2021年11月07日「試練と信仰のテスト」

問い合わせ

日本キリスト改革派 岡山西教会のホームページへ戻る

Youtube動画のアイコンYoutube動画

Youtubeで直接視聴する

聖句のアイコン聖書の言葉

7:24 ですから、わたしのこれらのことばを聞いて、それを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人にたとえることができます。
7:25 雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家を襲っても、家は倒れませんでした。岩の上に土台が据えられていたからです。
7:26 また、わたしのこれらのことばを聞いて、それを行わない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人にたとえることができます。
7:27 雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもその倒れ方はひどいものでした。」 7:28 イエスがこれらのことばを語り終えられる   と、群衆はその教えに驚いた。
7:29 イエスが、彼らの律法学者たちのようにではなく、権威ある者として教えられたからである。マタイによる福音書 7章24節~29節

原稿のアイコンメッセージ

 主イエスの山上の説教の締め括りであります7:24~の譬を、2回学んで来ました。今朝は、試練との関係で学びます。

 イエスは、24節「私のこれらの言葉を聞いて、それを行う者」を「岩の上に自分の家を建てた賢い人」に譬えられます。賢い人とは、イエスの教えを聞くだけでなく、実際に行う人なのです。

 キリスト教信仰を雰囲気や情緒面だけで捉える人もいます。しかし例えば、イエスを愛するとは、ただイエスが好き、ということではありません。イエスの戒めを喜んで守り、行うことです。イエスは言われます。ヨハネ14:21「私の戒めを保ち、それを守る人は、私を愛している人です。」

 キリスト教信仰を単なる気分や感情に置き換えないように注意したいと思います。賢い人とは、キリスト教の雰囲気に浸って満足している人ではなく、御言葉を聞き、次に毅然と行う人です。完全に行えなくても、祈って聖霊の助けを求め、繰り返し努力する人です。

 一方、偽りの信仰は、聞くだけで本気で実行しません。信仰に真剣さがありません。洗礼を受け、教会に属していることに安心し切っています。しかし、イエスは警告されます。13節「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広」い。19節「良い実を結ばない木」、つまり、偽りの信仰で満足している人は「皆、切り倒されて、火に投げ込」まれ、27節「倒れ…その倒れ方がひどい…。」

 偽りの信仰は役に立たない信仰とも言えます。最も大切な時に、人を救わず、人を助けず、最後には何もないようになる。「何でもいいから信仰は持っている方がいい」という人もいます。確かに、偽りの信仰でも一時は支えになるかも知れません。けれども、本当の試練には耐えられません。

 私たちが人生で打ち建てる一切がやがてテストされる時が必ず来ます。イエスは25節でも27節でも同じように「雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつける」と言われます。実際、試練は、賢い人にも愚かな人にも同じように臨みます。平等に雨は降り、洪水が押し寄せ、風が家に吹きつけます。

 これらの試練を少し具体的に考えてみたいと思います。

 まず、「雨」は人生に起る色々具合の悪いことや不快なことを指していると言えましょう。人生には晴れの日ばかりでなく、暗い雨の日もあります。健康を害し、あるいは歳を取り、家の中の移動だけでも大変な時が必ずやって来ます。何週間も何か月も同じ部屋で過さなければならないのは、小さな試練ではありません。

 次の「洪水」は土台を脅かします。Ⅰヨハネ2:16の言う「肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢」など、この世の力も、私たちを土台から脅かします。洪水は気付かない内に土台を壊すこともあれば、分る形で襲う時もあります。この世は私たちを襲うのに手段を選びません。私たちをそそのかしてキリストと教会から引き離そうとする時もあれば、牙をむいて咬みついてくる時もあります。

 更に「風」も危険です。悪魔は思わぬ方向から私たちを攻撃し、不安や疑いや不信仰な思いを吹き込み、私たちを掻き乱します。臨終のベッドでも悪魔は私たちを攻撃します。

試練は誰にも臨みます。

 しかし、これで終りではありません。最後に死が待っています。死は誰も避けられず、人が築いてきたものを根底から試します。

 私たち人間の最大の課題の一つは、どうすればこれらの試練に耐えられるかです。教会が、イエス・キリストへの信仰を人々に勧める大きな理由の一つは、試練に耐えられる備えをさせることにあります。どんなに立派な経歴を持ち、優れた力や知識があり、人も羨む富と名声を得ても、これらの試練に耐えられなければ、失敗者であり、砂の上に家を建てた愚かな人だ、とイエスは言われるのです。

 聖書は、賢い人に喩えられる本物の信仰者がどんな人かを伝えています。詩篇112:6、7は言います。「その人はとこしえまでも揺るがされない。正しい人はとこしえに覚えられる。その人は悪い知らせを恐れず、主に信頼して、心は揺るがない。」本人も努力しますが、神ご自身が、その人の一番辛い時にその人を下から支えて下さるのです。申命記33:27は言います。「いにしえよりの神は住まう家。下には永遠の腕がある。」ですから、一時はへこんでも、必ず耐えます。

 初代教会のクリスチャンたちについて使徒5:41は伝えます。彼らは「御名のために辱められるに値する者にされたことを喜」んだ、と。神が自分たちをイエス・キリストのために苦しみを受けるに値する者と見て下さったことを、何と喜んだのでした。キリスト教会最初の殉教者ステパノは死の直前、迫害する者たちのために、使徒7:60「主よ、この罪を彼らに負わせないで下さい」と祈ったのでした。キリストを伝えたために投獄され、死の危険があったパウロはピリピ1:23「私の願いは、世を去ってキリストと共にいることです。その方が、はるかに望まし」いと述べました。殉教の死が迫っていることを知っていた最晩年のパウロは言いました。Ⅱテモテ4:6、7「私は既に注ぎの捧げ物となっています。私が世を去る時が近づきました。私は勇敢に戦い抜き、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。」

 今日まで、無数のクリスチャンがこれを体験してきました。それができたのは、イエスの語られた山上の説教を初め、聖書の神の言葉を、日々の生活で実践したため、堅固な信仰と人格が養われてきたからです。

 偽りの信仰者は、人が本当に助けが必要な時、自分では信仰と思ってきたものが全然助けにならないことに気付きます。偽りの信仰は一番大事な時にその人を見捨てます。何という不幸でしょう。何と惨めなことでしょうか。

 しかし、本物の信仰は、そういう時にこそ、神の力と真実と愛を私たちに体験させます。主の教えに生きることに自分を献げてきた人を、主は放っておくことがおできにならないのです。ですから、神の言葉に従おうと努める人の生涯は、堅固なものにならざるを得ません。そのために神は聖書を下さっているのです。

 ところで、試練は実はこれで終りではありません。文字通り最後で最大のテストがあります。何でしょうか。死後の、また世の終りの神の裁きです。Ⅱコリント5:10は言います。「私たちは皆、善であれ悪であれ、夫々の肉体においてした行いに応じて報いを受けるために、キリストの裁きの座の前に現れなければならない。」ヘブル9:27も言います。「人間には、一度死ぬ事と死後に裁きを受けることが定まっている。」

 この時、私たちは、自分が神の御言葉を聞いていたのに、真剣に行わなかった理由を神に申し述べることになります。ヘブル4:13は言います。「神の御前に露でない被造物はありません。神の目には全てが裸であり、さらけ出されています。この神に対して、私たちは申し開きをするのです。」この世で如何に自分をごまかし、人を言いくるめても、神の前では通りません。

 またペテロt4:17が言いますように、裁きは神の家から始まるのです。多く与えられた人からは、多く求められる。私たちはこのことを忘れてはなりません。

 では、私たちは、どうすれば自分が岩の上に家を建てつつあることを確実にし、全ての真の信仰者同様、試練に満ちたこの世でも倒れず、死も乗り越え、やがて栄光に輝く義の冠を天国で愛する主イエスから頂けるでしょうか。聞いて行うことです!しかし、そのために、特に瞑想することの大切さを申し上げたいと思います。つまり、自分は本当に神の御言葉に従い、真剣にそう生きようとしているのかを、繰り返し自分に問うのです。

 確かに、6:25以降で、イエスは将来のことで必要以上に思い煩うなと言われました。しかし、次のように問うて自分をテストすることはとても大切です。「私はいつか必ず死を迎える。その備えはできているか。重い病気になり、お金がなくなり、事故で重い障害を抱えることになったなら、私は大丈夫か。死後、主の裁きが待ち、私の思いと言葉と行いが全て明るみに出る。私はそれを考えて生きているか。

 クリスチャンにして頂いた私の最高の願いは何か。御言葉を愛し、喜んで守り、イエス・キリストに似て清い者にされ、神の栄光のために生きることだと、心から言えるか」などです。

 これらを一つ一つ確実にすることが、私たちをこの世の全ての試練と死の力と神による最後の審判に耐えられる真に賢い人にするのです。

 世の中には、本物の信仰がなくても辛い試練に耐え、堂々と死んでいく人もいます。が、この世での自分の一切が明るみに出される死後の神のテストに耐えることはできません。

 しかし、イエスの言葉、神の御言葉を聞いて行う人は違います。本物の信仰は、私たちをこの世でも彼の世でも救うのです。

 新しい日を迎える度に、私たちは瞑想し、こう決意したいと思います。「そうだ。私はやがて顔と顔とを合わせるように神にお会いする時が来る。このことを私は忘れてはならない。主よ、私をあなたの御言葉を喜んで行う者にして下さい。私の全てをあなたに委ねます。」

 主イエスは喜んで私たちを助けて下さるでしょう!

関連する説教を探す関連する説教を探す