2022年01月06日「自由-愛によって互いに仕え合う-」

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聖句のアイコン聖書の言葉

5:13 兄弟たち、あなた方は、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕え合いなさい。ガラテヤの信徒への手紙 5章13節

原稿のアイコンメッセージ

 ガラテヤ5:13は、紀元1世紀の半ば過ぎ、今日のトルコ共和国にあったガラテヤ地域の信徒たちへ、パウロが神に導かれて書いた手紙の一部です。

 この教会はパウロが伝道して生れたのですが、他の場所で伝道するために彼がここを去りますと、別の人たちがやって来ました。そして、神の御子イエスを救い主と信じる信仰のみで人は救われるという本来の教えに加え、当時のユダヤ人同様、宗教規則や割礼などの儀式律法を守ることも必要だと主張しました。いわゆるユダヤ主義の教えです。この教えに、まだ信仰も浅く、よく分っていなかった多くの異邦人信徒は惑わされました。人を縛るだけの古い戒律から、折角、福音により解放されましたのに、これではまた元通りです。

 それを知ったパウロは言いました。13節「兄弟たち、あなた方は、自由を与えられるために召されたのです。」実際、主イエスの福音は、異教的習慣やこの世の無意味な価値観、何らかの執着心や捕らわれから私たちを解放し、造り主なる真(まこと)の神の前に真の自由を与えます。イエスは言われました。ヨハネ8:31、32「あなた方は、私の言葉に留まるなら、本当に私の弟子です。あなた方は真理を知り、真理はあなたたちを自由にします。」

 ただ、今日注目したいのは、むしろガラテヤ5:13の後半です。「ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕え合いなさい。」

 神の御子イエスが十字架でご自分の命を献げてまで私たちのために獲得して下さった最高の自由を、私たちは利己的で肉的な欲を満たすためにではなく、「愛によって互いに仕え合」うために用いなさい、ということです。実際、これこそが、イエス・キリストを通して神が与えて下さった自由の本当のあり方です。

 まだ淀川キリスト教病院に勤めていた2010年頃に、私は大阪の十三にある映画館で、とても重い内容の映画を二つ観ました。一つは『クロッシング』という映画です。クロッシング(crossing)は横切るという意味ですが、反対や妨害という意味もあります。

 北朝鮮で暮らす元サッカー選手の主人公が、余りにも貧しい生活の中、結核に苦しむ妻の薬を手に入れるため、危険を犯して脱北し、中国のドイツ大使館を経由して漸く韓国へ来ました。しかし、その間に妻は死にます。

 そこで、北に残った独り息子も父親の所へ行こうとして脱北を試みますが、捕まり、ひどい強制労働をさせられます。再び脱北し、中国からモンゴルに入る鉄条網をくぐります。しかし、やがて荒涼たる砂漠の中で息絶えます。変り果てた息子を抱きしめ、激しく泣く父親の姿で映画は終ります。自由のない国の悲惨さを訴える映画でした。

 もう一つは、『ビルマVJ 消された革命』というドキュメンタリ映画でした。VJとは、軍事政権下で、ビルマ、つまり今日のミャンマーの民主化のために隠れてビデオを取り、インターネットで世界にビルマの惨状を伝えるビデオジャーナリストたちのことです。特に2007年9月の僧侶を中心とする市民の大規模なデモを、軍隊が銃と暴力で鎮圧する様子を、命がけで彼らは撮影しました。日本人ジャーナリストの長井健司さんが射殺された瞬間も収められ、世界に配信されました。

 しかし、軍事政権は揉み消しを図ります。この国にいつ自由は来るのか、というビデオジャーナリストたちの重い言葉で映画は終ります。自由のない国に生まれ、そこで生きなくてはならない人たち。片や自由な私たち。この差はどんなに大きいでしょうか。

 ヒトラ-に抵抗し、ドイツが降伏する丁度1か月前の1945年4月9日、フロッセンビュルク強制収容所で、39歳で殉教した牧師ボンヘッファーは言いました。「私が苦痛をなめること、私が鞭打たれること、私が死ぬこと、そのことは、それ程ひどい苦痛ではない。私を最も苦しめるのは、私が監獄で苦痛を味わっている間、外が余りにも静かだということだ。」

 かつて、ミャンマーの民主化運動の中心におられ、今また拘束されておられるアウンサンスーチーさんについては色々言われ、様々な評価が下されています。しかし、かつておっしゃった「あなたの自由を、自由を持っていない人たちのために使って下さい」は、何と重い言葉でしょうか。

 何より聖書は語りかけます。ガラテヤ5:13「その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕え合いなさい。」

 自由の問題は、政治的なことだけではありません。病気、障害、介護、貧困、その他の理由で、身体的、精神的、霊的に不自由を強いられている人はどんなに多いでしょうか。

私たちは自分に与えられている自由をどう用いるべきなのか。神は一人一人に問うておられると思います。「愛によって互いに仕え合」うために、自分に与えられている自由を是非用い、捧げたいと思います。主はどんなに喜ばれることでしょう。

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