2021年10月03日「神の御心を行なう」

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7:21 私に向かって「主よ、主よ」と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられる私の父の御心(みこころ)を行なう者が入るのです。
7:22 その日には多くの者が私に言うでしょう。「主よ、主よ、私たちはあなたの名によって預言し、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの奇跡を行なったではありませんか。
7:23 しかし、私はその時、彼らにはっきりと言います。「私はおまえたちを全く知らない。不法を行なう者たち、私から離れて行け。」マタイによる福音書 7章21節~23節

原稿のアイコンメッセージ

主イエスは、マタイ福音書の5章から始まる山上の説教の中で多くのことを語って来られましたが、この7章で終るにあたり、私たちが、永遠の命に至る「狭い門、細い道」(7:13、14)から外れて滅びに至ることがないように、15節以降で重要な警告を与えられます。今朝は、その中の21~23節に進みます。イエスは言われます。21節「私に向って『主よ、主よ』と言う者が皆天の御国に入るのではなく、天におられる私の父の御心を行う者だけが入るのです。」

 これは、何と深く私たちを探る厳粛な言葉でしょうか。私たちは主イエスのこういう率直な教えに感謝したいと思います。信仰生活を送る上で、自分が如何に不信仰に陥りやすいかがよく分っている人は、こういう主の教えのありがたさがよく分ると思うのです。

 では、イエスは何を問題としておられるのでしょうか。

 22、23節と切り離して21節だけを取り上げ、「重要なのは何を信じるかではなく、何を行うかだ。イエスは行いを求めておられる。大事なのは教理ではない。行いだ」という解釈もあります。けれども、21節は決して信仰や教理を排除して、行いによる救いを強調しているのではありません。もっと重要なことを教えています。何でしょうか。自己欺瞞の危険性に私たちの目を開くことです。

 イエスは、15~20節でキリスト教の偽教師、偽牧師のことで警告なさいましたが、ここではさらに踏み込んで、私たちの誰にもある自己欺瞞の大きな危険性を指摘されるのです。神の前では、真(しん)の義と聖以外は無意味であり、人が何を語り、何を行っても、神の前に立つことはできないということです。

 もう少し具体的に学びます。

 第一に、人は単にキリスト教の正しい知識や教理を告白するだけでは、天国に入れません。21節「『主よ、主よ』と言う者が皆天の御国に入る」のではないのです。

 無論、私たちがイエス・キリストに「主よ」と告白することは大切です。これがなければ、誰も罪を赦されず天国に入れません。これは救いの必要条件です。しかし、十分条件ではありません。例えば、神は唯一と信じるだけでは十分ではありませんね。ヤコブ書2:19は、それ位なら「悪霊どもも信じて、身震いして」いると言います。その通りです。正統教理を知り告白するだけで、自分は救われていると思うなら、それは自分を欺いています。注意が必要です。

 第二に、熱心であっても、救われないことがあります。「主よ、主よ」と言葉を重ね、連発し、情熱的なことは素晴らしいことです。しかし、それが本当にその人の信仰そのものかどうかは、分りません。生れつき情熱的とか、熱狂的な雰囲気の教会で育った人には、常に燃えていないと気が済まない傾向があります。そういう人は、無意識の内に自分で自分を焚きつけます。しかし、本当に神への愛と感動からのものかどうかは、十分検討する必要があります。

 無論、信仰は熱くあるべきです。黙示録3:15、16が言いますように、冷たくも熱くもなく、生温いのは主の御心ではありません。けれども、その熱心が何から来ているかは、よく吟味されるべきであり、誰も自分を欺いてはなりません。また自分に欺かれてはなりません。

 第三に、立派な行いそのものも救いの根拠にはなりません。イエスは言われます。22、23節「その日には多くの者が私に言うでしょう。『主よ、主よ、私たちはあなたの名によって預言し、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの奇跡を行ったではありませんか。』しかし、私はその時、彼らにハッキリと言います。『私はお前たちを全く知らない。不法を行う者たち、私から離れて行け。』」

 人は決して良い行いによって神の前に義とされ、救われるのではありません。ローマ書4:5は言います。「働きがない人であっても、不敬虔な者を義と認める方を信じる人は、その信仰が義と認められます。」

 無論、信仰に伴う良い行いは大切です。ヤコブ書はその点を強調しています。しかし、人が罪を赦され、義とされ、永遠の命を与えられるのは、ただイエス・キリストへの信仰によります。これが信仰義認の教理です。しかし、注意しませんと、私たちも時々、自分に何か良い行いができますと、自信を持ち、それで自分が救われているかのように錯覚することがあります。

 牧師なら、良い説教ができたとか、多くの人をイエス・キリストに導いたとかで、自分を誇らしく思う欺瞞の落し穴があります。いいえ、誰にもあります。

 主の前に立つ終りの時、私たちはこういうことを言わないでしょうか。「主よ、主よ、私はよく礼拝を守り、奉仕もし、よくお祈りし、よく献金したではありませんか。」私たちはこんな思いを一切持ってはなりません。

 ある時、自分の良い行いに自分の救いを根拠づけていたパリサイ人に、イエスは言われました。ルカ福音書16:15「あなた方は、人々の前で自分を正しいとするが、神はあなた方の心をご存じです。人々の間で尊ばれるものは、神の前では忌み嫌われる」と。

 私たちは、自分の正統教理の知識や熱心や良い行い自体を、天国への資格や根拠と考えてはなりません。主イエス・キリストにではなく、万一それらに信頼を置くなら、終りの日に次の言葉を聞くことになるかも知れません。23節「私はお前たちを全く知らない。不法を行う者たち、私から離れて行け。」

 肝心のイエス・キリストから心が離れたまま、自分のキリスト教知識や信仰歴や熱心に頼る危険は誰にもあります。しかし、救いはただイエス・キリストを信じる信仰によります。断じて自分を欺いてはなりません。Ⅱコリント13:5は言います。「あなた方は、信仰に生きているかどうか、自分自身を試し、吟味しなさい。」

 では、私たちはどうあるべきでしょうか。21節「天の父の御心を行う」ことです。が、これはどういう意味でしょうか。

 第一に、聖書にある神の御言葉全体に関心を寄せ、従うことです。御言葉全体という点が大切です。先程言いました信仰上の自己欺瞞は、殆どの場合、聖書全体により自己吟味や自己検討をしないことに原因があります。聖書の読み方と自分への適用に、偏りや穴があるため、自分を欺くことになります。山上の説教も、部分的にではなく、全体に隈なく注意を払い、自分に適用したいと思います。

 第二は、世の終りの裁きの日に備えて生きることです。終りの日には、全ての人が神とキリストの前に立たなければならず、一切が明らかにされ、公平に裁かれます。それは真(まこと)のクリスチャンには、愛する主の前に出て、救いが公にされる最高に嬉しい時です。しかし同時に、それは自分の信仰が本物か偽物かが明らかになる厳粛な時でもあります。思いがけない牧師やクリスチャンが、23節「私はお前たちを全く知らない。不法を行う者たち、私から離れて行け」と主から言われるかも知れません。

 終りの裁きの日には、私たちの行いだけでなく、心、動機が問われます。ですから、意識的、無意識的に関らず、自分を欺くことによく注意し、終りの日に備えたいと思います。

 第三に、私たち罪人に真(しん)の義と聖さを与えることのできる唯一の救い主、イエス・キリストに一切の希望を託し、主と共に、また主に結び付いて、あらゆる時を生きることです。

 イエス・キリストにあって生きる!これこそ神の御心を全て含むことです。私たち罪人の唯一絶対の救いの根拠、希望である愛するイエス・キリストに自分の一切を明け渡し、イエスの御霊が、またイエスの義と聖が、私たちを全く自由に支配するように、常に祈りたいと思います。

 もしイエス・キリストを忘れていたことをハッと思い起すなら、私たちは直ちにその場でイエス・キリストを自分のそばに取り戻すのです。自己PRやこの世的なことに夢中とか、人への怒りや恨み、妬み、裁き心で自分が一杯になっていて、イエスが自分の心から締め出されていることに気付くなら、私たちは直ちに自分と戦い、イエスを取り戻すのです。そしてイエスを忘れていた間、私たちの心の扉を外から叩き続けておられたイエスに、私たちの内に入って頂くのです。イエスは言われます。黙示録3:20「見よ、私は戸の外に立って叩いている。誰でも、私の声を聞いて戸を開けるなら、私はその人の所に入って彼と共に食事をし、彼もまた私と共に食事をする。」

 もし今、私たちが、自分の偽善や不信仰に気付くなら、直ちにそれを神に告白し、信仰によってイエスの許に立ち帰りましょう!どんな犠牲を払ってでも、「主よ、私を赦し、罪から清め、私に義を与えて下さい」と求めましょう。主は必ず応えて下さいます。感謝なことに、主はハッキリこう約束しておられます。マタイ福音書5:6「義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りる」と。

 神の御心を行うとは、このようなことです。こうして、素晴らしい永遠の天の御国に確実に入れるようにされ、また皆で支え合い、益々、励まし合っていきたいと思います。

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