2021年06月20日「人を裁く前に」

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聖句のアイコン聖書の言葉

7:1 さばいてはいけません。自分がさばかれないためです。
7:2 あなたがたは、自分がさばく、そのさばきでさばかれ、自分が量るその秤で量り与えられるのです。
7:3 あなたは、兄弟の目にあるちりは見えるのに、自分の目にる梁には、なぜ気がつかないのですか。
7:4 兄弟に向かって、「あなたの目からちりを取り除かせてください」と、どうして言うのですか。見なさい。自分の目には梁があるではありませんか。
7:5 偽善者よ、まず自分の目から梁を取り除きなさい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取り除くことができます。
7:6 聖なるものを犬に与えてはいけません。また、真珠を豚の前に投げてはいけません。犬や豚はそれらを足で踏みつけ、向き直って、あなたがたをかみ裂くことになります。マタイによる福音書 7章1節~6節

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 前回は、「人を裁くな」という主イエスの教えが、あらゆる裁きを禁じるのではなく、正しい批判や裁きはする義務があり、これはすぐ人の粗探しをする私たちの罪深い裁き癖を禁じていることを学びました。

 では、裁き癖を、何故私たちは取り除くべきなのでしょうか。イエスによると、三つ理由があります。第1は「自分が裁かれないため」(1節)です。確かに、人をよく裁く人は、自分も必ず人から裁かれますね。面白いことに、こういう人程、自分への批判には敏感で怒りやすく、しかし、自分が人を批判することは気に留めません。

 話を戻します。自分が裁かれるのがイヤなら、人を裁くなというのは、世の常識から見ても正しい知恵でしょう。しかし、イエスが言われるのは、神に自分が裁かれないために、ということです。

 聖書によりますと、神の裁きには三種類あります。一つは、私たちが自分の罪と不信仰のために、永遠の滅びに断罪されることです。これは私たちの永遠の行先を決定する恐るべき審判です。感謝なことに、私たちの罪を負い、十字架につかれたイエス・キリストを心から信じる信仰者は、この裁きから救われます。

 第二はクリスチャン用の裁きです。昔、コリント教会で、ある信者たちが聖餐式のパンと葡萄酒を不敬虔なまま口にして裁かれました。Ⅰコリント11:28~30は「誰でも、自分自身を吟味して、その上でパンを食べ、杯を飲みなさい。御体(みからだ)をわきまえないで食べ、また飲む者は、自分自身に対する裁きを食べ、また飲むことになるのです。あなた方の中に弱い者や病人が多く、死んだ者たちもかなりいるのは、そのためです」と言います。不信仰な生活を自分に許しているなら、永遠の裁きではありませんが、クリスチャン用の裁きがこの世で臨みます。Ⅰコリント11:32は言います。「私たちが裁かれるとすれば、それは、この世と共に裁きを下されることがないように、主によって懲らしめられる、ということなのです。」信者であっても不敬虔な者を、神は悩ませ厳しく懲らしめられる場合があるのです。

 三つ目もクリスチャン用で、死後、受ける報いです。イエスを心から信じる者に天国は確かですが、最後の審判についてⅡコリント5:10は「私たちは皆、善であれ悪であれ、夫々肉体においてした行いに応じて報いを受けるために、キリストの裁きの座の前に現れなければならない」と言います。つまり、天国での報いは同じではありません。地上での生き方に応じて、主ご自身が評価されます。厳粛なことに、信者にも裁きはあるのです。

 神は公平です。辛いことだらけの人生ですのに、不平も言わず、耐え忍び、神と人を愛し、神と人に良く仕えた人が、そうでない人より報われるのは当然です。これは、クリスチャンとなって以来の私たちの生き方に対する神の公平な報いです。黙示録14:13は言います。「しかり。その人たちは、その労苦から解き放たれて安らぐことができる。彼らの行いが、彼らと共についていくからである。」善であれ悪であれ、今の私たちの言動は永遠についてきます。ですから、私たちは安易に人を裁く傲慢さを厳に戒めなければなりません。

 裁いてはならない第二の理由に進みます。2節「自分が裁くその裁きで裁かれ、自分が量るその秤で量り与えられる」からです。人の欠点を裁くのが得意で「あの人のあれは駄目。私にはよく分る」と言う人には、神もそれと同じように要求なさいます。イエスは言われます。ルカ12:48「多く与えられた者は皆、多くを求められ、多く任せられた者は、更に多くを要求されます。」

 頭が良く、人の問題も良く分る人は、それと同じことを神から要求されます。ですから、安易に人を裁いてはならないのです。

 第三の理由は、私たち自身に大きな問題があるからです。それをイエスは3~5節で、人の目の塵(ちり)と自分の目の梁(はり)という誇張した比喩で語られ、人をすぐ裁く私たちの傲慢さと偽善と愚かさに気付かせようとされます。人の目の小さな塵は分りにくい。ですが、自分の目に塵が入れば、すぐ分ります。まして、大きな塵が入るなら、痛くて堪らず、涙がポロポロ出て、人の目の塵のことなど言っておれません。しかし、しばしば私たちは僭越にも人に向って、4節「あなたの目から塵を取り除かせて下さい」と言います。そんなことをすれば、相手の目まで傷つけますね。

 同じように、誰かの問題を見つけたとして、それを私たちが簡単に忠告や批判で治せると思うなら、大間違いです。その前に、自分の大きな問題に気付くことが大切です。「あの人は駄目だ」とすぐレッテルを貼り、「私ならあぁはしない」と言える資格が果して自分にあるかを、まず良く考えたいと思います。

 以上、安易に人を裁いてはならない理由を見ました。

 では、私たちは一切人に関るべきではないのでしょうか。それは主のお考えではありません。主は、人をよく裁き、時にはそれに快感すら覚える私たちの罪を取り除き、清めたいと願っておられます。主は私たちを、マタイ5:3~12で描かれた真(まこと)の信仰者の姿に、すなわち、ご自分に似る者になさりたいのです。主は冷たいだけの警告者ではありません。私たちをシミも傷もない者として天の父にお献げになりたいのです。

 では、私たちはどうすれば人をすぐ裁く自分を正せるのでしょうか。第一は、イエスが5節「偽善者よ」と呼んでおられることが、自分に当てはまらないかをよく考えることです。

 「偽善者」と訳されている元のギリシア語は、仮面を着けて演技する役者を意味したそうです。実際、人を批判する時、私たちは思います。「私はあの人を裁こうなどとは思っていない。ただ、あの人のために忠告したいだけだ」と。そして自分が公平な観点で人を見ているように考えたがります。けれども、本当はどうなのでしょう。「あの人は駄目」と烙印を押したい衝動は、全く私たちにないでしょうか。レッテルを貼ることが私たちは好きではないでしょうか。私は公平でよく分っているということを人に印象付ける演技をすることはないでしょうか。自分はあの人のことをこれほど思い、あの人の問題を見つけたので、大変心を痛めていると見せかけ、兄弟に向って4節「あなたの目から塵を取り除かせて下さい」と親切そうに言う。しかし、そこに意地の悪い喜びはないでしょうか。イエスは「偽善者よ」と言われます。まず、自分がそうでないかを探りたいと思います。

 第二は、人を裁く前に、5節「まず自分の目から梁を取り除け」とイエスが言われたことを心に覚えることです。すると5節「はっきり見えるようになって、兄弟の目から塵を取り除くこと」ができます。

 自分の罪や欠けについては忘れ、人のこととなると、俄然、得意になる!これこそ典型的な私たちの目にある梁なのです。そういう習性がありますと、私たちは人を正しく見ることができず、つい早合点し、憶測で「あの人はこうに違いない」と裁きます。

 人間を深くご存じの御子イエスは、5節で「万一、自分の目に梁があれば」などと仮定しておられません。必ず誰の目にも梁はあるのです!これに気付きたいと思います。

 3節の「気が付く」は「よく考える、注意深く観察する」という意味のギリシア語です。自分の心を深く観察すれば、誰でも自分の罪や問題点が分ります。それを心に留めた上で、なお、自分に人を批判し忠告する資格があるかを問う!すなわち、人を裁く前に、まず自分を裁くのです。私たちはまず自分に対して鋭い批判者でありたいと思います。自分に神の真理に対する熱心や忠実さ、気になる人への真実な愛が本当にあるかを吟味して、初めて相手にもこちらの真情が伝わるというものです。

 第三は、幸いにも自分の目の塵を取り除けたなら、何故それが出来たかを考えることです。クリスチャンなら理由は分ります。自分の力でではなく、ただ神の恵みと憐れみによって、です。すると、私たちは心から謙遜な思いで人を助けて上げたいという気持になります。信仰により深く自分を吟味し、自分の目からようやく塵を一つ取り除けたことで、私たちは主の素晴らしい恵みを体験しましたので、その同じ喜びと感激を人にも知ってもらいたいと心から願うようになります。その時、初めてエペソ4:15「愛をもって真理を語」ることができるのです。

 バテ・シェバとの姦淫が発覚するのを恐れ、彼女の夫を戦場に送って殺し、証拠隠滅を計ったダビデについて、Ⅱサムエル11、12章が伝えています。預言者ナタンは、ある貧しい男の可愛がっている1匹の子羊を奪い取って自分の客に振る舞った金持の話を、ダビデにしました。するとダビデは激怒し、12:5「主は生きておられる。こんなことをした男は死に値する」と言いまし。その時、ナタンは「あなたがその男です!」と言いました。

 私たちは、人の罪や問題は実によく分り、怒りもします。でも、「あなたがそれだ」と言われるまで、自分のことは、悲しいかな、なかなか分りません。この厄介な性質を心底悲しみ、人を裁く前にまず自分を裁く信仰者を、主は顧み、塵を取り除き、またそういう私たちを通して、私たちの接する他の人にも、ご自分の豊かな救いの恵みを広げられます!イエス・キリストはそういうお方です。

 御言葉によりまず自らを深く吟味し、次に溢れるばかりに豊かな主の赦しを覚え、周りの人を福音の光の下に見つめ、へりくだって自分を差し出したいと思います。

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