2021年07月29日「祈りについて (20)」

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祈りについて (20)

日付
説教
田村英典 牧師
聖書
ルカによる福音書 15章11節~26節

聖句のアイコン聖書の言葉

【新改訳改訂第3版】
ルカ
15:11 イエスはまたこう話された。「ある人に息子がいた。
15:12 弟のほうが父に、『お父さん、財産のうち私がいただく分を下さい』と言った。それで、父は財産をふたりに分けてやった。
15:13 それから何日もしないうちに、弟息子は、すべてのものをまとめて遠い国に旅立った。そして、そこで放蕩して、財産を湯水のように使ってしまった。
15:14 何もかも使い果たした後、その地方全体に激しい飢饉が起こり、彼は食べるにも困り始めた。
15:15 それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑に送って、豚の世話をさせた。
15:16 彼は、豚が食べているいなご豆で腹を満たしたいほどであったが、だれも彼に与えてはくれなかった。
15:17 しかし、彼は我に返って言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が、なんと大ぜいいることか。それなのに、私はここで飢え死にしようとしている。
15:18 立って、父のところに行こう。そしてこう言おう。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。
15:19 もう、息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください。」』
15:20 こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとへ向かった。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけて、かわいそうに思い、駆け寄って彼の首を抱き、口づけした。
15:21 息子は父に言った。『お父さん。私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。もう、息子と呼ばれる資格はありません。』
15:22 ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い衣を持って来て、この子に着せなさい。手に指輪をはめ、足に履き物をはかせなさい。
15:23 そして肥えた子牛を引いて来て屠りなさい。食べて祝おう。
15:24 この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから。』こうして彼らは祝宴を始めた。
ルカによる福音書 15章11節~26節

原稿のアイコンメッセージ

 大切な恵みの手段の一つ、祈りについて今日も学びます。20回目になります。

 

 カルヴァンも言いますように、祈りは、神との対話であり交わりです。しかし、本当にそうなるために、留意したいことがあります。特に大きな困難に遭遇しますと、弱い私たちは祈ってもそれが祈りになっていない時があります。そういう時に覚えることとして、第一に私たちは、聖書が証しする神の全能の力をしっかり確認すべきことを学びました。

 今日は二つ目に進みます。何でしょうか。天と地と私たちを創られた生ける真(まこと)の神が、イエス・キリストにあって本当に私たち信仰者の父でいて下さるという事実です。これも何と素晴らしいでしょう!

 神が信仰者の父であられることとその素晴らしい恵みについては、主の祈りの呼びかけの言葉を学んだ2019年7月31日の祈祷会で既にお話しました。しかし、これは大変素晴らしいものですので、今日、改めて確認したいと思います。

 父なる神について、パウロはⅡコリント1:3で「私たちの主イエス・キリストの父である神、憐れみ深い父、あらゆる慰めに満ちた神」と言っています。実際、神は、私たちに対してどんなに憐れみ深く、赦しと憐れみと慰めに満ちた父でいらっしゃるでしょうか。そこで、この点を特にルカ15:11以降、つまり、イエスが語られた、いわゆる「放蕩息子の譬」から改めて確認したいと思います。

 カルヴァンは、祈りについて教える『キリスト教綱要』第3篇20章の37節で、ルカ15:11~32に言及してこう書いています。要点を見事に捉えていますので、少し長いですが、引用してみます。「この神の満ち溢れる父としての優しさを我々に描き示す譬え話がある。そこでは、父は、自分から背き去って財産を放蕩に使い果たし、あらゆる方法で自分に重大な罪を犯した息子を、出迎えてその両脇に抱え入れる。父は赦しを乞う言葉を期待するのでなく、自らそれに先んじて、息子が帰って来るのを遠くから認めて出迎えて走り寄り、彼を慰め、寵愛の内に受け入れるのである。

 キリストは、人間の内に見られるこのように大いなる優しさの例を示し、たとえ忘恩の反逆児で子に価しない者であろうと、我々が神御自身の憐れみに身を投げさえすれば、単に父であるのみか、全ての父を遥かに超えて善で寛容な御自身から注ぎ出るものの如何に豊かであるかに期待すべきであると、我々に教えようと願われた。」

 カルヴァンはこう述べ、ただ御子イエス・キリストへの信仰の故に、その御子イエスの父であられる神を私たちが「父」と呼べることが、どんなに計り知れない恵みであり幸せであるかを見事に教えます。

 実際、ローマ8:15やガラテヤ4:6から分りますように、初代教会のクリスチャンたちは、当時のユダヤの言葉・アラム語で、子供が父親に呼びかける時の「アバ」という幼児語を使い、神に「アバ、父よ」と親しく呼びかけ、神と交わりを持ったのでした。

 そして、実はこれは、主イエスご自身から来ています。主は、いよいよ明日は全人類の罪のために十字架に架かられるというその前夜、サタンも攻撃してくるゲツセマネの園で、こう祈られました。マルコ14:36「アバ、父よ。あなたは何でもおできになります。どうか、この杯を私から取り去って下さい。しかし、私の望むことではなく、あなたがお望みになることが行われますように。」主イエスは、人間として最後で最大の危機を前にし、神を「アバ、父よ」と、つまり、本当にご自分の父であられることをこそ覚え、その御父に語りかけ、そうして一切を委ね、敢然とご自分の使命に向われたのでした。

 割合多くのクリスチャンが、どうしようもない私たち罪人にご自分から駆け寄り、首を抱き、口づけして慰めて下さるほどに、驚くべき愛と憐れみに満ちた父として、神を認識していないのではないでしょうか。確かマーティン・ロイドジョンズも、「多くのクリスチャン生活に見られる問題の一つは、神を自分の父として十分に知っていないことである」というようなことを語っていたと思います。

 もし私たちが、神の全能性に加え、ただ御子への信仰と御子の賜る御霊により、今や私たちが永遠に神の子とされていることを心底覚えるなら、どんなに勇気、希望、平安、力を与えられることでしょうか。

 大きな問題を前に無力感に押し潰され、まともに祈ることさえもできなくなりやすい弱い私たちです。しかし、そんな時こそ、ただ悔い改め、赦してもらう以外ない放蕩息子にさえ、自分から駆け寄り、首を抱き、喜ぶ、あの父親以上に私たちを愛しておられる神の計り知れない愛と憐れみを、是非覚え、私たちも天を見上げ、「アバ、父よ」と言って、改めて神にお祈りしたいと思います。

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