2022年01月09日「信仰の神髄」

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聖句のアイコン聖書の言葉

8:5 イエスがカペナウムに入られると、一人の百人隊長がみもとに来て懇願し、
8:6 「主よ、私のしもべが中風のために家で寝込んでいます。ひどく苦しんでいます」と言った。
8:7 イエスは彼に「行って彼を治そう」と言われた。
8:8 しかし百人隊長は答えた。「主よ、あなた様を私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ただ、お言葉を下さい。そうすれば私のしもべは癒されます。
8:9 と申しますのは、私も権威の下にある者だからです。私自身の下にも兵士たちがいて、その一人に『行け』と言えば行きますし、別の者に『来い』と言えば来ます。また、しもべに『これをしろ』と言えば、そのようにします。」
8:10 イエスはこれを聞いて驚き、ついて来た人たちに言われた。「まことに、あなた方に言います。私はイスラエルの内の誰にも、これほどの信仰を見たことがありません。
8:11 あなた方に言いますが、多くの人が東からも西からも来て、天の御国でアブラハム、イサク、ヤコブと一緒に食卓に着きます。
8:12 しかし、御国の子らは外の暗闇に放り出されます。そこで泣いて歯ぎしりするのです。」
 8:13 それからイエスは百人隊長に言われた。「行きなさい。あなたの信じたとおりになるように。」すると、丁度その時、そのしもべは癒された。マタイによる福音書 8章5節~13節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝は「信仰の神髄」と題して主の御心を学びます。

 イエスはローマ軍の百人隊長の信仰に、10節「驚」かれ、更に10節「まことにあなた方に言います」、直訳しますと「アーメン、この私は言う」と厳かに宣言するように語られ、「イスラエルの内の誰にも、これ程の信仰を見たことがありません」とまで言われました。イエスは百人隊長の信仰を驚く程高く評価されたのでした。そこで私たちも彼の信仰に教えられたいと思います。

 舞台は、ガリラヤ湖北岸の町カペナウムです。5節、イエスが弟子たちや大勢の群衆とこの町に入られますと、ローマ軍の百人隊長が来て、中風でひどく苦しむ自分のしもべを癒してほしいと頼みました。願いは聞かれ、しもべは癒されました。イエスは、この人の信仰に驚き、感心されると共に、10~12節で当時のイスラエルの人々の不信仰を嘆き、警告されました。

 では、百人隊長の信仰は、どんな点で際立っていたでしょうか。

 第一は何と言っても謙虚さです。しもべの病を癒してほしいと彼が頼みますと、イエスは7節「行って彼を治そう」と言われましたが、彼は8節「主よ、あなた様を私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません」と言い、辞退しました。

 当時のユダヤ人は、ローマ人など異邦人は皆汚れていると考え、ユダヤの宗教規則ミシュナーは、異邦人の家にユダヤ人が入ることさえ禁じていました。このことを百人隊長も知っていたでしょう。一方、ローマ人にすれば、自分たちの支配下にあるユダヤ人の規則なんか無視してかまいませんでした。ところが、この人は違います。実に謙虚でした。

 ここと同じ場面を伝えるルカ福音書7:1以降によりますと、イエスの所に来たのは、彼本人ではなく、ユダヤ人の長老たちでした。彼は、汚れた異邦人の自分が主イエスの前に出ることなど、畏れ多くてできないと考え、親しいユダヤ人のそれも複数の長老たちに頼んだのでした。ここに見られるのは、自分には主イエスに直接お願いできる資格などないという見事なへりくだりです。当時のユダヤ人の多くは、「異邦人は滅ぼされ、地獄の火で焼かれて当然だが、我々はアブラハム、イサク、ヤコブの子孫で神に選ばれた民であり、救われて当然だ」という傲慢な考えでいました。それを思いますと、この人のへりくだりは見事でした。

 これは、どこから来たのでしょうか。恐らく、彼がユダヤに赴任したことで、天地の創り主なる真(まこと)の神とその教え・戒めの高い倫理性を知り、心を魅かれると共に、全てをご存じの神の前に自分を見つめ、罪の自覚が深まったからとしか思えません。真の神を知れば知る程、人は自分の罪深さを知り、謙虚にならざるを得ない。しかし、これが幸いなのです。イエスは彼の謙虚な信仰を大いに喜ばれ、願いをお聞きになりました。神は言われます。イザヤ57:15「私は高く聖なる所に住み、砕かれた人、へりくだった人と共にある。へりくだった人たちの霊を生かし、砕かれた人たちの心を生かすためである。」

 私たちはここに信仰者の神髄、すなわち、謙虚さを改めて教えられます。イエスは言われました。マタイ5:3「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。」

 第二は何でしょう。愛です。

 中風でひどく苦しんでいた彼のしもべは、並行箇所のルカ7:2によりますと「病気で死にかけて」いました。古代社会では、しもべや奴隷を、主人は簡単に売り飛ばし、処分しました。そうだとしたら、重い病気で死にかかっていたしもべなどは、どうなることでしょう。

 しかし、この百人隊長は違いました。何としても自分のしもべを癒して頂きたく、ユダヤ人の長老たちに頭を下げてでもイエスにお願いしたのでした。

 どうしてここまでするのでしょう。しもべを本当に愛していたからです。実はマタイ8:6で百人隊長が口にする「しもべ」というギリシア語には、「子供」という意味もあります。彼はしもべを自分の子供のように本当に愛していた。これは紀元1世紀の地中海世界では、異例のことと言えるでしょう。でも、それがこの人なのでした。

 並行箇所のルカ7:5によりますと、彼はユダヤ人を愛し、ユダヤ人のために会堂まで建てていました。愛の豊かな、実に優れた人格者でした。

 しかし何故、彼はここまで自分のしもべを愛し、またローマ人の多くが、ひどく軽蔑し嫌っていたユダヤ人たちをも大切に思う愛の人だったのでしょうか。

 やはり彼がユダヤに駐在したことが大きいと思われます。すなわち、天地万物を創られ、天から恵みの雨を降らせ、太陽を与え、自然界に実りを与え、人も動物も植物も養われる真の神を知ったことと、無関係ではないでしょう。

 特に、神が愛をもって人間を造られたことをよく考えますと、しもべを非人道的に扱ったり、ユダヤ人という理由だけで蔑むようなことは、できなくなったのだと思います。この点で、真の神を知っている当時のユダヤ人の多くが、異邦人をひどく蔑んだことは、人間の持つ罪の故とは言え、何と不信仰で罪深いことでしょう。

 私たちは、イエスが驚き、願いを聞かれた百人隊長の信仰の中に、他者への真実かつ具体的な愛を教えられます。使徒パウロは言いました。Ⅰコリント13:2~7、13「たとえ私が預言の賜物を持ち、あらゆる奥義とあらゆる知識に通じていても、たとえ山を動かす程の完全な信仰を持っていても、愛がないなら、私は無に等しいのです。たとえ私が持っている物の全てを分け与えても、たとえ私の体を引き渡して誇ることになっても、愛がなければ、何の役にも立ちません。愛は寛容であり、愛は親切です。また人を妬みません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、苛立たず、人がした悪を心に留めず、不正を喜ばずに、真実を喜びます。全てを耐え、全てを信じ、全てを望み、全てを忍びます。……こういうわけで、いつまでも残るのは信仰と、希望と愛、これら三つです。その中で一番優れているのは愛です。」

 三つ目は、神とイエス・キリストの権威への服従、またそこから来る神とイエス・キリストへの信頼、確信です。

 百人隊長は、自分にはイエスに来て頂く資格はないと言った後、8節「ただ、お言葉を下さい。そうすれば私のしもべは癒されます」と言い、その理由として、自分の部下たちに見られた権威への服従について話しました。これを聞いてイエスは驚かれ、ついて来た人たちに、10節「まことにあなた方に言います。私はイスラエルの内の誰にも、これ程の信仰を見たことがありません」と言って、その信仰を大いに誉められました。ここに私たちは、神の権威への服従とそれに伴う信頼という信仰の非常に重要な一面を教えられます。

 人間が、自分の考え方や行動パターンを、無意識に他人にも当てはめることが、心理学では知られています。例えば、よく嘘をつき、ごまかし、疑い深い自己中心的な人は、他の人も同じだと思いやすい。私たちは、自分を鏡として他の人や神をも見やすいのです。

 百人隊長は、自分の言うひと言に部下が必ず従うことを知っていましたし、何より彼自身、上官の言葉に必ず従い、実行してきました。こうして、権威ある人の言葉は必ず実現することを、身をもって経験していました。ですから、彼は自分をも含め、責任をもってピシッと生きる人たちの姿を通して、神の権威を持つイエスの言葉が実現することを、本当に確信することができたのでした。何という幸いでしょうか。

 実際、神の言葉は決して空しくならず、必ず実現します。神は言われます。イザヤ55:10、11「雨や雪は、天から降って、元に戻らず、地を潤して物を映えさせ、芽を出させて、種蒔く人に種を与え、食べる人にパンを与える。そのように、私の口から出る私の言葉も、私の所に、空しく帰って来ることはない。それは、私が望むことを成し遂げ、私が言い送ったことを成功させる。」

 一方、イエスは、神の民とされたユダヤ・イスラエルの多くの人が、神の戒めを知りながらもあまり従っていなかったために、神への信頼も薄れ、悲惨なことに至ることを11、12節で警告されます。これは今の私たちにも無関係ではありません。

 神とその教えを知らない未信者ならいざ知らず、自分ではクリスチャンだと思っていても、御言葉に従わない不信仰な生活を続けていますと、信仰は必ず根腐れを起します。知らない間に神への信頼も弱り、肝心な時に主を信じられなくなります。何と悲惨なことでしょう。

 一方、何回も失敗するのですが、その都度、悔い改め、「主の権威と御言葉に私は従う」という信仰で生活していますと、神を一層信頼できるように私たちはされ、祈りが聞かれる体験も本当に増えます。何と幸いでしょうか。

 ルカ7章によりますと、百人隊長は実はイエスに直接会っていません。けれども、イエスの権威と言葉を、自分の生活実感からも心底信じることができました。そして彼の願いは聞かれました。

 主イエスは十字架で私たちの罪を全て償い、今、天の父なる神の右にあって永遠に生きておられ、ご自分の許しがなければ私たちの髪の毛1本地に落ちない程、天と地の一切の権能を握っておられます。この事実を再度、今朝覚えたいと思います。

 そこで第一に神と主イエスへの徹底した謙虚さ、第二に人への真実で温かい具体的な愛、第三に神とイエス・キリストの権威と御言葉への服従と責任ある生き方、それに伴う神への確信と信頼という信仰の神髄を、夫々が改めてよく覚え、この信仰の神髄に生きることを、是非、新しい年も共に励まし合いたいと思います。

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