2021年08月08日「狭い門から入りなさい。」

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狭い門から入りなさい。

日付
説教
田村英典 牧師
聖書
マタイによる福音書 7章13節~14節

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7:13 狭い門から入りなさい。滅びに至る門は広く、その道は広く、そこら入って行く者が多いのです。
7:14 命に至る門は何と狭く、その道も何と細いことでしょう。そして、それを見出す者は僅かです。マタイによる福音書 7章13節~14節

原稿のアイコンメッセージ

 マタイ7:13、14に今日は進みます。

 5章から、いわゆる「山上の説教」をしてこられた神の御子イエスは、7:13で「狭い門から入りなさい」と、つまり、ただ聞くだけで終らず、御言葉に実際に生きるように言われます。御言葉を日々自分に適用し、生きることで、私たちは「良い実」(17節)を結び、「岩の上に自分の家を建てた賢い人」(24節)とされます。またイエスは言われます。21節「私に向って『主よ、主よ』と言う者が皆、天の御国に入るのではなく、天におられる私の父の御心を行う者が入るのです」と。

 ですから、今まで学んできた教えの前に、私たちは、イエスかノーかの決断を求められています。主イエスの教えに従うことで、自分が確かに神に召され、天国の民とされていることを確認していくのか、それとも本気で御言葉に従う気はなく、そうやって天国や永遠の救いを拒むかが問われるのです。

 さて、イエスはある情景を描かれます。門が二つあります。片方は一人がやっと入れるぐらいで狭く、続く道も細い。たまに人が入るだけで、先を歩く人もまばらです。もう一方の門は広く続く道も広く、人が群がって悠々と歩き、次々そこに入っていきます。両者は対照的です。しかし、イエスは言われます。「狭い門から入りなさい!」

 ここで私たちは、神の国に属し、救いの道を歩む人の生き方は、最初から狭く、細いことを知ります。最初は広くて段々狭くなるのではありません。従って、「分っても分らなくてもドンドン洗礼を人に授け、クリスチャンにすれば、後は何とかなる」というような考えは、イエスの教えとは違います。

 また、「クリスチャンであるかないかに大差はない。クリスチャンであることを狭い生き方とは考えず、美しい生き方と考えれば良い」という声もあります。確かに、あまり違わない所も沢山あり、クリスチャンであることは、美しい生き方だと思います。しかし、こういう声も、イエスの福音とは違います。

 イエスは甘い言葉で人を引き付け、すぐクリスチャンにするような方ではありません。主は正直です。真実しか語られず、耳障りは必ずしも良くありません。けれども、福音とは本来そういうものです。だからこそ、私たちも真剣に福音と取っ組み、真実な神に自分の一切を明け渡して従います。すると、神の真実や愛も一層よく分るようになります。

 繰り返します。イエスは、「決定的な違いが両者にはある」と言われます。狭い門、細い道は永遠の救いに至り、広い門と道は滅びに至ります。イエスの正直な言葉を私たちは深く心に刻み、信仰と勇気を奮い起される必要があります。

 こういう言い方は、いつの世でも敬遠されやすいでしょう。しかし、Ⅰコリント1:18は「十字架の言葉は、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力」と言います。よく考えたいと思います。

 命に至る門は狭いと、イエスは言われます。門は入口、出発点です。ある聖書学者は、門は人がクリスチャンになるための回心のことだと言います。そうとも言えますが、ただそう言うだけでは、抽象的です。狭い門へ入るためには、捨てなければならないものがある。本当の回心とは、そういうものです。

 では、何を捨てるのか。

 一つはこの世のものです。例えば、今まで私たちが無批判に従ってきた習慣や因習などです。無論、捨てる必要のない良いものも沢山あります。礼儀や礼節などは、そうですね。しかしその場合でも、私たちは聖書によってそれらを捉え直し、クリスチャンとしての意味をもって守ることが大切です。

 実の所、神の嫌われる偶像礼拝的な習慣や行事は沢山あり、それらを捨てることは、自分が世間から見て異質な存在になることです。従って、クリスチャンの生き方は必ずしも世間受けしません。世間のそれと一歩距離を置き、別の基準や価値観で生きますので、変人に見られます。自分が異質な存在であることを自覚することは、楽ではありません。

 夏目漱石は、小説『草枕』の冒頭で、「知に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい」と書きます。その通りです。しかし、矛盾を感じつつも、人に煙たがられず、時代や社会に合せる広い門に、今も多くの人が入って行きます。「意味がない」と思いつつも、多くの人は昔ながらの因習や世間の風潮に逆らいません。どうしてでしょうか。楽だからです。

 しかし、キリストの福音に生きる人は違います。「人がどうであろうと、私は神の真理に従う。私は自分の生き方に責任をもって生きる。」以上がこの世のものを捨てるという意味です。

 捨てるべきものの二つ目に進みます。何でしょうか。この世的精神です。

 例えば、仕返しや復讐の精神がそうです。イエスは言われます。マタイ5:43、44「『あなたの隣人を愛し、あなたの敵を憎め』と言われていたのを、あなた方は聞いています。しかし、私はあなた方に言います。自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」ところが、私たちはこれに従いたくありません。生れながらの私たちの本能が命じることは、人にやられたならばやり返し、自分の権利は守り、自分を愛してくれる人を愛し、自分を憎む者を憎み、嫌いな人には近づかないことです。

 6:1でイエスは、人に見せるために人前で善行をするなと言われます。しかし、しばしば私たちは、自分の立派さを人に知らせ、印象付けることに熱心ではないでしょうか。

 7:1でイエスは、人を裁くなと言われます。しかし、私たちは何とよく人を裁き、批判することでしょう。これらがこの世的精神です。門は狭い!これを捨てる覚悟が必要です。

 しかし、一番捨てがたい第三のものがあります。何でしょう。自我です。

 門は狭く、古い自分を持ったままでは通れません。イエスに贖われた神の子としての新しい自分と、自己主張に熱心な古い自分が一緒では、この門は通れません。古い自分は、神の前にボロ切れのようなものです。ですから、コロサイ3:9は「古い人をその行いと共に脱ぎ捨て」よと、言います。

 イエスは言われます。マタイ5:3「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。」しかし、生れながらの人は、心貧しくなることを必ずしも好みません。謙遜ぶることはできても、それにより自分が高尚な人間であるかのように思いたがることさえあります。誠にこの世で至難の業は、心貧しくなることです。しかし、Ⅰコリント1:28が言いますように、神は敢えてこの世で無に等しい私たちを選ばれたのではなかったでしょうか。

 昔、ピューリタンたちは言いました。「天国への狭い門の入口には立て札があり、こう書いてある。『あなた自身を捨てて入れ。』」

 その通り、古い自分を捨てず、自己主張や自己防衛に明け暮れ、自分のことばかり考えているなら、私たちは神の子となって、イヤな人や敵を愛することはできません。古い自分は十字架につけて死に、人を裁く前に、まず自分を裁くのです。

 クリスチャンになるのは、立派な人と言われるためではありません。この門から入るには、自意識の強い自分を捨てる必要があります。イエスは言われます。マタイ16:24「誰でも私について来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、私に従って来なさい。」

 神の前に心底平伏し、自分を捨てる真の自己否定が大切です。自意識、自尊心、見栄などの罪をまとって肥え太った古い私たちは、キリストと共に十字架につけられなくてはなりません。パウロは言います。ガラテヤ2:19、20「私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私の内に生きておられるのです。」

 細い道についても少し触れます。これは、クリスチャンの道には困難が伴うことを指します。5:10、11が言いますように、義のために迫害され、罵られ、悪口(あっこう)を浴びせられることもあります。この世はいつも神に従う人を迫害してきました。

 また、クリスチャンはしばしば誤解されます。クリスチャンはこの世を理解できますが、この世はクリスチャンを理解できません。そのため、マタイ10:36が言いますように、悲しいことですが、家族が敵となることもあります。

クリスチャン生活は初めから狭く、細い。古い自我を捨て、困難と戦います。

 では、何故こうまでしてクリスチャンは歩むのでしょうか。広い門では駄目なのでしょうか。主は言われます。「滅びに至る門は大きく、その道は広く、そこから入って行く者が多い。」

 ゴールに目を注ぐのです。広い門と道は何も捨てる必要がありません。謙遜で、敵を愛し、自分を裁き、自分を捨てるなどの必要はありません。しかし、その最後は滅びです。イエスは、私たちを永遠の滅びから何としてもお守りになりたいのです。

 この門は狭く、道は細い。しかし、これはイエスご自身が既に通られたものです。それも私たちの罪をことごとく背負って死ぬという、遥かに狭くて細い困難な、茨と十字架の道です。それはただただ私たちのためでした。主イエスは全てを体験済みです。ですから、必ず必要な助けと力を下さいます。主は「私は、あなた方を捨てて孤児にはしない」(ヨハネ14:18)と約束されました。聖霊により、必ず助けの手を差し延べて下さいます。

 そして「もう良い」と思われれば、私たちを天のゴールに迎え入れ、「忠実な良い僕(しもべ)だ。良くやった」と言われ、「神は彼らの目から涙をことごとく拭い取って下さる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである」(黙示録21:4)という究極の約束を実現して下さいます!

 私たちを極みまで愛しておられる主イエスの御声、「狭い門から入りなさい」に、是非、今日、皆でお応えしたいと思います。

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