2021年08月15日「細い道」

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マタイによる福音書 7章13節~14節

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 マタイ福音書5章から始まります主イエスの山上の説教も、7:13から最後の部分となります。その最初の教えが「狭い門から入りなさい」です。

 キリスト教信仰の道は、実際には狭くありません。むしろ自由です。イエスは言われました。ヨハネ8:31、32「あなた方は私の言葉に留まるなら、本当に私の弟子です。あなた方は真理を知り、真理はあなた方を自由にします。」

 しかし、人間の罪と不信仰のために、キリスト教信仰の道は狭く細いものとなり、前回学びましたように、そこへ入るためには捨てなければならないものがあるのです。神の嫌われる因習や行事、人をすぐ裁き仕返しをし、自分の立派さを人に見せたがるなどのこの世的精神、そして利己的な自我などです。

 また広い方ではなく、狭い門と細い道を選ぶべきなのは、両者のゴールに決定的違いがあるからです。これも前回少し学びました。

 今朝も13、14節を学びます。イエスはここで私たちに、クリスチャンの生き方を眺めるだけでなく、「入りなさい」と行動を促されます。

 具体的に言いますと、第一にイエスは、私たちにキリスト教信仰に生きる決断を求められます。キリスト教の教えは論理的で知的で清潔です。しかし、ただ話を聞き頭で納得するだけでは、十分ではありません。主は「入りなさい」と命じられます。私たちはこれに応じる必要があります。

 第二にイエスは、私たちにこの狭い門、細い道を探し求めることを要求されます。14節「それを見いだす者は僅か」だからです。何故僅かなのでしょうか。探し求める人が少ないからです。ですから、探し求める必要があります。

 探し求めるとはどういうことでしょうか。福音を実生活に生かすことです。福音を本当に生活に生かすことで、自分がこの細い道を歩いていることを確認できるのです。

 第三に、そこに入ったなら、真直ぐ歩き続けることです。この細い道を真直ぐ歩き続ける上で大切なことの一つは、私たちが自分に語りかけることでしょう。クリスチャン生活を送る上で大事なことは、神の御子イエスが私たちのために何をして下さり、それ故、自分が何者で、どこへ向って歩んでいるかを、繰返し自分に語りかけ、思い起すことです。それが、この道を真直ぐ歩き続けることです。

 例えば、次のように自分に語りかけるのです。「私は今やイエス・キリストのお蔭で神の子とされ、狭い門から入り、細い道を歩んでいる。主は私を滅びの道から救いの道に入れて下さり、私は天の国に向って歩んでいる。私はこの世の誘惑と試練、サタンの巧妙なやり方も知っている。しかし、私はサタンのものでもこの世に属する者でもない。私の本国は天にあり、私はこの世では旅人、寄留者に他ならない。私は主に倣って今日もこの道を歩むのだ」と。このように何度も自分に語りかけ、大切なことを自分に思い起こさせ、自分を促すのです。その結果、自分が確かにこの道を歩き続けていることが分ります。

 以上が大きな第一のことです。頭で分っているだけでなく、そこに自分を投入する!主は「入りなさい」と言われます。

 大きな二つ目のことに進みます。前回も少しお話しましたが、それは狭い門に入るべき理由をよく考えることです。感謝なことに、主は理由も語られます。13、14節「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広く、そこから入って行く者が多いのです。命に至る門は何と狭く、その道も何と細いことでしょう。そして、それを見いだす者は僅かです」と。

 入るべき理由の一つは、二つの道の性質の違いにあります。二つの道に示される人間の生き方の違いをよく考えるなら、迷う余地はないのですが、私たちはそれをなかなか徹底的に考えようとはしません。しかし、それはとても大切なことです。

 幸いにも神が定められた日曜礼拝に私たちが集うことは、普段、自分がいるこの世から一歩外へ出て、二つの道を客観的に見るための神の恵みと言えましょう。

 そこで、まず広い道を歩む人の生き方を見ます。それは要するに、天地を創られた真(まこと)の神に背を向け、自分の考え、自分の経験、自分の欲に従う生き方です。自分に損となって返って来ない限り、自分を喜ばせることを第一とする生き方です。これが心地いいですので、多くの人は自分の魂の永遠の行先さえ棒に振ろうとします。

 しかし、神を拒み、そうまで固執する生き方に、結局何があるというのでしょう。ローマ6:21は言います。「その頃、あなた方はどんな実を得ましたか。今では恥ずかしく思っているものです。それらの行き着く所は死です。」

 実際、多くの人は、クリスチャンとなって自分の過去を振り返りますと、恥かしいと思うことが一杯あるのではないでしょうか。肉の欲、目の欲、生活のおごり、自慢話、下らない優越感、劣等感、ひがみ、妬み、憎しみ、俗悪な無駄話、延々と人の悪口を言って楽しむ。一体何が残るのか。空しくないでしょうか。伝道1:2は「空の空。全ては空」と言い、Ⅰペテロ1:18も「先祖伝来の空しい生き方」と言います。

 聖書は、この世の広い道は皆空しいと言います。そこを歩んでいる時でさえ本当の充足はなく、あと味も悪い。

 では、救い主イエスを信じ受け入れ、神を崇め、神を仰ぎ、福音を喜び感謝し、神と人に仕え、人に笑顔を生じさせる道はどうでしょうか。例えば、山上の説教が示す生き方は、何と真実で、清くて、温かいでしょうか。他にどんな永遠的満足を与えてくれるものがあるでしょうか。

 神を信じない人のとても残念な点の一つは、福音に生きる素晴らしさを味わったことがないことです。

 いいえ、生き方だけではなく、行先も違います。13、14節「滅びに至る門は大きく、その道は広く、そこから入って行く者が多いのです。命に至る門は何と狭く、その道も何と細いことでしょう。そして、それを見いだす者は僅かです。」

 多くの人は自分の行き着く先を考えようとせず、旅そのものしか見ません。でも、旅には終りが来ます。「それらの行き着く所は死」だと、ローマ6:21は言います。苦しみや永遠の後悔だけでなく、全ての善きものの源なる神からの永遠の隔絶という死です。

 しかし、ローマ6:23は告げます。「神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠の命」だと。

 ですから、クリスチャンとしての生き方を少しでも面倒に思う時は、二つの生き方と終着点の違いを、よく考えると良いでしょう。この世の上辺だけの喜びや満足は、死の彼方に何一つ持っていけず、悲惨な滅びだけです。

 もう一つの生き方は命へ導き、進むにつれてますます素晴らしくなります(箴言4:18「正しい人の進む道は、あけぼのの光のようだ。いよいよ輝きを増して真昼となる」参照)。この世の生活で様々な困難に遭うとしても、永遠の祝福への道を歩んでいます。Ⅰペテロ1:4が言う通り、私たちのために天に蓄えられている「朽ちることも汚れることも消えていくこともない資産」に向って歩んでいるのです。

 入るべき理由の二つ目として、狭い門から入っていないなら、広い道にいるから、ということも考える必要があります。

 私たちは広い道と細い道の中間にいるのではなく、必ずどちらかにいて、生れながらの人は皆広い方にいるのです。細い道にいないなら、広い道にいる。ですから、私たちは決断しなければなりません。

 無論、私たちの決断それ自体が私たちを救うのではありません。生れながらの私たち罪人は、誰一人自分で自分を救うことはできません。私たちは、主イエスの十字架の恵みによってのみ罪から救われます。狭い門から入ることで自分を救うのではなく、それにより、自分がイエスの恵みにより救われていることを確認させて頂くのです。

 ところで、先程のことと関係しますが、もし私たちが十分なクリスチャン生活を送っていないなら、それは直ちに広い道にいることになるのでしょうか。そうではありません。洗礼を受け、教会に属するクリスチャンであっても、罪の残り滓があり、何度も罪を犯し失敗します。

 大事なことは、それでも私たちがイエス・キリストの愛と赦しに満ちた福音に生きようと何度でも決断し、それに自分を投入することです。主イエス・キリストのお姿に近づき、もっと清い者に変えられたいと望んでいるかどうかです。

 自分の不信仰と罪を心底悲しみ、神の下さる義に飢え渇いているなら、私たちは間違いなく細い道にいます。イエスは、細い道を歩んでいる真(まこと)のクリスチャンを、5:4「悲しむ者」、5:6「義に飢え渇く者」と描いておられます。

 真(まこと)のクリスチャンも失敗し、誘惑に負けます。でも、それは直ちに広い道への逆戻りを意味しません。細い道の上で転ぶこともあります。しかし、転んだことを悟り、本気で自分に怒り、罪を心底悲しみ、罪を告白するなら、「神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちを全ての不義から清めて下さ」います(Ⅰヨハネ1:9)。何と感謝なことでしょう!

 最後に一言。「狭い門」とイエスは言われます。それなら、救われる人は少ないのでしょうか。

 こういう疑問は神に任せるのです。イエスはルカ13:24でこうおっしゃっています。「狭い門から入るように努めなさい!」その通り、私たちのすべきことは、入るように努めること、自分がそこに入っていることを確実にすることです。是非、そうしたいと思います。

 すると、「信仰の創始者であり完成者」であるイエス・キリスト(ヘブル12:2)をしっかり見つめ、辛く悲しいことの多いこの世にあっても、なお神と人に誠実に仕えてきた全ての救われた人々の中に、自分自身を発見することを必ず許されるでしょう!

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