2021年08月29日「偽預言者に用心せよ」

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聖句のアイコン聖書の言葉

7:15 偽預言者たちに用心しなさい。彼らは羊の衣を着てあなた方のところに来るが、内側は貪欲な狼です。
7:16 あなた方は彼らを実によって見分けることになります。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるでしょうか。
7:17 良い木はみな良い実を結び、悪い木は悪い実を結びます。
7:18 良い木が悪い実を結ぶことはできず、また、悪い木が良い実を結ぶこともできません。
7:19 良い実を結ばない木はみな切り倒されて、火に投げ込まれます。
7:20 こういうわけで、あなた方は彼らを実によって見分けることになるのです。 マタイによる福音書 7章15節~20節

原稿のアイコンメッセージ

 7:13、14の「狭い門から入りなさい」という主イエスの教えを、2回にわたり学びました。今朝は15節「偽預言者に用心しなさい」に進みます。

 聖書の言う預言者は、天地を創られた真(まこと)の神の教えを取り次ぐメッセンジャーを指します。旧約時代の預言者たちは、聖霊により示された神の御心を神の民イスラエルに伝えました。ところが、偽預言者もいました。預言者は羊の皮で作った服を着、革の帯を腰によく締めましたが、偽預言者も同じ格好をし、両者は大変見分けにくいものでした。

 イエスは、新約時代の教会と信者に対しても、偽預言者、つまり、キリスト教の偽指導者、偽牧師がいるから、用心せよと言われます。しかし、彼らを見分けるのは容易ではありません。彼らも15節「羊の皮を着て」いる、つまり、羊のように温和で好感の持てる人物ということでしょう。キリスト教用語にも堪能です。素晴らしい祈りもします。外から見る限り、彼らは魅力的で良い牧師です。

 では、何が問題なのでしょうか。16節以降でイエスが繰り返し語られますように、彼らの内面が表に出てきて結ぶ「実」が問題なのです。では、「実」とは何でしょうか。言葉、そして行いや態度です。今朝は、彼らの言葉、あるいは教えを取り上げますが、彼らの教えのどういうところが問題なのでしょうか。

 色々考えられますが、この問題をイエスが13、14節のすぐ後で取り上げておられる点が重要です。つまり、偽牧師は「永遠の命に至るのは、狭い門、細い道だけだ」とは余り語らないということです。

 何故語らないのでしょうか。答は簡単です。厳しい話をすると、信者も求道者もイヤがって教会に来ないと考えるからです。

 実は旧約時代の偽預言者たちも同じでした。彼らの典型的なメッセージについて、神はエレミヤ6:14でこうおっしゃっています。「彼らは私の民の傷をいい加減に癒し、平安がないのに、『平安だ、平安だ』と言っている。」(エゼキエル13:10も)

 偽牧師の話は厳しくありません。優しくて感じが良く、人を穏やかな気持にさせます。「私たちはこのままで良い。神はこのままの私たちを受け入れて下さる。ただ神の愛を信じ、神に信頼していれば、全てうまく行く」と言います。こういう牧師の話は一般受けします。人の心を掻き乱さず、不愉快にさせず、平安にしてくれます。すると、多くの人は「あぁ、こういうキリスト教ならいい。これならクリスチャンになってもいい」と考えます。

 けれども、人は、自分を滅ぼす思いと言葉と行いにおける自分の罪について殆ど真剣に考えませんし、自分と向き合いません。パウロのようにローマ7:15、24「私は、自分のしていることが分からない。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをする。…私は何と惨めな人間なのか。死に定められたこの体から、誰が私を救ってくれるだろう」と、とことん自分の罪を憎み、自分に絶望する、ということがありません。ですから、真の謙遜さに欠け、自我は相変らず砕かれません。

 偽牧師も色々なことを語ります。神の愛、十字架、平和、隣人愛、尊い奉仕について語ります。それらは皆正しい。しかし、問題は、話が教理的に正しいかどうかだけではありません。注意すべきことは、彼らが大事な点を語らないことです。例えば、真の神でないものを信じ崇めたり、自分さえ良ければいいといった利己的な罪に対する神の怒りや裁き、永遠の死を語りません。

 彼らは良い生き方についても語ります。イエスの十字架が、私たち罪人の本来受けるべき神の裁きを私たちの身代りとして受けて下さった贖いの死であることも語ります。

 しかし、イエス・キリスト以外に救いはないとか、頑なな自我の問題や人間のどうしようもない自己中心の罪については、あまり語りません。従って、偽指導者を見抜くにためは、彼らが何を語るかだけでなく、何を語らないかを調べることも大切です。

 単なる牧師批判や粗捜しのためではなく、神の前に皆が本当正しくあって真に救われるために、信徒も牧師の言葉をよく分析するべきなのです。神が聖書で明らかにしておられる真理の一部はよく語り、しかも感動的で涙さえ誘っても、真理全体を語っているかどうかが重要なのです。

 ところで、偽牧師、偽教師の本質は何なのでしょうか。厳しいですが、イエスは15節「その内側は貪欲な狼」だと言われます。本人が気付いているかどうかは問題ではありません。彼らの教えることが、結果として、例えば、山上の説教の5:3~10でイエスが真に幸いな信仰者として描かれた八つの特質を持つ者へと人を育てず、「あの先生の話は楽しい。私は先生のファンだ」などと牧師を信奉する、いわゆる牧師信者にしてしまうことです。広い門と道を教えては、表面的なクリスチャンにし、肝心の救い主イエス・キリストに深く結びつかない信者にしてしまうのです。

 こういう牧師は皆に慕われるかも知れません。しかし、イエスは言われます。世の終りの裁きの時、23節「私はその時、はっきりと言います。『私はお前たちを全く知らない。不法を行う者たち、私から離れて行け。』」、19節「良い実を結ばない木は皆切り倒されて、火に投げ込まれ」ると。

 一体、イエスは偽牧師について、どうしてこうまで厳しく警告されるのでしょうか。サタンが働いているからです。サタンは、自分が神とキリストに太刀打ち出来ず、世の終りに地獄へ滅ぼされることをよく知っています。しかし、易々と滅ぼされはしません。自分がやがて裁かれる永遠の滅びに、神が愛をもって造られた人間を一人でも多く道連れにし、神に仕返ししたいのです。

 そこで、最も効果的なやり方は、牧師の説教や教えを利用することです。そのため、牧師には絶えず誘惑があります。ですから、パウロも、牧師であった弟子のテモテに愛と励ましを込めて、こう命じました。Ⅱテモテ4:1~5「神の御前で、また生きている人と死んだ人を裁かれるキリスト・イエスの御前で、その現れとその御国を思いながら、私は厳かに命じます。御言葉を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。忍耐の限りを尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。というのは、人々が健全な教えに耐えられなくなり、耳に心地よい話を聞こうと、自分の好みに従って自分たちのために教師を寄せ集め、真理から耳を背け、作り話に逸れて行くような時代になるからです。けれども、あなたはどんな場合にも慎んで、苦難に耐え、伝道者の教えをなし、自分の務めを十分に果たしなさい。」

 神の教えを取り次ぐ者に命じられている神の言葉を読んでおきます。申命記4:2「私があなた方に命じる言葉につけ加えてはならない。また減らしてはならない。」黙示録22:18、19「私は、この書の預言の言葉を聞く全ての者に証しする。もし、誰かがこれに付け加えるなら、神がその者に、この書に書かれている災害を加えられる。また、もし、誰かがこの預言の書の言葉から何か取り除くなら、神は、この書に書かれている命の木と聖なる都から、その者の受ける分を取り除かれる。」

 厳しいのです。ですから、ヤコブ3:1はこう言います。「私の兄弟たち、多くの人が教師になってはいけません。あなた方が知っているように、私たち教師は、より厳しい裁きを受け」ると。

 以上の警告に関連して、二つのことを述べて終ります

 一つは、明確に偽教師と言える人は現実には多くなく、むしろ注意すべきは、一人の牧師が、殆どは神の御旨を語りながら、時々大切なことを語らず、あるいは段々語らない者に、本人も気付かない内に変っていくことです。

 これを見抜くのは難しく、信徒も十分注意が必要です。特に教会役員は、牧師の説教をよく聴き、内容を吟味できる力を着ける必要があります。

 幸い、世界の改革派・長老派教会には、神が聖霊により歴史を通じて教会を導き告白させられたウェストミンスター信条を初め、多くの優れた信条と教理体系があります。命に通じる狭い門と細い道、また信仰の先輩たちが命がけで守った聖書の大切な教えが、そこにはあります。是非活用したいですね。これは、教会外の教えの是非を見極める上でも大変有益です。

 第二に、偽預言者に用心せよとの教えは、牧師についてだけでなく、信徒についても当てはまります。既に紀元1世紀の初代教会時代にユダヤ主義やグノーシス主義の異端の信者に教会が惑わされたことがありましたし、その後の歴史を見ても、このことは分ります。

 信徒も偽預言者になり得るのです。実際には、人の魂を永遠に滅ぼす程、大きく誤ったことは言わないかも知れません。けれども、人を神とイエス・キリストにではなく、真の福音にでもなく、特に自分自身に引き付けてしまうような発言はしばしばあり得ます。

 ですから、そういう点が僅かでも自分の内にあることに気付くなら、私たちは自分に向って直ちにこう叫びたいと思います。「偽預言者の貪欲な霊よ、今すぐ私から失せ去れ!」そして直ちに神に赦しを求め、自分の全てを徹底的に神が支配し清めて下さるように、自分を神に明け渡したいと思います。神は、そういう私たちをどんなに喜ばれ祝福なさり、より多くの人が救いの道を正しくしっかり歩むことにお用い下さることでしょうか!

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