序文について、見て来ました。今日は、第一戒、「あなたには、私以外に、他の神があってはならない」(出エジプト20:3)に進みます。

 これはどういう教えで、どんな点に注意すべきでしょうか。ハイデルベルク信仰問答やウェストミンスター大教理問答、ウェストミンスター小教理問答などを読みますと、宗教改革時代の改革者たちが、こういうことについて実によく解説してくれていることが分ります。彼らは、神の前にどう生きるかという点で、自分自身にも、また教会員への教育という点でも実に真剣でした。しかし、今日は時間がありませんので、一つの点だけ、つまり、神の戒めである十戒に従うことは、何ら特別なことではないという点をお話致します。

 神が、それも人間が造った神ではなく、人間をも含めて天地万物を創り、今も一切を摂理しておられる真(まこと)の神がおられるのなら、私たちがその神を信じ、神を思い、神の戒めに従って生きることは、当然であり、何ら特別なことではない、ということです。

 私は10代の終りには、まだクリスチャンでなく、神を信じるかどうかで迷っていました。しかしある時、友人に、「もし神が本当に存在するなら、神を信じる、いや信じない、などと言うのはナンセンスだ」と言われ、ハッとしました。確かにそうです。もし神がおられないなら、神を信じて従うか従わないかなどは、元より馬鹿げています。全く無意味です。

 しかし、もし天地を造られた真の神がおられるなら、その神を信じ神に従うことは、至極当然のことで、何ら特別なことではありません。子供が、自分の親を親と信じ従いながら、大切なことを色々教わり、身に着け、育っていくのが当然なのと同じです。

 しかし当然といえ、もし私たちが義務感だけでイヤイヤ神を信じ、イヤイヤ神に従うのなら、それは不幸です。

 確かに神は「あなたには、私以外に、他の神があってはならない」と命じておられます。しかし私たちの知るように、神は、神から離れて不信仰で罪深い私たちをなお愛し、こんな私たちのあらゆる自己中心の罪と不信仰を赦し、洗い清め、永遠の死から救い、永遠の命の祝福に入れるために、ご自分の独り子イエスを世に遣わされました。しかも、その独り子イエスを、私たちの罪の償いのためにあの残酷な十字架に付けられました。十戒は、そんなにまでして私たちを愛して下さっている、そういう神の戒めなのです。従って、第一戒「あなたには、私以外に、他の神があってはならない」も、実はこれに生きようとする信仰者にとって、最終的には益となり祝福となるもの以外の何ものでもありません。

 では、その益とか祝福に、どういうものがあるでしょうか。それは真(まこと)の神を、神としないことと比較してみると、よく分ります。しかし残念ですが、今日はもう時間が来てしまいましたので、この続きは次回学ぶこと致します。

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