2020年05月10日「心の清い者は幸いです」

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心の清い者は幸いです

日付
説教
田村英典 牧師
聖書
マタイによる福音書 5章1節~10節

聖句のアイコン聖書の言葉

5:1 その群衆を見て、イエスは山に登られた。そして腰を下ろされると、みもとに弟子たちが来た。
5:2 そこでイエスは口を開き、彼らに教え始められた。
5:3 「心の貧しい者は幸いです。
    天の御国はその人たちのものだからです。
5:4  悲しむ者は幸いです。
    その人たちは慰められるからです。
5:5  柔和な者は幸いです。
    その人たちは地を受け継ぐからです。
5:6  義に飢え渇く者は幸いです。
    その人たちは満ち足りるからです。
5:7  あわれみ深い者たちは幸いです。
    その人たちはあわれみを受けるからです。
5:8  心のきよい者は幸いです。
    その人たちは神を見るからです。
5:9  平和をつくる者は幸いです。
    その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。
5:10  義のために迫害されている者は幸いです。
    天の御国はその人たちのものだからです。」
   
マタイによる福音書 5章1節~10節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝は、神の御子イエスの語られた幸福の教えの6番目に進みます。8節「心の清い者は幸いです。その人たちは神を見るからです。」

  (注.新改訳聖書の第三版と2017年度版では「きよい」と訳されているが、ここでは「清い」と記す)

 3~10節で、主イエスは真(まこと)のクリスチャンの特徴を8つの角度から描かれ、その6つ目が「心の清い」ことです。これはどういう意味でしょうか。

 私は10代の終り頃、生きる意味や目的を求め、20歳の時、初めて教会へ一人で行きました。でも、極力深入りすまいと決めていました。所が、私は教会の中に、世間とは違う何か真実で清いものを感じ、心が洗われる気がしました。私自身を含め人間が罪深いこと、また聖書の行う人間と社会の分析や洞察についても納得でき、「これならクリスチャンになってもいいや」と割合早い時期に思ったものです。

 しかし、最後まで残る問題がありました。神存在についてです。無論、それを全面的に否定することなど出来ません。科学は科学を超えたことについて何も言えないからです。しかし、全面的に信じることも出来ません。その頃、私は「神を見ることが出来たら、いいなぁ」とよく思ったものです。そう思う人は結構多いと思います。こんな私たちにイエスは言われます。「心の清い者は幸いです。その人たちは神を見る…。」そうです。神を見ることが出来るのです。

 但し、一つ条件があります。「心の清い」ことです。これを聞くと、私たちはどうでしょうか。「それなら自分は駄目だなぁ。だって、心が清くないもの。」この世の表も裏も知り、それを、かい潜ってきた大人の社会人なら、本気で自分を心の清い人間と思う人は、まずいないでしょう。

 しかし、心がすごく清い人しか神を見られないなら、私たちは皆駄目ですね。そんな人はこの世に一人もいないからです。Ⅰヨハネ1:8も「もし自分には罪がないと言うなら、私たちは自分自身を欺いており、私たちの内に真理はありません」と言いますし、使徒パウロでさえ、ローマ7:15、24でこう叫びます。「私には、自分のしていることが分かりません。自分がしたいと願うことはせずに、むしろ自分が憎んでいることを行っているからです。…私は本当に惨めな人間です。」

 人格の座である心の清いことの尊さを主がお教え下さることは、本当に感謝なことです。しかし、自分の心が清くないことを知っている私たちは、どう考えれば良いのでしょうか。

 そこで、ここの「清い」という言葉の意味を確かめたいと思います。多くの英語聖書は、pure(ピュア、純粋)と訳しています。これと同じギリシア語が、黙示録21:18では「透き通った」「混じりけのない」と訳されています。従って、特に神に向う心が、より純粋で混じり気がなく、透き通っていることと言えます。実際には欠けや失敗が多く、絶えず「神様、お赦し下さい」と言っては赦しを請う。でも、神のことになると、極力、神と自分の間にアレコレの介在物を置かず、純粋に心が神に向っていることです。

 また、イエス・キリストを信じて罪を赦され、いつか天国に入れるというだけでなく、「この世でもっと神を知り、神にもっと喜ばれる者になりたい」と願い、心が神に向いている!物事が順調でも決して高ぶらず、神に感謝し、逆境の時には、何故こんなことが起るのを神は許されるのかと、一層へりくだって考え、答を待つ!いわば、心のアンテナがしっかり神に向けられている。これが心の清いことです。すると、イエスは言われます。8節「その人たちは神を見る…。」そうです。神を見るのです!見えるのです!

 無論、神は人間のように体を必要としない霊であられます。つまり、純粋な人格そのものです。ですから、肉眼ではなく、心で神を見るのです。

 面白いことに、人間は自分の関心のあるものは見え、関心のないものは見えません。ファッションに興味のある人は、どんなに混雑した所でも、自分の好みの服をすぐ見出します。

 私は中学生の時、大のオートバイ好きでした。警察官だった父の古いオートバイを内緒で乗り、部品を分解したこともあります。中学2年の時、当時としては素晴らしい排気量250CCのオートバイが出ました。その名前を、私は58年経った今も忘れません。ホンダ・ドリーム・スーパースポーツCB72・250!その銀色の美しい形!私は夢中になり、町で見つけてはスケッチし、頭に叩き込みました。そこまで好きですと、そのバイクのほんの一部が見えただけで、いいえ、エンジン音を聞くだけで、「あれだ!」と分ります。

 植物を愛する植物学者は、何でもない道端にも貴重な植物を見出します。子供を心から愛している母親は、騒がしい駅の構内でも、自分の子供の泣き声を発見します。人は自分が愛し、自分の関心のあるものなら、本当に見えるのです。心の卑しい人は、どんな所からでもすぐ下品で不潔なものを見つけ、美しいものは見えません。

 第二次世界大戦の折、ポーランドのアウシュビッツ強制収容所では、数百万人もの大量殺戮がナチスの手で行われ、そこはさながら地獄で、人間の尊厳性を示す一切のものが停止していたと言われます。

 では、アウシュビッツは地獄だったのでしょうか。ドイツの神学者ルドルフ・ボーレンが著書の中でこんなことを伝えています。戦後、ヨーロッパでいち早くある会議が持たれた時のことです。「そうだ。アウシュビッツは地獄だった!あそこに神はいなかった!」と発言する人々が続きました。けれども、最後に、あるユダヤ系オランダ人牧師は力を込めてこう言ったそうです。「私はアウシュビッツにいました。あそこで、神は死んではおられませんでした。讃美歌を歌いながらガス室に赴いた人々のために生きておられました。神は、信仰をもって死を超えて生きる人々のために、生きていて下さったのです!」

 他の人には絶対に見えないものの中にも、実際、ある人には神を見ることが出来るのです。主は言われます。8節「心の清い者は幸いです。その人たちは神を見る…」と。

 悪性リンパ腫のため、かつて私がチャプレン(病院牧師)をしていました淀川キリスト教病院のホスピスで天に召された49歳のクリスチャン女性Gさんは、検査結果を待つ間が精神的に一番辛く、結果がはっきりしてからは、却ってすっきりした、とおっしゃっていました。それはともかく、「私は不真面目なクリスチャンです」と笑いながらおっしゃる彼女は、とても素直な信仰を持った方でした。訪問しますと、彼女は窓の方を指さし、「今日は、あの可愛いお花をお見舞いに頂きました。感謝です」、「今日は、以前の教会の牧師夫人が和歌山からわざわざ来て下さいました」、「今日は……」などと、毎日必ず神への感謝の報告を私にして下さいました。死を前にしても、彼女は信仰により、小さな一つ一つのことにも、正(まさ)に神を、神の愛を見ておられました。「心の清い者は幸いです。その人たちは神を見る…。」

 無論、心の清い者もいつか世を去ります。しかし、その時こそ、イエスの言われたことが最も完全な意味でその人に実現します!Ⅰコリント13:12は言います。「今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合せて見ることになります。」黙示録22:4は、その時、信仰者は神の「御顔を仰ぎ見る」と言います。栄光に輝く神の御顔を、それも永遠に仰ぎ見ることを、心の清い者は許されるのです。イエスは言われます。「心の清い者は幸いです。その人たちは神を見る…。」

 私は、人間の幸せの一つは、何を見るかにかかっていると思います。立派な家、地位、財産、名声を得、人一倍健康であっても、自分の周囲に美しいものでも安らぎでも愛でもなく、自分の心の濁りが生み出した人間の欲と醜さからなる地獄を見る人がいます。

 他方、貧しくて何もないのですが、全てのことにイエス・キリストによって感謝し、辛さの中にも、なお、神の微笑みを見ることの出来る人もいます。

 私たちは皆、いつか、この世を去らなければなりません。その時、私たちは自分の心、自分の人間性のもたらす結果を見ることになります。人生最後のその時、私たちは何を見るのでしょうか。特に、死の彼方に何を見るのでしょうか。自分自身の不信仰と心の濁りの故に、永遠の滅び、永遠の絶望を見るのでしょうか。

 それとも、私たちのような信仰が薄く、罪深く、弱くて情けない者であっても、なお神を慕い、神をひたすら思うその心を主が喜ばれ、それ故、死の彼方に、諸手を挙げて私たちを受け留め、抱きしめて下さる、限りなく愛に満ちた神を見るのか。どちらでしょうか。どちらでありたいでしょうか。イエスは言われます。「心の清い者は幸いです。その人たちは神を見る…」と。

 主は、私たちを、今現在も、また遅かれ早かれ迎える死の彼方にあっても、この幸いに与らせるために、聖書を、またご自分の体である教会を与え、ご自分を信じ、依り頼む者の心を聖霊によってますます清めようとしておられます。主は、こうして私たちを、この世が与えることも奪うことも出来ない最高の幸いへと招いておられます。この招きに、「主よ、今日、私は改めてあなたに従います。私の心には不純で濁った不要なものが、いっぱいあります。ですから、主よ、私の心を更に清くして下さい」と祈り、神に私たちの心を明け渡したいと思います。主は言われます。「心の清い者は幸いです。その人たちは神を見るからです。」

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