2021年04月01日「十字架のイエスの愛」

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十字架のイエスの愛

日付
説教
田村英典 牧師
聖書
ルカによる福音書 23章32節~34節

聖句のアイコン聖書の言葉

 23:32 ほかにも二人の犯罪人が、イエスとともに死刑にされるために引かれていった。
 23:33 「どくろ」と呼ばれている場所に来ると、そこで彼らはイエスを十字架につけた。また犯罪人たちを、一人は右に、一人は左に十字架につけた。
 23:34 そのとき、イエスはこう言われた。「父よ、彼らをお赦し下さい。彼らは、自分が何をしているのかが分っていないのです。」彼らはイエスの衣を分けるために、くじを引いた。
  (新改訳聖書 2017年度版)
ルカによる福音書 23章32節~34節

原稿のアイコンメッセージ

 受難週祈祷会の今日は、イエス・キリストの十字架の意味について改めて振り返りたいと思います。

 主イエスは私たちの罪を担われ、本来なら私たちが受けなくてはならない私たちの罪に対する神の怒りを、一身に十字架でお受け下さいました。これは私たちのよく知っていることです。しかし、主が担って下さったその私たちの罪のひどさ、重さを、私たちはどれ位本当に分っているでしょうか。

 例えば、私たちは、他人の問題には敏感で他人には厳しく、時には「あの人は本当にひどい」と憤り、怒りさえ抱きます。しかし、自分の罪と不信仰には何と鈍感で、自分には甘いでしょうか。

 Ⅱサムエル11章が伝えますように、ダビデはある時、ヨアブと自分の家来たちとイスラエルの全軍を戦場に送り、自分はエルサレムに留まりました。特にすることもなく、少し暇でした。しかし、そういう時にサタンが働きます。ダビデはウリヤの妻バテ・シェバと姦淫し、彼女は妊娠し、まずいと思ったダビデは隠蔽を計ります。がうまく行かず、とうとうウリヤを戦場で敵の手によって殺させました。何とひどいでしょう。

 神はダビデに預言者ナタンを遣わされ、悪い金持の男の話を聞かせられます。すると、ダビデは、その男に対して激しい怒りを燃やし、ナタンに言います。「主は生きておられる。そんなことをした男は死に値する。」(Ⅱサムエル12:5)勝手なもので、他人を責める時には、主の御名さえ持ち出し、至極真っ当なことを言います。がその時、ナタンは言いました。同12:7「あなたがその男です。」ダビデは心臓が止まりそうになったでしょう。そして漸く自分がひどい罪を犯したことを認め、悔い改め、赦しを神に請いました。

 大きな罪を犯しましたが、ダビデには信仰がまだあったため、幸いにも彼は悔い改め、神の赦しを得ることができました。ただ、今覚えたいのは、ダビデ同様、私たちも自分の罪や不信仰には鈍感で、人のことだと正義面をして怒り、一刀両断で人を裁き、身勝手で、自分が分っていない罪人だ、ということです。

 罪は色々な形をとって私たちの内に現れます。人には厳しく、でも自分の不信仰や罪には無自覚なことは、今見ました。しかしも、これだけではありません。今度は新約聖書を見ます。ペテロはどうだったでしょうか。彼は無論イエスを信じていましたが、かつての彼は少々自信家でもありました。十字架につかれる前夜、過越しの食事が終ったあと、イエスが弟子たちに彼らの躓きを予告されますと、ペテロはどう答えたでしょうか。「たとえ皆がつまずいても、私は(ギリシア語では「私」が強調されている)つまずきません」と豪語しました(マルコ14:29)。他の皆も同じように言いました。しかし、イエスの予告通り、イエスが捕えられると、蜘蛛の子を散らすように皆逃げ、ペテロは少し頑張りましたが、結局、彼も逃げたのでした。

 幸いにも、神がペテロの信仰を守られ、またルカ22:32が伝えるように、イエスがペテロの信仰のために祈られましたから、彼は立ち直り、皆を励ますこともできました。ただ、今覚えたいのは、「私は皆とは違う」という根拠のない自信や自尊心、傲慢の罪を、私たちも皆多かれ少なかれ持っているという点です。このことも私たちは分っていないのではないでしょうか。

 十字架上のイエスは、ルカ23:34「父よ、彼らをお赦し下さい。彼らは、自分が何をしているのかが分っていないのです」と祈られました。「彼ら」とは、直接にはイエスを十字架につけた当時のユダヤ教指導者たちや彼らに煽られて「イエスを十字架につけよ」と叫んだ群衆のことです。しかし、主が十字架につかなければならなかった理由は、私たち一人一人の罪にもあります。つまり、他ならぬ私たちの罪、先程申しました様々な形で私たちの内に見られるどうしようもない罪が、主をあの残酷な十字架に追いやった。その意味で、私たちも主を十字架につけたのです。

 では、そのイエスは、あの想像を絶する恐ろしい痛み、苦しみの襲う十字架上で、真先にどう祈られたでしょうか。「父よ、彼らをお赦し下さい。彼らは、自分が何をしているのかが分っていないのです。」主は真先に、自分がどれだけ罪深いかが分らず、そのくせ自分を買いかぶることもある愚かな私たちのような者のためにも祈られたのです。いいえ、復活のイエスは、今も、自分の罪が分っていないことの多いこんな私たちのためにも、片時も休まず執り成し続けて下さっているのです。何という主イエスの愛でしょうか。

 罪を犯し、傲慢であっても、無自覚なそんな情けない私たち罪人を尚も憐れみ、十字架の苦しみを全て忍んで下さった主の計り知れない愛!エペソ3:18にありますが、まさに主の愛の広さ、長さ、高さ、深さを改めて覚え、心から感謝し、主を賛美したいと思います。

 また自分の罪と不信仰に気付くなら、直ちに私たちは悔い改め、十字架の主にすがり、「主よ、主よ、お赦し下さい。私を本当に清めて下さい」と祈り、自分の一切合切を主に明け渡したいと思います。

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