2022年02月27日「教会と共に」

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聖句のアイコン聖書の言葉

4:13 私たちは皆、神の御子に対する信仰と知識において一つとなり、一人の成熟した大人となって、キリストの満ち満ちた身丈にまで達するのです。
4:14 こうして、私たちはもはや子供ではなく、人の悪巧みや人を欺く悪賢い策略から出た、どんな教えの風にも、吹き回されたり、弄ばれることがなく、
4:15 むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において、かしらであるキリストに向かって成長するのです。
4:16 キリストによって、からだ全体は、あらゆる節々を支えとして組み合わされ、つなぎ合わされ、それぞれの部分がその分に応じて働くことにより成長して、愛のうちに建てられることになります。エフェソの信徒への手紙 4章13節~16節

原稿のアイコンメッセージ

 今日は、コロナ禍で延期していた今年の定期会員総会を礼拝後に持ちます。そこで今朝は教会と私たちクリスチャンの大切な関係を再確認したいと思います。

 今、エペソ4:13~16を読みました。ここには、救い主イエス・キリストと教会とクリスチャンという三者の親密で大切な関係が語られています。体の比喩を用い、キリストは頭、教会は体、クリスチャンは体の各部分です。この比喩は聖書の他の所でも見られ、例えば、Ⅰコリント12:27も「あなた方はキリストの体であって、一人一人はその部分です」と教えます。

 今朝の短い説教で確認したいことは、私たちは教会と共にあってこそ、人を滅ぼす罪や誤りから守られ、かつ創り主なる真の神に喜ばれ、キリストに似る者へと成長させられるということです。13、14節は言います。「私たちは皆、神の御子に対する信仰と知識において一つとなり、一人の成熟した大人となって、キリストの満ち満ちた身丈にまで達するのです。こうして、私たちはもはや子供ではなく、人の悪巧みや人を欺く悪賢い策略から出た、どんな教えの風にも、吹き回されたり、弄ばれることがなく」と。

 従って、私たちの人生で絶対に不可欠と言える位、教会は大切だということです。

 このことを私たちは繰り返し学び、自分でもそう思い、そう感じることが多いと思います。しかし、この世にいる間、私たちの信仰は不完全ですし、私たちの内に残る自己中心的な罪の性質とサタンの働きのために、教会への私たちの気持や距離感が変ることもあります。

 その上、地上にある教会は常に不完全です。教会を形作る信徒自身が牧師を初め皆不完全なのですから、当然です。そこで教会に失望し、或いは躓き、残念ですが教会を離れる人もいます。

 天にある教会は罪から解放された「栄光の教会」「勝利の教会」ですが、地上の教会は「戦闘の教会」と呼ばれます。神に背く世の力、そして自らの弱さや罪とも戦わなければならないからです。この現実を私たちはよく認識しておきたいと思います。従って、地上の教会をいたずらに理想化することは、神の御心ではありません。現に御子イエスが世に来られ、人間の救いを中心とする神の恵み深い御心と御業(みわざ)を現わされて間もない、また聖霊のお働きが豊かでした紀元1世紀の教会でさえ、問題が沢山ありました。ですから、ガラテヤやエペソやコリントなどの教会に、使徒たちは神に導かれて手紙を書き、指導したのでした。

 しかし、不完全だからといって、教会に愛想をつかし、面倒に思って教会を離れ、自分独りで聖書を読み、祈って過ごすことは、主の御心ではありません。聖書を読むとよく分りますが、多くの問題があっても、神は旧約時代にイスラエルを忍耐と憐れみをもって導かれ、新約時代には教会を御言葉と御霊によって絶えず教え、戒め、育んで来られました。

 長い中世の時代に教会には色々な問題が生じていましたが、宗教改革者たちは決して教会そのものを否定せず、あくまで改革しようとしました。何故なら、教会は信者の単なる集りではなく、イエス・キリストの霊的な体だからです。

 ですから、教会を離れた一匹狼のクリスチャンであることは主の御心ではなく、危険でもあります。群れを離れた羊ほど、野獣が襲いやすい獲物はいません。

 教会と共にある大切さを、会員総会を機に、改めて深く覚えたいと思います。

 そこで、教会の大切さを少し具体的に確認しておきます。

 一つのことは、教会には通常、専門的に訓練された牧師がいて、神の御言葉・聖書の説き明かしと牧会により、皆の魂を導き養います。

 確かにイエスがマタイ7:15で「偽預言者たちに用心しなさい」と言われましたように、問題のある牧師もいます。しかし、すぐその後でイエスが言われますように、それは見分けられます。

 羊には羊飼いが必要なように、クリスチャンには魂の羊飼いである牧師が必要です。教会に牧師がいることは、小さなことではありません。

 二つ目に、私たちの改革派教会について言いますと、ウェストミンスター信条という優れた信仰告白を持っていることも重要な点です。ウェストミンスター信条は、特定の牧師や神学者がつい最近作ったようなものではありません。古代教会からの使徒信条をベースに、異端や色々な誤りとの戦いも経て、長い歴史の中で確認され確定された正しい様々な教理も加えて生れた大切なものです。

 中には、信条を持ち、信条に縛られることを窮屈に思う人たちもいます。しかし、レールがあれば列車は安全であるように、信条は私たちを脱線させず、安全に確実に神に喜ばれるイエス・キリストの道を、永遠の天の都まで歩ませてくれます。信条の上にキチンと立つ教会と共にあることは、誠に幸いことですね。

 三つ目に、信徒同士の交わりが教会にあることも素晴らしい恵みです。

 確かに教会にも色々な人がいて、それに疲れる時もあるでしょう。自分も不完全ですし、皆も不完全だからです。しかし、それでも信徒の交わりのある教会と共にいることは恵みです。

 第一に、自分の間違いや足りなさを教えられます。

 第二に、忍耐や寛容な心を養われます。

 第三に、信仰と愛を教えられます。他のクリスチャンの誠実な信仰と献身的な姿から、信仰を、また他者に共感しつつ仕える愛を、身をもって教えられ、私たちも必ず成長を許されます。

 第四に、福音の宣教という最も尊い奉仕の恵みに与ることができます。一体、罪人が罪の完全な赦しと救いに与り、いつどこで死を迎えても直ちに天の国に入れられることに私たちが役立てること以上に、幸いな奉仕があるでしょうか。教会ではそういう恵みを皆で味わえます。 

 第五に、皆で信仰を励まし合うことができます。自分も励まされますが、人を励まし支えてあげられるという喜びと幸せもあります。

 第六に、結局、イエス・キリストに堅く繋がっていることができます。主イエスは言われました。マタイ18:20「二人か三人が私の名において集まっている所には、私もその中にいるのです。」イエスは無論、御霊によってどこにもおられますが、イエスの名によって皆が集り、心を通わせ、共に祈り、賛美する教会の交わりの中に、最も親しく臨在され、私たちを祝福されます。特にヨハネ15:5でイエスが約束しておられる通り、多くの霊の実を結ぶことを私たちは許されます。

 教会と共にあることの豊かな恵みと幸せを覚え、皆で今年も信仰を励まし合っていきたいと思います。

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