2021年08月01日「黄金律」

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7:12 ですから、人からしてもらいたいことは何でも、あなたがたも同じように人にしなさい。これが律法と預言者です。マタイによる福音書 7章12節

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 今朝は、主イエスが語られた黄金律と呼ばれる12節に注目し、少しでもこれに生きる者にされたいと思います。

 まず基本的なことを確認します。

 第一にこれは積極的な戒めです。何かをしないのではなく、することに特徴があります。

 似ている教えは聖書以外にもあります。1世紀のユダヤ教学者ラビ・ヒルレルは「自分にとってイヤだと思うことは、人にもするな。それが律法の全てであり、他は全てその説明だ」と言いました。ソクラテスは「人の仕打ちに遭ってあなたが憤慨するようなことは、人にもするな」と言い、孔子は、生涯かけて実践すべき規準として「己の欲せざる所、人にも施すなかれ」と教えました。これらは皆、自分にイヤなことは人にもするな、と消極的です。しかし、イエスの教えは「自分にしてほしいことは、人にもしなさい」と積極的です。

 私たちには、消極的な方が楽でしょう。何もしないで済むからです。しかし、それでは何も生れません。イエスは、私たちが腰を上げ、良い人間関係を築くために積極的行動をすることを望まれます。消極的な処世訓とは違い、私たちから相手に手を差し伸べることを、主は願われます。

 第二に、この戒めは私たちをへりくだらせないではおれません。

 私たち人間は、人に「こうしてほしい、ああしてほしい」と願い続けています。ということは、イエスによれば、私たちが人にすべきことにも終りはなく、「私は十分にやった。今度は当然私が尽されていいはずだ」とは言えないということです。自分が人に要求する限り、私たちも人への奉仕を神から求められます。これを真剣に考えますと、私たちは自分が如何に不十分かがよく分ると思うのです。

 私たちは「あの人がああしてくれれば、私も」とよく思います。そうであるなら、私たちもそうすべきですね。こう考えますと、誰もがへりくだらないではおられません。しかし、これに気付かされることは幸いです。自分の足りなさを知り、神の前に頭を垂れるところから、神に祝福される真実な歩みが始るからです。

 第三に、この戒めは聖書全体の戒め、すなわち、愛と切り離せません。

 主イエスは12節「これが律法と預言者です」と、つまり、聖書全体の中心的教えだと言われます。聖書は至る所で対人関係の戒めを教えます。それらを一言で言うなら、結局、12節「人からしてもらいたいことは何でも、あなた方も同じように人にしなさい」なのです。

 イエスは他にも対人関係を教える聖書の戒め全体を、聖書の言葉、レビ19:18を引用し、マタイ21:39で見事にこうまとめておられます。「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。」

 私たちは漠然と愛と言われても分りません。そこで神は、色々な場合の愛を、噛み砕いて色々な言葉で語られるのです。「父母を敬え、殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、貪るな」という十戒の一つ一つの戒めも全て、愛の色々な形であり、その愛をイエスは7:12で更に分りやすく教えられたのです。

 ところで、何故イエスは「これが律法と預言者」だと言われたのでしょうか。当時、ユダヤ人の多くが聖書を規則集のように思っていたからです。戒めを一つ一つ取り上げ、法律の条文のように、一つを守れば安心し、一つを守れなければ落胆していました。更に悪いことに、人に適用しては、人を裁きました。しかし、聖書の戒めは、その中心点である愛を見落してはなりません。ローマ13:8以降はこう言います。「誰に対しても、何の借りもあってはなりません。但し、互いに愛し合うことは別です。他の人を愛する者は、律法の要求を満たしているのです。『姦淫してはならない。殺してはならない。盗んではならない。隣人のものを欲してはならない』という戒め、また他のどんな戒めであっても、それらは『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』という言葉に要約されるからです。…愛は律法の要求を満たすものです。」

 私たちは聖書に色々な戒めを見ますが、ともすれば、それらを守るべき真の理由や動機を考えず、ただ聖書の戒めだから守らなければ、と考えやすい傾向があります。しかし、これが高じますと、律法主義や形式主義に陥ります。しかし、ただ「形の上でアレは守り、コレは守らなかった」ではなく、自分がしてもらって嬉しいことを人にもして上げようという喜びと感謝を分ち合う愛に促されて行なうのです。あくまでも神を畏れ、真実の愛から出ているか否かで一切の事柄が計られるのが、聖書の宗教の真髄です。

 以上、基本的なことを確認しました。では、これを実践する上での注意は何でしょうか。実践してこそ、これは祝福となります。

 第一は相手の立場になって考えることです。

 これを私たちは幼い時から教えられています。実際には中々出来ませんが、もし私たちが人のことで不満を覚えるなら、相手の立場になって、その人に何が神の前に必要かを探し、出来ることをして上げるのです。

 これには消極的な面も当然含まれます。つまり、どう言われ、何をされたら、自分が傷つきイヤかを私たちは知っています。それなら、私たちもそれをしないことです。

 また忠告し戒める時も、問題点だけを言い、相手の人間性や生い立ちや家族のことまで言わないことです。私たちもそうされたらイヤですね。ですから、問題点のみ指摘し、人にしてもらって励まされたことをするのです。相手の立場に自分を置いてよく考え、自分に出来ることから始めたいと思います。

 第二は相手に要求する前に、自分の義務を忘れないことです。

 近年はすぐ権利が主張され、人への要求が多いですね。しかし、クリスチャンは人に要求する前に、自分の義務を忘れてはなりません。

 エペソ5:28は、夫に対して、自分の妻を自分の体のように愛せよ、と教えます。夫はこれを肝に銘じるべきです。しかし、これは妻が夫に要求するものとして書かれてはいません。

 一方、5:22は、妻に対し、主に従うように自分の夫に従え、と命じます。これは妻への神からの要求であり、夫が妻に要求するものではありません。

 教会や職場の人間関係でも同じです。聖書が私たちに求めることから、私たちは始めるのです。

 私たちはつい自分にしてほしいことだけを人に求めますが、まず自分がすべきことをしているか否かを振り返ることから始めたいと思います。その時、私たちは神の喜ばれる人間関係を築く第一歩を確実に踏み始めています。

 第三に、人に何かを行う時は、恵み深い天の父を見上げることです。

 今見て来ました黄金律の具体的な心得は、大体私たちの分っていることだと思います。しかし、私たちは中々実行しません。どうしてでしょうか。生れながらに私たちは自己本位だからです。しばしば、私たちは一日中自分のことを考え、自分に言われ、自分にされたイヤなことを思い出しては、憤慨していることはないでしょうか。時には随分昔のことまで思い出して、怒っている。

 しかし、他の人もそうであることを分ろうとせず、自分のことだけです。この自己中心性から、強い自己防衛や自己主張が生じます。そして罪と自己本位の常として、そこには苦い敵意が混じっています。

 私たちは神の清い教えを学びますが、「守るのは難しい」と言います。何故難しいのか。神が悪いのでしょうか。いいえ、私たちが自己中心で、教えをまともに実行したら割に合わないことを知っているからです。「どうして私だけが」という無意識の思いが、私たちの意欲を削いでしまうのです。

 しかしここでこそ天の父なる神を見上げたいと思います。主イエスは、マタイ7:7以降で霊的なことを神に求めるように大いに私たちを励まし、11節「あなた方は悪い者であっても、自分の子供たちには良い物を与えることを知っているのです。それならなおのこと、天におられるあなた方の父は、ご自分に求める者たちに、良いものを与えて下さらないことがあるでしょうか」と約束されます。12節に「ですから」とありますように、黄金律はこの約束に基づいて教えられているのです。

 一体、私たちの何が良くて、神は御子、主イエスを十字架につけてまで私たちを赦し、救おうとされるのでしょうか。クリスチャンになっても、罪を犯しては悔い、悔いてはまた犯し、神を悲しませることの多いこんな私たちに、御子イエスの故になおも罪の赦しを下さる天の父なる神が、更に霊的祝福をもご用意下さっているのです。ですから、イエスは7節で「求めなさい。探しなさい。叩きなさい」と言葉を重ねて私たちを励まされます。私たちはこんなにも神に愛されている!ですから、天の父なる神を見上げるのです。

 そして、この神の愛の光の下に人を見る時、その人も私たちと同じように、罪と弱さを持ち、助けを必要としている人であることに気付きます。すると私たちは自ずと、「神様、いつまでも自己本位な私を赦して下さい。あなたはこんな私をも愛し、霊的な求めに応えて下さるのですから、私も心から人に仕える者にならせて下さい」と熱く祈らないではおれません。その時、私たちは黄金律の中心部分を生き始め、私たちの周囲に温かい人間関係を築き始めることを許されるでしょう。

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