2022年03月24日「人生の一旦停止」

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人生の一旦停止

日付
説教
田村英典 牧師
聖書
使徒言行録 9章1節~9節

聖句のアイコン聖書の言葉

9:1 さて、サウロはなおも主の弟子たちを脅かして殺害しようと息巻き、大祭司のところに行って、
9:2 ダマスコの諸会堂宛の手紙を求めた。それは、この道の者であれば男でも女でも見つけ出し、縛り上げてエルサレムに引いて来るためであった。
9:3 ところが、サウロが道を進んでダマスコの近くまで来たとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。
9:4 彼は地に倒れて、自分に語りかける声を聞いた。「サウロ、サウロ、何故私を迫害するのか。」
9:5 彼が「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがあった。「私は、あなたが迫害しているイエスである。
9:6 立ち上がって、町に入りなさい。そうすれば、あなたがしなければならないことが告げられる。」
9:7 同行していた人たちは、声は聞こえても誰も見えないので、ものも言えずに立っていた。
9:8 サウロは地面から立ち上がった。しかし、目を開けていたものの、何も見えなかった。それで人々は彼の手を引いて、ダマスコに連れて行った。
9:9 彼は三日間、目が見えず、食べることも飲むこともしなかった。」使徒言行録 9章1節~9節

原稿のアイコンメッセージ

 自動車を運転していて、一旦停止の所が余りにも多いですと、正直な所、面倒に思います。とはいえ、一旦停止はとても大切です。私たちの主観的判断とその場所の客観的状況とが違っていることがよくあるからです。

 人生にも、一旦停止をしなければならず、それを余儀なくされることがあります。パウロもそうでした。若い頃から熱心なユダヤ教徒だった彼に、イエスの出来事から6、7年後、想像もしないことが起りました。

 1、2節が伝えますように、彼はクリスチャンを脅迫し、殺そうと息巻いて、大祭司の所へ行き、ダマスコの諸会堂宛の手紙を求めました。男女を問わず縛り上げ、連行するためでした。彼はユダヤ教正統派の教育を受け、クリスチャンを、神を冒瀆する恐ろしい罪人だと思っていました。それで道を急ぎました。

 所が、3節、突然、天からの光が彼の周りを照らし、4節、彼は地に倒れ、「サウロ、サウロ、何故私を迫害するのか」と語りかける声を聞きます。サウロとは、パウロの元々の名前です。彼が5節「主よ、あなたはどなたですか」と言いますと、答えがありました。「私は、あなたが迫害しているイエスである。立ち上がって、町に入りなさい。そうすれば、あなたがしなければならないことが告げられる。」何と復活されたイエスが彼に語られたのでした。

 8、9節「サウロは地面から立ち上がった。しかし、目を開けていたものの、何も見えなかった。それで人々は彼の手を引いて、ダマスコに連れて行った。彼は三日間、目が見えず、食べることも飲むこともしなかった。」今まで脇目も振らずに走ってきましたが、彼は停止せざるを得ませんでした。しかし、これが良かったのでした。暫く目が見えず、彼は「一体これはどういうことなのだ。私は間違っていたのか。神は私に何を教えようとしておられるのか」と、根本から考え直したと思います。

 実は聖書の伝える優れた信仰者たちの殆どが、人生でしばしば一旦停止を余儀なくされています。古代イスラエル民族を奴隷の国エジプトから脱出させた時の指導者モーセも、その前にはエジプトでの表舞台を退き、ミディアンの荒野に40年も引きこもらざるを得ないことがありました。

 多くの点で優れていたダビデも、理不尽な苦しみに何度も遭い、自分の犯した罪とその結果に苦しくても向き合わなければならないことがありました。

 イエスのそばにいて12弟子の筆頭でしたペテロも、弱さから主イエスを裏切り、また異邦人に対する姿勢のことで後輩のパウロに非難されるなど、大きな挫折を味わいました。

 皆熱心で活動的で魅力的な人たちであっただけに、つい自分を買いかぶることがあったかも知れません。辛かったですが、自分をとことん見つめ、自分を見直さなければなりませんでした。そうして神と人の前に打ち砕かれ、改めて神の計り知れない赦しと憐れみを体験し、自分の考えや自分の体験で突っ走るのではなく、神の御心をこそ求め、神と人に、愛と謙りをもって仕えることのできる者へと変えられたのでした。

 今の私たちも、物事がうまく運んでいたのに、急に歯車が狂い、色々なことがうまく行かなくなることがあります。病気、事故、仕事、人間関係、家族のことで壁に突き当るとか、自分の未熟さや欠けが引き起す場合もあります。

 「どうしてなのだ」と私たちは頭を抱え、人に対しても自分に対しても腹の立つ時もあれば、畏れ多いことに神を恨むことさえあるかも知れません。

 しかし、うまく進まない時こそ、実はとても大切な時なのです。そういう時こそ、第一に、冷静になって、問題と原因をよく考えたいと思います。御子イエスを十字架に付けられた程に私たちを愛しておられる神は、必ず何かを教えようとしておられるからです。

 第二に、自分に問題があることに気付くなら、心から悔い改め、また問題となっていることから逃げないで、解決のために一生懸命に誠実に取り組みたいと思います。

 しかし第三に、どうしても問題の意味が分らず、どうすれば良いかも分らない時は、自分の考えだけで突き進もうとせず、人の意見にも耳を傾け、何より静まって神の御心を求め、神の時を待ちたいと思います。

 人生の一旦停止には、辛くても必ず意味があります。その時こそ、少年サムエルのように、「主よ、お話し下さい。しもべは聞いております」(Ⅰサムエル3:9)と言って、神の声に耳を傾けたいと思います。

 そしていつか私たちは、人生最後の一旦停止も迎えます。しかし、主イエス・キリストを心から信じる者には、それはまさに一旦停止に過ぎず、向こうには主が備えて下さった永遠の天の御国(みくに)が待っています。このことを忘れず、主に信頼して進みたいと思います。

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