2021年05月23日「聖霊の恵み」

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聖句のアイコン聖書の言葉

15:5 わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。

ガラテヤ人への手紙 5:22~23
5:22 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、
5:23 柔和、自制です。このようなものに反対する律法はありません。
ヨハネによる福音書 15章5節

原稿のアイコンメッセージ

 本日、私たちは全世界の教会と共にペンテコステ礼拝を献げます。本日の礼拝は伝道礼拝でもありますので、ペンテコステについて、まず少し確認したいと思います。

 神の御子イエスは、約2千年前、全世界の罪の贖いのために十字架で死なれ、しかし、旧約聖書の預言とご自分のお約束通り、3日目の日曜日に復活されました。その50日後の日曜日、使徒2章が伝えますが、その日は五旬節(ギリシア語でペンテコステ)と呼ばれるユダヤ人の祭の日であり、弟子たちはエルサレムの一つの家に集まっていました。突然、天から激しい風が吹いてきたような音が家全体に響き渡り、炎のような舌が分れて現れ、一人一人の上に留まり、皆は聖霊に満たされ、外国の色々な言葉で神の大きな御業を話し始めたのでした。

それまで、弟子たちはユダヤ人を恐れていました。しかし、その時以来、聖霊に強められ導かれて、イエスを、旧約聖書が約束していたキリスト、つまり、救い主だと力強く証しし始め、教会が誕生しました。やがて福音はローマ帝国内の至る所に伝えられ、厳しい時代も沢山経ましたが、全世界に広がり、日本にも伝えられたのです。

 聖霊が弟子たちに与えられることは、ヨハネ福音書14~16章が伝えますように、イエスが約束しておられたことでした。そこで、聖霊によるこの驚くべき出来事を繰り返し覚え、また聖霊の豊かな恵みを願い、教会は毎年、ペンテコステ礼拝を持つようになったわけです。

 以上がペンテコステの概略です。2千年前に起きたような奇跡的な出来事は一度限りですが、聖霊のお働きは今も続いています。そこで今朝は聖霊の恵みについて学ぶことに致します。

 最初に確認したいことは、聖霊は御子イエスによる救いの恵みを、信仰者の内に一つ一つ具体化して下さるお方だという点です。

 先程のヨハネ15:5で、かつてイエスは弟子たちに言われました。「私はぶどうの木、あなた方は枝です。人が私に留まり、私もその人に留まっているなら、その人は多くの実を結びます。私を離れては、あなた方は何もすることができないのです。」イエスは、私たちが信仰によってイエスに留まり、イエスも私たちに留まられるなら、多くの実を結ぶ、と言われます。

 では実とは何でしょう。その最たるものは永遠の命です。復活後、イエスは40日間度々弟子たちに現れ、教え、彼らと交わり、ご自分が永遠の命を持っておられることを示されました。そしてイエスは、ご自分を信じる者たちについてこう約束しておられました。「私は彼らに永遠の命を与えます。彼らは永遠に、決して滅びることがなく、また、誰も彼らを私の手から奪い去りはしません。」(ヨハネ10:28)

 実は、今、天の父なる神の右におられるイエスがお持ちのその永遠の命を、信仰者に与えて下さるのが聖霊なのです。そして永遠の命が与えられるとは、救いの初めから完成までの全ての恵みが与えられることに他なりません。この点をもう少しお話致します。

 今クリスチャンである私たちも、かつて神のことが良く分っていない時がありました。しかし、実はそういう時にも聖霊は働かれ、私たちの内で「新生」とか「再生」とも言う救いの業(わざ)を進めておられたのです。

 次に私たちは、神のことが分るにつれて自分の罪をますます自覚するようになり、神の前に「悔い改め」をし、イエスを救い主として心から信じ依り頼む「信仰」へと進むのですが、それも聖霊のお働きによるのです。また洗礼を受け、私たちはイエスの十字架の贖いにより「罪の赦し」を頂き、「義」とされ、「神の子」とされ、「聖化」、すなわち清められて、ついに永遠の命に至ります。この一連の恵みは全部、聖霊が私たちをイエスに結び付け、イエスの恵みを私たちの内に与えて下さるものなのです。

 ですから、まだ十分に分っていない時も私たちをイエス・キリストに結び付け、永遠の救いの様々な恵みを与えようとされる聖霊なる神を、今朝、私たちは改めてハッキリ認識し、覚え、また委ね、信仰の確信と救いの完成へ、是非、ご一緒に導かれたいと思います。

 さて、聖霊の恵みをもう少し見たいと思います。先程のガラテヤ5:22、23は言います。「御霊(みたま)の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。」この九つのものは、イエス・キリストに繋がり留まる信仰者の内面に、御霊、つまり、聖霊が形造って下さるイエスの聖い(きよい)性質を指します。

 今、「イエス・キリストに繋がり留まる信仰者の内面に」と申しました。洗礼を受けていても、イエスに本当に繋がり留まっていなければ、これらの聖い性質は形成されません。しかし、自分の罪を深く自覚し、悲しみ、悔いては、天におられる御子イエスを見上げ、イエスを希望とし、イエスに結ばれて生きようとする信仰者には、必ずイエスご自身のこれらの聖い性質を聖霊は形造って下さるのです。

 実は九つの実について、去年の9~12月にかけての祈祷会で一通りお話し、その原稿を当教会のホームページに載せています。今朝は、それと少し重なるところもありますが、別のことをお話します。

 さて、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制が、私たちにとって如何に大切かは、誰でも分ると思います。

 第一に「愛」が挙げられます。どうでしょうか。人間にとって究極のものは愛ではないでしょうか。何故なら、天国では全てが愛だからです。Ⅰコリント13:13は言います。「いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番優れているのは愛です。」またⅠヨハネ4:8が言うように、「神は愛」だからです。

 事実、神はただ愛の故にご自分の最愛の御子を罪の世に送り、御子イエスは御自ら私たちの罪の身代りとなって十字架で命を献げて下さいました。この神を真(しん)に知り、イエスと絶えず親しく交わっているなら、何かとすぐ人を批判し裁き、人のことより自分のことばかり考えやすい自己中心な私たちも、神と人に喜ばれること、すなわち、神と人への愛に少しでも生きようとしないでしょうか。聖霊はこうして私たちの内に愛を育んで下さるのです。

 第二は喜び、聖霊による聖い喜びです。この世は罪の世ですから、過酷な面があり、生きることは大変です。しかし、ご自身の許しがなければ、私たちの髪の毛1本、木の葉1枚、落ちることがない程に一切の権能を父なる神から授けられた主イエスを見上げる時、私たちは落ち着き、喜びを見出すことがあります。

 淀川キリスト教病で44年働かれたアメリカ長老教会の元宣教師L.C.モーア先生ご夫妻が2006年6月、久し振りに来院され、朝の職員礼拝で「偉大なる喜び」というメッセージもされました。その日、ご夫妻は色々な人に会われました。その中にドイツのフランクフルトから関西空港に戻る飛行機の中の階段で前に倒れ、頬の骨を折り、手足が麻痺し、一生歩けず、箸も握れなくなると思われる程の怪我をされたクリスチャンの患者がいました。もう何日も入院していましたが、なかなか良くなりませんでした。

 その方と旧知の間柄のモーア先生は、彼女のために祈る前に、「~さん、今これを言うのは酷かも知れませんが、喜びましょう、笑いましょう」とおっしゃったそうです。彼女は「こんな状態でどうして喜べるのか」と内心思いました。しかし、飛行機に丁度居合せて、一晩中、首の後ろを一生懸命さすり続けてくれた親切なドイツ人の医者のことなどを思い出し、神の前でその通り喜ばれました。すると本当に回復してきたのです。そして彼女は再び病院の老健で時々ボランティアをされました。医学的説明も可能でしょうが、興味深いと思います。

 天を見上げ、自分への主イエスの愛を深く覚えますと、私たちのザワザワする心も落ち着き、何か喜びを発見できます。そしてそれを改めて感謝し喜びますと、自分が変えられ、周りにも喜びは波及します。何と感謝なことでしょうか。これも聖霊の恵みです。

 三つ目は平安です。平安と訳されているギリシア語には、平和の意味もあります。これは旧約聖書の言葉、ヘブルHeb語でも同じです。このことは興味深いと思います。私たちは自分が平安でないと、つい言葉も態度も尖って攻撃的になり、他者との間に平和を作り出せません。しかし、不信仰で頑なな私たち罪人に、御子イエスの十字架を通して和解の手を差し伸べ、罪を赦し、ご自身との平和へ招いて下さっている天の父なる神を見上げる時、私たちにはただただ感謝しかありません。すると、私たちは頑なに自分に固執する愚かさに気付きます。こうして不十分ですが、私たちも他者との間に平和を造り出す、正(まさ)に神の子供と呼ばれるに相応しい者に変えられます。何と幸いでしょう。

 イエスは、ご自分を信じ、ご自分から離れず、何度失敗しても一生懸命御言葉に従って平和を造ろうとする人について、こう言われます。「平和を造る者は幸いです。その人たちは神の子供と呼ばれるからです。」(マタイ5:9)

 また御子イエスとの交わりを通し、聖霊は私たちを正にイエスのように「寛容」「親切」「善意」に満ち、「誠実」で「柔和」、また、ある時は自分を抑え、ある時は積極的に自分をグッと前に押し出す「自制」、つまり自分を支配(セルフ・コントロール)できるものに変えて下さるのです。

 最後は、説教を少々端折り(はしょり)ましたが、もう終ります。

 主イエスによる救いの恵みに最初から完成まで私たちを与らせ、更に九つのまことに尊い実を、イエスに留まる者に必ず徐々にでも結ばせて下さる聖霊なる神の素晴らしい愛を覚え、聖霊の恵みを私たちも改めて喜んで求めたいと思います。自分のためだけでなく、最終的には神のご栄光のために、また私たちの接する全ての皆様の真(しん)の幸せのために、です。

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