2022年03月06日「悪霊を追い出すイエス」

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悪霊を追い出すイエス

日付
説教
田村英典 牧師
聖書
マタイによる福音書 8章28節~34節

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聖句のアイコン聖書の言葉

8:28 さて、イエスが向こう岸のガダラ人の地にお着きになると、悪霊に疲れた人が二人、墓場から出て来てイエスを迎えた。彼らはひどく凶暴で、だれもその道を通れないほどであった。
8:29 すると見よ、彼らが叫んだ。「神の子よ、私たちと何の関係があるのですか。まだその時ではないのに、もう私たちを苦しめに来たのですか。」
8:30 そこから離れたところに、多くの豚の群れが飼われていた。
8:31 悪霊どもはイエスに懇願して、「私たちを追い出そうとされるのでしたら、豚の群れの中に送って下さい」と言った。
8:32 イエスは彼らに「行け」と言われた。それで、悪霊どもは出て行って豚に入った。すると見よ。その群れ全体が崖を下って湖になだれ込み、水におぼれて死んだ。
8:33 飼っていた人たちは逃げ出して町に行き、悪霊につかれていた人たちのことなどを残らず知らせた。
8:34 すると見よ、町中の人がイエスに会いに出て来た。そして、イエスを見ると、その地方から立ち去ってほしいと懇願した。マタイによる福音書 8章28節~34節

原稿のアイコンメッセージ

 マタイ8:28以降は、悪霊につかれた人たちが主イエスに救われたことを伝えています。並行記事のマルコ5:1以降とルカ8:26以降も参考にしつつ、ここを学びたいと思います。

 イエスは周りにいる群衆を見て、弟子たちに向こう岸へ渡るように命じられました(18節)。一行は舟でガリラヤ湖の東側へ向かい、23節以降が記しますように途中で嵐が襲い、イエスはそれを静め、28節「ガダラ人の地」に着きました。この地名をマルコとルカは「ゲラサ人の地」としています。マタイ、マルコ、ルカの夫々に写本が色々あり、地名は実はよく分りません。ゲラサはガリラヤ湖の南南東、約50km、ガダラは南東、10数kmの所で、この辺りは大雑把にそれらの地名で呼ばれていたようです。近年の調査では、今は廃墟となっているケルサという町の近くだろうとされています。湖に面した所には、28、32節が伝えますように「墓場」として使われた洞窟や「崖」もあるそうです。

 場所のことはともかく、ここは何を一番伝えようとしているのでしょうか。神の御子イエスは、目に見えない霊の世界をも支配されるお方であり、従って、私たちが全存在を上げて信じ、信頼して良いお方だということです。

 今、霊の世界と申しました。ここには悪霊につかれた人が2人伝えられています。マルコとルカでは1人です。2人の内、1人を代表として取り上げたのでしょう。

 彼らは異常でした。マタイの記述は簡潔ですが、マルコとルカも併せて見てみますと、第一に彼らは墓場から現れ、マルコによれば墓場に住んでいました。第二に非常に凶暴で、誰もその辺を通れませんでした。第三に異常な力を持っていました。マルコによりますと、彼らは鎖を引きちぎり、足かせも砕きました。第四に昼も夜も墓場や山で叫んでいました。第五に石で自分を打ち叩く自虐性もありました。第六に服を着ず、裸同然で悲惨な状態でした。

 これだけですと、ある種の精神異常とも言えますが、彼らはイエスを見ますと、29節「神の子よ」と叫び、マルコとルカによりますとイエスの前に平伏しました。つまり、イエスの本質を見抜き、イエスを異常に恐れたのでした。

 その上、第七にマルコとルカでは、イエスに名を尋ねられ、「レギオン」と答えています。レギオンとは、大勢の兵士からなるローマ軍の一団を指します。つまり、多くの悪霊に取りつかれ、元の人格が分らない位、彼らは自分を失っていたのでした。単なる心の病ではなく、悪霊がついていたのです。

 悪霊は、前にも申しましたように、神に背いて堕落した天使、すなわち、悪魔・サタンの手下です。黙示20章が伝えますように、イエス・キリストが再臨される世の終りに、神は悪魔と悪霊を永遠の地獄に滅ぼされます。悪霊はそれを知っています。

 しかし、その時が来るまでは、神とイエスに逆らって人間に取りつき、かき回して神から引き離し、自分たちと同じ永遠の滅びに引きずり込んで、神に逆らおうとしています。ところが、まだ世の終りではありませんのに、突然、主イエスが現れられましたので、彼らは恐れ、慌てたのでした。

 歴史を振り返りますと、悪霊は、神が御子イエスを通してご自分の救いの愛と救いの力を鮮やかに表された紀元1世紀の特別啓示の時代に顕著に活動しましたが、その時代が終ると、目立つ形では現れなくなっています。

 では、今は関係ないのでしょうか。数十年前のことですが、インドネシアでは、薬物も使わないのにある地域の人々が異常な状態になり、キリスト教の宣教師に救われたことがありました。日本でも、50年位前のことですが、一人の牧師がある田舎で伝道した時、クリスチャンの家に泊めてもらった時のことを、ご自分の著書の中で書いておられます。夜、彼の部屋の周りを夜中から明け方まで「出て行け、帰れ」と、気味の悪い声でブツブツ言いながら歩く者がいて、翌朝、家の人に尋ねましたが、そんな人はいなかったということでした。異常なことは今もない訳ではありません。

 しかし、今はもっと巧妙に悪魔や悪霊は人間の不信仰や罪の性質につけ入り、働いています。世の終りのキリストの再臨の時まで人間に何もしないはずがないからです。とにかく、紀元1世紀の後半にペテロはこう警告していました。「身を慎み、目を覚ましていなさい。あなた方の敵である悪魔が、吼えたける獅子のように、誰かを食い尽くそうと探し回っています。」(Ⅰペテロ5:8)

 マタイに戻ります。離れた所に多くの豚の群れがいました(30節)。マルコによりますと2千匹もいました。ユダヤ人は、旧約律法で豚を食べる事を禁じられていましたが、この地域にはあまり信仰深くない人たちが住んでいたようです。イエスを恐れ、イエスに滅ぼされたくなかった悪霊たちは、31節「私たちを追い出そうとされるのでしたら、豚の群れの中に送って下さい」と頼みました。

 イエスは32節「『行け』と言われた。それで、悪霊共は出て行って豚に入った。すると見よ。その群れ全体が崖を下って湖になだれ込み、水に溺れて死んだ。」驚いた豚の群れは崖を下って湖に突進し、皆死にました。すごい光景だったと思います。悪霊たちは「助かる」と考えましたが、結局、豚と共に滅ぼされたのでした。

 しかし、豚が可哀想ではないでしょうか。何故イエスは、悪霊が豚の中に入ることを許されたのでしょうか。

 これは、イエスの十字架と復活による新約時代の完全な到来の前でしたので、豚を食べることを禁じる旧約律法の大切さを教えることが、一つ考えられます。しかし、それ以上に人間の魂の救いが2千匹の豚より遥かに大切なことを示すためだったと思われます。

 33、34節「飼っていた人たちは逃げ出して町に行き、悪霊につかれた人たちのことなどを残らず知らせた。すると見よ、町中の人がイエスに会いに出て来た。そして、イエスを見ると、その地方から立ち去ってほしいと懇願した。」

 彼らの中には豚の所有者がいたかも知れず、彼らにはショックだったでしょう。しかし、元々ユダヤでは豚を飼うこと自体が問題でしたし、何より悪霊つきの人たちが服を着て正気に返ってイエスの足許に座っていたのですから(ルカ8:35、36)、それを喜ぶべきであり、彼らを救われたイエスを崇め、神を賛美すべきでした。しかし、彼らには旧約律法に背いてでも豚の方が大切でしたので、イエスに立ち去ってほしいと願いました。結局、神のこともそうですし、人の魂の救いも、どうでも良かったのです。

 これが現実であり、今も同じだと思います。人の心を縛り、人を傷つけさせ、恥しいことを恥しいとも感じさせず、罪をあおって人を狂わせ、永遠の滅びに引きずり込もうとする、目に見えない力から人が救われることなど、どうでも良い。自分に今までと同じ生活ができさえすれば、人の魂も自分の魂も、造り主なる真(まこと)の神のこともどうでも良い。こういうことこそ、今日の悪霊の働き方の一つと言えるのではないでしょうか。

 感謝なことに、悪霊につかれた人は解放され、マルコとルカによりますと、イエスのお供をしたいとしきりに願いまし。しかしイエスは、自分の家に戻って主がして下さった救いの業を皆に知らせなさいと言われ、彼らはそれに従い、イエスのことを人々に伝えました。こんな悲惨の中から、人が本当に救われたのでした!

 大事なことは、聖書が何を一番伝えようとしているかです。繰り返します。神の御子イエスこそ、目に見えない霊の世界をも支配される方であり、従って、私たちが全身全霊を上げて本当に信じ、従い、一切を委ねて良い救い主だということです。

 悪霊につかれた人のように、自分が何者か分らず、自分を失い、時には周りの人に乱暴を働き、人を自分から遠ざけ、一方では自己破滅的で自分を不幸にし、悲惨な状態に陥っている人は、今日もいます。アルコール依存症は有名ですが、依存症にも色々あります。薬物、ギャンブル、ゲームなどなど、一旦はまるとずっとそれにひたり、そこから抜け出せない。「私は何をしているのか。これはいけない」と思っても、また繰り返す。気になっていることが頭から離れず、こびりつき、こんなことでは駄目だと思いつつも、気が付くとまたそこに戻り、抜け出せないこともあります。いいえ、本当に抜け出したいのかどうかも分らない。

 そういう時、私たちは、聖書が気付かせてくれるように、サタンと悪霊の存在を思い出すことを忘れてはなりません。と同時に、彼らに決定的に勝利された御子イエス・キリストを思い起し、イエスを信じてハッキリこう命じたいと思います。「イエス・キリストの御名によって命じる。私から去れ。」感謝なことに、ヤコブ4:7は教えます。「神に従い、悪魔に反抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなた方から逃げ去ります。」私たちが悪魔や悪霊を忘れているなら非常に危険ですが、自覚してシッカリ反抗すれば、彼らは私たちから離れると、聖書は約束しています。

 私たちや私たちの愛する大切な人たちが何かに捉われ、頑なになり、或いは自らをどんなに失いそうであっても、私たちはそこからの魂の解放、魂の救いの希望を決して失いたくないと思います。悪魔や悪霊の大軍団よりも遥かに強く、十字架の死の後、陰府の力を打ち破って復活され、今、天の父なる神の右に座しておられる神の御子イエスがおられます!そのイエスを仰ぎ、キッパリと信じ、絶対に諦めず、「主よ、無力で惨めな私を、また私の大切な彼を、彼女を、どうか御霊によって救って下さい」と必死になって叫ぶのです。憐れみと慈しみに富む主イエスは、悪霊や罪深く情けない習慣から私たちを救い、神の前に真に自由で健康で闊達な魂を取り戻すことがおできになります。全身全霊を傾けて主を信じ信頼し、この主イエスに固く結びつく信仰を、是非、日々、互いに励まし合いたいと思います。

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