2022年03月10日「私の道を横切られる神」

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私の道を横切られる神

日付
説教
田村英典 牧師
聖書
ルカによる福音書 10章30節~37節

聖句のアイコン聖書の言葉

10:30 イエスは答えられた。「ある人が、エルサレムからエリコへ下って行ったが、強盗に襲われた。強盗たちはその人の着ている物をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。
10:31 たまたま祭司が一人、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。
1:32  同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。
10:33 ところが、旅をしていた一人のサマリア人は、その人のところに来ると、見てかわいそうに思った。
10:34 そして近寄って、傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで包帯をし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行って介抱した。
10:35 次の日、彼はデナリ二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。「介抱してあげて下さい。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。」
10:36 この三人の中でだれが、強盗に襲われた人の隣人になったと思いますか。」
10:37 彼は言った。「その人に憐れみ深い行いをした人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って、同じ様にしなさい。」、ルカによる福音書 10章30節~37節

原稿のアイコンメッセージ

 今日は「私の道を横切る神」という題でお話致します。

 今お読みしましたルカ10:30~37は、誰でも一度読めば、恐らく一生忘れられない聖書箇所の一つだと思います。神の御子イエスの語られた、いわゆる「善き(よき)サマリア人」の譬です。

 この譬の中で言われていますユダヤの都エルサレムから東のヨルダン川に近いエリコまでは約24kmあり、約900mも落差のある曲りくねった下り勾配の道があって、19世紀になっても盗賊が出没した危険な所だったそうです。

 

 強盗に襲われ、半殺しにされた人がそこに倒れていましたのに、同じユダヤ人で、しかも神に仕える宗教者であった祭司とレビ人は、この気の毒な人を避け、道の反対側を通り過ぎて行きました。半殺しの目に遭って倒れているこの人に下手に関り、うかうかしていると、自分も強盗に襲われる危険があると思ったのか、それともただ単に面倒だと思ったのか、それは分りません。

 所が、昔からユダヤ人と仲が悪く、彼らに蔑まれていたサマリア人の一人が、強盗に襲われたこの気の毒なユダヤ人を助けたという話です。

 この譬話が教えることは何でしょうか。今は読みませんでしたが、25節以降が伝えますように、イエスを試そうとした律法の専門家、つまり、旧約聖書の専門家が、この譬をイエスがされる直前に述べた言葉に表れています。彼は言いました。29節「私の隣人とは誰ですか。」要するに、「誰それは私の隣人だから親切にすべきだが、あの人はそうではない。従って、親切にしなくても良い」と、自分を中心に、人を隣人、もしくは隣人ではないと、区別して考える傾向が律法の専門家にはあったのです。

 しかし、そうではなく、主イエスによれば、「私は誰の隣人になっているだろう」と、自分の愛を深く問うことが大切だということです。私たちも同じように、自分を振り返って「私は果たして今、誰の隣人だろう。誰の隣人になっていると言えるだろうか」と静かに問うてみることの大切さを教えられます。

 この善きサマリア人の譬話について、ヒトラーの率いるナチスへの抵抗運動、いわゆるレジスタンスをして捕えられ、1945年4月9日早朝、フロッセンビュルク強制収容所で処刑され、39歳で殉教したドイツの神学者また牧師であったD.ボンヘッファーが興味深いことを述べています。彼は「私たちの日常の勤めの道を神が横切られることがある」と言い、次のように語っています。「私たちは、神によって私たちの仕事を中断させられる用意がなければならない。神は私たちに、要求と願いとを持った人々をお送りになることによって、常に繰り返して日毎に私たちの歩みを停止し、私たちの計画を妨げられる。祭司が強盗に襲われた人の傍らを通り過ぎて行ったように、私たちは、一日の重要な事柄に没頭して、例えば恐らく…聖書に読みふけりつつ、…これらの人たちの傍らを通り過ぎてしまうということもあり得るのである」と。

 先程の善きサマリア人の譬に戻りますが、祭司とレビ人は、弁解しようと思えば色々言えたと思います。例えば、「私は今、大変忙しい。それも神のための大切な聖なる務めが待っている。だから、今ここでこの人に関っていると、それに間に合わない」とか。

 そして私たちの誰もが同じようなことを言えると思います。すなわち、私たちの道も誰かに横切ってもらっては、あるいは私たちの道の上に誰かに横たわっていてもらっては、困るわけです。私たちにも神と人のために仕事をしている時があります。とにかく、私たちにも人に時間と手を取られたくない務めが沢山ある。約束の時間がある。約束の期限までに仕上げなくてはならない原稿がある。約束の時間までに準備し、間に合わせなくてはならない大切な仕事と予定がある………。

 しかし、その邪魔をし、私たちの行く手を横切り妨げる人、まるで瀕死の状態で横たわって、か細い声で「助けて下さい。聴いて下さい。手を貸して下さい。私のことで時間を割いて下さい。私と私の家族と友人のことで祈って下さい」と言う人がいる。しかし、もしかして、横切られるのは神であられるのかも知れない。ボンヘッファーはこう言うのです。

 自分の大切な仕事や勉強や使命ともいうべき道を妨げられるのは、誰にとっても、イヤというか、困ります。そうではないでしょうか。しかし、もしやそこに何か思いがけない、それもとても大切な神の御心があるのかも知れない。そういうことも主イエスの語られたこの譬話から考えさせられます。

 「私は誰の隣人になっているだろう。」この問いかけを、私たちも通り過ぎないでいたいと思います。

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