2021年07月15日「祈りについて (18)」

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祈りについて (18)

日付
説教
田村英典 牧師
聖書
出エジプト記 2章23節~25節

聖句のアイコン聖書の言葉

2:23 それから何年もたって、エジプトの王は死んだ。イスラエルの子らは重い労働に呻き、泣き叫んだ。重い労働による彼らの叫びは神に届いた。
2:24 神は彼らの嘆きを聞き、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起された。
2:25 神はイスラエルの子らをご覧になった。神は彼らを御心に留められた。出エジプト記 2章23節~25節

原稿のアイコンメッセージ

 祈りについて、今日も学びます。18回目です。

 ここ暫く、祈りが神との交わりであることに注目し、祈りが真に神との交わりになるために、幾つかのことを見てきました。前回は、六番目として、特に神の「全能」の力をしっかり覚え、告白しながら祈る大切さをお話しました。

 しかし、何故それが大切なのでしょうか。信仰を必ず励まされるからです。ですから、信仰の先輩たちの作った使徒信条は「我は天地の創り主、<全能>の父なる神を信ず」と告白しました。実際、私たちが何かのことでひどく動揺し、祈ることも困難な時、何より神の全能を証しする御業(みわざ)を聖書から思い起し、それを覚え、告白しながら祈りますと、私たちは勇気や希望を与えられ、心を軽くされ、前に進めることがよくあります。

 では、聖書から私たちは具体的にどういう出来事を教えられているでしょうか。

 前回触れたことと重なりますが、第一は何といっても旧約聖書の冒頭が語る、すなわち、神が天と地を全く何もないところから創られた創造の御業であり出来事です。

 世界には、神々がこの世界やある国を作ったという神話もありますが、それらの神々は既にあった何かを材料にしています。しかし、聖書を通してご自分を証しされる真(まこと)の神は違います。創世記1:1が言いますように「初めに神が天と地を創造された」のであり、神が一切の存在の原因であられるのです!

 前回紹介しましたが、ローマ4:17に「無いものを有るものとして召される神」とあります。ここを口語訳聖書は「無から有を呼び出される神」と訳しています。これは正(まさ)に天地を創造された真の神の全能性を適格に表現していると思います。

 しかし、神による天地創造の事実を回想することは、単にそれで終りません。

 問題が大きい時、私たちは途方に暮れ、しかし、こんな時こそ神に祈らなければ、と思います。ところが、余りにも問題が複雑で大き過ぎる場合、私たちは絶望感に打ちひしがれ、神への祈りが祈りになっていない時もあると思うのです。

 そういう時、私たちはどうすれば良いのでしょうか。全く何もない所から、この天と地を、ただ力ある言葉により創られた全能の神をこそ仰ぎ、神の力を思いっ切り覚えるのです。「今、私には全くなす術(すべ)がない。知恵も何もなく、私は全く無力だ。だが、神は違う!神は無から有を生じさせることの出来るお方だ。Ⅰコリント2:9に『目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、人の心に思い浮んだことがないものを、神は、神を愛する者たちのために備えて下さった』とあることを私は信じる」と自分に向って言い、「神様、天と地を全くの無から創られたあなたを、私は今改めて信じ、あなたに期待し、あなたに委ねます。御子イエス・キリストによってお祈り致します」と、黙祷ではなく、はっきり口に出し、自分の言葉を自分の耳で確認しながら祈るのです。すると、御霊によって信仰を強められ、心も軽くされ、前向きに変えられている自分を必ず発見することを許されるでしょう。

 第二に、かつてイスラエルをエジプトから救い出された神の大いなる全能の力を回想するのも良いと思います。旧約聖書では何回このことが回想されているでしょう(例えば、詩篇78:12以降、136:10以降等)。神の民イスラエルはエジプトで祝福され、大いに増えました。しかし、イスラエルの先祖ヨセフが昔、エジプトの総理大臣を務めたことも知らない世代にエジプトはなり、イスラエルは虐待され、滅亡の危機に瀕しました。

 そこで神はモーセを立て、当時、世界最強の国で、そこを脱出するなど全く不可能と思われたエジプトから、血、蛙、ぶよ、あぶ、疫病、腫物、雹、イナゴ、暗闇、長子の死という10の災い、また葦の海を真っ二つに分けてイスラエルを渡らせられた奇跡により、ついにイスラエルを救い出されました。

 この出来事には、実は、ご自分の民との契約を覚え、それに自ら縛られて下さる神の驚くべき「真実」と一体となった神の「全能」の力が如何なく表わされています。出エジプト記2:23~25は言います。「イスラエルの子らは重い労働に呻き、泣き叫んだ。重い労働による彼らの叫びは神に届いた。神は彼らの嘆きを聞き、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起された。神はイスラエルの子らをご覧になった。神は彼らを御心に留められた。」

 今、私たちは、御子イエス・キリストの血による神との恵みの契約に、洗礼により入れられています。それなら、神はそのような尊い契約をお忘れになるなど、どうしてあり得るでしょうか。不可能を可能に変えることのお出来になる、しかも恵みの契約をどこまでも御心に留めて下さるご自分の「真実」と一体となった神の「全能」の力を改めて信じ、あきらめないで祈り、神のなさり方に期待しながら、神の時を待ちたいと思います。

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