◆特別な説教

イースター礼拝 「復活:震え上がる出来事」  マルコ16:1~8  2018.4.1
序.
 今日から大宮教会における働きを始めます。長い間、皆さまの祈りと準備をもって、この日を迎えることが許され主に感謝します。

Ⅰ.あなたは本当に甦りを信じているか?
 今日はイースターです。キリスト者であれば、キリストが死から甦られたことが、私たちの救いにとって決定的に重大な出来事、喜びの日です。人の甦りを信じています。
 しかし神さまを信じていない人たちにとって、「死んだ者が甦る」ことは、信じがたことです。「人は、一度死ぬとそれで終わりだ」と信じ切っています。しかしキリスト者も無意識的にそのように思い、行動していることに、私たちは気が付かなければなりません。つまり死者の復活を頭の中では理解していても、信仰の神髄に、復活の喜びに生きることが出来ていない自分がいるのです。そして、復活の希望を忘れて生活しているのです。
 このことは、主イエスの弟子たちの行動を見れば明らかです。主イエスが逮捕された時、弟子たちは無意識的に恐怖を感じイエスを見捨てて逃げたのです(14:50)。最後の晩餐の時、ペトロは主イエスに対して、「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」(14:29)と語っていましたが、彼も例外ではありません。イエスの仲間であることが知られれば、自分もイエスさまと同じように殺されるとの思いが頭をよぎったのです。これが、私たち人間の持っている本能です。「救われた・永遠の生命」を信じていたとしても、自己保身に走り、今生きている世界がすべてのように行動するのです。私たちは、今改めて、死んでも生きる天国の永遠の生命に与っている事実を確かめなければなりません。

Ⅱ.婦人たちの驚き
 ところで婦人たちはどうであったでしょうか? 彼女たちは、主イエスの裁判・十字架刑の最中は遠巻きに見守っていました(15:40)。そして、息を引き取られた主イエスがアリマタヤのヨセフに引き取られると、墓に葬られていく状況を見守っていたのです(15:47)。
 そして安息日の明けた朝、周囲の目を気にすることなく主イエスの墓に向かったのです。彼女たちは自らの信仰によって行動したのです。彼女たちが墓に行くと、大きな石はわきへ転がしてありました(16:4)。そして彼女たちは、白い長い衣を着た若者が座っていることにひどく驚きます。二つの理由があります。一つ、あるはずの主イエスの遺体がないことです。もう一つは若者がいたことです。主イエスの遺体が奪われたのではないかと思ったのではないでしょうか。この時点で、主イエスの復活を受け入れることはなかったのです。

Ⅲ.復活の主イエスとの出会い
 このことは、若者によって主イエスの復活が知らされた後の彼女たちの行動によって明らかになります。8 「婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。……恐ろしかったからである」。死者が復活することを、彼女たちは信じたのです。信じたからこそ正気を失ったのです。信じなければ、嘘を語る若者を責めたはずです。明らかに普通の若者とは異なる目の前の若者が、神からの使いであることを受け入れたのです。だからこそ正気を失い、どう行動するか分からなくなり、墓を出て逃げ去るのです。それ程までに、主イエスが甦ったことは彼女たちにとって衝撃的な出来事だったのです。彼女たちは、キリスト者としてイエスさまを信じ、救い・死人の甦りを信じています。しかし、実際に主イエスの甦りに立ち会うと正気を失うのです。それが復活に出会うことです。
 私たちも、頭の中では、主イエスを信じ、死人の甦りを信じています。しかし、本当の意味で、主イエスの甦り、私たちの甦り、永遠の生命を信じているでしょうか? 私たちが復活を信じ、天国における永遠の生命を信じることは、衝撃的なのです。
 このことは、復活の主イエスと出会った12使徒が、使徒言行録で語られている行動をみて明らかです。逮捕や死を恐れることなく主イエスを証しし、福音を語り続けたのです。
 マルコによる福音書は、「恐ろしかったからである」の言葉をもって終わります。新共同訳聖書では、「結び一」、「結び二」が続きますが、括弧付けであり、後代の加筆とされています。マルコは、福音書の最初で「神の子イエス・キリストの福音の初め」として書き始めました。イエス・キリストの福音とは、主イエスの十字架と衝撃的な復活に出会うことなのだ、このことを、マルコは私たちに語りかけています。
 ぬるま湯に浸かった信仰から抜けだし、婦人たちが震え上がり、正気を失い、恐ろしさを感じた衝撃的な主イエスの復活に、あなたも出会っていただきたいと思います。

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イースター墓苑礼拝 「『死』への憤り」  ヨハネ11:28~44  2018.4.1
序.
 私たちは今、地上の生涯を終え、墓の中で休んでいる親しい家族、兄弟姉妹を前に集まっています。墓石に刻まれた兄弟姉妹たち一人ひとり名前を確認しつつ、在りし日のことを思い出していただければと、思います。昔のことを惜しみつつ、集われた人たち相互にお交わりを頂ければと思いますが、私たちはクリスチャンとして死者を崇めることはしません。主は聖書の御言葉によって私たちに「死」についてお語り下さっています。主がお語り下さる御言葉から聞きたいと思います。

Ⅰ.マリア
 主イエスと親しい関係にあったマルタとマリアの兄弟ラザロが病気のため、死にました。主イエスがマリアたちの所に訪れた時、ラザロはすでに墓に葬られ4日経っていました。死、葬儀、埋葬までは慌ただしいですが、4日経つと寂しさがこみ上げつつ、親しい者の死を受け入れ、一段落ついた頃かと思います。こうした時に、主イエスが訪れたのです。
 マリアは、32「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と語ります。マリアにとって、主イエスは病人を癒やす力をもっておられる偉大な先生ですが、死者を生き返らせることなど出来ない思いが、ここにはあります。

Ⅱ.人の「死」とは…
 この時主イエスは、33 心に憤りを覚え、興奮して言われた。「どこに葬ったのか」と。そして35 イエスは涙を流されました。主イエスの激しい感情がここで表れます。
 主イエスの憤りはどこに向かっているのでしょうか? 二つ考えられます。一つはマリアやユダヤ人たちが、ただ泣くだけで、復活の命を忘れている不信仰にです。もちろん、親しい人との地上での別れは、寂しさが伴います。それでもなお、信仰により、天国での再開に希望を置く時、前へ進むことが出来るのです。
 もう一つは、「死」そのものに対してです。私たちは、人間は生まれてきた以上、早かれ遅かれ死んでいくものだと、思っています。しかし、神の創造された時、死はありませんでした。主は「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう」とお語りになりました(創世記1:26)。御父・御子・御霊なる三位一体の神にかたどられる、似せられることは、人が神と共に永遠に生きるということです。この時、人に死が訪れることはなかったのです。
 その神の子に死が訪れたことに、主イエスは激しい憤りを覚え、興奮されたのです。主は人に命じられました。「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」(2:16-17)。人の死は、この主の命令に対して背き、罪を犯した故です。罪の中に生きる人は、死を避けて通ることが出来ません。そして最初の人の罪は、彼らから生まれてきたすべての人に引き継がれ、誰一人、罪の刑罰を逃れることは出来ないのです。そして罪の支払うべき報酬は、死です。そして人は、肉体の死に続く、永遠の裁きとしての死を味わうのです。つまり、罪とは、人間が神との関係が完全に破綻したことを、神は私たちに「死」において突きつけます。

Ⅲ.復活と再会の希望をもって生きるキリスト者
 天地創造を行われた神さまは、人を創造し生命をお与え下さったように、今もなお人の命を司っておられます。マリアはこれが理解できなかったのです。主の命令があれば、生きる者も死に、死んでいる者も生きるのです。アナニアとサフィラは、教会でだまし、嘘を付いたために、主の裁きにより命が奪われました(使徒5章)。同様に、墓に葬られたラザロに対して、主は命を与え、生きる者として下さいました。私たちが神を信じる時、ラザロ同様に、キリストによって死から甦り、永遠の生命に与る者とされるのです。
 ただし、人の死を克服するために罪の刑罰としての死が求められます。御子イエス・キリストが、私たちを救い、罪の刑罰としての死を取り除くために、身代わりとなって十字架にお架かり下さったのです。キリストの十字架の故に、私たちの罪は贖われたのです。さらにキリストは死に打ち勝ち甦られました。主イエスは復活により「死」を克服し、神と和解し、神の子として、天国の命を、私たちにお与え下さいました。
 墓の中に眠るのは親しい家族・兄弟姉妹たちです。ラザロが復活して主イエスを証しする者とされたように、葬られ、墓で眠っている人たちも、そしてやがてこの地上の生涯を終えこの墓に休む私たちも、キリストが再臨され、「出て来なさい」と呼びかけられる時、新しい体が与えられて甦り、そして天国における永遠の生命が与えられます。そして親しい者たちとの再会も与えられます。私たちはここに希望をもって生きるのです。
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牧師就職式の日 「神の御前に生きるキリスト者」    2018.4.15
Ⅰ.キリスト者として生きるとは…
 キリスト者として他者と共に歩む時、パウロは「だれでも、自分の利益ではなく他人の利益を追い求めなさい」(24)と語ります。キリスト者は、主を愛し礼拝するものであると同時に、隣人を愛するものとされています。パウロは偶像崇拝について語りますが、もちろんキリスト者が偶像崇拝をしてはなりません(第二戒)。偶像の前に供えられたお祓いを受けた物を食べることも避けるべきです。そのため目の前の食事一つひとつの食材を生産した人たちに溯り、お祓いをしたかどうかを確かめる必要があるのか?どこまで追求すべきでしょうか?「食材の一つひとつまで確認しなければ、口にすることはしない」と考えられる人もいるかも知れません。しかし「これはお祓いをした食べ物である」として特別に売っているものであれば別ですが、そうでなければ売っている人を信じて、食べて良いですよとパウロは語ります。むしろ主から与えられたことを感謝すれば良いのです(26)。
 私たちは、「~ねばならない」律法主義に注意しなければなりません。主が律法をお定め下さったのは、私たちが罪に陥ることから守るためであって、私たちを裁くためではありません。現実的に判断することを良として下さるのです。改革派教会は、創立宣言で、「律法主義者でもなければ、律法廃棄論者でもない」ことを告白しているとおりです。
 この時あわせて他人の利益を求める必要もあります。28 もしだれかが「これは偶像に供えられた肉です」と言うなら、食べてはなりません。隣人を愛し配慮すべきです。信仰は一人ひとり異なります。他者を非難することは裁きであり、躓きとなります。隣人を愛することは、自分よりも弱い立場、信仰においても違いがある人たちの立場を尊重することです。明らかに過ちを犯している人であっても、愛をもって語り諭さなければなりません。

Ⅱ.神の御前に生きるキリスト者
 そしてパウロは、「だから、あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい」(31)と語ります。他者との関係を顧みる時、同時に自らの信仰を顧みる必要があります。食べる・飲むことは、私たちの生活の基本です。当たり前にものがある。これは主なる神さまの恵みです!今なお、世界には水を求めて、苦しむ人々が少なくありません。自然災害によって一瞬の内に奪われることもあります。そうすれば、私たちの生活は大混乱です。主の祈りにおいて「日用の糧を今日も与え給え」と祈る時、私たち自身、そして隣人のために祈り続けなければなりません。
 そして「何をするにしても、すべて」であり、私たちが生きている間、いつでもです。改革派教会の創立宣言では「有神的人生観世界観を確立する」ことを告白します。神さまが存在されるのであり、私たち自身が常に神さまの存在を意識し、神さまの恵みに感謝をもって生きるのです。主への感謝の生活により、私たちを通して主は証しされていきます。
 ウェストミンスター小教理問答問1では、「人間の第一の目的(生きる目的・存在目的)は、神に栄光を帰し、永遠に神を喜ぶことです」と答えます。私たちは自分で一生懸命生きているのではありません。主なる神さまが、私たちに今日も生命をお与え下さいます。神さまの恵みがなければ、生命は奪われますし、今日の食べ物さえ無くなります。常に神さまの栄光を帰して生きることとは、神さまの恵みに感謝して生きることです。そして、それを喜んで生きるのです。ここで喜びは、「永遠」なのです。私たちが、地上で生きている時だけではありません。私たちは地上の生涯を終え、墓に入ったとしても、魂は生き続け、天国に行き、神さまによる救いを喜び続けることが出来るのです。
 では苦しい時・艱難の時「神さまからの恵みを感じられるのか?」と思われるかと思います。嘆き・不平・不満しか出てこないかも知れません。しかしこの時、神さまの御前に立って、嘆き、訴えることが大切です。「嘆きは不信仰では?」と考えがちですが、嘆きが、神にすがり、神を求める祈りとなるのです。その時に与えられる小さな恵みでも、ここに神さまを感じられる時、それは信仰者としての大きな喜びであり、慰めとなるのです。
 私たちは、神による罪の赦しと永遠の生命が与えられたキリスト者とされました。私たち一人ひとりが、神の御前に、救いと日々の神の恵みに感謝と喜びをもって生きる時、それは同時に、隣人に対する愛と配慮をもって生きることが出来るものとされていきます。この教会に集う一人ひとりが、隣人に対する愛と配慮を持ちつつ、神の恵みに感謝し続ける信仰が与えられる時、この大宮教会もさらに神の恵みと祝福に満ちた教会となります。

 
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 クリスマス礼拝 「クリスマスに与えられる喜び」ルカ2:8~20    2018.12.23
 
序.
 クリスマスを迎えることは、子どもたちから大人に至るまで、嬉しいことかと思います。特にキリストを救い主として信じているキリスト者にとりましては、なおさらのことです。

Ⅰ.羊飼いに訪れる恐怖
 しかし最初のクリスマス、つまり主イエスが人としてお生まれになられた時は、今とは異なります。救い主の誕生の知らせは、ごく一部の人たちにしか知らされませんでした。しかも、最初からクリスマスが歓迎されたわけではありません。
 主イエスの誕生は、羊飼いたちに知らされました。聖書では「主は羊飼い」(詩編23:1)と呼ばれ、親しみがあります。しかし現実は、羊飼いは遊牧民族であり、一つの場所に定住しません。そして、動物相手であり、休みも定期的に取ることはできません。そのため、毎週安息日を守り、主を礼拝する生活が出来ませんでした。そのためイスラエルでは、羊飼いは共同体の一員として認められず、罪人と定められ、さげすまれていました。彼らもそのことを十分理解しており、自分たちに救いはないと思っていました。
 主の天使が羊飼いに近づき、主の栄光を照らします。突然の輝きが、彼らを照らします。何事がおこったのか驚いたことでしょう。同時に彼らは、この光により、救いがあることを知ります。彼らに、神の存在と神の救いが示されました。
 彼らは「非常に恐れた」と記されています。丁寧に訳すと「この上もなく、恐れに恐れた」とすべきです。羊飼いに恐怖が襲いかかります。本来滅ぶべき自分たちに、神の救いが提示されたのです。メシアが来られることにより、自分たちが裁かれると思ったのではないでしょうか。そのため非常に恐れたのです。私たちは、クリスマスを喜ぶにあたり、この羊飼いの瞬間的にもった主の裁きの恐怖を理解しなくてはなりません。

Ⅱ.羊飼いに示される神の栄光
 この時に、天使が羊飼いたちに語ります(10~12)。天使は「あなたがた」と3回繰り返します。さらに10節も「……大きな喜びを、あなたがたに告げる」と訳すことができます。
 羊飼いも、メシアと呼ばれる救い主が与えられる旧約聖書の御言葉を知っていたことでしょう。しかし羊飼いは、「自分たちは罪人であり、神の救いは関係がない」と思い込んでいました。しかし天使は「あなたがたに救いが与えられる」と宣言します。「肉の死、罪による裁きがあり、死の恐怖と絶望に生きているあなたがたに、救い主は与えられた」。これが天使のメッセージです。皆さんにとって、キリストとの出会いは、どのようなものでしょうか。死や裁きの恐怖、病気等の身体的な苦しみ、艱難、虐げ、孤独……、羊飼いの持っていた恐れを感じているでしょうか? 真実の自分自身の姿を顧みることが出来た時、私たちは、初めて神の栄光としての救い主と出会い、救いの喜びに満たされます。
 天使は続けて「飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう」と語ります(12)。この時、羊飼いは「その地方」つまりベツレヘムの近くにいましたが、羊たちの世話も続けなければなりません。決断が必要です。しかし羊飼いはベツレヘムに向かいます(15)。羊飼いは、闇に向って歩み続けるのではなく、神の栄光に向って、天国への道を歩みます。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」(マタイ6:33~34)。彼らにとって今一番大切なことは、救いを確認することでした。

Ⅲ.福音が伝えられた人々の反応
 「羊飼いたちは…人々に知らせた。聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った」(18)。私たちは、福音を伝え、伝道することが求められています。しかし、ただ「教会に来なさい、神さまを信じなさい」と言っても、聞いた人々は、現状に満足しており、なぜ神さまを信じなければならないのか、なぜ教会に行かなければならないのか、分かりません。そのため、彼らも不思議に思うだけで、救い主を受け入れ信じることをしません。
 「しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた」(19)。マリアは、結婚前に子どもを出産することにより、不貞として石打の刑で処せられる危険すらある中、ヨセフにも受け入れられ、イエスを出産しました。そしてマリアも主からのしるしが与えられていました。エリザベトによる洗礼者ヨハネの出産です。
 羊飼いは、「人々に知らせ」(17)、「神をあがめ、賛美しながら帰って」行きます(20)。嬉しいから人に伝え、賛美します。今まで罪人であると陰口を語られ、人々から離れて放牧地でひっそり暮らしていた羊飼いが、救いの喜びをもって人々に話しかけ、証しをする生活へと導かれました。ここに真の回心に与ったキリスト者の姿が示されています。
 
 
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みなさん一緒のクリスマス 「クリスマスの賛美」ルカ2:8~20    2018.12.23 
 
 序.
 私たちは今、クリスマスを覚えつつ、素晴らしい讃美に耳を傾けています。それはレニブスの素晴らしい演奏ばかりか、子どもたちも演奏し、ここに集う私たちは全員で一つの歌を奏でています。音楽は、私たちの心を豊かにします。喜びも悲しみも歌われます。

Ⅰ.神を誉め称える賛美
 私たちは素晴らしい音楽に耳を傾けるために集まっていますが、聖書の御言葉に耳を傾けることも大切です。説教の題を「クリスマスの賛美」としました。「賛美」とは、他の歌・楽曲とは異なり、「神を誉め称える」歌です。つまり、「クリスマスの賛美」は、2000年前にお生まれになられたイエス・キリストを誉め称える歌です。
 私たちはどうしても、楽器や音楽によって心が揺さぶられるのですが、メロディーと共に、歌詞を確認することが大切です。ですから、この後、レニブスの賛美もそうですが、ここに集う全員で、「きよしこの夜」、「もろびとこぞりて」を賛美しますが、歌詞を噛みしめて歌って頂ければと思います。

Ⅱ.圧倒する御力によって示される救いの
 ではなぜ、キリストの誕生が喜びであり、2000年後に生きる私たちが賛美するのでしょうか? 先程お読みしました聖書には、キリストの誕生の次第が記されています。天使をとおして羊飼いに伝えられ、羊飼いがキリストの誕生の場に駆け付けます。罪と滅びから救い出し、天国が与えられることが宣言され、羊飼いは信じて行動したのです。
 「すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った」(13)。つまり、最初は一人の天使が来て、救い主の誕生を語り始めたのですが、この時、天の大軍が現れます。真夜中に突如として天に聖歌隊の天使たちが集い、賛美を始めます。圧倒される賛美がここにあります。突然の出来事は羊飼いにとって、驚きでした。

Ⅲ.主を賛美する天使たち
 天の大軍の賛美が始まります。「いと高きところに栄光、神にあれ」(14)。一人の幼子の誕生は私たちに与えられる喜びですが、それ以前に「いと高きところ」つまり天国において、主なる神の支配が満ち足りていることを示すものです。地上に真の平和がもたらされるためには、天上において一人の神がすべてを支配しておられることが前提となります。天において争いがあり、内輪もめしていれば、地上を治めることなど出来ないからです(参照:ルカ11:17~18)。主なる神のみがすべてを支配しているため、地上に平和をもたらせることが可能であり、主の支配・主の栄光を誉め称えるのです。讃美歌106「荒れ野のはてに」という曲があります。サビで「グロリア・イン・エク・セル・シス・デオ」と歌いますが、ラテン語であり、「いと高きところに栄光、神にあれ」と歌っています。
 続けて「地には平和、御心に適う人にあれ」と賛美します。幼子キリストの誕生は、地上に平和をもたらします。それはキリストの十字架の御業により完成します。キリストは犯罪者として捕らえられ、十字架の死を遂げ、墓に葬られます。人間的には敗北者の姿です。しかしキリストは十字架の死から三日目の朝に甦り、罪と死とサタンに打ち勝ちます。そこで平和が実現し、神の国が完成します。キリストの十字架の御業は、2000年前に成し遂げられました。しかし平和と神の国は完成していません。今の世界を見渡しても、自国優先主義が蔓延しており、和解と平和が遠のいているようです。しかし、キリストによる復活と罪に対する勝利により、平和の実現は確定しており、キリストの再臨により完成します。だからこそ、キリストの御降誕の時、この勝利がすでに完成したものとして、天使たちによって、盛大に賛美されたのです。この平和は、「御心に適う人」つまり、キリストを救い主として受け入れ、キリストの十字架と復活を信じる者皆に与えられます。

Ⅳ.私たちの賛美
 この時、羊飼いたちは、ベツレヘムで救い主の誕生に駆け付けます。そして羊飼いは、ベツレヘムにおいて、私たちのために人としてお生まれになられた救い主と出会います。
 すると羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行きました(20)。自分の力では獲得することの出来ない救い・天国における永遠の生命が、救い主にこそあることを示されたからです。
 私たちは、今、この羊飼いのように、救い主に出会うことは出来ません。しかし、2000年前にお生まれになられたキリストの十字架により、私たちの救い、永遠の生命は成し遂げられました。私たちはこの御言葉を、「アーメン(そのとおりです)」と受け入れれば良いのです。私たちに救いの喜びが示されました。主を誉め称え、主を賛美しましょう。
 
 
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 年末の説教 「命の水の泉」ヨハネの黙示録21章1~8節    2018.12.30
 
序.
 大宮教会は2018年、ヨハネの黙示録21:5を年の聖句として選びました。「すると、玉座に座っておられる方が、『見よ、わたしは万物を新しくする』と言い、また、『書き記せ。これらの言葉は信頼でき、また真実である』と言われた」。

Ⅰ.新天新地を求める信仰
 キリストが再臨され、最後の審判を成し遂げた後、神の民は神の御国に導かれます。3 「彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである」。私たちは、肉の死を避けて通ることができません。日々の生活により、様々な悲しみ、嘆き、労苦を担っています。神の御国の完成により、これらの苦しみが過ぎ去ります。神による救いを求めない、信仰生活がいい加減になる人々は、神の救いに実感がないからです。避けて通ることができない死を、考えようとせず、諦めているからです。私たちは、新天新地の約束が示されている今、この世に生きている現実から目を逸らせてはなりません。永遠の恵み、永遠の祝福が与えられます。私たちのゴールは、この神の御国にあります。

Ⅱ.すべてを削ぎ落とせ!
 5 「すると、玉座に座っておられる方が、『見よ、わたしは万物を新しくする』と言い、また、『書き記せ。これらの言葉は信頼でき、また真実である』と言われた」。ここには2つのことが語られています。一つは、「見よ、わたしは万物を新しくする」です。新しくするであり、現在の継続ではありません。9節以降22章にかけて、新しいエルサレムとしての神の御国の姿が語られていますが、あくまで2000年前に示された黙示です。2000年前の当時の人々が思い浮かべることが出来る祝福の状態が語られています。現代に生きる私たちに、神の御国の黙示が示される時、まったく違った表現が用いられるのだと思います。黙示録では19章1~10節にように、神の御国において主が誉め称えられる賛美の歌が歌われますが、ここにある祝福された御国が与えられることを覚えれば良いのです。
 二つ目は「これらの言葉は信頼でき、また真実である」です。インターネット、SNSの時代を迎え、言葉が氾濫し、さらに詐欺やフェイクニュースが問題となっています。私たちは言葉の真偽を見極めることが必要です。神の御言葉である聖書も埋もれています。私たちは、何により、聖書が信頼でき真実であることを、断言することが出来るのか。宗教改革の時代、他の書物も印刷されるようになり、聖書が唯一の神の言葉から相対化されることが始まります。しかしそれ以前の時代は、必要な言葉は、脳裏に覚えて、書き写します。一言一言を大切にしたのです。だからこそ、すべてを削ぎ落として、一番大切な言葉のみが残されました。そうした中、聖書は人々の間で語り継がれ、書き写されてきました。ここに真実があるからです。またモーセの時代、主ご自身が指で石に十戒を書き記して下さいました。イスラエルの民は、その重い石を担いで持ち歩きます。ここに真理があることを重さで確認したのです。そして主はこれらの言葉を心に留め、子供たちに教えるように命じます(参照:申命6:6-9)。
 私たちはすべてを削ぎ落とし、最終的に何が残るのかを顧みた時、神の御言葉である聖書が残るのです。出版不況、良い本も売れず、どうでも良い言葉に埋もれています。「すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない」(マタイ5:18~19)。ネット・SNSの時代における主からの警告が、今、私たちに示されています。主イエスは語ります。

Ⅲ.命の水の泉
 6「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである」。アルファとオメガ、ギリシャ語のアルファベットの最初と最後です。すべてを削ぎ落とし、アルファベットだけ、最後に残った御言葉を確認する時、ここに永遠から永遠に生きておられる神が顕わになります。すべてを削ぎ落とし、最後に神の御言葉が残り、神が示される時、神が命をお与え下さる方であることが示されます。私たち自身で生きることが出来ない、苦しい、そうした中に、主が命をお与え下さいます。
 そしてすべてを削ぎ落として残る神の御言葉に、命の水が与えられる方、救い主イエス・キリストがおられます(ヨハネ4:13-14)。物と言葉の氾濫する時代に、私たちは、すべてを削ぎ落とし、最後に残された神の御言葉にのみ聞くことが求められています。その時、主は私たちに、命の水の泉から価ないし水をお与え下さいます。

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 定期会員総会の説教 「互いに柔和で寛容の心をもつ教会をめざして」エフェソ4章1~16節    2019.2.3
 
 Ⅰ.今年の標語
 大宮教会の今年の標語は「互いに柔和で寛容の心をもつ教会を目指して」です。そして聖書を2箇所挙げています(エフェソ4:2-3、4:12-13)。聖句を2つ選んだのは、標語に対する目標(2-3)であり、ゴール(12~13)です。

Ⅱ.信仰による一致
 パウロは「主に結ばれて囚人となっているわたしは」と語ります。パウロはローマにおいて投獄されている最中、この手紙を記しています。ここでパウロは、「主に結ばれて」と書き加えています。これは「キリストのしもべ(奴隷)」として捕らえられているということです。キリスト者は救われることにより、罪と滅びから解放されましたが、キリストの奴隷であることを忘れてはなりません。
 続けて「神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩みなさい」と語ります。キリスト者は、神の民として神の国・天国へと招かれています。罪の故に滅びる者が、生きる者とされたのです。ですからキリスト者と「その招きにふさわしく」、この世の論理、教会の論理ではなく、神の論理、キリストの論理に基づて生きることが求められます。 教会も、神の論理を忘れた時、腐敗が生じます。私たちは常に、神の平和・霊の一致を保っているのか問われます。周囲を見渡し、一人よがりになっていないか確認しなければなりません。「なぜ」それを行っているか説明できなければなりません。常に御言葉に帰りつつ自らの行いを省み正していくことは、困難です。そのために遜り・柔和と寛容・愛をもって互いに忍耐することが求められます。そのためカルヴァンは自己否定の大切さを語ります。教会が一つとなり成長するための一致の規準は、主なる神しかありません。そのために、主の御言葉に聞き続けることが求められます。私たち自身が規準となってはなりません。また教会もまた絶対的ではなく、時として腐敗することもあり得ます。
 主が神の教会へと全世界の人々をお招き下さいます。違いがあって当然です。それでもなお一つの教会を形成する時、一人に迎合するのではありません。多様性を認めつつ、なおも一つになるには、御言葉に聞き、主にあって一つになるしかありません(4-5、信仰告白25-2)。

Ⅲ.教会における多様性
 一人ひとり、違いがあり、個性・賜物があります(7)。主の御前に不要な人は誰一人いません。弱さの中に愛があります。感受性が豊かな人もいます。人が規準を作れば、無能な人を定め、排除の論理が生じます。しかし、教会における規準は、主なる神がお定めであり、キリストの御前に価値のない者は誰一人いません。一人ひとり全員が貴いのです。
 そして主は、キリストの教会のためにふさわしい働き人をも備えて下さいます。特に牧師です(11-13、信仰告白25:3)。教会で牧師に従うことが求められるのは、牧師が主からの賜物が与えられ、主の教えを指し示すからです。しかし牧師が絶対的ではありません。誤りがあれば正されなければなりません。独裁者となれば、排除されなければなりません。
 しかし牧師から主なる神の真理である信仰と知識が指し示された時、私たちは皆が神の民として一つになることが求められます。多様性の中の一致です。そして御言葉により、信仰の成長が求められます。乳飲み子のままの信仰ではいけません。キリスト者に対して、多くの誘惑があります(14)。世の中全体が、今の世を「良し」としているかも知れません。しかし信仰と神の知識に基づいて社会を見る時、「おかしい」、「これではダメだ」との声が出てくるはずです。難しいことは分からなくても、霊的・感覚的に社会を感じ取ることが大切です。キリスト者は、こうした社会の変化を読み取る力がなければなりません。弱さを担っている方々の声に耳を傾け、愛に根ざした真理を求め続けなければなりません。15~16 「愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます。キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです」。そして、パウロはコリント一12:27,26でこのようにも語ります。27 「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です」。26 「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです」。一人ひとりの信仰が成長し、与えられているそれぞれの賜物が教会において用いられる時、教会は成長していきます。そのために互いに柔和で寛容の心をもって、主の御言葉に聞き、主に仕えていくことが求められています。
 
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 受難節の説教 「『イエスを知らない』と言う!」ヨハネ13章36~38節    2019.4.7
 
序.宣教開始60周年
 この月、私たちの大宮教会は宣教開始60周年を迎えます。この間、主なる神が、大宮教会を養い下さい、ここに集う一人ひとりの神の民に恵みをお与え下さっています。今日、礼拝に招かれている私たち一人ひとりにも、主の御業が及んでいます。

Ⅰ.ペトロの離反を違った角度から読み解く
 今日から3回の礼拝により、キリストの十字架と復活を覚えつつ、キリストの十字架と使徒ペトロとの関係にしぼり、ヨハネによる福音書から聞きます。今日はペトロの離反の予告、そして来週はペトロが主イエスを「知らない」と語ったことから聞きますが、これらは4つの福音書が記します。繰り返し語られるのは大切だからです。しかし同じ出来事を語るにしても、語る視点・着目点・目的が異なるため、語り口も違ってきます。
 特にヨハネによる福音書とマタイ・マルコ・ルカの共観福音書とは別の視点から語られています。共観福音書は、過越の食事(最後の晩餐)が行われている中、主イエスはペトロの離反を語り、ゲツセマネの祈りへと続きます。つまり、罪人が救われ、神の御国の交わりに加えられることが焦点です。そのためペトロの離反は、「誰がイエスの一番弟子だ」といった議論が語られる中、「あなたも罪人なんだ」ということを確認します。しかしヨハネ福音書は、最後の晩餐もゲツセマネの祈りも記されていません。ヨハネは、イエスが神の御子、メシアであることを語り、イエスがこれから向かわれる神の御国に焦点を当てます。そして、この神の御国こそ、イエスを信じる者に与えられる祝福であると語ります。そうした中、神がお示し下さる神の御国に、ペトロや弟子たちがどのようにして神の御国へと招き入れられるのかが、語られていきます。

Ⅱ.ついて行くことの出来ない場所
 そして、ペトロの躓きの予告においても、共観福音書では「あなたがたは皆わたしにつまずく」(マルコ14:27)と語り始め、ペトロの信仰に対する問いかけますが、ヨハネではシモン・ペトロが「主よ、どこへ行かれるのですか」(13:36)と主イエスへの問いかけから始めます。ヨハネは、ペトロの信仰に目を向けず、主イエスに目を向けます。
 この問いかけに対して、主イエスは「わたしの行くところに、あなたは今ついて来ることはできない」と応えられます。ペトロは主イエスと共に歩み続けることが出来ません。なぜならば、主イエスは十字架の道を歩まれているからです。墓に葬られ陰府に下ります。これは滅びへの道です。これは、神の民であるペトロやキリスト者が、同じ道を歩むことをしなくてもよいように、キリストは、私たちに代わって、死と滅びの道を歩んで下さいます。だからこそ、「今ついて来ることはできない」し、付いて行ってはいけません。 つまり主イエスが「鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう」と語られるのは、ペトロが滅びの道に来ることを拒み、守るためです(参照:ウ信仰告白5:5)。

Ⅲ.後について来る
 キリストは、十字架の死と陰府降りから三日目の朝に甦り、神の御国に上られます。神の御国こそ、キリストを救い主と信じる神の民に与えられる永遠の祝福です。ペトロとキリスト者が、最終的に主イエスについて行く場所です(参照:ヨハネ14:1-3)。ペトロや使徒たち、私たちすべての神の子が集う場所が整い、すべての神の子が教会に集められた時、キリストは再臨され、最後の審判を行い、すべての神の子を神の御国へと迎え入れて下さいます。だからこそ「あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる」と主イエスはペトロに語ります。
 この時、ペトロが主イエスに付いていくことに対して、二つの方向性があります。一つは、今語った主イエスが準備して下さる神の御国です。ペトロも弟子たちも、そしてここに集う私たち一人ひとりのキリスト者も、神の御国、天国に居場所が供えられています。永遠の生命が約束されています。聖餐の礼典により私たちはこのことを確認します。
 そして、もう一つのことが、ペトロが「あなたのためなら命を捨てます」と語ったことです。キリストのしもべ(奴隷)として、迫害が伴ったとしても、どこまでもキリストに従い、まさに殉教の死まで覚悟することです(参照:マタイ10:26-31)。キリストが十字架の死から三日目の朝に、死に打ち勝ち甦られたように、主は私たちに甦りの体をお与え下さり、天国へと凱旋させて下さいます。救いの希望が与えられているからこそ、一時的な苦しみが伴ったとしても、私たちは信仰が守られ、救いの道を歩み続けることができます。
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  受難節の説教 「お前もイエスの弟子か?」ヨハネ18章15-18、25-27節    2019.4.14
  
序.クリスチャン
 今、一人の姉妹が信仰告白し受洗し、契約の子どもたちの幼児洗礼が行われました。大宮教会の会員、神の民としてクリスチャンとなりました。本当に嬉しいことです。
 私たちはイエス・キリストをメシア(救い主)と信じ、キリスト者(クリスチャン)と名乗っています。一番最初に「キリスト者」と呼ばれたのは、教会外の人々が、キリストを信じる者を軽蔑する意味でした(使徒11:26)。つまり、私たちが「キリスト者」と呼ばれるのは、世の人々とは異なった存在であり、人々から後ろ指を指されること、迫害される琴を覚悟しなければなりません。ですから私たちがキリスト者として生きる時、教会の中では喜びに包まれますが、人々からは冷たい目で見られることも覚悟しなければなりません。
 私たちを救いへと導いて下さる主なる神は、インマヌエル(神は我々と共におられる)(マタイ1:23)な神です。私たちは、教会に来ている時、聖書を読み、お祈りしている時だけが、クリスチャンではありません。主がいつでも私たちと一緒にいて下さり、いつでも私たちの神さまです。私たちはいつでもクリスチャンであって、クリスチャンから離れた生活などあり得なません。

Ⅰ.主イエスの逮捕とペトロの心境の変化
 主イエスと12人の弟子たちは過越を感謝と共に厳粛に行われました。しかしこの時、主イエスは、ペトロに「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできない」(13:36)、「はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう」(13:38)、と語られました。ペトロにとって、考えもしないことが語られました。
 その後、主イエスは逮捕されようとしている時、ペトロはイエス先生を守らなければとの思いが強く、大祭司の手下に打ってかかり、その右の耳を切り落としました(18:10)。
 しかし、主イエスは逮捕され、連行されていきます。ペトロはその姿を見ながら、気が動転します。ペトロはキリストの弟子であるよりも、逮捕されることを恐れ、自己保身をします。ペトロは、主イエスに従いたいとの思いはあるものの、それは救い主メシアを信じる信仰ではなく、偉大な先生に従う程度であったと言わなければなりません。

Ⅱ.最初の問いかけ
 大祭司の屋敷の中庭にペトロが入ることが出来たのは、もう一人の弟子と共にいたからです(15-16)。「もう一人の弟子」が、「イエスの愛しておられた弟子」(13:23,19:26,20:2,21:7,20)、福音書の著者ヨハネであったのか否か、確定できません。私たちはあえて詮索すべきではありません。私たちが注目すべきことは、もう一人の弟子が門番の女と話していたことです。門番の女は、もう一人の弟子が主イエスの弟子であることを知っていました。この弟子も、その事実が知られていることを前提に、大祭司の屋敷の中庭に入っています。
 ですから門番の女中の「あなたも、あの人の弟子の一人ではありませんか」(17)との問いかけは、ペトロが主イエスの弟子であることが前提に質問しています。そして彼女にペトロを責め立てる意志はなかったのではないでしょうか。しかし、ペトロは過剰防衛して「違う」と答えます。ペトロは余裕がありません。
 私たちの信仰が問われるのは、主を礼拝している時、聖書を読み祈っている時ではありません。むしろ予定が狂いトラブっている時、絶体絶命のピンチの時に、私たちは「あなたはキリスト者か」と信仰が問われます。頭の中は真っ白、じっくり考えられず、余裕がありません。ペトロも「キリストの弟子」であることを、恐ろしさの余り否定します。私たちは常日頃から主の御前に御言葉に聞き、主に委ねることを心がけなければなりません。

Ⅲ.歯止めがきかなくなる
 続けてペトロは相次いで二人の質問を受けます(18:25~27)。特に3番目はペトロに片方の耳を切り落とされた人の身内の者であり、証拠が突きつけられたと言ってよいでしょう。ペトロは「呪いの言葉さえ口にしながら」(マルコ14:71)と語ります。2回ウソを語り、もう引き返すことが出来ず、意固地になってしまいました。
 キリストは、このようなペトロの姿を確認しつつ、十字架の道を歩んで下さいました。
 ペトロ、そして私たちが戦うことが出来ず、妥協し、罪を犯すようなことに対しても、キリストは戦って下さいました。そして、私たちの失敗をも、罪の刑罰としての死に背負って下さいました。キリストを信じる者は、失敗し、罪を犯しても、キリストは赦して下さいます。そのためにキリストが十字架の苦しみを担って下さいました。私たちの弱さを知っておられる主は、私たちの弱さを含めて赦し、救い、神の御国へと招いて下さいます。
 
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 イースターの説教 「イエスを愛しているか?」ヨハネ21章15-19節   2019.4.21
 
 序.
 私たちは、今、キリストの十字架と復活によって与えられた救いの喜びに満たされて、主の御業に感謝しつつ、礼拝を献げています。

Ⅰ.ペトロと向かい合う復活の主イエス
 復活された主イエスは弟子たちの中におられます。シモン・ペトロも、主イエスと再会し、舞い上がっています(21:1~14)。わずか数日前の朝、主イエスを知らないと3度も語り、後悔し激しく泣いた(ルカ24:49)ことなど、すっかり忘れています。これがペトロらしさであり、同時に直感的に行動するペトロの弱さでもあります。
 復活された主イエスはペトロと向かい合います。ペトロを責めるためではありません。ペトロ自身が罪と向き合うことができれば良いのである、罪を公にして、主イエスの弟子の間で互いに裁き合い、分裂・対立が発生することを主イエスは望まれません。主は、罪を公にするのではなく、各々が自らの罪と向き合い悔い改めることを望まれています。他人の罪を明らかにしようとするのは、自らの正しさを誇るためであり、十字架のキリストの御前に立っていません。教会において求められることは、罪を明らかにすることではなく、キリストにあって互いに罪赦された者どうしが、「互いに柔和で寛容の心を持つ」ことです(エフェソ4:2-3)。このことを理解しなければ、教会は人を裁く同じ失敗を繰り返します。
 
Ⅱ.過去の自らの姿を顧みることが求められるペトロ
 主イエスはペトロが3度イエスのことを知らないと語り罪を犯したことを想起させ、十字架を背負わせます。ペトロは、自らが犯した罪を顧みることが求められます(21:17)。
 この時主イエスは、ペトロのことを「ヨハネの子シモン」と元来の呼び名で呼ばれます。「ペトロ」という名は、ペトロが主イエスと出会った時に付けられた名です。「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ―『岩』という意味―と呼ぶことにする」(1:42)。「ケファ」はヘブライ語であり、ギリシャ語読みが「ペトロ」です。つまりペトロとの名は、この後、岩のごとくしっかりとした岩盤をもって教会の指導者として立っていくことを指し示しています。しかしこの時は、個人的に罪を向き合うために「シモン」と呼ばれます。
 つまり、罪の悔い改めと罪の赦しは、私たちはキリストと一対一の関係において成立します。一方教会は、個人の罪を公にして裁くのではなく、キリストにより罪赦された者同士が、救いの喜びに満たされて、柔和と寛容の心を持つことによって、和解と一致をもって、聖徒の交わりを形成して行くことを心がけていかなければなりません。
 
Ⅲ.神の召しと救いに生きる
 そして主イエスはペトロに対して「わたしの羊を飼いなさい」と三度語られます。聖書は、神と神の民の関係を、羊飼いと羊において関係付けます(詩編23編、ヨハネ10:1-18)。「わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。」(10:14)。主は、主を信じる私たち一人ひとりを牧してくださり、どのような時にも守って下さいます。そして主イエスはペトロに対して、「わたしの羊を飼いなさい」と三度お語りになり、主イエスが担っておられる羊としての神の民の牧会を、ペトロに委ねます。プロテスタント教会では、一人の牧師が、一つの教会を牧する者として召しを受け、按手されて、牧師の働きを始めますが、最初にペトロに与えられたと考えます。この時牧師となる者は、徹底的に自らの罪を悔い改めることを忘れてはなりません。
 主イエスは、18「しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる」とペトロに語ります。これは主イエスがペトロに「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる」(13:36)とお語りになられたことに対する応答です。これは殉教の死に至るまで、キリストに従うことです。旧約の預言者たち、使徒たち、パウロ(参照:フィリピ1:21)も、殉教の死に至るまで、信仰を貫きました。人間的に考えれば、周囲の人々に反感を持たれたり、迫害されることは辛いです。しかし、この後ペトロは殉教の死にいたるまで、キリストに付いて行きます。キリストが死から甦られ罪に勝利を遂げたからです(参照:大教理52)。キリストの御業を信じる者は、主により強められ、霊的に生きることが出来ます。ここにこそ、真理があり、永遠の生命の恵みがあるからです。
 私たちはこの後、聖餐式の恵みに与ります。キリストは十字架に架かり死を遂げますが、死に打ち勝ち勝利を遂げて下さいました。私たちの罪はもう赦され、私たちは神の子に加えられ、永遠の生命が約束されています。
 
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 イースター・墓前礼拝の説教 「あなたがたの場所がここにある」ヨハネ14章1-7節    2019.4.21
 
 序.
 今、私たちは地上での生涯をまっとうし墓に眠っている神の民を前にして、礼拝を献げています。これは、故人を礼拝したり、故人を思い起こすことではありません。主なる神、御子イエス・キリストへの礼拝です。私たち主なる神を信じる者は、ここに眠っている人たちと共に、死からの甦りと永遠の生命の希望が約束されているからです。

Ⅰ.イエスにより与えられる天国の住処
 主イエスは「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」(14:1)と語ります。少し踏み込むと「あなたがたは、すでに神を信じています。そして今、わたしをも信じなさい」と訳すことができます。弟子たちは、主なる神を信じ、イエスも信じていました。しかしイエスに対する彼らの信仰は、神への信仰ではなく、先生として慕っている程度でした。それは主イエスがゲツセマネで逮捕され、裁判を受けるにあたって、弟子たちが主イエスから離れて行くことにより、明らかになります。
 主イエスは弟子たちに、イエスを主なる神として信じるように求めます。主イエスこそが、神を信じる民を天国へと導いてくださるお方だからです。どのようにしてか? 主イエスは十字架の死と復活の後、天に昇られます。それは天国に、神の民すべてが十分に過ごすだけの場所が用意するためです。黙示録7章で、天国は12部族がそれぞれ12,000人ずつ、144,000人が集うと記されています。しかし黙示録に記されている数字は象徴的です。12部族の12、12,000人の12、10は、それぞれが完全数であり、満たされた数です。つまり黙示録で記されている144,000人は、神が予定して救い、天国へと招くと言われたすべての人のことです。イエスを救い主と信じる人が例外なく、天国に入ることができます。
 キリストの十字架の御業が完成して2000年、未だに神の御国が完成しないのは、神の民が満たされていないからです。だからこそ私たちは、福音宣教が求められています。
 つまり、天国に私たちの住処があることが宣言されていることは、私たちが地上の生涯を終え天国に凱旋する時には、確実に永遠の生命が与えられ、すでに墓に眠っている神の民と再会することが約束されています。ここに主を信じる信仰の希望と喜びがあります。

Ⅱ.今、神の御国における主イエスの働き
 十字架の死と復活を遂げられた主イエスは、私たちを天国に迎え入れる準備をしておられます。一つは、天国に場所を設けるためであり、さらにもう一つ、主イエスは私たち一人ひとりを覚えて執り成しの祈りを献げて下さっています。聖霊により、私たちを救い主へと招き、信仰告白へと導き、苦しみの中にある時は寄り添ってくださいます。教会から一時的に離れても、再び主を求めて信じるように働きかけて下さいます。そして神が予定されたすべての神の民が、天国に集うことが出来るように、働きかけて下さっています。
 つまり私たちは「神さまを信じ続けなければならない」、「一生懸命礼拝に出席しなければならない」、「良き行いを行わなければならない」といった律法主義から解放されています。神の予定にある私たちは、救いから漏れることはありません(聖徒の堅忍)。だからこそ私たちは、救いの感謝と喜びをもって神を信じ、神に礼拝を献げます。主の御言葉(律法)により、罪の誘惑から守られ、神を証しする道が備えられています。これが、「ねばならない」から解放され、救いの喜びに満たされたキリスト者としての歩みです。

Ⅲ.主イエスこそ、天国への道である!
 「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(6)。主イエスがどういうお方であるかが語られています。
 「イエスは命である」。キリストの十字架と復活はすでに完成しました。キリストこそが命であり、私たちに命をお与え下さる方であることがはっきりと示されています。
 「イエスは真理である」。今の時代、真理・真実が無視され、隠される時代となっています。しかし主なる神は、真理を歪めることは許されず、真実もすべて明らかにされます。最後の審判で、真理を歪め真実を隠そうとする者たちを裁かれます。そして神の真理に生きるキリスト者が、神の御国の永遠の生命へと招かれます。真理に生きるキリスト者は、時として苦しみが伴いますが、主はすべてを報いて下さいます。
 「イエスは道である」。主イエスは、十字架の死と復活により、私たちの罪を贖い、救いをお与え下さいました。そして神の御国へと招き入れてくださいます。主は私たちを神の御言葉と教会により、天国への道を備えて下さっています。天国への歩みを、私たちも歩み続けることにより、主からの祝福と喜びが約束されています。
 
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  特別伝道集会の説教 「死を見つめ、喜びに生きる」フィリピ4章1-9節    2019.4.26
 
Ⅰ.信仰の喜びに生きるパウロ
 「終活」と語られますが、「死」は終わりのイメージが強いかと思います。しかし、信仰を持ち、神を基準に考える時、「死」のイメージが変わります。もちろん、信仰を持ったからといって、肉体の死がなくなるわけではありません。誰もが早かれ遅かれ肉の死を迎えます。しかし、神を信じる時、その先にあるものが見えてきます。
 手紙の著者パウロは、この時、ローマにおいて投獄されていました。まだキリスト教が国教化される前、キリスト者に対する迫害が強かった時代です。パウロは、皇帝を侮辱した罪で投獄されています。手紙を記す自由はありましたが、投獄は現在では考えられない劣悪の環境でした。パウロはいつ処刑されるか分からない状況でこの手紙を記しています。
 しかしパウロは死を前にして喜びを語ります。「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです」(1:21)。つまり、生き続けることは、キリストを証しすることができ喜びです。一方、「死ぬことは利益なのです」と語ります。「信仰を持てば死ぬことはない」と考えているのではありません。「肉の死」は、パウロにとっても恐ろしさがありました。しかし、復活のキリストと出会ったパウロには、死から甦られたキリストと共に、死んでも生きるとの復活の信仰がありました。

Ⅱ.キリストの御業とキリスト者に与えられる祝福
 キリストは十字架に架けられ死を遂げられました。しかし、キリストは死から三日目の朝に甦られました。復活されたキリストは、再臨を約束され、天に昇って行かれました。
 キリストを信じる者は、キリストと同じように復活の体が与えられ、天国へ凱旋することが約束されています。そのためパウロはこのようにも語ります。「わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています」(3:20)。ここに肉の死において、すべてが終わりではない神の御国という、神の約束があります(参照:ウ小教理問37,38)。
 キリストの時代から2000年が経ち、まだキリストは再臨されていません。「昔話だ」と思われる方も少なくありません。しかし、私たちが信じている主なる神は、天地創造の時から生きて働いておられます。この神の刻まれた歴史のすべてを考えた時、2000年は僅かな期間です。そのため聖書はこのようにも語ります。「主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで御名が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです」(Ⅱペトロ3:8~10)。天国に入るために予定されている人たち皆が教会に来る日を待っておられるのです。

Ⅲ.信仰に生きる喜び
 「思い煩い」は、目の前にある問題にしか考えが及びません。それがすべてとなります。「死」というゴールを設定した時、視野は狭くなり、そうした中で思い煩う時、苦しみ、息苦しさが増してきます。一方、神を信じ、復活の生命を信じる時、神の視点で物事を考えることができます。天地創造から現在、そして神の国の完成という時間的な広さ、そして、神が創造された全世界・宇宙の中に生きていることを覚える時、私たちは、時間的・空間的な広さの中で生きることができます。
 私たちの問題は、一つひとつとても大きく・大切な問題です。しかし、神の御前には小さなことです。そして神は、こうした私たちの一つひとつの問題を、すべてご存じであり、解決して下さいます。神はすぐ近くにおられます。神が共にいて下さるからこそ、私たちは委ねて祈るのです。キリストがお生まれになられた時、インマヌエル「神は我々と共におられる」(マタイ1:23)と語られました。キリストは天に昇られた今も、聖霊を通して、私たちと共にいて下さいます。
 だからこそ聖書は、「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう」(4:6-7)と、語ります。信じて委ねて祈れば、キリストは祈りを、一番適切な形で、聞き届けて下さいます。ここに生きる希望があります。パウロ自身、復活と永遠の生命の希望により、投獄中、いつ処刑が訪れるか分からない中、なおも、喜びに満ちており、同時にキリストを救い主として信じる人たちに喜んで生きるようにと、呼びかけています。
 
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  待降節 「マリアへの約束と賛歌」 ルカ1章26~38節    2019.12.1
  
Ⅰ.マリアへの告知とは
 今日からアドベント(待降節)に入ります。クリスマスは、私たちの救い主がこの世にお生まれ下さったことを覚え、感謝と喜びを共にする時です。しかし御子の母、聖母と呼ばれるマリアにとっては、天使より受胎告知を受けた瞬間、喜びが与えられた瞬間ではなく、人々にさらし者にされ、死をも覚悟しなければならない驚きと危機感を覚えた瞬間でした。
 マリアにはダビデ家のヨセフといういいなづけがいました(1:27)。旧約聖書には、ダビデの子としてメシア(救い主)が誕生されることが記されており(イザヤ7:13-15、同9:5-6)、ユダヤ人はそれを期待していました(ヨセフにいたるイエスの系図:マタイ1:1-17)。
 この時マリアは10代半ば14~15歳位。これから結婚を控え、喜びに満ちていました。しかし受胎告知は、イスラエルの一少女にとって何を意味していたのか? ヨセフに対する裏切り、そして姦淫を行った罪人として石打の刑で処刑されることを覚悟することです。
 
Ⅱ.マリアと共にいて下さる主なる神
 こうした状況の中、天使ガブリエルはマリアに告知を行います。天使は「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」(28)と語ります。マリアは初めて天使と出会い、戸惑いがあったことでしょう。天使がは「主なる神が共にいてくださる。だから安心しなさい」というメッセージを語ります。マリアは、神の存在のリアリティが示されます。
 天使は続けて語ります。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産む」(30-31)。少女にとっては、受け入れがたいことが語られます。おそらく何が起こったのかわからず、パニックに陥ったことでしょう。
 
Ⅲ.主は預言を理解させ、すべての必要を整えて下さる
 生きて働いておられる主なる神が、私たちに働きかける時、①聖書によって預言されていることを明らかにします。②その言葉が正しいことであることを、別の証拠をもって示して下さいます。③実際に訪れる危険・危機に対して、逃れの道を備えて下さいます。
 天使は続けて語ります。「その子をイエスと名付けなさい」(31)。イエスとは「主は救い」との意味で、旧約聖書では「ヨシュア」で、多くの子どもたちに付けられていた名です。この子が、メシア(救い主)であることを、天使は告げたのです。
 続けて天使は語ります。「その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない」(32)。これは旧約聖書の預言の成就として、今、マリアをとおしてメシアが誕生することを天使は語ります(イザヤ7:13-15、9:5-6)。
 さらに天使は続けて語ります。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる」(35)。マリアが宿された子は、男と女から生まれる子ではなく、主なる神によって宿された子です(ウェストミンスター小教理問21-22)。
 メシアは単なる人間ではダメで、私たちの罪の贖いを成し遂げることが出来る真の神でもなければなりません。そのため聖霊によって宿る特別な方法で、マリアより生まれます。
 主はこれら告知をマリアが信じることができるように、エリザベトが子どもを宿したことを紹介します(36-37)。また、ヨセフの不信を解消するために、主はヨセフにも告知して、マリアを受け入れるようにお語り下さいます(マタイ1:18-25)。主は一つの御業を成し遂げる時、御言葉により私たちに語りかけると共に、それが神による導きであることを、他の出来事をとおして証しして下さいます。
 さらに主は、ヨセフとマリア・幼子イエスが守られる道を備え下さいます(マタイ2:16-21)。
 主はマリアが御言葉の預言と現実により主の御業を理解することが出来るようにし、かつ主が共にいてくださり、守り導いて下さいました。そしてマリアは主の御業を受け入れ、主にすべてを委ねて成し遂げられることを信じて、語ります。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」(38)。マリアはこの後、エリザベトを訪れ、賛歌をうたいます(1:46~55)。
 主はマリアへの受胎告知により、私たちの救いの御業を始められます。マリアに対して生きて働く神は、今も生きて働いておられ、私たちに働きかけて下さいます。主は、キリストが再臨し、私たちに救いを完成して下さることを約束して下さっています。だからこそ私たちは、なおも地上の歩みの中にあっては苦しみも伴いますが、主が共にいて下さること、そして主がお与え下さる救いに希望をもって、日々、歩み続けていきたいものです。
 
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 待降節 「ヨセフへの約束」 マタイ1章18~25節    2019.12.8
 
 Ⅰ.ヨセフに語られる告知
 先週、イエスの母とされるマリアに対して、天使から受胎告知を受けたことから御言葉に聞きました。子どもを授かると、人目にも明らかになります。そのため婚約者ヨセフにも分かることとなります。結婚をする前に異性と関係を持つことは姦淫であり、許されることではありません。そのため、ヨセフはマリアとこっそり別れる決心をしました。
 そこに天使がヨセフの夢に現れ語り始めます。ここには2つの意味があるかと思います。一つは前回も確認したことですが、マリアの身が守られるためです。ヨセフとマリアは婚約をしており、生まれてくる子イエスを二人の子どもとして育てることができるからです。

Ⅱ.ダビデの子
 もう一つの意味は、ヨセフがダビデの子孫であったからです。マタイ福音書は最初にアブラハムから始まる系図を記すことにより、ダビデの子としてイエスがお生まれになることを確認します。そのため天使はヨセフに「ダビデの子ヨセフ」と語り始めます。
 イスラエル人は、旧約聖書においてダビデの子としてメシア(救い主)が誕生することが記されており、そうしたメシアを待ち臨んでいたのです(サムエル下7:12~13(預言者ナタンからダビデに対して直接約束された言葉)、イザヤ9:5~6、エゼキエル34:23~24)。
 アブラハム以来、イスラエルが約束の民と称されるのは、救い主がダビデの子としてお生まれになることが約束されていたからです。旧約の時代、イスラエル人は繰り返し罪を犯し、国は分裂し、滅ぼされ、捕囚の民とされます。それでもなおイスラエルが残されたのは、約束の救い主の誕生のためでした。そのためキリストの御業が完成すると、肉におけるイスラエル人に対してではなく、霊によるイスラエル、つまりイエスを救い主と告白する者に対する祝福を聖書は語り、私たちにもイエスを信じることを求めます。

Ⅲ.二性一人格
 そして天使は続けて、「恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである」(20)と語ります。イエスが人としてお生まれになることは神の御業です。そのため、マリアへの受胎告知同様に、聖霊の働きが介在していることをヨセフにも確認します(参照:ウェストミンスター大教理問答問40)。
 さらに天使は語ります。「マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」と語ります。前回も確認しましたが、イエスとは、旧約においてはヨシュアと呼ばれ、「主は救い」という意味です(同問41)。
 イエスは、神なのか、人なのか、という議論があります。しかし聖書は、イエスはマリアから生まれたのであり、明らかに人であることを語りつつ、ここに主なる神が聖霊をとおして働いており、神の御業としてお生まれになった神の御子であることを語ります。イエスが人としてお生まれになったのは、私たちの救い主としてであり、神と人との仲介者(仲保者)である必要があったからです。新約の教会は、イエスは神でありつつ、同時に人となられた二性一人格であることを告白するに至ります。二性一人格の教理は、知的に理解しようとしてもできません。聖霊により信仰をもって信じることが求められています。

Ⅳ.インマヌエルな神
 最後にマタイは次の言葉を付け加えます。このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である(23)(参照:イザヤ7:14、8:8,10)。
 私たちは、マリアからお生まれになられたイエスが、私たちを救うために十字架にお架かり下さったことを信じることが求められます。そのお方がインマヌエルです。つまり、キリストは十字架の死と復活の後、天に昇って行かれましたが、キリストはペンテコステの日に約束の聖霊をお送り下さいました。そのため私たちは、キリストを直接見たり、言葉を聞いたりすることはできませんが、御言葉である聖書をとおして、聖霊により、いつでもキリストと出会っています。そのため復活の主イエスは、復活を疑っていたトマスに対して「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」(ヨハネ20:29)とお語り下さいました。今、教会に集められている私たち一人ひとりにも、主なる神は聖霊をとおして働いておられ、キリストの十字架の贖いをお示し下さっています。今も生きて働いておられる主なる神を信じ、主に委ねて歩んで頂きたいと思います。
 
 
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 待降節 「占い師に与えられる約束」 マタイ2章1~12節   2019.12.15
 
Ⅰ.ヘロデ王
 私たちは御子の御降誕を心待ちにしますが、ユダヤの王ヘロデはクリスマスを恐れをもって迎えました。ユダヤの王とは、サウロ、ダビデに始まり、主なる神によって立てられた王です。そのため、ダビデのように王が主なる神に従う時、イスラエルは主の祝福に満たされてきました。しかし、主なる神によって立てられた王が、主に逆らい、自らの力を保持しようとする時、イスラエルに裁きがもたらされます。
 ウェストミンスター信仰告白23:3では語ります。「国家的為政者は、〔第一に〕教会の中に一致と平和が維持されるように、また〔第二に〕神の真理が純粋かつ完全に保たれるように、さらに〔第三に〕すべての冒涜と異端が抑圧され、礼拝と規律におけるすべての腐敗と悪弊が予防あるいは改革され、神の規定すべてがしかるべく定められ、執行され、遵守されるように、取り計らう権威を有している」。つまりイスラエルの王は、主なる神を信じ、主の御心に従った政治、つまり、イスラエルの民に仕え、力・軍事力ではなく、神の御言葉に従って一致と平和を求めて民を統治する時、主の祝福が約束されていました。
 しかしこの時、ユダヤはローマの属国・ローマの支配の下にありました。そのためヘロデは、ローマによって保証されている王としての地位が唯一の誇りであり、ユダヤの王という地位がローマの総督やユダヤの民衆によって剥奪されることを恐れていました。ここに、主に仕える姿も、民衆の苦しみを顧みる心などありません。

Ⅱ.主の恵みとそれを拒否するヘロデ
 そうした状況の中、占星術の学者たちが現れます。彼らは、おそらくペルシャの占い師であり、同時に人びとに影響力をもつ学者であったと思われます。彼らは、異邦人であり、かつ占いという偶像に仕える者でした。しかし主なる神は、異邦人であり異教徒である彼らを祝福に満たして下さいます(例:北イスラエルを滅ぼしたアッシリア、南ユダを滅ぼしたバビロン、バビロンを滅ぼしたキュロス王等)。
 東方の博士たちは、星によりユダヤ人の王としてメシア(救い主)がお生まれになったことを知り、主の祝福に満たされ、エルサレムにまで赴きます。彼らは、まだ主の御言葉に触れておらず、エルサレムに来る以外の道が示されていません。この時ヘロデは、祭司長たちや律法学者たちを集め、このことを確かめさせます(4)。本来ならば、ヘロデはメシアの誕生を共に喜び、お祝いに駆け付けることが求められていました(7~8)。
 しかしヘロデは、自らの権力を守る私利私欲のために、主がお与え下さる祝福を捨て、メシアである幼子の虐殺行為に及びます(16~18)。つまりヘロデは、主なる神からメシアの誕生という喜びに立ち会う機会が与えられ、そのための御言葉が示されながらも、それを拒否して、自らの権力を誇示しようとしたのです。ここに彼の罪があり、主の裁きに値します。

Ⅲ.主の恵みに満たされる
 一方博士たちは、旧約聖書によって示された主の預言(6)に従います(ミカ5:1-5)。この預言が示された時、博士たちは主によって与えられるメシアによる救いを確認し、主なる神の救いに入れられます。彼らは、ユダヤの王の誕生のために、黄金、乳香、没薬をプレゼントとして献げます(11)。これらは非常に高価な価値のある贈り物です。これがクリスマス・プレゼントの由来でしょうが、この博士たちの行為は、主なる神から恵みを賜ったことに対する感謝の表れです。つまり彼らは遠路の旅をして、ペルシャからエルサレムに来ました。その時間・費用を主のために献げ、さらに恵みの感謝として贈り物を献げたのです。
 私たちが主なる神であるキリストの御降誕をお祝いし、キリストの十字架の御業による救いに心から感謝を献げる時、私たちは、主のために時間を割いて礼拝を献げ、与えられた感謝として献金を献げ、感謝の応答として神のために奉仕を献げるものとされるのです。

Ⅳ.主の恵みに生きよう!
 さらに主なる神は、博士たちをを主の恵みの内においてくださり、主に逆らうヘロデの危険から守って下さいます。そのため彼らは、その後、ヘロデの所に報告に行くことなく、自分の国へと帰ることが主によって示されました。御子の御降誕の時に博士たちに示された恵みは、現在に生きる私たちにも示されています。だからこそ、私たちは御子イエス・キリストを救い主として信じると共に、主がお示し下さった御言葉に聞き従うことが求められています。そして主の恵みに感謝と喜びをもって、主を礼拝し、主に献げ、主に仕えて行きたいものでありたいと思います。
 
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 クリスマス 「羊飼いに訪れる喜び」 ルカ2章8~20節   2019.12.22
 
 Ⅰ.旧約聖書における羊飼い
 羊飼いは、イスラエルの人たちにとっては非常に身近な存在であり、彼らは羊や家畜を飼い、養い育ててきました。そして羊飼いのおもな仕事は、羊の群が十分に食べることができるような牧草地に導き、また飲み水を与えることでした。牧草のない時期には、飼料を与えて養うこともしなければなりません。また羊は迷いやすく、牧者に導かれなければなりません(民27:16-17)。羊飼いが群を放置したために野獣の襲撃に遭い、羊が殺されたり散らされたりすることもあります(参照:エゼ34:8、ゼカ11:17)。そのため、羊飼いは野獣の来襲から群を守るために、常に長い杖を持ち歩き、野獣を追い払います。また石投げを携え(サム上17:40)、時には犬を連れて羊を守ることもありました(ヨブ30:1)。
 そのため、聖書では羊飼いについて度々言及されています。アベルは羊飼いであり、アベルが主に献げた羊に主は目を留め祝福されます(創世記4章)。アブラハム、イサク、ヤコブも羊や家畜を飼っており、羊飼いたちを雇っていました(創12:16、26:14、31:41、43)。少年ダビデも羊飼いでした(サム上16:11)。また、主なる神は御自身のことを羊飼いたちに例えられます(参照:詩編23編)。羊飼いが羊を愛するように、主はイスラエルの民を愛しておられました。

Ⅱ.主イエスの時代の羊飼い
 しかし主イエスの時代になると、イスラエルにおける羊飼いたちの立場は、非常に悪くなりました。その原因は律法主義です。十戒の第四戒では安息日厳守が求められています(出エジプト20:8-11)。イスラエルでは、この言葉をさらに厳格に規定して、人びとに足枷をはめました。「一日に何歩以上あるいてはならない」と言った規定もありました。そしてこの律法を守ることのできない人びとを「罪人」と定めていきました。そのため、彼らのことをファリサイ人(分離主義者)と呼ばれていました。
 福音書には、安息日に働いたとして弟子たちや主イエスが病人を癒やされたことにより非難されました。ルカ6:1~11「安息日に麦の穂を摘む」、「手の萎えた人をいやす」、同13:10~17「安息日に、腰の曲がった婦人をいやす」、同14:1~6「安息日に水腫の人をいやす」。
 そして羊飼いたちは、羊の世話を行うために休むことができません。休んでも、代わり代わりであり、皆が一緒に休み、主を礼拝することはできません。そのため、かれらの語る律法をまっとうすることはできません。そのため、羊飼いたちはイスラエル社会からはじき出され、「罪人」とされていました。

Ⅲ.羊飼いに与えられた祝福
 このようにイスラエル人から虐げられていた羊飼いのところに、主の祝福が与えられ、御子の誕生の証人としての働きが与えられます(9)。羊飼いたちは恐れます。一つは、突然、主の天使が現れたからです。もう一つの理由は主による裁きへの恐れです。彼らも、イスラエル人に受け入れて頂き、救われたいとの思いがありました。しかし諦めていたのです。
 しかし、「罪人であり滅びる」と思っていた羊飼いたちに、主の天使が現れます。羊飼いも民の一員であり、大きな喜び、救いが与えられたことを宣言して下さったのです。
 生まれたばかりの乳飲み子と出会う。この方こそ救い主であると語られました。救い主によって与えられる喜び、それは罪の赦し、救い、そして永遠の生命です(参照:ウ小教理問1)。私たちが生きるとは、神と共に永遠に生きることです。そして主イエスは御自身のことを羊飼いに例えることにより、羊飼いたちを祝福に満たして下さいます(ヨハネ福音書10:10b~18)。

Ⅳ.神に栄光を帰し、永遠に神を喜びとする生活
 そして羊飼いを祝福へと導くのは、天使たちだけではありません。救い主の誕生は、マリアとヨセフ、そしてここに集められた羊飼いや博士たちだけの喜びではありません。天の大軍、つまり全世界の人びとにもたらされる喜びです(13-14)。天の大軍の賛美は、救い主をお与え下さった主なる神さまに対してなされ、それが救い主の誕生を祝う私たちに与えられます。つまり双方向です。主によって救われ、恵みが与えられた者は、主の栄光を誉め称えて生きることとなります(ウ小教理問1後半)。
 神は私たちが神を信じ、救いに生きることを求めておられますが、「信じなければならない」、「礼拝しなければならない」、「伝道せねばならない」ではありません。御子による救いは私たちに与えられました。御子が十字架の死と復活により、私たちの罪が贖われ、死が取り除けられました。だからこそ私たちは、救いの喜びに生きれば良いのです。それが神に栄光を帰することであり、それが福音として人びとに伝えられていきます。そのために私たちは、喜んで主を礼拝すること、献げること、奉仕することを行えばよいのです。
 
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 クリスマス 「神より与えられた生活-自然と共に生きる-」
                      創世記9章8~17節   2019.12.22
  
序.
 クリスマスとは、2000年前にお生まれになられた神の子であるイエス・キリストが人としてお生まれになったことをお祝いする日です。主なる神が、世界を支配し、キリストの十字架と復活により私たちの罪が赦し、救いをお与え下さいました。

Ⅰ.神と自然災害
 一方私たちは、今年、相次ぐ自然災害により、多くの人たちが苦しんでいる姿を目にしてきました。8年前の東日本大震災に次ぐ、大きな衝撃だったのではないかと思います。このように、地震や台風等による自然災害が発生した時、色んな考えが明らかにされます。
①自然災害は、地震であれば地球規模の地殻変動だが、台風などは地球温暖化の結果であり、人間的要素もある。
②自然災害は、あきらめるしかない。だから備えなければならない。
③神がおられるのであれば、神はなぜ災害をもたらすの?
④主なる神の支配の中に自然がある?
 神さまがこの自然災害により私たちに何を語ろうとされているのか、神がお示し下さった御言葉である聖書に耳を傾けなければなりません。ノアの時代、人びとが神から離れ、罪に満ちていたため、主なる神が、ノアに箱舟を作らせ、ノアと家族、そして動物たちが箱舟に乗った後、大雨が降り、ノアの家族以外の者たちが滅ぼされました。その後、主なる神は、11 わたしがあなたたちと契約を立てたならば、二度と洪水によって肉なるものがことごとく滅ぼされることはなく、洪水が起こって地を滅ぼすことも決してないと、語られます。主が世界を滅ぼされたのは、人びとの罪のためでした。そして洪水の後、神がノアたちと契約を結ばれるとは、創造主であり、生きて働いておられる主なる神を信じ、御言葉に従って生きる時、天国での生命を与えるということです。
 しかし世界を支配しておられる神は、2011年の大地震や今年の多くの水害により、多くの人命を奪い、今なお多くの人たちが苦しみの中にいます。ここに主なる神が関わっておられます。それを否定してはなりません。主は今も生きて働いておられ、そしてすべてを支配しておられるからです。しかし主は、すべてを滅ぼし尽くすことはしませんでした。

Ⅱ.主なる神からの問いかけ
 しかし、同時に、こうした災害によって多くの人々の生命が奪われ、多くの人々の生活が奪われたことを、神の責任にしてはなりません。
 主なる神は、すべてを支配しておられると同時に、罪に対して裁きを行う力を持っておられます。自然をとおして、主なる神は、私たちに御自身を現しておられます。
 そして主なる神は、私たち一人ひとりに対して、「あなたの生き方はそれで良いのか?」と問いかけておられるのです。災害に遭われた方々のことではなく、全人類の生き方が問われています。 今、私たちは、神の御前に遜らなければなりません。自然やすべてを支配できると思い込んでいることに対して、主の警告として示されています。スウェーデンの地球環境家のグレタさんは、世界の為政者に対して、地球環境問題・温暖化を警告しています。彼女の発信は、私たち一人ひとりに迫っていることとして、私たちは受け取らなければなりません。「あなたの生活・あなたの生き方はこれで良いのか?」と。そして、主の警告は、「あなたは主なる神に従って生きているのか?」が問いかけられています。

Ⅲ.神を信じて生きよ!
 私たちが、今日、共に覚えているクリスマス、2000年前のクリスマスに、人としてお生まれになられたイエス・キリストは、私たちが滅び行く中、生きているにも関わらず、私たちのために罪の償いと救いをもたらすために、人となって下さいました。そして、私たちに代わって、十字架に苦しみ、罪の刑罰としての死を遂げ、陰府に下り、死から三日目の朝に甦り、死と罪とサタンに勝利を遂げて下さいました。そして、主なる神を信じ、神に従って生きる者に、救いをお与え下さいました。そのため神を信じる私たちに対して、主の御前に立ち、悔い改め、神を信じ、神が求めているように和解と平和、そして世界の人々のため、100年後の人たちのことを覚えて生きることを、私たちに求めています。
 主なる神は、ノアの時代、洪水に対して、和解のしるしとして虹をお示し下さいました。私たちは、災害と共に、なおも主によって与えられる救いの恵みを顧み、主なる神さまを信じて、主なる神の御言葉に従って生きることが求められています。神がお与え下さった契約は、神を信じる私たちに救いをお与え下さいます。
 
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 標語説教 「キリストの体なる教会をめざして」
         ローマの信徒への手紙12章1~2節   2020.1.26
  
Ⅰ.会員総会を迎えるにあたって
 会員総会では、昨年、主がお与え下さった恵みを神に感謝し、今年の歩みを主に委ねつつ、行事予定・提案・予算案・役員選挙に臨みます。昨年の教会標語は、「互いに柔和で寛容の心をもつ教会を目指して」でした。このことは、私たちが繰り返し確認しつつ、キリストの罪の赦しによる愛の教会を形成して行かなければなりまません。今年の標語は「キリストの体なる教会をめざして」です。聖句は「だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」(マタイ9:38)です。私たちは10年・20年後を思い浮かべつつ、新たな長老・執事、教会奉仕者が与えられることを求めなければなりません。

Ⅱ.キリスト者として召されて
 もう一つの聖句がローマ12:2です。パウロは1~11章で、神の御業の全体像をまとめて語ります。これがウェストミンスター信仰規準の全体像を示しており、ローマ書を学ぶことにより教理の全体像が見えてきます。パウロはこのことを受けて「こういうわけで」(1)と語ります。つまり罪のため滅び行く私たちを、主は愛して召し出して下さり、義と認め、神の子として迎え入れ、神の御国における生命をお与え下さいます。罪の奴隷として滅び行く者が、義の奴隷として生きる者とされたのです。当時、人々から「キリスト野郎」との意味で「キリスト者」=「キリストに属する者」と呼ばれたのです(使徒11:26)。
 キリスト者は神の御国の永遠の生命が約束されています。そのためキリスト者は、御言葉に示された十戒を代表とする律法に従って生きます。律法には3つの働きがあります(参照:ウェストミンスター信仰告白19:6 祈祷会レジメ参照)。第一(市民的)用法、第二(教育的)用法、第三(倫理的)用法です。第三用法が大切です。私たちは、罪を自覚し、キリストの十字架により罪が償われ救われましたが、なおも罪が残るこの世にあって、罪から守られるために、律法に従うことが求められています。この時私たちは、キリストに倣う神の民として、主を証しする生活へと促されます。これがローマ書12:1で語る「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げ」ること、神を礼拝することです。

Ⅲ.世との対立に生きるキリスト者
 罪の奴隷に生きる人々は自分の益を求めて生きています。一方、神の栄光を求めて生きるキリスト者と、世の人々とは生き方が異なります。違いが生じます。だからこそパウロは、あなたがたは「この世に倣ってはなりません」と語ります。神の栄光を求めて私たちが生きる時、神の義・聖・真実に従った生き方であり、世界に和解と平和を求めます。しかしこれに「否」を突きつける人々がいます。自分の利益が損なわれるからです。損得勘定に生きようとする時、神の栄光を求めて生きるキリスト者と対立が生じます。
 協調が求められる社会で、他人と違った行動・発言を行うことは勇気がいります。しかし生きる目的・目標が異なれば、生き方は必然的に異なります。「キリスト者として苦しみを受けるのなら、決して恥じてはなりません。むしろ、キリスト者の名で呼ばれることで、神をあがめなさい」(Ⅰペトロ4:16)。私たちはキリスト者として生きます。キリストの十字架の贖いにより、神の御国の生命が約束されているからです(参照12:2b)。私たちがキリストの御言葉に聞き従う時、対立が生じますが、同時に、私たちの生き方によりキリストが証しされます。そして、キリストが私たちの行い・言葉を守り導いて下さいます。

Ⅳ.教会で生きるキリスト者として
 私たちには教会が必要であり、一人で信仰を守り、神を証しする民にはなりません。それは個人主義化した独り善がりです。私たちが主からの御言葉に聴き、御言葉の養いに与る時、教会の信仰告白に基づいた教会形成が必要です。洗礼と聖餐により神の御国の永遠の生命が示されます。祈りと愛の交わりにより社会で生きる力が与えられます。互いが弱さを持つ私たちは、相互に助け合うことにより、キリストの体を造り上げていくことができます。このことをパウロは12~15章で展開します(参照:ヨハネ15章 ぶどうの木の例え)。
 私たちが大宮教会に集う時、個々人の信仰の養いと共に、キリストの体を形成するため教会形成に参与することが求められます。教会役員としての牧師・長老・執事が必要です。礼拝に集う人・献金を献げる人・祈る人・弱さを持つ人たちも必要です。教会がキリストの愛に生きるためです。主は必要な賜物を一人ひとりに備えて下さいます。それを用いることが求められます。皆さんにも日々の生活、家庭があります。それでもなお、キリストの教会を形成するために、奉仕することを求めておられます。一人ひとりが、主から託された働きを顧みつつ、主に仕え、共に大宮教会を立てるために仕えて頂きたいと願います。
 
 
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 信教の自由を守る日を覚えての説教 「主はわたしたちの神」
         詩編95編      2020.2.9

 
 序.
 2月11日は「建国記念の日」として国民の祝日。戦前では「紀元節」とされ神武天皇の即位が行われた日であったとされています。しかし戦前の教会が天皇・神社という偶像と戦うことなく、頭を垂れた罪を私たちは悔い改め、信仰を新たにしなければなりません。

Ⅰ.私たちを統治しておられる主なる神
 詩編95編は礼拝の招きの言葉にも読まれる御言葉です。私たちは神を信じ・礼拝すれば良い、のではありません。神を礼拝するとは、喜び歌う、喜びの叫びをあげ、感謝をささげることです(1,2)。「主の命令だから、主の日に礼拝する」ではありません。確かに主は、「安息日を覚えて聖とせよ」と語られます(第四戒)。しかし神に命じられたから礼拝するのであれば、喜びと楽しみはありません。私たちを礼拝へと招いてくださる主なる神が、どのようなお方であるかを私たちが知らなければ、礼拝において喜び歌うことはできません。
 私たちは神の何に喜び、何に感謝を献げるのか? 「主は大いなる神」です(3)。主がおられ、そのお方が全世界を超越してすべてを治めておられます。主なる神の御前に、私たちは今日も命が与えられ、生きることが許されています。主なる神の御前に全世界が動いています。たとえ権力者でも、首相や大統領のような為政者でも、主なる神の御前に命が与えられているのであり、主の許しがなければ生きることはできません。
 天地万物を創造し、今もすべてを支配しておられるのは主なる神です(4-5)。私たちは自然災害や新しい病気に脅えます。私たちは自分たちの限界・弱さ・小ささ・無知を主の御前に告白しなければなりません。すべての問題を解決してくださるのは主なる神です。神が人に知識を備え、能力・技術を与えて、艱難を乗り越える力をお与え下さいます。私たちが今しなければならないのは、人間の知恵によって艱難を乗り越えることではなく、主なる神にすべてを明け渡して委ねて祈ることです。人間的な策略を練るのではなく、主に委ね祈ることです。祈りにより、主が私たちに知恵をお与え下さいます。だからこそ私たちは、主を喜び、主を賛美することが出来るのです。
 「神を信じていても苦しみばっかりだ、祈りが聞かれない」と語られる方もいます。今日・明日の自分のこと、目に見える周辺のことしか見ていないのではありませんか?天地万物を創造し、すべてを治めておられる主なる神は、あなたを救って下さいました。あなたを救うためにイスラエルを選び、ダビデの子としてキリストをお与え下さり、御子があなたの罪の赦しのために十字架に架かり苦しみ、十字架の死と甦りを遂げて下さいました。
 「あなたを救う」という主なる神のプログラムは、天地万物の創造の前から計画されており、旧約・キリストの御業・新約の歴史を経て、今、ようやく実現しようとしているのです。キリストが再臨され、サタンに勝利を遂げた時に、完成するのです。
 あなたは神の大いなる御業に組み入れられています。神がお与え下さるのは神の御国の祝福です。私たちは今の生活が順風満帆であれば、主なる神を忘れ、自らの力で生きおごり高ぶりが生じます。今、苦しみ・艱難があるからこそ、主なる神を顧みて、主なる神にすべてを委ねて生きることができるのです。この時、初めて私たちは主なる神を礼拝し、信仰を告白することにより、主を喜び歌い、喜びの叫びを挙げることができるのです(6,7)。

Ⅱ.主の恵みを忘れた結果
 しかし、私たちは弱く、すぐにおごり高ぶります。主の恵みを忘れ、目の前の艱難を、主の責任にしてしまいます。メリバやマサ(8)で何が起こったのか? 出エジプトのイスラエルの民は主の御力による奇跡によって救い出されましたが、彼らは、目の前の苦しみに対して、主に不平を語り、主を試します(出エジプト17:1~7)。そして主を試したイスラエルの民は、主を信じていると語りつつ、金の子牛の像を作ります(32章)。救い主である主なる神を知ろうとしない時、イスラエルは偶像崇拝にまで陥りました。

Ⅲ.私たちは日本に生きるキリスト者
 今、私たちは、日本に生きるキリスト者とされています。昨年は、天皇の代替わりが行われ、大嘗祭が行われました。あなたは、天皇が偶像の祭司として働いていることを理解しているでしょうか。私たちは、意識して救い主である主なる神を知り、偶像としての天皇制を知ろうとしなければ、イスラエルのように偶像崇拝を行う民となります。
 主なる神は、第二戒で「わたしは熱情の神である」とお語りになります(出エジプト20:4~6、参照:ウェストミンスター小教理問52)。私たちは、主なる神の持っておられる熱情をもって、主なる神を知り、主を喜び歌うことが、今、求められています。
 
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 受難週 「最後の晩餐」   ルカ22:14~23      2020.4.5
 
 序.
 私たちはコロナ・ウィルスの状況に追われ日常を失いがちですが、主なる神は時間を進めて下さり、キリストの十字架の道を覚えます受難週を迎えました。今週と来週はルカ福音書の御言葉より、今日は主の晩餐、そして来週はキリストの復活を覚えつつ、聖餐と洗礼の二つの礼典について、考えて行きたいと思っています。

Ⅰ.キリストの御業は主の過越である!
 キリストが十字架に架かることを選ばれたのは過越の祭の時でした。国中のユダヤ人たちがエルサレムに集まってきます。ナザレの人たちも、町中の多くの人たちが一緒にエルサレムに行っていたため、少年イエスがエルサレムに残っていることにすら、両親であるヨセフとマリアは気付きませんでした(参照:2:41)。それほどイスラエルの人々にとって、過越の食事を取ることは、神によって選ばれた民であることを象徴する大切な行為でした。つまり、イスラエル人はエジプトで奴隷とされていましたが、主なる神はモーセを指導者として立て、イスラエル人を救われました。すなわち、エジプトのすべての初子が殺されていく中にあって、門に血のしるしを行ったイスラエルの民は、主によって滅ぼされることなく、救われたのです。このことをわすれないために定められたのが、過越祭であり、種なしパンを食する過越の食事です。
 主イエスは、御自身が十字架に架かる前に食べる最後の晩餐として、この過越の食事を選ばれました(15)。つまり、主イエスがこれから歩まれる十字架の道は、主イエスを信じる霊的なイスラエルとしてのクリスチャンに、主の過越が行われることです。つまり別の言い方をしますと、キリストの十字架の御業により、キリスト者に罪の赦しと救いが指し示されています。

Ⅱ.「すでに」と「いまだ」
 主イエスは続けて、「言っておくが、神の国で過越が成し遂げられるまで、わたしは決してこの過越の食事をとることはない」(16)と語られます。この過越の食事は、通常「最後の晩餐」と呼ばれています。しかし、主イエスは「これが最後だ」とは語られていません。キリストは、十字架において肉の死を遂げますが、それで終わりではなく、復活され、「神の国で過越が成し遂げられる」時に、再び過越の食事に与ると語っておられます。
 神の御子であるキリストは、十字架の死によってすべてが終われるのではなく、生き続けておられます。このことは、キリストを信じるキリスト者も、肉の生涯においてすべてが終わりとなるのではない、死んでも生きることが示されています。そして天のおられるキリストが再臨され、最後の裁判が行われた後に、キリスト者は神の御国へと凱旋することが許されます。すでに地上の生涯を終えているキリスト者も、復活の体が与えられ、神の御国へと凱旋していきます。そしてキリストは、この時に改めて私たちのために完成した過越の晩餐へとお招き下さいます。ヨハネの黙示録には、神の御国の様子が描かれています(黙示録7:9-10) 。神の御国において、父なる神、御子イエス・キリスト、聖霊なる神の交わりの中に、全世界の神の民、キリスト者が集います。ここでキリストは過越の食事、つまり、罪が過ぎ去り、救われた神の民たちと共に、食事を取られるのです。
 ですから私たちが主の晩餐に与る時、すでに成し遂げられたキリストの十字架による割かれた体と流された血を想起しつつ臨むのと同時に、神の御国における盛大な晩餐の約束に感謝しつつ臨むことが求められます。つまりキリストを救い主として信じ、主の晩餐に与る者は皆、神に御国に入れられ、キリストの晩餐に招かれています。ここから漏れることはありません。ここにこそキリスト者としての醍醐味があるのではないでしょうか。

Ⅲ.神の御国への凱旋を覚える主の晩餐
 主なる神が、新しい契約として、主の晩餐を繰り返し求められるのは、キリストの十字架を顧みつつ、神の御国の完成と私たちの凱旋を覚えるためです。私たちは今、復活のキリストと出会うことは出来ませんが、霊的にキリストと結ばれ、神の恵みに与り続けます。しかし、今この恵みがが取り去られようとしています。来週も同じように礼拝が行われ、説教を聞くことができるかどうか分かりません。戦後75年、平和な時代が与えられてきたことを主に感謝していただきたいと思います。礼拝に集えない、主の晩餐に与れない不自由が到来するかも知れませんが、すでにあなたは神の御国へと凱旋することができるパスポートが与えられていることを、受け止めていただきたいと願っています。救いの希望をもって、今日から始まる一週間も歩んでいただきたいと思います。
 
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 イースター 「主の言われていたこと」   ルカ24:1~12      2020.4.12
 
Ⅰ.終末の時代に生きる私たち
 私たちは今日、キリストが十字架の死から甦られたことをお祝いする復活節を迎えました。本当ならば、教会で多くの教会の人たちと共に、喜びを分かち合いたいところです。しかし私たちは今、私たちが今までに経験したことがないこと、つまり教会で皆さんと共に神を礼拝することができない状態に置かれています。忍耐と苦しみが伴います。
 主イエスは世の終わりには戦争・暴動・地震・飢饉・疫病等があると教えます(ルカ21:8-11)。終末の時代に生きる私たちは艱難を避けることはできません。個々人でも様々な労苦を経験されているかと思いますが、日本では戦後75年間、戦争はなく、疫病に脅えることもありませんでした。これは主がお与え下さった恵みであることを忘れてはなりません。

Ⅱ.聖書の預言は成就する!
 さて主イエス・キリストは、使徒信条で告白するように、十字架に苦しみ、死を遂げ、墓に葬られ、そして陰府(地獄)に下られました。この時、主イエスの弟子たち、そして墓に行く婦人たちも、誰一人死んだイエスさまが復活するとは思っていません。使徒たちは逮捕され殺されることを恐れて逃げだし、女性たちも悲しみの中に置かれています。
 婦人たちは、安息日が明けた週の最初の日の朝にイエスさまが葬られた墓に行きます。しかし彼女たちは、主イエスの遺体を見つけることができません。同時に、その場にいた輝く衣を着た二人の人に出会います。二人は婦人たちに語りかけます。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ」(5-6)。婦人たちは、何を語られているのか、まったく理解ができません。
 さらに二人は続けた語ります。「まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか」(6-7)。今、インターネットやSNSで言葉が氾濫しています。言葉が湯水のごとくに流されます。多くの人が、自ら発した言葉に責任をもちません。しかし、キリストは言葉に責任を持たれます。それは主なる神が、天地万物を創造し、すべての時代を治めておられるからです。すべての歴史を覚えつつ、時の応じて必要な言葉を言葉を選ばれ、預言されます。主イエスは御自身が十字架に架かられること、そして復活されることを3度預言されました(ルカ9:22、9:44、18:31-34)。更に、神の国が到来する時について述べられる場面で、受苦について預言されます(17:25)。
 聖書では、主が語られた約束は守られ、警告された罪に対する預言は実行されます。同じことが繰り返される時、そのことが重要であることを語っています。ここに言葉の重みがあります(参照:創世記41:32)。そして聖書全体が、メシアの預言と、イエス・キリストによって成し遂げられた救いについて証ししていますが、その中心がイエス・キリストの十字架です。そのため、主イエスは、御自身の十字架と復活を、3回も予告します。
 そして2人は、イエスが予告されていた十字架の死と復活が成就したことを告げます。死人の復活という常識では考えられないことが成し遂げられました。終末の出来事は、私たちには予測できません。しかし天地万物を創造し、今なお統治しておられる主なる神は、すべてをご存じの上で、終末の出来事、そして神の御国の完成を預言されています。

Ⅲ.キリストの復活を信じる者は救われる!
 キリストの復活の第一証言者として婦人たちの名を聖書は書き留めます。マグダラのマリアとヨハナは、悪霊を追い出して頂きイエスに従いました(ルカ8:2-3)。悪霊に取りつかれた人は、罪人として忌み嫌われ社会から除外されてきました。この罪人が、主イエスにより罪赦され救いへと招かれ、主イエスと共に歩む弟子とされ、キリストの甦りの第一発見者とされたのです。キリストの十字架と復活を受け入れる時、婦人たちは罪が赦され、復活のキリストにつながる者、神の民として受け入れられたのです。洗礼の制定はこの後(使徒1:5)ですが、彼女たちは洗礼を受けた恵みに与っていました(大教理問165)。
 キリストの十字架の死と復活、人間の常識では受け入れません。しかし主は、主の御言葉である聖書が証しし、私たちに語りかけています。婦人たちが受け入れ信じたように、私たちにも信じることを迫っています。私たちもキリストの十字架の死と復活を信じる時、キリストに接ぎ木され、神の子として、神の御国、永遠の生命へと招かれています。艱難は、終末に生きる私たちには避けて通ることができません。しかし同時に、キリストによって与えられる神の御国も揺るぎません。救いの希望をもって、日々歩みましょう。
 
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クリスマス 「キリスト:独り子である神」   ヨハネ1:14~18      2020.12.20
 
 Ⅰ.言が肉となることにより
 ヨハネ福音書は、天地創造を行った言(ロゴス)が、神の第二位格・神の御子であり、暗闇を照らす光であることを紹介することにより福音書を始めます(1:1-5)。
 そして「神の御子である言は肉となって、わたしたちの間に宿られ」(14)ました。つまり御子は人としてお生まれになられました(参照:ウェストミンスター大教理問答問37)。日本語では理解しにくいのですが、「宿られた」とは「仮小屋に住む」こと、一時的な滞在です。私たち人間は、人生がすべてのように思っています。しかし永遠から永遠に存在される主なる神からすれば、地上の生涯は一時的な滞在にすぎません。
 神としての栄光を持っておられる独り子が人となられました(14)。主イエスに出会った弟子たちは神の栄光に出会います。この栄光は人の内にはなく、暗闇を照らす光です。栄光は神ご自身にのみ存在しますが、神の内にある恵みと真理が私たちに与えられました。「恵み」はヨハネは今日の御言葉でのみ用いますが、ルカやパウロは良く用いています。「恩恵・恩寵」を意味し「愛」です。そして主イエスの行いにより愛が示されていきます。
 また「真理」は「神の真実」であり、「義」に結びつきます。闇としての罪に対して、光としての真理が主イエスによって示されます。主によって真理が示される時、この世にある「悪・罪」が露わになってきます。これが「言」が示された時の「光」そのものです。

Ⅱ.主から与えられた律法と恵み・真理
 「律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである」(17)。律法は主からモーセを通して与えられたことに対して、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れました。つまり両者の発出元はいずれも主なる神です。
 律法主義者は、律法を守ることにより救われ、律法を破ることにより主の裁きがあることを語ります。彼らは自分たちが律法を定め、また支配しているように思っていますが、律法は神から与えられたものであり、神の基準で判断することが求められます。
 そして律法には3つの働きがありますが、ここでは第二の用法、律法によって自らの罪を知り、罪の結果滅び行く存在であることを受け入れることが求められます。主なる神は私たちの行い・言葉・心のすべてを知っておられます。主の御前に何一つ隠すことはできず、どの小さな罪も死に値する罪です。人間は皆罪人です(参照:ヨハネ8:7)。
 一方、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れました。神の御子である主イエスが人として宿られたことにより、弟子たち・私たちに示されました。神の栄光と出会った者は、闇の中を歩み続けることはできません。闇を照らす光が指し示されています。この時、明らかになったキリストの恵みと真理に従って生きる者へと、生き方が変化します。

Ⅲ.キリストの指し示す恵みと真理
 「神の恵み」は「神の愛」であり「救い」です。キリストは、病人を癒やされますが、この時、奇跡を行うだけに留まらず、同時に「罪の赦し」を宣言してくださいます。つまりキリストは、罪人の罪を赦し、神の子として天に迎え入れ、生命をお与えくださいます。キリストの愛は、十字架の死から復活を遂げられることにより、死と罪とサタン、つまり闇に勝利されることにより、私たちを救いへと導くことにより極みを迎えます。
 キリストの愛が示される時、私たちはキリストの愛を担って生きる者とされます。それが十戒に従って生きることです。十戒の第三の用法、罪を悔い改め、主なる神への信仰を告白した者は、神がお示しくださった律法としての十戒に従って愛に生きる者とされます(参照:マタイ22:37-40)。神に愛されたからこそ、神を愛して神を礼拝し、主がお与え下さった隣人を愛して生きる者とされます。
 そして、キリストを通して「真理」=「正義」が現れます。神の救いの御計画、つまり、天地万物の創造に始まり、キリストの十字架の御業、キリストの再臨と最後の審判によって、罪を裁き、神の国を完成のすべてです。この奥義であった隠されていた神の救いの全貌が、キリストにより、そして御言葉としての聖書によって現れました。

Ⅳ.独り子イエス
 独り子イエス・キリストをこの世にお送り下さった神の愛が、ヨハネ3:16で語られています。「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。
 私たちは今から主の晩餐に与ります。キリストが十字架で裂かれた体と流された血を想起する時、私たちは神の恵み(愛)と真理が明らかにされ、神の御国における永遠の生命と主の栄光に満ちた晩餐に招かれていることを覚えることが許されています。
 
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 新年礼拝 「苦難の中、救いを与える主」  詩編38編     2021.1.1
  

 新しい年、2021年を迎えました。毎年迎える新年ですが、同時に今まで経験したことのない年の始まりを迎えました。昨年一年、新型コロナ・ウィルス感染症に、私たちの生活が揺さぶられました。日本中、世界中の人々が苦しんでいます。罹患した人々はもちろんのこと、医療従事者たちも休む間もなく、肉体的・精神的に苦しみを覚えています。経済的に苦しみに追い込まれている人たちもいます。現実逃避をして、「普通の風邪と同じだ」、「恐ろしいことはない」と語る者もいます。そして、早く、この事態から逃れたい、今までの生活に戻りたいと願っている人たちがほとんどかと思います。こうした中、神の御前に集められた私たちキリスト者は、すべてをご計画し、歴史を支配しておられる主なる神が、私たちに対して、この事態において私たちに何を求めておられるのかを、御言葉から聞くことが求められています。

Ⅰ.神の摂理に生きる私たち
 今日与えられた詩編の作者は、自らの罪の故の病に苦しんでいます。因果応報であると認識していると言って良いかと思います(2,3,5節)。しかし、聖書は一つの罪によっての因果応報、罪の刑罰として病になることを否定します。主イエスは「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」(ヨハネ9:1-3)と語ります。この詩編も私たちは因果応報として読んではなりません。
 しかし同時に、私たちは自らに訪れる病や試練、そして信仰の故に訪れる迫害、虐げ、さらに社会全体に訪れる自然災害・戦争・今回のコロナのような疫病、そして私たちが生きている中で経験することのすべてが、主なる神が私たち一人ひとりに働きかけておられる出来事であることを受け入れなければなりません。だからこそ私たちは、社会全体の姿を顧みつつみ主の御前にあって自らの姿を顧みなければなりません。

Ⅱ.主の御前で生きよ!
 そして私たちは主なる神の御前に立ち、社会全体の姿、そして私たち自身の生きる姿勢が主の御前にあって問われています。つまり、詩編の作者が主の怒りによって責められ、懲らしめられていると語るのは、いつも共に歩み、恵みをお与えくださる主を忘れて生きていることを知ったからではないでしょうか。主を忘れ、己の欲望を満たすために生きていることに気が付いたのではないでしょうか(参照:ウェストミンスター信仰告白5:5)。
 そして私たちキリスト者の生き方は、主は御言葉によって示しておられます。「あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい」(Ⅰコリント10:31)。このことをウェストミンスター小教理問1では「神に栄光を帰し、永遠に神を喜びとする」ことを求め、改革派教会の創立宣言では、有神的人生観・世界観に生きると謳っています。
 つまり、コロナ禍にあって、主は世界中の人々に対して「あなたは主の御前に生きているのか?」、「主の恵みに感謝し、主の栄光を称えているか?」、「すべてを主に委ね、主に祈り求めて生きているのか?」と、私たちに問いかけられているのではないでしょうか。

Ⅲ.インマヌエルである主を信じて生きる
 詩編の作者が主の御前に生きようとする時、必然的に周囲の人たちとは生き方が異なってきます。そして彼らは、主の御前に生きるキリスト者の生活を忌み嫌い、時に迫害するようになります(13節)。主に逆らい続ける者の姿がより明らかにされていきます(18-21節)。
 コロナ禍にあって、上に立つ者が、何を求め、何を語り、行動しているかが、明らかになってきております。共に歩む者たちの生命・苦しみ・悲しみを共有し、理解しているか。苦しみが取り除かれ、健康に、そして平和に生きていくことができるように、言葉を発し、行動しているか?
 そのため詩編の作者は、主なる神と共に歩むこと、主による救いを待ち望みます(16節)。そして主が共に歩んでくださること、主の助けを求めます(22-23節)。すべてをご計画し、すべてを統べ治めておられる主は、神の御前に立つ者を見捨てることなく、私たちと共に歩んでくださいます。「インマヌエル(神は我々と共におられる)」(マタイ1:23)とよばれた主イエスは、十字架の御業を成し遂げ、天に昇られる時、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28:20)とお語りくださいました。主イエスは今、天にあって、聖霊を通して、私たちと共にいてくださいます。そして私たちを助けてくださいます。救いをお与えくださいます。ここに私たちの生きる希望があります。
 
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標語説教 「今を、神の御前に生きる」  ローマ11:25~36     2021.1.31
 
序.
 今年の標語と聖句は、世界中がパンデミックに陥っている最中、私たちキリスト者がどのように生き、信仰生活を歩んで行くことが求められているを、御言葉から共に学びます。

Ⅰ.恵みの契約に基づく救い
 9章以降において語られてきたイスラエルの救いについて語られています(25-32)。パウロは異邦人キリスト者に対して「うぬぼれないように」と語ります(25)。神の約束の民イスラエルが滅ぼされ、異邦人である自分たちが救われる逆転現象が起こり、うぬぼれが生じるからです。そのため主は、「主の秘められた計画」=「奥義」(主なる神による救いに関する永遠のご計画)を明らかにされます。イスラエル人が頑なになったのは、イスラエル人の全員ではなく、「一部」(大部分)です(25)。イスラエルの中にも救われる者が残されています。パウロも肉においてイスラエル人です(11:1)。エリヤの時代のイスラエルにも残された者がいました(11:2~、参照:列王記上19章)。バビロン捕囚によってイスラエルが裁かれますが、ごく少数の者が主によって残されていました。
 大切なことは「全イスラエル」が救われることです(26)。これは民族としてのイスラエルではなく、聖霊により召され、主の御言葉に聞き、自らの罪を悔い改め、神の民として主に従って生きる霊的なイスラエルとしてのキリスト者全員のことです。全員とは神の選び(予定)に基づき、主が予定されている者たち皆のことです。肉におけるイスラエル民族だから救われるのでも、彼らが排斥され、異邦人だけが救われるのでもありません。
 キリストが遣わされました(26b-27)。キリストは御言葉をお語りになることにより、真に神の子として救いに与る者と、キリストを拒絶して滅びに至る者とを分けられました。このことは最後の審判において明らかにされます。神の子として救いに召された者たちは、信仰を告白します。この時、主の永遠の救いのご計画が明らかになり、「恵みの契約」が明らかになります。この救いに至る恵みの契約は、破棄されることはなく、私たちの信仰が弱まっても、時に教会から離れたとしても、神は契約を維持してくださいます。だからこそ、主が私たちにお与えくださった賜物と招きは取り消されないとパウロは宣言します。

Ⅱ.主なる神
 神の救いの御計画はイスラエルも異邦人もありません。そして私たちは計り知ることができません。非常に不思議であり、神秘に満ちています(33)。
33 ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう。
 私たちは自分たちが今生きている中で神との関わりを確認しようとしますが、天地創造から旧約の歴史・キリストの御業・新約の歴史があり、私たちが生きており、終末と神の国の完成にいたる神のご支配の全体を確認することが大切です。聖書の全体、教理の全体を理解することにより、「神の富と知恵と知識」も理解できます。そして、この主なる神の大いなる救いの御業に、私たちも加えられています。外から神の御業をながめているのではありません。私たち自身が、この神の大いなる御業の中に組み入れられています。
 主なる神は、御父・御子・御霊なる三位一体の間における豊かな愛の交わりにおいて、自己自存で永遠に生きておられます(34-35)。主により創造され、命が与えられた私たち人間が、無限・永遠・不変である主なる神をすべて知り、主に助言したり、命令することなどできません。主なる神が、すべてを支配し、私たちを支配し、歴史を司られています(参照:ウェストミンスター大教理問答問18)。

Ⅲ.コロナ禍にある現在
 私たちは今、コロナ禍にあり混乱の世に生きています。ここにも主の御意志・御力があることを否定してはなりません。キリスト者の中でも、ある人たちは、恵みの中にいる時には神の働きを覚えるが、苦しみに置かれれば神の支配を否定する人がいます。苦しみに置かれ、祈りがきかれなかったため、キリスト者を辞めて教会から離れる人もいます。
 しかし主なる神は、無限・永遠・不変で今も天に在り、すべてを支配しておられます。インマヌエル(神は我々と共におられる)です。主は聖霊によりいつでも私たちと共にいてくださいます。コロナ禍にある現在も、戦争・飢餓・迫害・自然災害・不慮の出来事の時も、主神は私たちを支配し私たちと共におられます(36)。
 私たちは現実を立ち止まって考える必要があります。因果応報ではありません。世界に対しての罪の警告です。悔い改めが迫られています。私たちキリスト者も教会も、独り善がりになっていないか考えなければなりません(→今年の標語「今を、神の御前に生きる)。その上で、神の栄光を誉め称えつつ歩むことが求められています(ウ大教理問1)。「折りが良くても悪くても…」(Ⅱテモテ4:2)。
 
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受難週説教 「離反の予告」  ルカ22:31~34     2021.3.28 
 
序.
 今日の御言葉は、主イエスが最後の晩餐の席上で、使徒ペトロに離反の予告をする場面です。多くの人たちがこのテキストを良く知っており、ペトロの性格や不信仰といった、ペトロの人格を中心に聖書を読むかと思います。

Ⅰ.サタンによる誘惑
 今日は一つの御言葉に注目します。「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた」(22:31)。ペトロの離反に関しては四福音書において記されていますが、サタンに関してはルカのみが記します。この身言葉は、ペトロの離反の本質を考える上で非常に重要な御言葉であると思います。
 サタンが主なる神に願い出て、その願いが聞き入れられました。ヨブ記を想起することができます(ヨブ1:6~12、2:1~7)。サタンは主の許しがなければ、働くことができません。主が天地万物を支配しておられ、世界は主の御力に満ちています。サタンが働こうとする時、主の許可がなければ何もできません。今回の世界的なパンデミックをはじめ、神の民に訪れる試練・艱難・災害・試みのすべてが、主の御手にあります。パウロは語ります。「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」(Ⅰコリント10:13)。
 ペトロの離反に関しても同様であり、主なる神の許可を受けたサタンがペトロを初めとする使徒たちに入ったのです。しかしイスカリオテのユダを除く使徒たちは、主イエスの復活と共に立ち直り、主への信仰を取り戻します。主は神の民を守ってくださいます。だからこそ私たちも、主なる神を信じ続け、常に主にすべてを委ねることが求められます。
 サタンの誘惑は「小麦のようにふるいにかける」ようです。きめの細かな小麦は集められますが、粗いものは取り除かれていきます。それと同様に、サタンの誘惑と艱難は容赦がありません。それがペトロにとっては、主イエスを3度拒否することとなり、他の弟子たちも、逮捕され十字架に架けられる主イエスの近くに行くことはできず、遠くから見守ることしかできませんでした。このふるいは、私たちにとっては非常に厳しいことかもしれません。自分の力で解決することはできません。

Ⅱ.主は私たちをお守りくださる!
 主なる神は、サタンにペトロを初めとする使徒たちに誘惑を行うことを許可しましたが、使徒たちが自分の力で解決することを願ったのではありません。使徒たちは、主によって守られ、信仰を捨てることなく、主イエスが甦りになられた時、改めて御霊の働きをもって主に立ち帰ります。そのために主イエスは、「しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。……」(32)とお語りくださいます。
 主イエスの祈りは、単なる願いではなく、根拠があります。主による予定であり、恵みの契約です。主はペトロを選んでくださいました。一時的に主イエスを裏切ることがあったとしても、必ず戻って来ることができます(参照:ウェストミンスター信仰告白11:5)。
 そのためペトロや他の使徒たちは、一時的に主から離れますが、主がしっかりと捕らえてくださっており、神から完全に離れ去ることはありません。そのため私たちも、自分で頑張らねばと一生懸命になる必要はなく、自分もまたペトロや使徒たちのように弱さがあり、罪を犯してしまうことがあるかも知れないが、主が守ってくださる、主が罪を赦してくださることを信じ、主に委ねて生きることが求められています。

Ⅲ.主の愛に生きるキリスト者として
 その上で主イエスはペトロに「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう」とお語りになります。ペトロを突き放す言葉ではありません。主イエスはペトロを愛しておられ、弟子たちも、ここに集う私たち一人ひとりも覚え、愛していてくださいます。私たちはキリスト者となり、主なる神により恵みの契約が結ばれています。この恵みの契約は決して破棄されることはなく、キリストが再臨され、最後の審判の時、主は私たちの罪を赦し、神の子として天国に入れてくださいます。
 今、コロナ禍にあり、先が見通せない時代を迎えています。さらに一人ひとりが、どのような艱難の中に置かれるかもしれません。それでもなお、主なる神はあなたを愛していてくださいます。キリストの十字架により罪を赦し、神の子として天国へと迎え入れてくださいます。主を信じ、主にすべてを委ねて、希望をもって生き続けましょう。
 
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受難週夕礼拝説教 「裏切り」  ルカ22:47~53     2021.3.28 
 
 Ⅰ.主から離れるイスカリオテのユダ
 イスカリオテのユダの裏切りにより、主イエスが逮捕され、十字架に架けられます。ゲッセマネで主イエスが弟子たちに語られていた時に、主イエスを捕らえるためにユダや祭司長たちが入ってきます。ここで聖書は「ユダという者」と記します(47)。もう、主イエスの弟子でもなければ、他の弟子たちにとっても仲間でもありません。
 ユダは主イエスに敬意を表すため接吻を行います。偽装するためです。ところが主イエスは裏切り者ユダに声をかけられます。「ユダ、あなたは接吻で人の子を裏切るのか」と。主イエスの言葉は、ユダを突き放す言葉ですが、それだけではありません。この場にあってもなお主イエスはユダに対して、悔い改めの機会を与えておられます。つまり主イエスは、「お前の行うことは、私を捕らえて、お金を受け取ることではなく、悔い改め、私に付いてくることだろう」と語っておられるのではないでしょうか。

Ⅱ.弟子たちの罪
 しかしルカは、ユダだけが主イエスから離れたのではなく、他の弟子たちを「イエスの周りにいた人々」(49)と語り、彼らの責任を問います。彼らもまた今は弟子ではなく、イエスを取り巻く群衆に過ぎなくなっていました。ルカ福音書では、この後、十字架の死を遂げられた主イエスが復活したことを婦人たちが弟子たちに知らせるまで(24:11)、弟子たちは姿を現しません。この間11名の弟子たちは、闇の支配の中にあるかの如くにイエスから離れています。私たちも「ユダはイエスを売った」とユダを蔑視することはできません。主イエスの御前にあって、すべての者が主イエスを十字架に架けるために裏切った責任があります。そのことを、「イエスの周りにいた人々」と言う表現を弟子たちに用いることにより、主イエスを十字架に架けた責任があることを、ルカは語っています。
 弟子の一人が、大祭司の手下の右の耳を切り落とします(50)。弟子たちは自分たちに危険が及んでいることを察知して、おびえます。武力で、人を支配しようとすることは、おびえている証拠です。権力者が、武力や暴力的な言葉を用いるのも同じです。主なる神は、力を恐れることなく、信仰の武具を身に着けるようにお語りになります(エフェソ6:10~18)。主はすべてを知っておられます。力で人々を支配しようとする権力者の罪をすべて明らかにし裁きを行われます。私たちキリスト者は、キリストの十字架の贖いに与り、神の救いにあるからこそ、何も恐れる必要はありません。
 一人逮捕され、十字架に架かる道を踏み出した主イエスは「やめなさい。もうそれでよい」と弟子に語られ、耳を癒やされます。主イエスが救い主であり、奇跡を行う力を持っておられる平和の主であることを示されました。主イエスは、12人の弟子たちのことを心に留め、言葉をかけて下さる方です。神の愛がそこにあります。

Ⅲ.時を支配される主なる神
 この時、闇が力を振るっています(52-53)。ユダにサタンが入って以来、サタンがすべてを支配することを主はお許しになられています。神の御子イエスですら、サタンの力の下に渡されます。闇が力を振るう時が、私たち罪人が救いに与るためには必要でした。
 それでもなお、主なる神はすべての時間を支配されています。この時も主がそれをお許しになられているに過ぎず、主の支配がなくなったわけではありません。それは今の時代も同じです。このようにサタンの支配をとおして、主は救いの御業を成し遂げられます(参照:ウェストミンスター信仰告白5:4)。つまり主なる神は歴史を司られ、また私たち自身の時をも支配されています。私たち一人ひとりが教会に導かれる時、罪の悔い改めをする時、信仰告白をする時を、定めていてくださいます。
 弟子たちは、主イエスが逮捕され、十字架に架けられてから復活されるまで、闇の支配の中にありました。しかし、主イエスが甦りになり、聖霊により目が開かれました。主イエスは天に昇られましたが、聖霊を通して、父なる神の御支配とキリストの罪の赦しと守りにあることが示されました。復活の主イエスがトマスに対して語ったように「見ないのに信じる人は、幸いで」す(ヨハネ20:29)。今の時、キリストの十字架によって私たちに勝利が与えられています。神の子とされた者たちだけが、神の御国のキリストの下で晩餐に与る時が来ます。その時にこそ、私たちは主の御栄光に満たされ、祝福に満たされつつ、主を讃美し、礼拝し続ける時が来ます。主によって神の子とされていますことに感謝を持ちつつ、その時が来る日を、待ち望みたいものです。
 
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 受難週祈祷会説教 「あの人を知らない」  ルカ22:54~62     2021.4.4 
 
序.
 主イエスに「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」(33)と豪語したペトロが、自分の語ったことを忘れ、その夜の内に主イエスのことを知らないと3度も言ってしまいます。人間の弱さそのものが語られています。私たちも試練にあった時、ペトロのように信仰が試されます。

Ⅰ.イエスの逮捕とペトロ
 ペトロは、主イエスが逮捕されることにより、信仰が試されることとなりました。主イエスという後ろ盾を失ったからです。ペトロは逮捕されたイエスに従おうとします。しかし自分も逮捕されることを恐れ、遠く離れて従うことしかできません(22:54b)。
 ペトロに起こった出来事は、私たちにとって他人事では済まされません。主なる神は、罪の故に滅び行く私たちを覚え、聖書により神ご自身を示し、キリストの十字架の御業をお教えくださいました。この時私たちは、自らの罪を悔い改め、主イエス・キリストの十字架の贖いに与り、信仰が与えられました。つまり信仰を持つとは、今までの生活の中にある罪から決別することです。それまで普通のこととして受け入れていたことと対立することが生じます。そのため主イエスは、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(9:23)とお語りになります。

Ⅱ.人間の弱さを示すペトロ
 私たちは、自分の身に危機が迫らなければ、大きなことを語ることが出来ます。ペテロもそうでした。しかし、ペトロの心は動揺しぐらついています。これが私たちの弱さです。
 ペトロは、先生であるイエスが逮捕され、裁判を受ける様子を見て、眺めていました。それは信仰の対象ではなく、人間イエスの姿を眺めていたのです。ペトロは、肉体的には、主イエスと数メートルしか離れていません。しかしペトロは恐れが大きく、信仰は救い主イエス・キリストから遠く離れていました。心は燃えても、肉体は弱いのです(マタイ26:41)。 私たちが教会に来る時にも同じです。私たちは主の日に、主なる神を礼拝するために教会来ます。しかし、説教中にたまに聖書の御言葉から離れ、日常生活のことを思ってしまいます。また、礼拝の後の交わりに思いが行きます。聖徒の交わりは必要であり有益です。しかし、イエスの福音なき交わりは意味がありません。
 この時ペトロは、キリストの弟子としての姿はまったくなく、大勢の人々の一人、隠れクリスチャンとなっています。そのため「この人も一緒にいました」と言われると、それを打ち消し、ほかの人が「お前もあの連中の仲間だ」と言われると、ペトロは改めて打ち消します。さらに別の人が「確かにこの人も一緒だった。ガリラヤの者だから」と言い張ると、ペトロは、「あなたの言うことは分からない」と答えます (22:56-60)。
 キリスト者は、隠れクリスチャンではあり得ません。主イエスを救い主として信じて告白するか、もしくはキリストを捨てるかのどちらかです。大勢の中で隠れ通すことはできません。この時、信仰は歪められ、自分自身の信仰を失います。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである(9:24) 。「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである」(マタイ5:13)。ペトロは、塩気がなくなり、人々に踏みつけられました。

Ⅲ.主イエスの愛
 しかし、主は振り向いてペトロを見つめられました。これは、罪を罰するためではなく、ペトロに対する救いをもたす主の愛の御業です。この後復活された主イエスは、このペトロをお立て下さり、初代教会の指導者としてお用いくださいます。
 私たちは、ペトロのようになってはならないと粋がる必要はありません。弱く臆病者であることを受け入れることが求められます。その上で、主イエスに委ね、主の御言葉に聞き従うことが求められます。主イエスがペトロに対して、信仰がなくならないようにお祈りくださったように、私たちのためにも、今も祈り続けてくださっています。失敗したり、罪を犯した時、主の御前に罪を悔い改め、主に委ねてる信仰を求めればよいのです。キリストの十字架の贖いぬきに永遠の生命はありません。私たちにとって必要な信仰の武具は、主が備えてくださり、戦いに向かわせてくださいます。私たちの必要をすべて備えてくださる愛なる神に感謝を献げつつ、日々、歩み続けていくことが求められています。
 
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 イースター礼拝説教 「わたしを愛しているか」  ヨハネ21:15~19     2021.4.4 
 
序.
 主イエスがペトロに離反の予告をしました(ルカ22:31~34)。サタンが使徒たちに苦難を負わせることを願い、それを主なる神が聞き入れられたことにより、ペトロの離反が起こることを確認しました(31)。それでもなお主イエスは、ペトロを愛し、お祈りくださるからこそ、ペトロの信仰は守られます。主イエスが逮捕された後、ペトロは「主イエスを知らない」と3度語ります(ルカ22:54~62)。ペトロが3度目に、主イエスを否定した時、主イエスは振り向いてペトロを見つめられました。主イエスの悲しさ、そしてそれでもなおペトロを愛しておられ、ペトロを赦される主の愛が示されています。

Ⅰ.ペトロに寄り添ってくださる主イエス
 主イエスは十字架に死にますが、三日目の朝に甦られ、弟子たちの前に姿を現されます。そしてペトロと相対されて語り始められます。「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」(15)。主イエスは「ペトロ」とは呼ばず「ヨハネの子シモン」と呼びかけられます。「ペトロ」は「岩」という意味ですが、この時はまだ教会の指導者として、主イエスが承認していないとのメッセージと考えられます。
 私たちが日本語で聖書を読んでいますと、主イエスが「わたしを愛しているか」、ペトロは「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたはご存じです」と同じように3度繰り返されているように訳されていますが、原典のギリシャ語を見ますと違います。日本語で「愛」と訳される言葉がギリシャ語では4つあります。「アガペー」が無償の愛、「ストロゲー」(家族愛)、「エロース」(性的な愛情)、「フィレオ(フィラデルフィアの語源)」(友愛・友情)です。主イエスの「わたしを愛しているか」は「アガペー」が用いられますが、ペトロの答えは「フィレオ」です。それが2回繰り返されます。神の愛に対して、ペトロはそこまで踏み込んめない心情がここで表れています。それでもなお、離反を予告した主イエスが全知全能であり、ペトロの心もすべてご存じであることをペトロ自身も認め、「主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と答えます。
 しかし3回目で、主イエスは「フィレオ」を用いてくださいます。主イエスがペトロが「アガペー」と答えることができない心情を理解し、ペトロに寄り添ってくださいました。
 つまりここでは2つのことを確認します。3度主イエスを否定したペトロに、主イエスが3度呼びかけてくださったこと。そしてもう一つ、主イエスがペトロに寄り添ってくださり、ペトロの思いを汲み取ってくださったことです。

Ⅱ.主の羊を飼うとは…
 主イエスは「わたしの羊を飼いなさい」とお語りくださいます。聖書は主と神の民との関係を羊飼いと羊に例えて語ります(詩編23編等)。そして主イエスが羊飼いであり、キリスト者が羊であることを語ります(ヨハネ10:1-18)。つまり、主イエス言葉は、主なる神の御業をペトロに託すということです。それ程までに主イエスはペトロを愛しておられます。
 主イエスの羊を飼うことが教会(小会)に求められている牧会です(ヨハネ10:7-11)。それは羊である教会員を守ることです。つまり教会に福音を乱す異端者・迫害者が盗人のように入ってくる時、体を張って、教会に集う神の民を守ることが求められます。そのため教会は、正しい福音理解に立ち、信仰の基礎としての信仰告白(ウェストミンスター信条)を学び続けることが求められます(鍵の権能:マタイ16:17~19)。
 また、教会員が生活に困窮したり、信仰から離れそうになる時、寄り添い、話しを聞き、実際に手助けをすることが求められます。教会がすべてを行うことはできませんが、教会員に寄り添い、可能な限り手助けをすることも、主から託された教会の働きです。

Ⅲ.救いの喜びに生きるキリスト者
 続けて主イエスはペトロに迫害と殉教を予告されます(18-19)。「迫害や殉教まで覚悟して、キリスト者であろうとは思わない」と語られる方もおられるかと思います。正直恐ろしさを感じます。ペトロは現実にその恐ろしさを体験しました。そして今でも世界の各地で迫害があります。力に屈して、信仰を隠しておれば、生き延びることができるでしょう。私たちは主を信じて生きることの意味をしっかりと考えなければなりません。
 キリストが十字架の道を歩まれたのは、神の民の罪を赦し、神の国に入るためです。神の子として神の御国において永遠に喜びに生きることこそが、私たちにとっての本当の祝福・喜びです。私たちがキリスト者としてこの世に生きようとする時、キリスト者を忌み嫌う者は、それを邪魔し迫害しようします。神の御国の希望をもって生きよう!
 
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川越復活墓苑礼拝説教 「復活のイエスとの出会い」  ルカ24:13~35     2021.4.4
 
序.
 私たちは今、地上の生涯を終え、神の御許に召された方々を覚えつつ、主の御前に礼拝を献げようとしています。神を知らない人は、墓参りによって、かつて共に生きた人たちを顧みますが、私たちキリスト者は、復活のキリストと出会うことにより、私たちもまた、キリストの死と復活に与り、永遠の生命が与えられます。そして、地上の生涯を終えて、いま墓に入っている人も、今に生きる私たちも、キリストにあって罪が赦され、共に天国において再会し交わりをすることができることに希望をもっています。

Ⅰ.物理的な出会い
 主イエスは死から甦り、弟子たちに会ったその日、二人の弟子がエルサレムから離れていきます。11人の使徒とは別の弟子たちだと考えられます(18節:一人はクレオパ)。
 彼らはエマオに向かっています。60スタディオン(約11km)です。この時、二人は復活の主イエスと出会います。しかしこれは物理的に出会い会話を始めますが、復活された人間イエスに出会ったに過ぎず、一緒に歩いているのが主イエスであることに気付きません。
 このことは、私たちが聖書を読む時・学ぶ時にも同様のことが起こります。私たちが聖書を読む時、聖書の意味を理解することができます。しかしこの時、主なる神を信じることができるかと言えば、そうではありません。キリストの十字架の死から三日目の復活を信じることができない人がいます。彼らは復活のイエスを知ることができたとしても、復活の主イエスに出会うことはできません。ですから私たちは、伝道し、人が教会に来ることを求めますが、人を集めれば良いのではありません。それであれば、商売人が店を繁盛させることと変わりありません。教会を商売のごとくにしてはなりません。

Ⅱ.霊的な出会い
 さて29節において、二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られたと語られています。ここで新たな展開を迎えます。 30-31 一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かった。 最初にも確認しましたが、彼らは12使徒には数えられていなかった弟子たちです。しかし、ここで主イエスが十字架に架かる前の夜、12使徒と行われた最後の晩餐を彷彿されることが行われました。聖書をじっくり読まなければ、彼らは最後の晩餐の出来事を理解したのかとも考えてしまいますが、彼らは12使徒ではなく、最後の晩餐に立ち会っていませんでした。
 ここで私たちが注目しなければならないのは、二人の目が開け、復活の主イエスだと分かったことです。ここに聖霊の働きがあります。つまり、私たちは聖書を理解しても、聖書が語る神を信じることはできません。ここに聖霊の働きが与えられることにより、初めてイエス・キリストを救い主として受け入れ、信じることができます。
 彼らは、一緒に歩いていた人が聖書全体にわたり記されていることを語り、素晴らしい人であることは受け入れていました。そして二人は、「聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」(32)と語り、魂に訴えるものがあることを感じ取っていました。しかし、この時彼らには聖霊が働いておらず、復活の主イエスとは気付きませんでした。聖霊が与えられることにより、すべてを理解することができるようにされました。彼らはすぐさまエルサレムに戻り、この喜びを使徒たちに報告しました。
 二人の弟子たちが目が開け、復活の主イエスだと分かったように、私たちは今、御言葉をとおして復活の主イエスと出会うことが求められています。そのために、死から甦られた御子の御業を知ることと同時に、聖霊が私たちに働き、頑なな私たちの心を砕いてくださることを求めていく必要があります。
 私たちは復活の主イエスと出会う時、神の御国における永遠の生命に与ります。この時、神の御国では、同じように主によって集められたすべての神の民が集められています。ここの墓地に葬られている方々とも再会する喜びが与えられます。そして神の御国における主の晩餐に共に与り、主の祝福に満たされます。だからこそ私たちは、墓参りをするにあたっても、主なる神を礼拝し、復活の主イエスと出会うことが求められています。
 
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待降節説教 「メシア:すべての人の旗印」  イザヤ書11章1~10節     2021.12.12
 
序.
 私たちは、主イエスがお生まれになられたことを、2000年の年月を経て見ていますが、旧約の時代から見ると、その見え方は異なっています。

Ⅰ.イザヤの時代の歴史的背景
 ダビデ王がイスラエルを統一しますが、イスラエルの腐敗の罪の故に、息子のソロモン王の時代に北イスラエル王国と南ユダ王国に分裂しました。さらにイスラエルの腐敗は収まらず、BC722年に北イスラエル王国がアッシリアに滅ぼされ、南ユダ王国も罪の悔い改めが求められていた時代に、イザヤは預言者として遣わされました。その後、南ユダ王国はBC586年にバビロン捕囚となります。
 イザヤの預言は、南ユダ王国が滅ぼされ捕囚の民となること、捕囚から帰還すること、さらに約束のメシアが与えられ、神の国が完成にいたります。私たちにとっては過去のことであるキリストの来臨と、私たちにとっても未来のこととして約束されているキリストの再臨と神の国の完成が、二重写しとなっていることを理解して頂けるかと思います。

Ⅱ.エッサイの株
 こうした時代に、主なる神はイザヤをとおして、預言の言葉をお語りになります(1)。エッサイはダビデ王の父です。イスラエルにはサウル王が立てられていましたが、主なる神から少年ダビデが次期王として召しを受けました。そうしたことから「エッサイの子・根(株)」とは、サウル王からすれば軽蔑した意味で用いられました。つまり、あのエッサイから偉大なダビデ王が生まれたように、ダビデ王の子として、主は聖霊の働きにより、救い主メシアが与えられることを預言しています。
 そして2-5節で、メシアである御子イエス・キリストがどのようなお方であるかを紹介し、そして6-10節で、メシアが神の国を完成させ、神の国が到来した時の状況が描かれています。私たちが、過去におけるキリストの御降誕を覚え、約束された神の国を希望をもって見ることに対して、イザヤは現在から未来に一直線上に見ています。

Ⅲ.御子
 クリスマスにお生まれになるキリストに関して、イザヤは「主の霊」として、繰り返し語ります。ここには父なる神が遣わされるのであり、父・子・聖霊の三位一体が意識されています。そして、知恵と識別の霊、思慮と勇気の霊、主を知り、畏れ敬う霊、ここで語ることは、人間の持っている有限の知恵・思慮・知識ではなく、主なる神が持っておられる無限の広がりをもってすべてを理解しておられる方と理解することができます。無限の広がりの中、義・聖・真実において、完全な基準を持っておられます。
 主は、表面的に人を判断することはありません。声の大きい、声の聞こえる者から聞くことはありません。声すらも発することができない者、虐げられ沈黙を守る者を、主はご覧になり、そこにある正義を知っておられます。 主なる神が行われる裁きは、人間社会において起こりうるような、力関係において真理が歪められるようなことはなく、主なる神の持っておられる正義・聖・真実において、裁きが行われます(3-4)。そしてキリストは、主の御業を成し遂げられます(参照:ウェストミンスター信仰告白8:1後半)。
 そして、5節で語られている「正義をその腰の帯とし、真実をその身に帯びる」ことは、エフェソ6章のパウロの言葉に重ねて考えることができます(参照:エフェソ6:10-18)。神の御子が持っている基準を私たちも身に着け、武具として身に着けることが求められています。

Ⅳ.神の御国
 そしてキリストが再臨し、最後の審判をもって神の御国が完成した時のことが預言されます(6-10)。最後の審判をもって、罪が取り除かれ、すべての罪人もサタンも裁かれます。そして、罪の刑罰としての死は取り除かれ、天国における永遠の安らぎが与えられます。
 その時、弱肉強食の世界は過ぎ去り、食物連鎖の頂点に立つ狼や豹、牛や熊、獅子、毒蛇も蝮も、弱者にある小羊や子山羊小さい子供、乳飲み子も、共に宿り、平和が実現します(9)。ここにおいては争いはなく、知識は主なる神の義に満たされます。
 そして最後に、「その日が来れば」とイザヤは語ります(10)。「神の国が完成した時」と言い換えることもできます。サウロ王から侮辱の言葉として用いられていたエッサイの根・ダビデの子からメシアである救い主が与えられ、キリストの十字架により罪が滅ぼされ、神の民は罪赦され、永遠の嗣業に入ることが許されます。私たちは、このエッサイの株である主イエス・キリストを旗印として、神による救い、神による支配が到来することに希望をもって、今、救い主の誕生をお祝いすることが許されています。
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クリスマス説教 「救い主が現れる」  ルカ福音書1章67~75節     2021.12.19 
 
序.
 クリスマスおめでとうございます。私たちの救いのために、真の神の御子が人間としてお生まれくださいました。私たちは今改めて自らの姿を顧みつつ、罪の故に滅び行く者が、ただ神の恵みにより、罪赦され、永遠の生命が約束されたことを感謝したいと思います。

Ⅰ.神のご計画とザカリアの沈黙
 クリスマスの日にお生まれくださった主イエスは、旧約の時代に約束のメシアとして預言されてきてました。そして主イエスの登場に先立ち、預言者エリヤとして洗礼者ヨハネが立てられます。このヨハネの父としての祝福に入れられたのが父ザカリアでした。
 ザカリアに主の天使が現れ、ヨハネの父となることが約束されると共に、ザカリアは、その時以来、口がきけなくなり、話すことができなくなっていました(ルカ1:5-25)。その時から9ヶ月以上の年月を経て(参照:1:26,56)、妻エリザベトが男の子を産んだ時、ザカリアは、「この子の名はヨハネ」と書くことにより、ザカリアは口が開き、舌がほどけ、神を賛美し始めました(1:62,63)。この間にザカリアは、さらに聖霊に満たされ、信仰が強められたのではないかと考えられます。
 ザカリアは改めて聖霊に満たされます(67)。これは、今まで聖霊に満たされていなかったということではなく、さらに預言者として聖霊に満たされたと言ってよいかと思います。ザカリアのように主なる神の働き人として召されることは、ここに集う皆さま一人ひとりが神の民キリスト者として召されることと同じです。つまり、自分の意思によって神を求め、救いを求めた結果、主の働き人、キリスト者となったのではないということです。
 一人ひとり、教会に集うようになったいきさつは異なるでしょう。しかし、ザカリアが祭司としての働きを行い、ヨハネの父としての祝福が与えられたように、皆さま一人ひとりに聖霊なる神が働いてくださっています。これは理屈で説明がつくものではありません。皆さんが、教会に来て、主の御前で主の御言葉を聞いている事実こそ、そしてインターネットをとおして説教を見て・聞いている事実こそが、聖霊が働いている事実です。

Ⅱ.主なる神によって与えられる救い
 ザカリアは最初に主なる神を誉め称えます(68)。ザカリアに働きかけてくださる神、そして私たちを今教会へと導いてくださる聖霊なる神は、アブラハムに約束されたイスラエルに働いてくださった主なる神です。日本には八百万の神々がいるとされていますが、主なる神のみが生きて働いておられます。そして、主なる神以外に神はありません。

 ①主こそが、私たちを解放し、救ってくださる
 そして、「主なる神が民を訪れる」ことが、御子が人としてお生まれくださることです。
 そして、キリストの十字架と復活において成し遂げられる私たち神の民の罪の赦し、神の子として永遠の生命を与えることにより、私たちを解放してくださいます。
 この救い主(メシア)が、僕ダビデの家から起こされます。マタイ福音書には、アブラハムから始まり、ダビデ王、そしてイエス・キリストにつながる系図が記されていますが、ルカは記しません。その理由は、マタイ福音書は、イスラエルの民に対して約束のメシアが、マリアの子としてお生まれになったことを伝えることが大切であったことに対して、ルカ福音書では、私たちを含むすべての民の救い主が、イスラエルの中から、ダビデの子としてお生まれになったことを伝えることが大切だったからです。
 そして、イスラエルの神である方が、すべての民の救い主としてお生まれになることは、預言者をとおして旧約聖書において預言されてきたのです(70)。

Ⅲ.私たちの救い主イエス・キリスト
 71節を読むと「ローマの属国となっていたイスラエルは、メシアがローマに勝利することにより救われる」と解釈する人たちもいます。事実、イスラエルの人たち・主イエスの弟子たちは、主イエスに対して、ローマに勝利する政治的な王と信じていました。
 しかし、ここで語られている敵、憎む者からの救いとは、罪の根源であるサタンからの救いであり、罪の結果もたらされる死からの勝利です。イスラエルにおいて約束されていたメシア(キリスト)は、単にイスラエル民族の救い主ではなく、全世界に生きる民の共通の敵・苦しみであるサタン・罪・死から、人々を解放し、救い出してくださるお方です。
 アブラハムに約束された恵みの契約は、キリストの誕生と十字架の御業により成し遂げられ、私たちの救いが完成します(72-73)。だからこそ、イエス・キリストによる救いを私たちが信じ、天国における永遠の生命に希望をもって生きること、そして主に仕え、神を礼拝し、奉仕し、教会を支えていくことは、素晴らしいこと、大切なことです(74)。
 序.
 クリスマスおめでとうございます。私たちの救いのために、真の神の御子が人間としてお生まれくださいました。私たちは今改めて自らの姿を顧みつつ、罪の故に滅び行く者が、ただ神の恵みにより、罪赦され、永遠の生命が約束されたことを感謝したいと思います。

Ⅰ.神のご計画とザカリアの沈黙
 クリスマスの日にお生まれくださった主イエスは、旧約の時代に約束のメシアとして預言されてきてました。そして主イエスの登場に先立ち、預言者エリヤとして洗礼者ヨハネが立てられます。このヨハネの父としての祝福に入れられたのが父ザカリアでした。
 ザカリアに主の天使が現れ、ヨハネの父となることが約束されると共に、ザカリアは、その時以来、口がきけなくなり、話すことができなくなっていました(ルカ1:5-25)。その時から9ヶ月以上の年月を経て(参照:1:26,56)、妻エリザベトが男の子を産んだ時、ザカリアは、「この子の名はヨハネ」と書くことにより、ザカリアは口が開き、舌がほどけ、神を賛美し始めました(1:62,63)。この間にザカリアは、さらに聖霊に満たされ、信仰が強められたのではないかと考えられます。
 ザカリアは改めて聖霊に満たされます(67)。これは、今まで聖霊に満たされていなかったということではなく、さらに預言者として聖霊に満たされたと言ってよいかと思います。ザカリアのように主なる神の働き人として召されることは、ここに集う皆さま一人ひとりが神の民キリスト者として召されることと同じです。つまり、自分の意思によって神を求め、救いを求めた結果、主の働き人、キリスト者となったのではないということです。
 一人ひとり、教会に集うようになったいきさつは異なるでしょう。しかし、ザカリアが祭司としての働きを行い、ヨハネの父としての祝福が与えられたように、皆さま一人ひとりに聖霊なる神が働いてくださっています。これは理屈で説明がつくものではありません。皆さんが、教会に来て、主の御前で主の御言葉を聞いている事実こそ、そしてインターネットをとおして説教を見て・聞いている事実こそが、聖霊が働いている事実です。

Ⅱ.主なる神によって与えられる救い
 ザカリアは最初に主なる神を誉め称えます(68)。ザカリアに働きかけてくださる神、そして私たちを今教会へと導いてくださる聖霊なる神は、アブラハムに約束されたイスラエルに働いてくださった主なる神です。日本には八百万の神々がいるとされていますが、主なる神のみが生きて働いておられます。そして、主なる神以外に神はありません。

 ①主こそが、私たちを解放し、救ってくださる
 そして、「主なる神が民を訪れる」ことが、御子が人としてお生まれくださることです。
 そして、キリストの十字架と復活において成し遂げられる私たち神の民の罪の赦し、神の子として永遠の生命を与えることにより、私たちを解放してくださいます。
 この救い主(メシア)が、僕ダビデの家から起こされます。マタイ福音書には、アブラハムから始まり、ダビデ王、そしてイエス・キリストにつながる系図が記されていますが、ルカは記しません。その理由は、マタイ福音書は、イスラエルの民に対して約束のメシアが、マリアの子としてお生まれになったことを伝えることが大切であったことに対して、ルカ福音書では、私たちを含むすべての民の救い主が、イスラエルの中から、ダビデの子としてお生まれになったことを伝えることが大切だったからです。
 そして、イスラエルの神である方が、すべての民の救い主としてお生まれになることは、預言者をとおして旧約聖書において預言されてきたのです(70)。

Ⅲ.私たちの救い主イエス・キリスト
 71節を読むと「ローマの属国となっていたイスラエルは、メシアがローマに勝利することにより救われる」と解釈する人たちもいます。事実、イスラエルの人たち・主イエスの弟子たちは、主イエスに対して、ローマに勝利する政治的な王と信じていました。
 しかし、ここで語られている敵、憎む者からの救いとは、罪の根源であるサタンからの救いであり、罪の結果もたらされる死からの勝利です。イスラエルにおいて約束されていたメシア(キリスト)は、単にイスラエル民族の救い主ではなく、全世界に生きる民の共通の敵・苦しみであるサタン・罪・死から、人々を解放し、救い出してくださるお方です。
 アブラハムに約束された恵みの契約は、キリストの誕生と十字架の御業により成し遂げられ、私たちの救いが完成します(72-73)。だからこそ、イエス・キリストによる救いを私たちが信じ、天国における永遠の生命に希望をもって生きること、そして主に仕え、神を礼拝し、奉仕し、教会を支えていくことは、素晴らしいこと、大切なことです(74)。
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標語説教 「主の支配に生きる-謙遜と自己否定によって」  ガラテヤ書5章16~26節     2022.1.30  
 
 序.神の御前に生きる私たち
 毎年、定期会員総会を行う日の礼拝は、年の標語・聖句から御言葉を聞いています。コロナ禍のパンデミックを1年経た昨年、全世界を支配しておられる主はパンデミックにより私たちに何を語りかけておられるのか「今を、神の御前に生きる」との標語を掲げました。

Ⅰ.神と私たちとの関係
 そして今年の標語「主の支配に生きる」は昨年の継続です。しかし今年は「謙遜と自己否定によって」というサブ・タイトルをつけました。つまり、私たちが主なる神の御前に生きるのですが、主なる神と私たちの関係をはっきりとさせることを意図しています。
 私たちにとって、主なる神は友だちでもしもべでもなく、創造主、贖い主・救い主です。そのため私たちは主の御前に謙遜(遜り)が求められ、自己実現ではなく、主なる神が私たちに何を求めているか、御言葉に聞くことが求められています。
 「自己否定」とは、主なる神の御前での自己否定であって、権力者・権威者・実力者の前にあって、無批判に従順ではありません。通常キリスト者は、彼らに聞き従うことが求められます(ローマ13:1)。しかし、主なる神の求めに反することが要求される時、罪を強要される時などは、「否」を語ることが求められます(同13:6)。良心によって、私たちが聞き従う主の教えに反することが求められる時、それを拒否しなければなりません。

Ⅱ.肉の欲に生きると……
 さて、ガラテヤ書の著者パウロは、「肉」と「霊」という形で、神を知らず自分の力で生きる者と、「霊の導き」つまり主の御言葉に聞き従って生きる者とを区別します。霊の導きに生きるとは、クリスチャンであれば良いということではありません。創造主であり、贖い主・救い主である主なる神の御前に立ち、ひれ伏し、遜って、主の御言葉に聞くことが求められています(参照:ローマ2:28-29)。それが「霊の導き」に聞き従うことです。
 主なる神を信じることがない、もしくは霊の導きに聞き従わない者は、肉の欲望にいきます。19~21節にリストが示されています。大きく分けて4つのグループに分けられます。
 第一に、姦淫、わいせつ、好色です。つまり、性的な乱れです。
 第二に、偶像礼拝、魔術です。つまり主なる神以外の神を信じることです。
 第三に、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、妬みです。自己中心に生きるか、隣人を愛して生きるかということです。
 そして最後第四に、泥酔、酒宴。生活の乱れです。

Ⅲ.神の霊に生きよ!
 では私たちはどのように神を信じ、信仰生活をすることが求められているのでしょうか。
一生懸命聖書を読むこと、礼拝・祈祷会に欠かさず出席することも大切なことです。しかし私たちは律法主義に陥ってはなりません。私たちに生命を与え、今も全世界を支配しておられる主の御前に立ち、すべてを明け渡すこと、主が御言葉により聖霊によって語られることに聞き・ひれ伏すことです。この時、主は私たちに生きる道をお示し下さいます。
 私たちが生まれながらに持っている「罪の支配」、「肉による欲望」は、自分の力で打ち砕こうと思ってもできません。そのため、主の御力によって砕かれなければなりません。そのために私たちは主にすべてを委ね、祈ることが求められています(参照:ウェストミンスター信仰告白13:1,2)。私たちキリスト者は、毎日がこの肉との戦いであり、自分は罪に打ち勝っているとうぬぼれてはなりません(参照:ペトロ・マタイ26:35)。

Ⅳ.霊の結ぶ実
 私たちが主の霊の支配に生きる時、霊の結ぶ実として愛が与えられます。神への愛、隣人への愛に生きることであり、十戒を守ることにつながります。そして私たちが愛に生きる時、救いの喜び、隣人・社会における平和を実現する者とされます。
 私たちは戦争や迫害、疫病といった苦難の中にあっても、キリストによる罪の贖い、神の国における永遠の生命がはっきりと示されていれば、逮捕された主イエスが「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と祈られ(ルカ23:34)、山上の説教で、「求める者には与えなさい」(マタイ5:42)、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(同5:44)とお語りになったことを実践し、救いの喜び、平和を実現する者として生きる者とされます。私たちは、神の霊に満たされ、神による救いへの感謝と喜びに生きる時、私たちの内面も、主によって変えられていきます。こうしたことが、内面に表れ、外面(行動)にもでてきます。
 
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 「永遠の賛美」  詩編44編1~9節     2022.3.27  
 
序.
 今日は詩編44編の9節までの御言葉をお読みしましたが、44編全体を読むと、イスラエルが、どこかの国との戦いの中にあり、しかも主なる神が共に戦ってくださらず、主に見放され、苦しみの中に置かれている状況が露わになります。

Ⅰ.神の支配を語り伝えること
 表題にあるコラは、王の宮において門衛や歌うたいなどの奉仕をしていました。ですからコラとは詩編の作者ではありません。カルヴァンはダビデの歌であるとします。またマスキールとは、「教示する」から「教訓的な歌」と訳されています。そのためこの詩編は、神殿や神礼拝の場で繰り返し歌われた歌といって良いかと思います。
 詩編の作者は最初に、「神よ、我らはこの耳で聞いています。先祖が我らに語り伝えたことを……」(2)と告白します。イスラエルの民は、主なる神がすべてを支配しておられること、そして主なる神が約束の民であるイスラエルを救い出してくださったことを、知っており、信じています。なぜならば、イスラエルの民は、主なる神の成し遂げられた御業を語り聞かされてきたからです(参照:申命記6:6-7)。
 それは、天地万物の創造に始まり、主なる神によってアブラハムの時にイスラエルが選びの民とされたこと、エジプトで奴隷であったイスラエルの民が、モーセをとおして救い出され、後継者であるヨシュアによって約束の地カナンの地が与えられたことです。
 ただ教えられただけでは、主の御力を理解することができません。意味を理解しなければ呪文となります。そのため主なる神は、イスラエルに割礼をお与えくださいました。アブラハム以来の神の救いにある神の民としてのしるしです。それと同時に、毎年、イスラエルは過越の食事をすることが求められました。エジプトにおいて奴隷であり、喜びも希望も失っていたイスラエルに対して、主なる神はモーセによってエジプトのファラオからイスラエルを解放してくださったことを、過越においてイスラエルは確認したのです。
 ですから、御言葉の説教と聖礼典(洗礼・主の晩餐)は、相互に補完するものであり、一方だけだと形式的になり、信仰の本質も失われていくこととなります。

Ⅱ.神の御支配によるカナン入城
 次にヨシュアの時代に約束の地カナンに入っていく様子が語られています(3-4)。イスラエルが約束の地に入ることができたのは、主の御力であって、イスラエルの力ではありません(参照:エリコ(ヨシュア6章)、アイ(同8章))。主が約束の地カナンをイスラエルにお渡しになり、カナンの原住民を皆殺しにするように命じておられるのは、彼らが主を信じることなく、罪の結果の裁きです。旧約聖書において聖戦・聖絶と語られるのは、あくまで主なる神の裁きとして行われるのであって、現在において、安易に聖戦を語ることはできません。私たちは単純にイスラエルは味方であり、カナンの原住民は敵としてはなりません。主にの裁きは主なる神に背き、偶像を崇拝し罪を犯した結果です。そのためイスラエルであっても、主なる神の御声に聞き従う時に勝利が与えられますが、主の御声に反することを行った時、イスラエルは主の裁きを受け、罪の悔い改めが迫られます。

Ⅲ.今もすべてを支配しておられる主の御業
 ですからこの詩編において作者が語ろうとしていることは、直接的には、苦しみにあるイスラエルを救ってくださるように訴える歌ですが、究極的な目的は、主なる神の栄光が示され、永遠に主が誉め称えられることです(4)。このときにイスラエルの民も、主なる神を信じ、主の御声に聞き従うことによって、主による勝利が与えられます。
 天地万物を創造された主なる神が、全世界を支配しておられ、イスラエルに対する勝利をお与えくださいます。そのことを詩編の作者は信じて、イスラエルの民は、主を賛美しています(5-9)。この主なる神が今も世界を支配しておられます。サタンを滅ぼし、神の国を完成へと導く力を持っておられます。ですから私たちは、主を、私たちの苦しみ・苦難の中にある者たちの都合の良い僕にしてしまってはなりません。主の大いなる御業は、このときイスラエルの民が苦しみの中に置かれたように、地域的・世界的に私たちにも襲いかかってきます。このとき私たちが他者の苦しみを見るとき、イスラエルが求められたように、自らの姿・信仰を顧みることが求められます。私たち自身、そして世界の神の民であるキリスト者の信仰が試され、悔い改めが求められています。
 主は今も私たちと共におられ、神の御国の完成に向かって働いておられます。そして御国の完成の時、キリストが再臨され、私たち神の民を御国・天国へとお招きくださいます。この希望に、私たちは今も生かされています。だからこそ、今、苦しみの中にあっても、主は神の御国における祝福をお与えくださいます。それが主への賛美につながります(9)。
 そして今苦しみの中にある人たちのためにも、私たちは主に委ね祈ることができます。
 
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  「イエスの祈り」  ヨハネ福音書17章     2022.4.10
 
序.
 受難週を迎えました。キリストの十字架の死と死からの復活は私たちの信仰の原点です。なぜならキリストの十字架での死と復活があるからこそ、キリストを信じる私たちも、罪の赦しと、神の子として永遠の生命に希望をもつことができるからです。

Ⅰ.大祭司の祈り
 さて今日の御言葉は、主イエスが逮捕される直前に父なる神に祈られた祈りです。そして通常この主イエスの祈りは、「大祭司の祈り」と呼ばれています。
 さてこの主イエスの祈りは、「あなた」と呼ばれる父なる神と、「子」さらに「わたし」と語る御子イエス・キリストご自身との関係を明らかにした上で、「彼ら」と呼ばれる主イエスの弟子たちならびにすべてのキリスト者、さらに「世」、そして「滅びの子」、「悪い者」と語られる罪の故に裁かれる者が出てきます。今日の説教では、御父と御子の関係を確認した上で、世界が造られる前から生きて働いておられる父なる神と御子イエス・キリストが、世に属し滅びる者であった私たちキリスト者に、永遠の生命をお与えくださるお方であることを確認しつつ、大祭司の祈りを言われる理由を考えて行きたいと思います。

Ⅱ.神を知る
 私たちが今生きているこの世は、平和を求め共生をしようとしていても、一人の独裁者により互いに殺し合い、滅びに導く世界です。私たちは今、ウクライナの戦争により、このことを目の当たりにしています。戦争は滅び行く世界の象徴的な行為ですが、全的堕落、すべての者が罪に汚れ、滅びに向かっています。誰一人自らの力で永遠の生命を得ることなく、肉の死において滅び行く世に、私たちは今、生きています。
 主イエスは、唯一のまことの神、そして御子イエス・キリストを知ることにより、永遠の生命をお与えくださることを語ります(2-3)。「知る」とは、単に名前を知ることではなく、御父・御子・聖霊なる三位一体の神がどのようなお方であるか、人格的に知ることが求められます。主なる神は永遠であり、天地万物を創造し、今もすべてを統べ治めておられます。滅び行く私たち人間は、永遠の神である方と共にあることにより、永遠の生命へと移されます。そういうお方として、私たちは主なる神を知らなければなりません。
 そして、弟子たちはイエス・キリストと出会うとき、救い主を知り、「滅びることなく」永遠の生命が与えられました(12-13)。私たちも、今教会に来て、神を信じる信仰者として召されているならば、すでに神は私たちと共にあり、神の子として選んでくださっていることが明らかです。だからこそ、滅びることはなく、永遠の生命が約束されており、安心して、信仰生活を送ることができるものとされています。

Ⅲ.天に属し、地上で一つとなることが求められている
 「しかし、今、わたしはみもとに参ります」(13)。主イエスは、この後に逮捕され十字架に架けられ、死と陰府下りを経て、死から3日目の朝に甦り、天の御国に上げられます。そのため主イエスは、ご自身が弟子の前からいなくなっても、弟子たちが信仰から離れることなく、神の子としての歩みを続けることができるようにお祈りくださいます。さらに主イエスは、弟子たち、私たちキリスト者が、悪い者・サタンから守るようにお祈りしてくださいます(15-16)。これが父なる神への執り成しとしての大祭司の祈りです。
 キリストは、今も天国において、私たちのために執り成しを祈り続けてくださっています(参照:ウェストミンスター大教理問55)。だからこそ私たちも、主の祈りにおいて、確信をもって「我らを試みに遭わせず、悪より救い出したまえ」と祈り続けることができます。
 さらに「滅びることなく守ってくださる」、「悪い者から守ってくださる」ことをお語りになった主なる神は、弟子たちが、「世に属していない」、つまり三位一体の神に属していると宣言してくださいます(16)。私たちは滅び行く世に生きていいますが、私たちはもう滅び行く者ではなく、神の交わりに属し、永遠の生命が約束されています。
 そして主イエスは、私たちキリスト者が、三位一体なる神と一つとなることを繰り返しお語りくださいます(21-23)。これはキリストを頭とする教会を形成するということです。主なる神が神の子として主の御許にだれにも数えきれない大群衆(黙示録7:9)でが集います。
 そして、「体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様です」(Ⅰコリント12:12)。このとき私たちは、違いがあり、個性があります。また罪もあります。だからこそ、違いを受け入れ、互いの罪・弱さを受け入れ、赦しあうことが求められます(参照:今年の標語、ガラテヤ5:22-23)。
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 「マグダラのマリアと復活のイエス」  ヨハネ福音書20:11~18     2022.4.17
 
序.
 私たちは今日、御子イエス・キリストの十字架の死からの復活を覚え、礼拝を守っています。罪人として処刑され死んだ人間が、復活した。そしてそのお方を神として信じる、ということは、主なる神を信じることができない人たちにとっては愚かな行為です。キリストが、十字架に死を遂げても、なおも三日目の朝に死に打ち勝ち、罪に打ち勝ち、サタンに打ち勝つことによって復活を遂げられ、そのお方が、天に昇られ、やがて再びこの世に来られることにより、キリストを信じるすべての神の民を救ってくださり、神の国における永遠の生命をお与えくださることは、キリスト者にとって最も重要な真理です。

Ⅰ.主イエスの復活の第一証人
 復活されたキリストは、500人以上(Ⅰコリント15:6)の弟子たちの前に同時に現れたことを聖書は証言しますが、最初の証言者として挙げているのがマグダラのマリアです。
 マグダラのマリアは7つの悪霊を主イエスによって追い出していただきました(ルカ8:2)。悪霊に取り憑かれる人は、普通の社会生活を行うことができません。肉体的・精神的に病的な状態となります。そのため、誰もが悪霊に取りつかれた人を、色眼鏡で見て、差別します。ただ悪霊が取りつかれても、社会から白い目で見られるような生活が強いられるのですから、彼女はどうだったでしょうか? 7つの悪霊とは、数的な7ではなく、悪霊に取りつかれた状態がそれ程ひどかったことを表しています。

Ⅱ.マグダラのマリアを受け入れる主イエス
 主イエスは、このマグダラのマリアからすべての悪霊を追い出してくださり、さらに彼女を、主イエスと共に同行する弟子に加えてくださいました。マグダラのマリアがどういう女性であるかは、多くの人たちが知っていたことでしょう。そうした女性と共に衣食住を共にし、同伴を許し、身辺の世話を行わせることは、主イエスが彼女の罪を赦し、全面的に受け入れていること、さらには主なる神の愛の深さを物語ります。
 さらに、主イエスの十字架の死からの復活の第一証人として聖書は彼女の名を記します。社会的に名声のある王やローマ総督でもありません。律法学者や祭司長でもありません。12使徒でもありません。以前の彼女を知っている人からすれば、「あんな人が」と呼ばれるような人です。「別の人だったら信じても良いのだけれど」と言われるような人です。
 つまり主なる神にとって、マグダラのマリアこそが、主イエスの復活の第一の証人にふさわしいと認め、聖書にその名が残したのです。どれだけ罪深く、どれだけ人々から嫌われていたとしても、その人が主イエスを受け入れ、信じ、自らの罪を悔い改めることにおいて、罪の赦しと救いが与えられます。マグダラのマリアは、自らの姿を受け入れ、悔い改め、その上で主イエスに従いました。主イエスが逮捕されても、他の女性たちと共に主イエスの近くで見守りました。主イエスが十字架に架けられ、肉の死を遂げた時も、時間がない中、簡略的であったにしろ葬りを行います。安息日が明けた朝早くに、丁重に葬りに行きました。主なる神は、過去のこと・他人の見た目をこだわりません。今、自己否定と遜りをもって、おごることなく主イエスに仕える姿を、主なる神は認めてくださり、主イエスの復活の第一の証人として、マグダラのマリアを聖書に残してくださったのです。

Ⅲ.キリストとの人格的な交わり
 マリアは最初、復活された主イエスの姿を見て、そして主イエスの声を聞いたにもかかわらず気付きませんでした(14-15)。ここで会話は成立しています。しかし、これは社会における一般的な会話・社会的交流であって、人格的な交流ではありませんでした。
 しかし、イエスが「マリア」と言われることにより、人格的な交流が再開します(16)。主イエスはマリアのすべてのことを知っています。そしてマリアも主イエスを救い主として信じています。互いに理解したとき、ここに人格的な交わりが生じます。つまり、聖書で記されたイエス・キリストを知り、人格的な交わりが与えられるときに初めて、聖書をとおしてお語りくださる主の御声を私たちは受け止め、聞き、信じることができます。
 今、教会に集められ、主イエス・キリストの十字架の死からの復活を信じる私たちは、聖霊を介してキリストとの人格的な交わりが与えられています。そして、主イエスは復活することにより、死と死の力をもつ者に勝利を遂げ、主を信じ、人格的な交わりが与えられた私たちの罪を赦し、神の御国へとお招きくださいます。そして私たちは、神の御国における三位一体なる神との交わりを回復し、永遠の生命が約束されています。主がお与え下さった神との交わり、永遠の生命に喜びと感謝をもって歩み続けたいと思います。
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 「トマスとイエス」  ヨハネ福音書20:24~29     2022.4.17
 
序.
 私たちは今、地上の生涯を終え、墓に葬られている人たちを前にいます。そして私たちは今日、キリストの復活を覚え、お祝いしていますが、キリストと同じように、ここで墓に眠っている人たちも私たちも、復活の生命の希望が約束されています。

Ⅰ.エビデンスを求めるトマス
 神を信じない人たちは、「エビデンス・証拠」、「科学的根拠」を求めます。現実主義者と言っても良いかと思います。しかし社会においては科学的根拠ができず、推論により既成事実化されていることもあります。ダーウィンの進化論はその代表ではないでしょうか。また半減期も、10年・20年の実験により、10日・1ヶ月・1年程度の半減期が確定するのは良いですが、100万年、1000万年という半減期が確定できるのでしょうか? 時代・気候・条件が変化しても、半減期が同じであるとするのは、私は推論に過ぎないと思います。
 主イエスの12使徒の一人ディディモと呼ばれるトマスも、エビデンスを求める一人であったと言っても良いかと思います。共観福音書では12使徒のリストにしか、トマスの名は記されていませんが、ヨハネ福音書は異なります。最初はラザロの死の場面です(11:13-16)。主イエスによってラザロが死んだことを知らされると、トマスは「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と語ります。短絡的な判断に伴う言葉と言えるかと思いますが、彼としては、論理に基づき、語っているつもりかと思います。
 また主イエスが神の御国について説明したとき(14:1-6)、トマスは「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか」(5)と語ります。主イエスは復活を遂げ、神の国に行かれることをお語りになりますが、トマスには理解できないことでした。ですから、まさに天国である神の国がどのような場所で、どのようにすれば自分たちが知ることができるのかを、主イエスに問うています。
 そして、他の弟子たちが十字架で死を遂げられた主イエスが復活したことを語っていることに、トマスは疑問を持っていました。トマスとしては、復活の主イエスと出会うこと、触ることをしなければ、信じることができません。そのため、25「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡にいれなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と語ります。先に確認した2つの言動からしても、彼の言葉は理解できますし、また、神を知らない多くの人たちも、同調することかと思います。

Ⅱ.トマスの前に現れる主イエス
 8日後に(26)、トマスは信じることができなかった復活されたイエスさまが、目の前に現れました。そしてさらに主イエスはトマスに語られます。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい」(27)。これは、トマスがほかの弟子たちに対して語っていたことです。主イエスは、トマスと共にいない時のトマスのことも知っておられることが、ここで示されました。
 現実主義者であるトマスに、これ以上ない証拠が示されました。そのためトマスも、主イエスの復活を受け入れざるを得ません。トマスは「わたしの主、わたしの神よ」と語ります。この告白は、自分で納得したのではなく、そうせざるを得ない状況が示された結果です。そしてこの後も、パウロによれば、主イエスは500人以上もの兄弟たちに同時に現れました。主なる神にとって不可能なことはありません。

Ⅲ.キリストを知り・信じるときに与えられる永遠の生命
 これだけの主イエスの復活の証人が与えられていますが、現代に生きる人たちは、それを受け入れません。今、自分のこの目で確認できないからです。
 しかし、主イエスはこのときのトマスに対してこのように語られます。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」トマスは、イエスさまを信じることができたのは、主イエスが常識の中で生きておられる人ではなく、常識を越えて、すべてを支配しておられる主なる神であることが示されたからです。
 私たちが主なる神を信じることができるのは、常識を越え、時間を超えて、すべてを支配し、また私たちの生命を司り、永遠の生命をお与えくださる方であることが示されるからです。そして私たちが、救い主であるキリストを知る時、復活のイエスと直接出会わなくても、キリストを私たちの救い主として受け入れ、信じることができるものとされます。そして私たちが、イエス・キリストと出会うことにより、キリストが再臨されたとき、私たちも墓の中に眠る者たちと共に、復活の生命が与えられ、神の御国へと招かれます。
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  「聖霊が支配する教会」  エフェソ2:14~22     2022.6.5
 
序.
 主イエス・キリストの十字架の御業と聖霊降臨によって与えられた新約の教会の関係について、与えられた御言葉より確認していきたいと思います。

Ⅰ.キリストによる一致をもって生きる
 パウロは「二つのものを一つにする」と語ります(14)。これは、イスラエルと異邦人をキリストにあって一つにすることです(11-13)。つまり旧約の時代、異邦人に救いが与えられることが閉ざされていたわけではないが、約束のメシアとしてイエス・キリストが与えられるイスラエルが優先されていました。そしてキリストの十字架の贖いにより、神を信じるすべての者の罪が贖われ、救いが提供されました。その結果、規則と戒律ずくめの律法(律法主義)から解放されたのです。つまりキリストの十字架による贖いが示されなければ、律法を守らなければ救いを獲得することができませんが、キリストの十字架の御業の故に、律法を守ることではなく、律法においては罪人とされる者がキリストの十字架を受け入れ・信じることにより、罪の赦しと救いが与えられました。
 このとき、自分の罪がキリストの十字架の御業によって赦されたように、隣人の罪もまたキリストの十字架によって赦されました。このことを理解することが大切です。主イエスは徴税人の頭ザアカイを、罪の悔い改めを行う前に、罪を赦し受け入れてくださいました(ルカ19章)。主は、本人が認めていない罪をも赦してくださるお方です。
 主によって罪が赦された者の罪をあなたが許さないことは、主に対して「否」を語ることを意味しています。キリストの十字架により敵意の壁は取り壊されました。そのため私たちは、隣人の罪を互いに赦し合うことが求められ、国・民族・言葉・身分・性別等における違いも乗り越え、互いに違いを受け入れ、理解しつつ、分かち合うことが求められています。こうすることにより、キリストが平和を実現してくださいます。
 違いがある者同士が一人の人のようになろうとするとき、一方が他方に同一化することではありません。戦争は敵対する国の領土を奪い、その国の人々を同一化させることです。しかし、主はこれを否定されます。違いがある者同士が一つになろうとするとき、互いの違いを受け入れなければなりません。このとき、自ら遜り、相手を尊重することが求められます。このとき、十人十色、多様性を認めることが必要です(参照:Ⅰコリント12:12-27)。

Ⅱ.聖書を土台とした教会を建てるには
 私たちは、キリストの十字架による罪の赦しと神の民として神の国に受け入れられていることにより、一つとなることができます。このときに求められるのが霊・聖霊です(18)。すべての者に違いがあります。ですから、キリストの十字架によって罪が赦され、神さまを信じ、神の子として生きようとしても、それだけではバラバラです。個人主義です。
 ここに聖霊の働きによって形成される教会が求めれます(19-22)。私たちキリスト者が、聖なる民に属する者、神の家族であると語り、使徒や預言者という土台の上に建てられます。違いがある者同士が神の家族となったのです。このときに土台としてあるのが、新約聖書を代表する使徒と旧約聖書を代表する預言者です。そしてそのかなめ石がキリスト・イエスです。つまり、私たちの土台である旧・新約聖書の中心にイエス・キリストの来臨があり、十字架があります。
 このときにそれぞれが自分の立場で、聖書の御言葉に聞き、説教を聞いていれば、一つになることはできません。かなめ石であるキリスト・イエスにおいて、この建物全体が組み合わされて成長するために、説教者自身が御言葉に立つことが求められます。つまり信仰告白における一致があり、同じ信仰の立場で神の御言葉である御言葉にひれ伏すとき、一つのキリストの教会を形成することが可能となります(参照:ウェストミンスター信仰告白25:3)。

Ⅲ.キリストにあって一つとなる教会形成
 そのため牧師は、自分の言葉で説教を語るのではなく、キリストの現臨と聖霊に満たされ、教理・信仰告白に基づいて主の言葉を取り次ぐことが求められています。そのため、教会が建つのも、倒れるのも、説教次第と言われます。説教において、分かたれていたものを一つにし、神の国を目指して、教会形成を行っていくことが求められています。
 教会員が互いに批判し合うのは、一つになっていないことの表れです。このとき教会は、どこに問題があるか話し合い、問題・原因を確認した上で、改善することが求められます。
 霊の働きに導かれて、教会に集う一人ひとりがキリストにあって一つになり、主に仕えて賜物を用いた奉仕を行うことにより、教会形成することが求められています(22)。
 
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  大宮教会設立55周年記念礼拝「主を喜び祝うことこそ力の源」  ネヘミヤ7:72b~8:12     2022.10.23
 
序.
 今、私たちは大宮教会設立55周年を記念し、主の御前で礼拝を献げています。私たちは改革派教会を形成し、改革派信仰・長老主義政治・そして善き生活において、天国に通じる純粋な教会を形成しようと願っていますが、教会は罪赦された罪人の集まりであり、罪の混入を避けることができず、躓きも与えてしまいます。そのため互いに赦し合い、和解をもって、新たな歩みを始めることが求められています。そのために今後、私たちがどのような教会形成を行っていくのかを、主がお語りになる御言葉に聴こうと願っています。

Ⅰ.一つとなるイスラエル人
 今日の御言葉はネヘミヤ記8章ですが、ここまでの流れを確認しなければなりません。バビロンによって滅ぼされたイスラエルは捕囚の民とされましたが、その後ペルシャがイスラエルを支配するようになりました。最初の王キュロスの第一年(BC538年)に帰還が行われ、その後神殿が再建されました。帰還したイスラエルの民は、当初は主なる神を礼拝し、周辺諸国の異邦人たちとも信仰の戦いを行っていましたが、次第に信仰が形骸化していました。彼らは「イスラエルの民である」ことに自負はありましたが、主を礼拝することを疎かにし、信仰が形骸化していました。そうした中、ネヘミヤが主によって召され、エルサレムに帰還しました(BC446年)。帰還したネヘミヤは12年かけて城壁を修復することにより、外敵から守られ、主を礼拝することができるようになりました。
 最初に帰還した民は、一人の人のようになり主を礼拝しました(エズラ3:1)。ネヘミヤは、100年前の帰還者のリストを記して(7章)、100年前の信仰者の姿を顧みつつ、改めて今、イスラエルの民に、主を礼拝することを求めます。このときイスラエルの民は、再び一人の人のようになり主を礼拝します(8:1)。彼らは、書記官エズラにモーセの律法の書を持ってくるように求めます(2)。つまり一人の人のようになるとは、すべての神の民が、主なる神を礼拝し、主のお語りになる御言葉に聴くことことにおいて一つとなることです。
 彼らは夜明けから正午まで丸半日読み上げられた律法の主に耳を傾けました。真に大切なこと、一番大切なことを理解し、御言葉に飢え乾いていたことを意味しています(5-6)。

Ⅱ.御言葉を聴き、理解する
 「彼らは神の律法の書を翻訳し、意味を明らかにしながら読み上げたので、人々はその朗読を理解した」(8)。律法の書はヘブライ語で記されていましたが、当時のイスラエルの人々はヘブライ語の方言アラム語を用いていました。彼らは律法の意味を理解しました。私たちも聖書を持っています。ご家庭でも聖書を読んでいただきたいと願っています。しかし、持つこと・読むことが大切なのではなく、それを理解することが大切です。
ウェストミンスター小教理問89 御言葉は、どのようにして救いに有効とされるのですか。
 答 「神の霊が、御言葉の朗読、しかし特に御言葉の説教を、罪人に罪を自覚させて回心させ、さらに信仰をとおして、かれらを清さと慰めにおいて造り上げ、救いにいたらせるのに、有効な手段とされます」。聖書に記されたことの意味が明らかにされることにより、罪を自覚するすることができ、回心させられます。こうして信仰が養われます。
 ネヘミヤとエズラはイスラエルの民に対して「嘆くな、泣くな」と語ります(9)。これは感動して、それで終わってはならないということです。つまり、主なる神から御言葉が語られそれを理解したとき、①回心する、②罪を悔い改める、③信仰を告白する、行動が伴います。そして救いの感謝が教会における①神礼拝、②奉仕、③献げる、行動となります。

Ⅲ.信仰に基づく聖徒の交わりを大切にする教会
 彼らは感謝をもって、喜びを分かち合いながら食事をとります(10-12)。今はコロナ禍にあり、残念ながら今日も愛餐会を行うことができません。しかし、御言葉を分かち合うこと、愛餐会を行い互いの交わりを深めることは非常に大切なことです。
 そしてここでもう一つ「その備えのない者には、それを分け与えてやりなさい」。信仰において主なる神との縦のつながりが深められることが大切ですが、同時に、横のつながり、隣人との交わりが深められ、隣人を知り、そして分かち合うことにより、主から与えられた喜び、恵みを共有することが大切です。隣人を愛することがなければ、独りよがりな歪んだ信仰となります。神礼拝と共に、聖徒の交わりが大切です。
 大宮教会においても、信仰が形骸化することなく、主の御言葉に聴き・理解し、主による救いの喜びをもって主に仕えることができる主の民一人ひとりが、日々養われ、隣人との豊かな交わりが深められることにより、教会を形成することが求められています。
 
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  大宮教会設立55周年記念会 講演「これからの改革派教会」辻幸宏     2022.10.23
 
序.
 講演の題を、「これからの大宮教会」ではなく、「これからの改革派教会」としました。これは何も、改革派教会全体に大風呂敷を広げて語ろうとしているのではなく、改革派教会に属する大宮教会として、私たちが何を意識して教会生活をすることが求められているのかということを、一緒に考えて行こうと思っています。
 「これからの大宮教会」ということでは、私が言葉を重ねるよりは、プログラムの表紙の絵が、その答えと言えます。教会に来ることが嬉しい、喜びに満たされる思いが、この絵に思わされます。

Ⅰ.今の時代
 私たちがどのような教会を形成するのかは、私たちがどのような時代の中に生きているのかを、客観的に知ることが大切です。21世紀を迎え、3.11東日本大震災(2011)、世界的なパンデミック・コロナ(2020)、ウクライナ戦争(2022)……と時代は刻々変化し、私たちの生活は変化が求められます。そうした中、私たちは、今、キリスト者としてどのように生きるのかが、問われています。今の時代を知らなければ、私たち・教会は、世から取り残された存在となり、見向きされなくなることでしょう。
 時代からの問いかけを、コロナ禍にあって私は月報などにおいて語ってきております。特に最近は、交わりの大切さを再考し、交わりを深めなければ兄弟愛に基づく愛の業も充分に行うことができないことを語ってきています。

 しかしこのとき、私たちは主なる神により召され、神の国に導かれる神の民として、主なる神が、今の時をどのような時であると語っておられるかを理解しなければなりません。主なる神の側から考えることは、聖書の歴史・救済史において考えることです。救済史の年表は、教会員の皆さまには繰り返しお配りしている表です。この年表は、旧約聖書・新約聖書を理解する表だと思われている方が多いかと思いますが、この中に私たちも、今、生きています。
 つまり、旧約聖書では天地創造・罪の混入から始まり、長いイスラエルの歴史が語られています。そして、キリストが来臨され、十字架の御業を成し遂げ、そして天に昇られました。その時から新約・終末の時代が始まりました。しかしキリストの再臨と最後の審判・神の国の完成はまだ訪れていません。つまり、私たちは、今、キリストの再臨を待ちわびる終末の時代に生きています。そして終末の時代、私たちキリスト者は、信仰の故の迫害・虐げも避けて通ることができません。
 つまり、キリストの再臨と終末を待つ新約の時代であることに変化はありません。だからこそ、2000年前に記された新約聖書は、直接的には使徒の時代の人々に記された言葉ですが、同時に現在に生きる私たちに語りかけている言葉となります。

Ⅱ.「改革派教会」を建てる
 聖書は繰り返し聖書に立ち帰ることを求めます。「宗教改革」です(ネヘミヤ8:1-12、主イエスの宣教)。主イエスは、律法主義化し、信仰が形骸化していたイスラエルに対して、御言葉の回復を求められました。また16-17世紀にも宗教改革が行われました。私たちの教会は、「ルター派」のように「カルヴァン派」とは名乗らず「改革派」と名乗るのは、「御言葉において、改革され続ける教会」であることを表明しているからです。
 ですから「御言葉に聴く」ことては、聖書の時代から繰り返されてきていることであり、変更する必要はありません。私たちの教会が「改革派教会」を名乗り、「宗教改革」を常に覚えつつ、「原点回帰」を行うことが求められていることを忘れてはなりません。
 そして、改革派教会として、神の国における教会を、ここに見える形にして形成することを、私たちは願っています。創立宣言では、見える教会を形成するために、3つのことを挙げています。
 ①改革派信仰に基づく信仰告白(ウェストミンスター信仰規準)
 ②長老主義に基づく教会政治    ③救いの感謝と喜びにおける善き生活

Ⅲ.これからの教会の在り方
 改革派信仰に基づく信仰告白については、語り続けていますので、この講演では、「長老主義政治」としての教会政治を行っていることを確認したいと思います。
 教会政治ということでは、下記の3つに分けられます。  ①長老主義
 ②監督主義(カトリック教会、聖公会等)  ③会衆主義(福音派教会等)
 長老主義は、牧師と教会において選出された治会長老において代議員制において教会を治めます。それは主から託された働き人として教会において任職されます。そのため、教会における決定は、会員の意見も伺い、一致を保ちつつ教会運営を行いますが、特に会員の試問等においては、小会が全責任をもって決議することとなります。
 また長老主義政治は、会議の段階制を採用します。小会・中会・大会に分かれていますが、「中会主義」という言葉が語られます。各個教会でできないことであっても、中会の教会が集まることにより行えることがあります。キャンプや婦人会・執事会・長老会が、中会等において行われるのは、そのためです。何でも各個教会で行うことは、効率が悪く、また力を発揮することができません。
 また中会の働きとして、「共同牧会」を挙げることができます。今の時代、私は、改めて「共同牧会」を顧みることが大切かと思っています。今の改革派教会は長老主義を採用していますが、各個教会主義に近いと言わざるを得ません。中会、特に地区(埼玉東部地区)において交わりを深め、互いのことを知り、足りない所を補い合い、助け合う関係が必要かと思います。それは牧師の賜物も十分ではなく、各教会で困っていること、解決できないことも、中会・地区のレベルで解決することができるからです。あえて各教会の責任にとどめるのは、力を弱める結果を招いているかと思います。

 そして今の時代について私たちは顧みなければなりません。大宮教会は、比較的子どもたちが多い教会ですが、青年層が少ないです。そしてどこの教会においても、子どもたち・青年層が少なく、高齢化しています。このことは、牧師になる人たちが減少していることと比例します。そして、定住の牧師を欠く無牧の教会が増えてきております。埼玉東部地区においても、現在は7教会に7名の牧師がいますが、近い将来、私は、2人または3人の牧師で7つの教会を牧会することを覚悟しなければならないと思っています。こうしたことは埼玉東部地区の教師会が率先して考えなければならないことですが、合同小会を定期的に行い、礼拝(説教者の手配)や会員の牧会が行える体制を早急に整えなければならないと、私は思っています。このことは牧師だけの問題ではありません。こうした体制になると、私自身が大宮教会の牧師として、大宮教会を中心に活動することに変わりはありませんが、今までと同じような時間をとることができなくなります。こうしたことを長老たち・そして信徒の皆さんに理解していただかなければなりません。大宮教会が、教会として成長したとしても、周囲の教会・信徒が充分に信仰生活を歩み、成長しなければ、改革派教会として真に教会として成長していくことはできません。
 新約の時代・終末の時代を歩む教会として、順風満帆ではなく、困難な道を歩まなければならないことを、ご理解いただきたいと思います。
 
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 クリスマス「メシア誕生の予告」 ルカ福音書1章26~38節     2022.12.18
 
Ⅰ.永遠の神の御計画
 クリスマスと言えば、多くの方は2000年前のキリストの誕生を思い浮かべます。確かにクリスマスに起こった出来事はその一点に集中するのであり、受胎告知もその直前に行われたことです。しかし私たちが忘れてはならないことは、旧約聖書における歴史とそこにおける主なる神の約束が、キリストの誕生によって実現したという事実です。
 皆さんは、旧約聖書において最初に、キリストが指し示されたのはどこであるかご存じでしょうか? 最初の罪、つまりアダムと女が善悪の知識の木の実を食べて、罪が混入したときです(創世記3:14-15)。「彼はお前の頭を砕き お前は彼のかかとを砕く」。ここで出てくる彼こそがキリストを指し示しています。サタンである蛇がキリストを十字架に架け、かかとを砕きますが、キリスト復活により、蛇であるサタンの頭を砕き、勝利を遂げてくださいます。そのため、最初の福音「原福音」と語られています。蛇に勝利を遂げてくださるために、キリストは人としてお生まれくださいました。
 そして、主なる神は預言者ナタンによりダビデにメシアを預言してくださいました(サムエル下7:11~13,16)。そして預言者によりメシア預言が行われていきます(イザヤ9:5~6) 。マリアに与えられる主なる神からの恵みは、このように旧約聖書において預言されてきた主からの恵みが、マリアによって実現するということです(32)。
 そして「彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない」(33)。「ヤコブの家」と唐突に出てきますが、アブラハムにつながるイスラエルのことであることを、この手紙を読んでいた人々は知っていました。マタイは、「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」と語り、福音書を始めます。旧約において、主なる神がアブラハム、とイスラエルを選ばれたのは、メシアであるイエス・キリストにつながることが大切です。キリストこそが、永遠にヤコブの家を治め、霊的なイスラエルとしてのキリスト教会を治められます(参照:ローマ書9-11章)。つまりマリアの子としてお生まれになるキリストは、旧約の時代から新約のキリスト教会の時代わたって、統治し、支配が及びます。

Ⅱ.三位一体なる神の御業
 そして天使は「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む」(35)と語ります。マリアから生まれてくるメシアが、旧約の最初から教会の時代、そして終末において世界を統治されていることを、聖霊が指し示しています。つまり、主(父)なる神の御計画が、御子イエス・キリストによって実現し、聖霊によって私たちに指し示されています。ここに、御父・御子・御霊なる三位一体としての主なる神の御働きを顧みることができます。
 聖書は常に三位一体なる神の業が語られており、その中心にキリストがおられます。創世記の最初、主なる神は、神の霊がただよう中、御子が「光あれ」と言葉を発することにより、天地創造が始まります。そして、神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう」(創世記1:26)。お一人である神が「我々」と語られています。人は、父・子・御霊なる三位一体の神にかたどり、神に似せて造られました。そして人は、三位一体なる神の交わりに加えられ、恵みのうちに生きるものとされたのです。
 しかし人は罪を犯し、神との交わりが断たれ、滅びの道を歩みます。誰一人、神の生命に生きることはできません。しかしマリアにキリストの誕生が予告されたとき、聖霊により、キリストとの交わりを回復してくださいます。いと高き方の力があなたを包みます。マリアに与えられた祝福は、今聖霊によりキリストが指し示された私たち一人ひとりに語りかけられています。キリストが人としてお生まれになったのは、十字架に架かり、死を遂げ、陰府に下り、その上で、サタンに勝利され、主の御力が世界に示されるためでした。創世記で示された原福音が、キリストによって成就します。キリストを受け入れ、キリストの十字架の御業を信じる者に、三位一体の神との交わりが回復し、天国における永遠の生命と祝福が与えられます。これこそが、主が人を創造されたときの恵みの回復です。
 キリストの十字架の御業はすでに完成しました。そしてキリストが再臨されるとき、世界中で苦しみの中に置かれている人たち、戦禍・迫害・飢え・艱難の中にある一人ひとりが主の恵みに満たされ、苦しみが取り除かれ、喜びに生きるものとされてます。私たちがキリストが御降誕されたクリスマスをお祝いするのは、まさに罪の故に滅び行く体が、キリストの御業により、神との交わりを回復し、永遠の生命が与えられたからです。
 
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 みなさん一緒のクリスマス「マリアの讃歌」 ルカ福音書1章46~55節    2022.12.18
 
序.
 嬉しいですね。3年ぶりにみなさん一緒のクリスマスを行うことが許されています。毎年、当たり前に行えてきたことが、当たり前ではなく、平和な時代だからこそできる神の恵みであることを、私たちは忘れてはなりません。

Ⅰ.突然訪れた受胎告知
 皆さんは、救い主イエスの母となるマリアが受胎告知を受けたとき何歳位であったか、ご存じでしょうか? ヨセフと婚約をして、これから結婚を控えていた頃です。おおよそ13~14歳と言われています。マリアが天使ガブリエルから受胎告知を受けたのは、突然の出来事でした。最初マリアも戸惑いました(29)。それでもなおマリアは主を信じており、このとき「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と語りました(38)。とは言っても、結婚もしていない女性が赤ちゃんを産むとなると、姦淫の罪で裁かれるかもしれません。どうなるかと非常に心配もあったことでしょう。
 しかし、親類のエリサベトも高齢でしたが、子どもが生まれるということを聞きました。そのためマリアはエリザベトの所に行きます。エリザベトは、神が子どもを授けてくださったことを知っており、またマリアから救い主がお生まれになることも知っていました。そのためマリアはエリザベトに受け入れられ、主から与えられた恵みが増していきました。

Ⅱ.感謝の応答として生み出される讃歌
 そうした状況の中、讃歌が歌われます。聖書に記されている讃歌は、フレーズが残っていませんので、どのようなメロディーだったかわかりません。しかし、感謝の応答が、歌として心の底から湧き出てきたと言って良いのではないでしょうか。
 ここでのマリアの歌は、私たちが普段歌う歌とは違います。つまり、私たちが歌を歌うとなれば、自分の感情が歌に出てきます。しかしマリアの喜びは、神を誉め称えています。つまり神を崇める「讃歌・讃美」と私たちが自らの感情を歌う「歌」との違います。

Ⅲ.主の御前に遜りによって生まれる讃歌
 マリアは「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます」(46)と告白したのち、「身分の低い、この主のはしためにも 目を留めてくださったからです」と告白します(48)。自分という存在を絶対視することなく、世界を創られた方、世界を治められる神の御前に遜りが語られます。マリアは、自分で生きるのではなく、主の支配に生きています。
 マリアはカトリック教会を始め、崇拝の対象とされていますが、主なる神がお与えくださった恵みであって、マリア自身が罪がないからでも、素晴らしいからでもないことを、マリア自身が告白します。「今から後、いつの世の人も わたしを幸いな者と言うでしょう、力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから」(48b-49a)。
 さらにマリアは、「その御名は尊く、その憐れみは代々に限りなく、主を畏れる者に及びます」(49b)と歌います。マリアは、救い主(メシア)の母となる喜びに与り、このメシアによって主を信じる人に救いが与えられることをはっきりと理解していました。
 51「主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、
 52 権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、
 53 飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます」。
 主なる神は御力を持っておられます。このとき、権力のあること、富めること自体が裁きの対象となるのではありません。主の御力にひれ伏し、主なる神を信じて,与えられた権力・富をふさわしく用いるならば、決して裁かれる対象とはなりません。
 ここで大切なことは、マリアのごとく、主の御前にあって小さな者であること、罪人であることを受け入れ、主の御前にひれ伏すことです。そうすることにより、主からの恵みが与えられ、救いの祝福に満たされます。しかし、自らの権力・富におごる生活をする者に対して、主の裁きがもたらされます。
 マリアによって誕生したイエス・キリストが、十字架に架かられ、肉の死を遂げられますが、死・罪・サタンに打ち勝たれました。その結果、主を信じ、主の御前に遜る者に救いと天国の祝福が約束されています。マリアがこの喜びに満たされて讃歌を歌ったように、私たちも引き続き、クリスマスを喜び、主を賛美して頂きたいと願っています。
 
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 クリスマス「メシアの誕生」 ルカ福音書2章1~7節     2022.12.25
 
Ⅰ.神が人となられた!
 日本では今年、宗教2世の問題が発生し、「信仰とは何か?」、「何を信じているのか?」が注目されました。「キリスト教とは関係のないこと」と思っておられる方もいるかと思いますが、他人事であってはなりません。キリストの十字架による罪の赦しと救いを信じていれば良いのですが、家族と共に教会に来ている人たちの中には、「キリスト教と統一協会とは何が違うのか?」といった疑問すらあるのではないかと思っています。
 特に日本では、オウム真理教のサリン事件(1995年)があり、それ以降、「宗教」に対するアレルギーがあります。「宗教」=「自分には関係ない」、「危ない世界」というイメージがあります。これは私たちの「宗教」が「生活」とは区別された所にあるからです。
 しかし私たちキリスト者は、信仰と生活を分離した二元論を否定します。教会に来ているときだけ、礼拝し・聖書を読み・祈っているときだけがキリスト者であり、他のことを行っているときは「別人」ではありません。改革派教会は、「有神論的人生観世界観に生きる」ことを創立宣言で告白します。神は常に私たちと共にいてくださり、働いてくださいます。だからこそ主は、「あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい」(Ⅰコリント10:31)と語られ、またいつでも主に祈り求めることが赦されています。生活と信仰が区別された二元論になってはなりません。
 「ブッタが悟りを開いて仏教として発展した」、「麻原彰晃がオウム真理教を始めた」、「文鮮明が統一協会の教祖となった」と語られます。しかし人が神をつくり教祖となったのではなく、主なる神が人としてお生まれになられたのです(ルカ2:1-7)。ですから聖書は、神が天地万物を創造されたこと、人を神のかたち神に似せて創られたことを語ります。主の大いなる支配の中に私たちが生きているのであり、一人の人間が救いを求めるために宗教を作ったのではありません。この主なる神が人としてお生まれになりました。ですからウェストミンスター小教理問27は、キリストが謙卑したと告白します。「謙卑」とは教会用語になっているかと思いますが、中国語から来ています。本来、神である方が、低い状態に遜り、人としてお生まれになられたのです。キリストは、世界を支配する王として誕生されることなく、世に翻弄された中でお生まれになりました。

Ⅱ.人々の苦しみと共に歩まれたメシア
 当時、イスラエルを支配していたのはローマは、支配のために税を課すために人口調査を行います。人口調査は、権威の象徴であると言っても良いかも知れません。
 ヨセフとマリアも住民登録をするためにベツレヘムに向かいます。住民登録をするだけであればヨセフ一人が行けばすむことです。しかし身重であるマリアも同行します。なぜならヨセフとマリアは、まだ正式に結婚が成立していませんでした。そうした中マリアは聖霊により身籠もりました。イスラエルでは、姦淫の罪で捕まる危険性があります。そのためヨセフはマリアを守るため一緒に旅に連れて行かざるを得ない状況にあったのです。
 ここには、世界を創造し万物を支配しておられる強い力はなく、社会において権力者に翻弄され、ユダヤ社会で律法による裁きに脅えつつ生きている若い夫婦から、救い主がお生まれになりました。つまり、私たちをお救いくださる救い主は、私たち一人ひとりの人生(行い・言葉・心)のすべてをご存じであるばかりか、私たちの持っている弱さ・苦しみ・悲しみすらも、ご自身の体験により知っておられ、受け入れてくださるお方です。だからこそキリストは、道ばたで追いはぎに襲われ苦しんでいる人を見殺しにされることはなく、目の見えない人に見える目をお与えくださいます。

Ⅲ.罪と悪に勝利を遂げられるキリスト
 しかしキリストはすべての危険から守られます。つまり主イエスは、社会に翻弄される一人の弱い人間としてお生まれになっただけではなく、同時に神の御子であり、三位一体の主なる神であり、主なる神の加護に置かれています。そしてキリストは私たちをすくうために、十字架の御業を成し遂げてくださいました。
 多くの人が、「自分とは関わりがない」、「遠くの国の話しである」と思っています。しかし、キリストは今も天に臨在されています。そして聖霊をとおして私たちと共に歩んでくださっています。苦しんでいる人たちと共にいてくださいます。そして再臨されるキリストは、すべての罪を明らかにされて裁き、苦しみの中キリストを信じる者に罪の贖いと救いを与えくださいます。主を信じ、希望をもって歩み続けて行きたいと思います。
 
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標語説教「キリストとの交わり、聖徒の交わりに生きる教会」 Ⅰヨハネ3章  2023.1.29
 
Ⅰ.今年の標語
 毎年、会員総会を行う日の礼拝においては、その年の標語・聖句から、主の御言葉に聴いております。今年の標語は、「キリストとの交わり、聖徒の交わりに生きる教会」です。
 この標語は、二つのことを念頭に決めさせていただきました。第一に私たちは、コロナ禍にあって信仰が問われ、主なる神の御前に生きるとはどういうことかが問われています。そのため、2021年は「今を、神の御前に生きる」(ローマ11:36)、2022年は「主の支配に生きる- 謙遜と自己否定によって」(エフェソ5:22-23)と定めました。コロナ禍にあって、神との関係を回復することを確認してきました。その延長線上に、隣人との関係の回復があります。直接会い、隣人を愛し、隣人を知ることの大切さを確認したいのです。
 そしてもう一つ、今年は大宮教会が、東部中会の連合執事会の当番教会、埼玉地区連合婦人会の当番教会となり、聖徒の交わりを大切に考えて行きたいとの願いがあります。

Ⅱ.神によって愛された私たち
 神の御前にキリスト者として生きることから始まりますが、その源は父なる神の愛にあります(1)。主なる神は私たちのすべてをご存じです。そして罪の故に滅びゆくことを悲しんでおられます。そのため父なる神は、御子であるイエス・キリストをこの世にお送りくださいました。そしてキリストは私たちが救われるために、私たちが担わなければならない罪の刑罰として十字架の死と復活を成し遂げてくださり、死・罪・サタンに勝利してくださり、その結果私たちは、罪が赦され、神の子とされ、永遠の生命が与えられました。
 神を知らない人たちは、イエス・キリストを救い主として信じることはありません。しかし主は、父の愛と御子の十字架の贖いを、御言葉である聖書により、聖霊の働きによって、私たちに提示してくださいました。その結果私たちは義と認められ、神の子とされ、聖化の道を歩んでいます。このとき私たちは罪を悔い改め、信仰を告白する者とされます。
 このとき私たちは、神の義・聖・真実に従って生きようとする者へと変えられ、神を愛し、(時間)神を礼拝し、(賜物)神のために奉仕し、(財)神に感謝の献げ物を行います。キリストの再臨と神の国の完成が約束されているからです(2b-3)。そしてここに向かうために、私たちはキリスト者として、キリストに倣う生活、良き行いへと促されていきます。このことが、昨年の標語にあります謙遜と自己否定によって主の支配に生きることです。
 このⅠヨハネ3章を読むとき注意しなければなりません。神に愛され、神を愛するキリスト者は、まったく罪を犯さないようになるように読み取ることもできるかと思います。しかし私たちキリスト者は、罪赦された罪人であり、世の生活を続けていく中、日々行い・言葉・心の中で、なおも罪とされることを繰り返します。ただ罪を積極的に行うことはなくなり、神の義・聖・真実に従って生きようとする中で罪が表れます。「罪を犯す者」(4,8)とは、神を知らず、神を信じることなく、積極的に罪を犯す者のことです。

Ⅲ.隣人を愛するために
 私たちが神によって愛されたとき、神は私たちのすべてを知ってくださいました。同様に私たちが隣人を愛する時、隣人のことを知らなければなりません。相手のことを知らなければ、愛することなどできません(10-11)。直接会い、人格的な交わりが大切です。その上で、謙遜と自己否定をもって相手を尊重し、愛し、受け入れることが求められます。
 また神の愛により、御子が私たちのために命を捨ててくださいました(16)。愛することは自己犠牲が伴い、行いが伴います(17-18)。金持ちの青年(マタイ19:16~22)は、隣で苦しんでいる人たちを愛することができず、行動に移すことができませんでした。
 教会における対外献金(聖恵授産所、静岡盲人センター、東日本大震災支援等)は、隣人愛をもって献げており、皆さまも覚えて献げて頂ければと願っています。
 また今年は、一歩前に進む決断をして頂くこととなります。埼玉東部地区7教会の内、東川口・せんげん台教会は、経済的困窮が続いています。大宮教会としては、同じ地区に属する教会として、この事実を受け止め、行動の移そうとしています。将来的なことは、埼玉東部地区において同意形成することが求められますが、大宮教会としては、東川口・せんげん台両教会、特に牧師家族の給与が非常に少ないことを覚えて、両教会に援助を送ることを決議して頂こうと願っています(17-18)。
 標語は一年間掲げていれば良いのではなく、実際に、標語を目指して自らの信仰を顧み、行動することが求められます。今年一年、共に考え、実行して行きたいと願っています。

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「いつでも神の恵みに生きよ!」 イザヤ書56章  2023.3.19
 
Ⅰ.第三イザヤと現在
 イザヤ書66巻は第一イザヤ(1~39章)、第二イザヤ(40~55章)、第三イザヤ(56~66章)に分けられます。イザヤは、バビロン捕囚前の預言者であり、第一イザヤでバビロン捕囚が預言されますが、第二イザヤでは捕囚からの解放、さらに第三イザヤではエルサレムの回復と異邦人の救いが終末に完成する神の国を見据えて語られます。第二イザヤ・第三イザヤを語る時、別々の執筆者がいたと言われますが、今日はそうした議論は行いません。これから主による裁きとして捕囚が予告され、悔い改めが求められている民に対し、主は捕囚からの解放と異邦人の救いが預言されていることを、私たちは覚えなければなりません。
 2023年の日本に生きるキリスト者である私たちは、教会が小さくなる・弱くなる時期を歩んでいます。そのため私たちは、イザヤ書56章以降を読むことにおいて、キリストの再臨と神の国の完成をはっきりと見据えて歩むことが求められています。
 私たちは自分自身の信仰、今の教会の姿を顧みることが求められます。個人においても、教会・中会においても、「現状維持」を求めていては未来に希望はありません。今まで行ってきた教会形成・集会がなぜそのようなことを行ってきたのか、その意義・理由を確認しつつ、次のことを考えなければなりません。その意義・理由を顧みることなく、今までのことを継続するだけであれば、苦しみや虚無感が襲いかかります。連合執事会、中会青年会、埼玉県合同婦人会などは、どのようにすべきか、対応することが求められています。
 また埼玉東部地区の交わり、教会の在り方についても同様です。無牧になったから「誰か代理牧師をお願いします」、伝道所になるから「どこかの教会の所属にしてください」と願い出るような場当たり的なことを行っていれば教会も信徒も苦しいだけです。地区としてどのように対応するのか、全体で話し合い、方向性を確認しておくことが必要です。そうすることにより問題が生じたときにも、次の手を打つことができるようになります。

Ⅱ.苦しみの先にある光を求めて主を礼拝しよう!
 ここで御言葉に聴きたいと思います。「正義を守り、恵みの業を行え。わたしの救いが実現し わたしの恵みの業が現れるのは間近い」(1)。教会の現実は苦しいです。それでもなお、主はその先にある救い・神の国が訪れる恵みをはっきり見るように語ります。預言者の目には、捕囚の苦しみの先にある、神の国がはっきりと見えています。
 続けて預言者は語ります。「いかに幸いなことか……安息日を守り、それを汚すことのない人」(2)。周囲が罪に満ち、教会も弱ってきている時代にあっても、主なる神を礼拝する、このことを第一にすることを、主は求めておられます。
 続けて宦官について(3-5)、異邦人(6-7)について言及します。周囲がどのように変化し、教会が小さくなろうとも、主は御子の十字架の贖いにより、私たち一人ひとりに恵みの契約により、罪の赦しと永遠の生命を約束してくださっています。だからこそ、どのような状態においても、主の御前に礼拝を献げることが求められています。
 教会所属の伝道所になることは、教会が伝道所に集う神の民に神礼拝を保証することです。地区において話し合うのも、地区に集う教師が、現在7つある教会の教会員に対して、礼拝の保証を行うことです。それは、今まで通り、朝に説教者が与えられ礼拝するのか、午後の礼拝になるのか、インターネットを通じての礼拝になるのか、週の間の日に礼拝を持つのか、方法はあります。すべての人の希望が叶えられることはないかと思います。それでもなお、礼拝が継続され、神の御国に入れられる希望に生きることができる、このことが地区の7つの教会のすべての教会員に保証される必要があると、私は考えています。

Ⅲ.主がお与えくださる希望に生きる
 最後に8節の御言葉に聴きます。イスラエルの民は、北イスラエルがアッシリアに滅ぼされ、南ユダがバビロンに滅ぼされ、捕囚の民となります。そして多くのユダヤ人たちは散らされ、またサマリア化していきます。捕囚の民とされ、なおも神の恵みに生きた者は「残りの者」と呼ばれ、わずかでした。残りの者として信仰を継続することが大切です。
 しかし主なる神は、この散らされたイスラエルの民を集めるとお語りになります。それがキリストの十字架と復活・昇天によってもたらされたペンテコステの日に実現します。そして終末の時代に実現します。小さな群れであっても新しい人が集まり、洗礼を授かる方が与えられます。今の現実を嘆くのではなく、主がお与えくださる神の御国に希望しつつ、信仰生活を続けていきたいと思います。
  
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「預言されていた苦難」 詩編22編  2023.4.2
  
 序.
 神の御子は、人としてお生まれになり、キリストを救い主として信じる私たちのために、十字架の苦しみを負われ、肉の死を遂げ、葬られ、陰府(よみ)に下られました。そして三日目の朝、甦り、死・罪・サタンに勝利を遂げ、キリストを信じる私たちに救いをお与え下さいました。キリストの十字架は、キリスト教信仰の中心・真髄です。
 今週と来週、二つの詩編より、主の救いの御業は、旧約において預言されたことが、キリストの御業により成就し、さらに旧約・新約における約束が、キリストの再臨に伴う最後の審判と神の国の完成により成就することを、確認していきたいと思います。

Ⅰ.主なる神と肉をとった御子イエス・キリスト
 詩編22編は表題で「ダビデの詩」と語られています。しかしこの詩編は、キリストの十字架に対して、ダビデが預言者として告白していると語って良いかと思います。
 2節は、主イエスが十字架の上で最後に叫ばれた言葉です(マタイ27:46)。御子であるキリストと、父なる神との関係が、遮断したのかと思われます。
 主イエスご自身は、ゲツセマネの祈りにおいて、ご自身が神の民を救うために十字架の道を歩むことを受け入れています(マタイ26:39)。それでもなお、十字架で苦しまれるキリストは、父なる神との関係が遮断されたのごとくに叫ばれます。キリストでさえ耐えがたい苦しみを担われています。
 神との絶対的な信頼関係にあった(4-6)キリストが、主から見捨てられます(7-9)。

Ⅱ.キリストの十字架とは……
 キリストは神の御子ですが、クリスマスに人の子としてお生まれになり、肉の苦しみを担って生きてこられました。そのため、肉の死と恐怖に脅えられます(13-16)。そして肉に死に、滅ぼされ、朽ちていく状況を詩編の作者は16節で語りますが、主イエスは十字架において一言「渇く」(ヨハネ19:28)と語り、息を引き取られます。ここに神に見捨てられ、肉の死を遂げ、陰府に落とされる虚無の世界、敗北感が漂います。
 死を迎えた御子に対して、勝利を遂げて喜び、敗北者の遺体にさらなる恥辱を与え、敵対者・サタンの愚かな姿が露わになります(参照:マタイ27:35)。
 キリストの十字架を顧みるとき、多くの人はここで終わってしまいます。そして神を知らない多くの人たちにとり、肉の死はにより、すべては終わります。やがては後世の人たちから忘れ去られ、コヘレトの言葉によれば、「空の空」と嘆きます。これが、私たち人間の本来の姿です。

Ⅲ.死に勝利を遂げておられる主なる神
 しかし神と共に歩んできた者にとって、肉の死は、すべての終わりではありません。永遠から永遠に生きておられ、すべてを支配しておられる主なる神は、死を遂げた者に生命を与える力を持っておられます。そして主は、苦しみの中、誰一人助けてくれない中、なおも神を求め、救いを求める民に対して、その苦しみ・嘆きの声に耳を傾けくださいます。神は共におられ、助けてくださいます。その確信・信仰が与えられます(20-22)。神の支配の中にあり、肉の死で終わりではない、神が働き、苦しみから助け出してくださる、この信仰こそが、キリスト者として生きる力が与えられます。

Ⅳ.御国の完成への約束も成し遂げられる
 苦しみの中にあって、なおも主に救いの祈りを献げることができるとき、主なる神の御力が示され、勝利を遂げることの確信が与えられます。だからこそ、まだ敗北者の姿の中にあるときに、すでに勝利をお与えくださる主なる神を讃美し、誉め称えることができます(23-24)。そして主への讃美に溢れ、喜び満ち溢れています(25-27)。主を信じる私たちは、このようにどれだけ苦しみの中に置かれても、主が勝利を遂げ、救いへと導いてくださることを信じているため、苦しみの中にあっても、喜びに満ち溢れる言葉を語ることができるのです。
 権力・人々を従える力は、国を治める政治家・為政者に委ねられているように思われますが、主なる神こそが王の王、主の主として、世界の国々を支配しておられます。すべての者が、主の御前に跪き、主の御声に聞くことが求められています(28-29)。
 このキリストを私たちの救い主として信じるとき、私たちは、日々の様々な艱難にあったとしても、なおもキリストにある死・罪からの勝利が与えられ、神の国における祝福が約束されています。
 だからこそ、私たちはどのような時にも、主による救い・主による勝利を信じ、周囲の人々、そして次の世代の人たちに、喜びをもって証し・伝えていくことができるのです(31-32)。
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 「預言されていたキリストの復活」 詩編16編  2023.4.9
  
序.
 キリストの十字架における苦しみと死を覚える受難週を経て、今日、キリストが死から三日目の朝に甦られたイースターを迎えました。4福音書には、キリストの十字架の歩みと死からの復活、さらには昇天までが語られています。しかし今日は旧約聖書の御言葉に聴くこととしました。つまり、キリストの十字架は、人間の最初の罪の時から定められ、御子の御降誕に始まり、キリストの宣教・十字架の御業により成就するという聖書全体を理解しつつ、ここにある十字架の死と復活の重要性、恵みを確認して行きたいと願っています。

Ⅰ.詩編の背景
 前回の22編では、主がダビデに預言をし、それが詩編として語られていることを紹介しました。一方この16編は、ダビデ自身の神にすべてを委ねる信仰の詩を通して、キリストの復活が預言されます。
 ダビデは苦境の中に置かれています(1)。ダビデは、サウル王に命が狙われていたこともあります。この詩編がその場面であるか断定できませんが、いずれにしてもダビデは今、生命の危機の中に置かれています。

Ⅱ.ダビデの信仰
 そうした中、ダビデの確信に満ちた信仰が告白されています(2)。ここに心の揺れはありません。生きて働く主の存在を信じ、主によってもたらされる救い・永遠の生命の確信が告白されています。
 「ほかの神の後を追う者」と語りますが、偶像を作る者、偶像に仕える者に人を救う力はありません。主の恵みは、御父・御子・御霊なる三位一体なる神を、救い主と信じる者にのみ与えられます。
 この世を支配する者は、人々を虐げ、自らの欲望を満たします。他者の土地を侵略し、領土を広げます。迫害・虐待・戦争の最中にある人たちは、土地が奪われ、破壊される最中に立たされます。そのとき神はどこにおられるのか。本当に神は救ってくださるのかと、嘆きの声を挙げます。
 しかしここでダビデは、苦しみの最中ですが、不安や神への不満はありません。主なる神は、私たちに備えられた麗しい地、輝かしい嗣業の地をお与えくださることに、揺るぎない確信を持っています(5-6)。
 ダビデは礼拝を通じて、主なる神との豊かな交わりが与えられており、主の御力がはっきりと示されています。礼拝では、主の御言葉の解き明かし、聖徒の交わり、そして主の晩餐の礼典、祈りにより、私たちの信仰は養われていきます(参照:使徒2:42)。

Ⅲ.天国における祝福の約束
 そしてダビデは、救いの喜び、つまり神の御国における祝福が示されています(8)。信仰は、心の問題ではありません。神の国、つまり天国に入れます。このときに私たちは主なる神と相対します。主の晩餐は神の国の晩餐の前味です。そこにはすべてのキリスト者が一同に集まり、主を誉め称えています。これがどれだけの祝福でしょうか。
 だからこそ、ダビデの心は喜び、魂は躍ります(9)。永遠から永遠に生きておられる主なる神の御前に集められるのであり、私たちの喜びも永遠に継続します。
 そしてキリストの十字架の御業により、主を信じる私たちはもう陰府に下ることはありません(10)。キリストは死・罪・サタンに勝利を遂げてくださいました。苦難・病気・迫害・戦争といったこの世における苦しみは、キリストの死と復活により、すべてが滅ぼされ、そしてキリストが天から再臨され最後の審判により、完全に息の根が止められます。だからこそ、私たちは、死に対しても、様々な苦難に対しても、もう恐れる必要ありません。
 そのため永遠の生命の喜びに信仰生活を送ることができます(11)。生きている時だけではなく、死を遂げたときも、この喜びは継続します。ダビデに与えられた信仰の喜びが、今、私たちに示されています。

Ⅳ.ダビデの詩をキリストの復活として聴いた使徒たち
 このようにダビデに与えられた信仰の告白は、キリストの復活の預言でもあったことを、ペトロは証しします(使徒2:22-33)。
 ダビデが救われ、天国の姿を預言したのですが、これはキリストが死から甦り、天に昇られた状態の預言であると、ペトロは証しします。
 ダビデにより、キリストの十字架における死からの復活と昇天が預言されたように、私たちには、天国における祝福が約束されています。このことをダビデはすでに確信をもって喜び、そして今に生きる私たちにも示されています。キリストが再臨されたとき、神の国(天国)が与えられます。命の道、天国の祝福をお与えくださる主なる神を信じて、喜びの人生を歩んでいただきたいと願っています。
 
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 2023年クリスマス「平和の王の到来」 イザヤ書11:1~10  2023.12.17 
 
序.
 南北に分かれたイスラエルに対して、主は預言者イザヤを立て、罪を悔い改めよ、さもなくば滅ぼすとの預言が語られています。9~10章では、民衆が主の御言葉に聴かないばかりか、長老や尊敬される者・偽預言者、さらに裁判官も罪に満ちていると主は警告します。イスラエルの民は、口では神を信じると語り、形において神に礼拝を献げていますが、実態は偶像を崇拝しており、主の裁きを逃れることができません。

Ⅰ.エッサイの「切株」
 そうしたメシアである神の御子イエス・キリストが約束されました(9:5)。この約束のメシアがどのような状況において誕生するのか、今日の御言葉で語られています。
 「エッサイの株」(11:1)と語ります。エッサイはダビデの父です(サム上16:1、マタイ1:6)。エッサイという名には、「軽蔑・貧しさ」があります。
 つまり、軽蔑されていたエッサイの家は、木が切り倒された状態になり、もう後はない状態に思われていました。まさにイザヤが預言している当時、北イスラエルがアッシリアによって滅ぼされ、南ユダも同じように主の裁きがもたらされていました。
 イスラエルは主の裁きとして、アッシリアに戦争により滅ぼされます。これが「切株」と語られる理由です。

Ⅱ.切株から萌え出でるメシア
 北イスラエルがアッシリアによって滅ぼされるとき、南ユダにはわずかなが残され、国が滅びることはなく守られました。しかしこの後、南ユダもバビロンにより滅ぼされます。国としては完全に滅ぼされ、壊滅状態です。しかし、一部の民は捕囚の民とされ、生き延び、そして信仰を守ります。そして70年後に、エルサレムに帰還することが許され、エルサレム神殿を再建します。これこそが、「ひとつの芽が萌えいで」ることです。そして、捕囚の民とされた者の中から、ダビデの子として神の御子イエス・キリストが与えられます。
 キリストは、常に「主の霊がとどまって」います(2)。そのために、周囲の状況、つまり偶像礼拝・腐敗・力による支配に左右されることはありません。そして主なる神は、イスラエルの民に、目の前にある現実・恐れに左右されることなく、生きて働く主なる神を畏れ、主の御言葉に聞き従うように語ってきました。正義をもって人々を裁き、不正な裁判官にもなりません(3)。

Ⅲ.
 このように神の義が貫かれることにより力の支配により虐げを受け、何もできず、死の恐怖に脅える者に、裁判で勝利が告げられ、主の助けが与えられます。そして、力による支配、不正、腐敗、生活の乱れは、取り除かれていきます。
 2700年前に預言された言葉は、2000年前にイエス・キリストがお生まれになることにより成就します。そしてイエスは、インマヌエル。「神は我々と共におられる」と語られました(マタイ1:23、イザヤ7:14)。
 キリストは十字架の死と復活を遂げ、天に昇って行かれました。天にあるキリストは、今なお私たちと共にいてくださいます。主イエスにより、不正が取り除けられ、虐げられている人たちに希望が与えられます。
 今なお、力ある者たちが世を支配し、不正がはびこり、弱い人たち・貧しい人たちが虐げを受けています。しかし、インマヌエルであるキリストを信じるとき、主の霊に満たされ、神の国において、弱い者・貧しい者たちが受け入れられる祝福に希望を見いだすことができます。同時に正義であるキリストが、罪人である私の罪を赦してくださったように、隣人の罪を赦し、互いに和解することが求められています。
 私たちは、身近な人々と交わり・意思疎通を行い、和解と平和を実践しなければ、地域社会・国家間へと広がりを見せることなどあり得ません。

Ⅳ.主が平和を実現してくださる!
 そして、キリストにおいて真に平和が実現するとき、世界の間で行われている争い・戦争はなくなります(6-9)。
 今、世界の各地で独裁者による支配と共に自由が奪われ虐げ・迫害を受けている民がいます。そして問題は解決しないのだろう、と諦めの気持ちが湧いてきます。
 しかし、力と権威を持っておられる主なる神が私たちと共におられます。その御力は為政者にも及びます。主の御力が為政者に示され、虐殺・虐げを終わらせ、悔い改めと和解・平和を実現するように、主の御業に委ねることが求められています。
 私たちキリスト者は、キリストの再臨と神の国の完成の時を目指し、エッサイの根であるキリストを旗印とし、主による栄光に満たされる希望を持って歩み続けます。
 
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 2023年みなさん一緒のクリスマス「あなたと共におられる神」 マタイ1:18~25  2023.12.17 
 
序.
 クリスマスおめでとうございます。昨年も行いましたが、何の気兼ねもなく、通常の状態で行うのは、4年ぶりとなります。

Ⅰ.交わりが断たれることによって
 3年間のコロナ禍が過ぎ、人と出会うこと、交わることが、如何に大切なことであったのかということに気が付かされました。このことは、疫病ばかりか、地震や災害、迫害、戦争においても起こることです。聖書は、こうしたことが繰り返し起こることを記しています。そして今、世界では、戦争が行われ、自由が奪われる迫害も起こっています。こうしたことが起こることにより、私たちは、普通に人と出会う、交わることが、神から与えられた恵みであることに気付かされます。
 また、昨今問題となっている様々なハラスメント、そしてネグレクトなどもまた、互いに交わり、相手を理解しないことから発生していることに気付かされます。
 戦争・迫害・ハラスメント、ネグレクトも、自分の意思を相手に押しつけることです。互いに交わりをもち、互いに理解しようとしないことから発生しています。ですから、戦争や迫害、ハラスメントなどが増加しているのは、コロナ禍が過ぎ、十分に交わりが行うことができなかった結果であると言って良いかと思います。

Ⅱ.天使との出会うヨセフ
 私たちは今、キリストの御降誕を覚えて、クリスマスをお祝いしています。キリストは、おとめマリアが、聖霊により身ごもり、お生まれになりました。夫となるヨセフは、マリアの妊娠することにより、離縁しようとしていました。
 しかし主なる神は、ヨセフに天使を遣わし、ヨセフに理解を求めました。主なる神が、天使をとおしてヨセフと出会い、意思疎通をとってくださったのです。人格的な交わりを行うこと、意思疎通を行うこと、互いに理解し合うことが、非常に大切です。交わりを深めることにより、互いの意思を確認し合うこと、互いの弱さを知り、受け入れること、赦すことができます。

Ⅲ.私たちとキリストとの交わり
 キリストがお生まれになるとき、キリストのことを天使は、「その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味であると語りました。
 「我々」とは直接的には天使とヨセフのことです。しかしこれは、イエス・キリストを救い主、主なる神の御子であると信じるすべての者、すべてのキリスト者に対して語られています。キリストは十字架の死と三日目の朝に復活を遂げられ、そして今は天に昇られました。私たちは今、直接、キリストと出会うことはできません。
 しかしキリストは天に昇られるとき、私たちに聖霊をお送りくださいました。私たちは今、聖霊を通してキリストと出会い、主なる神を礼拝することができます。お祈りするのも、聖霊をとおしてキリストにより父なる神が聞き届けてくださるからこそ、主に委ねてお祈ることができます。

Ⅳ.キリストとの出会いの場である礼拝
 そしてキリスト者は、毎週日曜日に教会に来て、神さまを礼拝します。礼拝をするとは、ただ聖書を読み、説教を聞くことではありません。聖霊をとおして十字架の死と復活を遂げられたキリストと出会うこと、私たちに救いをお与えくださった主なる神と出会うことです。
 このことは、教会に来て、クリスチャンの共と出会い・交わること、礼拝に出席することにより、示されるものです。 コロナ禍になり、礼拝もYouTubeで公開しています。非常に有用です。しかし、キリストと出会い、主による救いの恵みに満たされるという感覚は、残念ながらインターネットやYouTubeでは味わえない感覚です。
 ですから極端なことを語れば、説教が分からなくてもよいのです。だからこそ、私たちは、幼子から大人まで一緒に礼拝を献げます。教会・礼拝の場に一緒にいることで、主なる神は聖霊を通して恵みに満たしてくださいます。
 私たちは弱く、忘れやすい存在です。だからこそ、主は、毎週、私たちを礼拝へとお招きくださり、キリストの恵みに満たされるように求めておられます。
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2023年クリスマス礼拝「逃げて、身を守れ」 マタイ2:13~15  2023.12.24  
 
Ⅰ.イエス・キリストの誕生
 約束されていたメシアがお生まれになりました。マタイは、主イエスの誕生に際して、東方(ペルシャ)の占星術の博士たちがお祝いに駆けつけることを記します。異邦人が駆けつけることで、ヘロデ王が恐れるユダヤ人の王ではなく、王の王としての誕生であることを指し示しています。
 真の神の御子であり、王の王であるイエスは、真の人であり、何も力もない一人の赤ん坊でした。それも王子として立派な宮殿で生まれるのではなく、家畜小屋においてお生まれになり、飼い葉桶に寝かされます(ルカ2章、ウェストミンスター大教理問48)。

Ⅱ.罪の本質の表れ
 しかし同時に東方の博士たちが「ユダヤ人の王としてお生まれになった方」と(2:2)語る真の王でした。その結果、ヘロデ王の逆鱗に触れ、命が奪われることとなります。ヘロデ王は、王の地位を狙う可能性のある兄弟であっても殺す非道な人間でした(16)。その結果ベツレヘムで子供たちが殺され、家族の叫び声は町中に響き渡ります(18)。
 自らの地位が奪われようとするならば、手段を選びません。ここに人間の持っている罪の本質が表れています。しかし彼らには、自分の解釈にたった「義」があります。戦争が行われるときも、為政者たちは「正義・神の義」における戦争であることを主張します。しかし、自らの正当性を主張するために「神の義」を持ち出すのは、第三戒「神の御名をみだりに唱える」違反です。
 私たちには、神の御言葉によって示されている律法としての十戒から「神の義」を確認することができます。
 ⑤ 父と母(すべての人)を敬え。
 ⑥ 殺してはならない。
 ⑦ 姦淫してはならない。
 ⑧ 盗んではならない。
 ⑨ 偽証してはならない。
 ⑩ むさぼってはならない(心において)。
 しかしその適用にあたっては、十戒の前文・要約を忘れてはなりません。主は、罪人であるイスラエル(私たちも)を、救いをお与えくださり、その上で律法をお与えくださいました。私たちは律法により自らの罪を吟味しなければなりません。律法を人を裁く道具にしてはなりません。
 また十戒の要約はマタイ22:37-40に示されています。律法は、神への愛、隣人への愛に立って守られるべきです。

Ⅲ.逃げる道を備えくださる主なる神
 お生まれになったばかりの幼子である主イエスは、逃げるようにと、天使によって告げられます。神の御子だからと何もしなくても守られているわけではありません。
 御子であるイエスさまは、私たちと同じ人となられました。そのため、私たちと同様に苦しみ・殺害の恐怖の中に置かれます。
 神の御子が、人として、それも弱さを担い貧しい状態でお生まれになったのは、私たちの救いのため、私たちに代わって私たちの罪の償いを行うために十字架にお架かりになるためでした(参照:ウェストミンスター大教理48)。なぜなら、私たちが救われるために、私たちの持っている死にいたる罪が代わりに償われることが必要でした。それを人となられたキリストが十字架に担ってくださいました。キリストの十字架がなければ私たちの罪の赦しと救いはありません。
 さて、キリスト者の中には、「神さまを信じているから」、「神さまなら助けてくださる」と語り、何もしない人がいるかと思います。しかし、それは不信仰です。私たちは、主なる神を信じ、すべてを委ねて祈りを献げます。すべてを主に委ねたからと言って、何もしなくても良いのではありません。主は逃れの道をお与えくださいます。
 このとき幼子イエスは、エジプトに下ること道が備えられました。若い夫婦には、博士たちにより、黄金・乳香・没薬がプレゼントされていました。エジプトに逃れていた2年間生活するために、準備してくださったと言えるのではないでしょうか。

Ⅳ.主は逃れの道を備えてくださる
 つまりお生まれになったばかりの御子イエス・キリストは、一人の弱さを担う赤ちゃんです。命を奪おうとするヘロデから逃れることが求められました。主は逃れの道をお示しくださり、同時に、逃亡のための必要をも満たしてくださいました。
 主は、私たちに肉体の弱さをはじめ、様々な艱難・試練に置かれます。このときに私たちは主なる神を信じ、主にすべてを委ねて祈ることが求められます。しかし同時に、主は逃れる術をもお与えくださいます。
 御子であるイエスがエジプトに逃げたように、私たちも主がお与えくださった手段を用いて、逃れの道を歩むことも大切なことです(参照:Ⅰコリント10:13)。
 
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2024年新年礼拝「私たちの歩む幸いな道」 詩編119:1~8  2024.1.1   

Ⅰ.御言葉により改革され続ける教会であれ!
 2024年の標語は「変化を恐れない教会形成」であり、聖句はⅡテモテ3:16です。私たちは「改革派」と名乗っています。御言葉により改革され続ける教会であり続けることが求められています。
 大宮教会は1959年の伝道開始から65年を迎えます。良い意味での教会の伝統は継承されるべきです。しかし同時に、本来聖書が語っていないことも継承しています。特」にコロナ期の3年を経て、教会活動が再開するにあたって、かつての活動を無批判に再開することに私は躊躇します。「婦人会」は、未婚の女性も参加できるようにと「泉の会」となりました。「家長会」は「ペテロの会」となりました。「家長」はクリスチャンホームであれば男性がなり家庭集会をリードしますが、母親と子どもたちで信仰生活を守っている方々もいます。この場合、母親が家長として家庭礼拝を行います。
 50年前・20年前の教会において機能してきたことが、今の教会において必要であるのか、聖書の御言葉に照らして、また現在の社会情勢に照らして、教会形成を行わなければなりません。

Ⅱ.主によってすでに与えられている幸い
 詩編は、「いかに幸いなことでしょう」と語り始めます(参照:詩編1:1)。「まったき道を歩み、主の律法を守る人が、幸いになる」のではありません。これは律法主義です。詩編の作者は「どうか、お見捨てにならないでください」(8)と語っています。すでに神さまによって召され、罪の赦しと救いが与えられており、救いは確定しています。
 私たちは、まったき道を踏み、主の律法に歩むことにより、神の御国(天国)に入れられ、主による永遠の祝福が約束されています(参照:ヨハネ14:6,7)。主イエスという道、主イエスが指し示す御言葉に従うことによって、父なる神の御許、天国に行くことができます。このゴールを見据えることが非常に大切です。これが詩編が語る幸いです。

Ⅲ.愛に生きるキリスト者
 主はまったき道(律法)により神の義を示し、天国に通じる道を備えてくださいます。このとき、神の義に従って生きていない周囲の人たちとの違いが露わになります。そのためキリスト者は、周囲の人たちと交わり、和解することが求められます。この時、周囲の人々との交わりを行うことにより、神の義が互いに示され、そして、独りよがり・他者を苦しめることにより自らを誇る独裁・ハラスメント等が是正されます。
 しかしコロナにより、交わりや会話が少なくなり、安易にオンラインに頼るようになりました。会って、肌感覚での交わりが少なくなりました。その結果、独裁者が戦争を起こしたり、ハラスメントが顕在化してきたのではないでしょうか。私は、これらには因果関係があると思っています。
 詩編は「あなたが主の道、御言葉に聞き従うように」と語ります。主から召し出されキリスト者とされた私たちが、主の御言葉に聞き従い、神の義、神の愛を実践していくことが大切です。しかし同時に、それを教会や周囲の人たちとの間で、私たちが実践し、語って行くことが非常に大切です。
 主の掟である律法の要に十戒があります。十戒は愛に基づいています(参照:マタイ22:37~40)。つまり私たちは、主なる神を信じ、神を愛するように、隣人を愛することが求められています。このことは、私たちが信じていること・神の義を人に押しつけることではありません。それは律法主義であり、独裁に繋がります。相手の弱さ・罪を赦しつつ、私たち自身が神の義を実践していくことです。このとき、周囲の人たちから私たちの存在が魅力的に映ります。「御言葉を伝えなければならない」ではありません。私たち自身が、「どの戒めに照らしても恥じ入ることがない生活を行い」(6)、神の愛を持ち、喜びをもって生活するとき、私たちはキリストにあって光り輝きます。それが罪の道を歩んでいる人には、自らの姿が明らかになります。そして必要なときに、福音を証しする機会が与えられます。

Ⅳ.私たちの信仰生活
 ですから私たちは、御言葉に聴きつつ、御言葉の解釈としての信仰規準に従って信仰生活に生きるとき、社会の慣習・教会の慣例から解放されます。これが教会における新たな変化を生み出していきます。
 詩編は、「いかに幸いなことでしょう」と語りかけます。教会の置かれた状況は、決して楽観視できるものではありません。しかし主は私たちに、すでにキリストをお送りくださり、十字架の御業は完成しました。私たちに神の御国が指し示されています。希望と喜びをもって信仰生活を歩み、教会形成を行っていきたいと思います。

 
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2024年年の標語説教「変化を恐れない教会を立てる」 Ⅱテモテ3:10~17  2024.1.28  
 
序.
 今日、定期会員総会が開催されますので、標語・聖句から、主の御言葉に聴きます。

Ⅰ.今年の標語
 昨年までの3年間、コロナ禍にあって、私たちは信仰が問われ、主なる神の御前に生きるとはどういうことかを考えました。つまり、神との関係を回復することを確認しつつ、その延長線上に隣人との関係の回復があります。直接会い、隣人を愛し、隣人を知ることの大切さを確認してきました。
 また昨年は、埼玉東部地区、せんげん台教会との交わりを増やし、東部中会の連合執事会・埼玉地区連合婦人会の当番教会として、聖徒の交わりを行いました。
 今年の標語は、「変化を恐れない教会を立てる」です。昨年までのことを継続の上で行います。「変化を恐れない」と語ると、誤解の恐れがありますので確認しますが、私たちは改革派教会に属しています。「カルヴァン派」ではなく、「改革派」と名乗るのは、御言葉によって絶えず改革され続ける教会であるからです。今の時代、主が私たちに何を語りかけておられるのか、御言葉に聴き続けなければなりません。

Ⅱ.聖書の御言葉に聴く
 現代はイエスの時代とは、時代が異なり、生きる世界・文化も違います。しかし私たちは、聖書の御言葉・神の真理に聴くことができます。人間の本質にある罪(全的堕落)は、最初の罪以来変わりません。私たちは聖書から人間の罪の本質を知り、主がお与えくださる救いの呼びかけに答えることが求められています。神が罪人を救い、キリストの十字架と再臨による最後の審判により、すべての罪とサタンを滅ぼし、神の民に救いをお与えくださいます。そのため聖書に親しみ、聖書から離れないことが大切です(参照:Ⅱテモテ3:14-15)。救いに導く知恵は、世からは獲得することはできません。
 そのため私たちは自分一人で聖書を読むのではなく、教会における信仰規準に従って聖書を読むことが必要です。自分一人で聖書を読むと、自分の都合の良いように聖書を読み、誤った解釈を行うからです。そのために聖書を理解する上で役に立つのが、ウェストミンスター信仰規準です。信仰規準は、他の宗教・異端・他教派との違いを明らかにし、神の真理に導きます。

Ⅲ.時代を読み解く大切さ!
 私たちは2024年の日本に生きています。聖書の時代のイスラエル、宗教改革の時代のヨーロッパとは、時代も社会も違います。それは、明治期・戦後すぐの時代・高度成長期の時代とも異なります。
 また私たちはコロナ禍の3年間を経ました。交わりが希薄になり、個人主義化に拍車がかかりました。その結果、世界では独裁が生じやすくなり、戦争が起きています。
 また阪神大震災(1995)、東日本大震災(2011)を経て、さらに能登半島地震において被災者と向き合うことを求められています。
 1994,95年のオウム真理教事件以来、日本人の宗教意識は変化しています。
 私たちは疫病・戦争・自然災害と向き合うため、聖書に聴く必要があります(3:16)。
 また近年、インターネット・SNSが普及し、さらにAIが出現しました。人は、物事の本質・理由を考え・追求することなく、即、答えを求めます。私たちが立ち止まり、生きる目的を考えることを許しません。
 私たちは、こうした時代にキリスト者として生きています。このとき第一に、聖書理解に関して、本質に関わることは、変更してはなりません。時代が変化しても、聖書の本質を変更することは許されません。
 第二に、聖書の本質に関わらないことは、時代に合わせて、変化して良いのです。今は、主イエスの時代に無かった印刷された聖書を持ち、またマイクを通じて説教を聴きます。主がお与えくださった恵みを用いて、教会は変化してきました。
 聖書は、男尊女卑の時代に女性を大切に扱っています。また、貧しい人々・奴隷・身体障害者・悪霊に取り憑かれた人も、他の人々と同じように対応しています。そのため教会は、人権においてリードしていくことが求められています。現代社会では、性差・ハラスメト等の社会的に問題提起が行われていますが、これらのことにおいても、教会が聖書的に答えを示し、教会自身が変化していくことが求められています。
 また、近年は精神疾患が劇的に増えています。それは、コンピュータや携帯といったIT技術の進歩等、社会の変化が急激であり、社会変化に追いつくために、精神を疲弊した結果です。私たちキリスト者も、気付かないうちに心がむしばまれ、誰がいつ、精神疾患に陥ってもおかしくない状況に生きています。
 つまり教会は新しい技術を神の恵みとして用いつつ、同時に取り残される人たちを受け入れることが求められます。こうした精神的な苦痛を無視して、福音を語っても、本当の意味で、彼らの福音が届きません。
 そのために教会に求められていることは、居場所を作ることではないでしょうか。そのため教会では、語ることではなく、傾聴することが求められています。
 だからこそ、聖書の御言葉に聴くことには変わりありませんが、同時に、今の時代、今の日本社会にあって求められている教会とは何か、そのことを、皆さんと一緒に考えつつ、教会形成を行っていきたいと願っています(参照:ウェストミンスター大教理問1)。 
 
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2024年受難節「キリストの十字架」 ルカ福音書23章26~43節  2024.3.24 
 
序.
 今週、受難週を迎えました。今年、キリストの十字架と死と復活に焦点を合わせてルカによる福音書より聞こうと思います。

Ⅰ.キリストと共に十字架に架かる囚人たち
 今日は32節以降の御言葉から聞きます。他の福音書では主イエスと共に二人の犯罪人が十字架に架かったことのみを記しますが、ルカ福音書では最初にその事実を語り(32-33)、続けて39節以降で他の二人の囚人たちとの会話を記録しています。
 他の福音書ではこの事実のみを記すことにより、主イエスが罪人と同じように裁きを受けていることを確認します。一方ルカ福音書は、二人の囚人の会話を記すことにより、主イエスが誰のために十字架に架かられたかをはっきりさせようとしています。
 十字架に架かるだけの犯罪を行った囚人です。多くの人たちは、自分とは関係のない人であると思いがちです。しかし私たちキリスト者は、キリストの十字架によって罪が贖われたことを信じています。キリストの十字架が私たちの罪の身代わりであったことを信じています。このことを信じるならば、キリストと共に十字架に架けられた囚人こそが、私たち自身の姿であることを顧みることが求められます。主の御前にあって、行い・言葉・心の中で犯す罪は、死刑にあたる罪であり、私たちはまさに囚人として、この二人の極悪人と同じように十字架に架かるべき者であったのです。

Ⅱ.主イエスの十字架を囲む人たち
 民衆が立って見つめており、ユダヤの議員たち・ローマの兵士たちが主イエスを侮辱します(35-38)。そして犯罪人の一人も、主イエスをののしります(39)。彼らは、十字架に架かっている主イエスを信じようとしない、信じることのできない人たちです。
そして彼らは、あくまでも自分たちが主であり、神であろうと誰であろうと、自らの僕にすぎません。自分の望みが適えられなければ、信じることはありません。このような人々は、モーセの時代のエジプト王ファラオがそうであったように、主による偉大な奇跡が行われたとしても、心が頑ななため、主なる神を受け入れることも、信じることもできません。
 そのため、彼らは、主による滅びの裁きを受けることとなります。「悪人の魂は、地獄に投げ込まれ、そこで大いなる日の裁きを受ける身となって、苦しみと完全な暗黒の中に留まる」(参照:ウェストミンスター信仰告白32:1)。
 地上において権力を持ち、人を統治し、人を裁く力を持っていたとしても、主の御前にあっては力がありません。そして主の御前にすべてが明らかになります。そして、神を信じない、主イエスを受け入れないことにより、彼らは主の御前にあって、悪人とされ、主による滅びが待っています。

Ⅲ.ただ一人、主イエスに向き合う囚人
 一方、もう一人の囚人は、十字架上の主イエスを見つめています。彼は自らの罪を受け入れ、罪の刑罰として十字架に架けられています(40-41a)。
 その上で、「しかし、この方は何も悪いことをしていない。イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と語ります(41b-42)。彼は、イエス・キリストこそが、神であり救い主であることを受け入れ、信じています。そして今、主イエスの御前に遜り、信仰を告白する者とされました。
 このとき主イエスは、この囚人に対して語ります。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と。彼は神により義人とされ、「義人の魂は、そのとき完全に清くされて、いと高き天に受け入れられ、そこでかれらの体の完全な贖いを待ちながら、光と栄光の内に神の御顔を見」ます(ウェストミンスター信仰告白32:1)。

Ⅳ.キリストの十字架のみを見上げて生きよ!
 私たちは、主イエスの十字架から2000年以上を経て、御言葉をとおしてこの場に立ち会っています。私たちもこの囚人のように主の御前に立ち、自らの姿を明らかにしなければなりません。行い・言葉・心の中で思うことにおいて、主の御前に罪を犯しており、その小さな一つの罪によって、死・滅びが宣告されるべき存在です。周囲にいる多くの人たちの様子をうかがうのではなく、ただ主イエスをのみ見上げ、自らの罪を受け入れることが求められています。
 自らの罪を受け入れたとき、主イエスに対して、何一つ誇ることなどできません。遜り、仕える思いが生じてきます。さらに周囲の人たちに対しても、誇るものは何もなく、仕えることが求められています(ローマ12:10)。罪人である私のために、キリストが十字架にお架かりになり、苦しみ・死を遂げてくださいました。この事実を私たちは心に刻みつけておかなければなりません。
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2024年受難節「キリストの死」 ルカ福音書23章44~49節  2024.3.24  
 
序.
 聖書は、神の御子であるイエス・キリストが、マリアの子としてお生まれになったことと共に、十字架の上で死を遂げられたことを記します。二性一人格です。

Ⅰ.キリストの死に際して訪れる暗闇
 しかし聖書は、主イエスがただ死を遂げられたとは記しません。主イエスが十字架に架かっている最中、12時から午後3時まで全地が暗くなります(44~45)。このときは過越祭中であり、満月の日です。日食は、新月の時にしか起こらないわけであり、これは日食であったわけではありません。全地が暗くなったのは、主なる神によって与えられたしるしです。
 モーセの時代の出エジプトに際して、モーセの行う奇跡の一つとして、全地を暗闇にすることがありました(出エジプト10:21-29)。主イエスの死に際して、世を闇が覆ったのは、ここに主なる神のご意志が働いていることを示しています。

Ⅱ.神殿の垂れ幕が裂ける!
 さらにこのとき、神殿の垂れ幕が真ん中から裂けました(45b)。幕屋には、聖所と至聖所があります。至聖所には、契約の箱が置かれ、神の臨在の場を象徴していました。そのため、そこに入ることができるのは、大祭司が年に一度、しかも生け贄の贖罪を行うときにしか入ることができませんでした(参照:ヘブライ9:7)。つまり、至聖所と聖所の間にある垂れ幕は、神の臨在の場と罪を犯した人の世界とを隔てるものです。主は、罪人を受け入れることができません。
 主なる神と罪人を隔てていたこの垂れ幕が裂けたのです。このことは、主の御前に集まる私たちは、いつでも神と交わりを持つことができることを意味します。別の言い方をすれば、主の御前に立つ私たちは、主の御前にあって、罪が赦されたのです。そして罪が赦された罪人だからこそ、主なる神と交わりが許されています。
 つまりキリストの十字架の死こそが、主なる神と私たち罪人との和解のしるしです。そして、キリストの十字架の死により、私たちの罪の償いは支払われたのです。
 ヘブライ書9~10章では、このことが詳細に述べられています。9:1~10において、旧約における幕屋について説明されています。そして11節以降においてキリストの御業が紹介されています(ヘブライ9:11~15)。
 キリストの十字架の死こそが、私たち罪人の罪の贖いであり、動物の生け贄のように繰り返し求められるものではありません。キリストの十字架の死、この一回限りの御業により、キリストを救い主として信じる者が、神の子として、永遠の生命の約束を受け継ぐことが許されたのです。

Ⅲ.最後に叫び、息を引き取る主イエス
 主イエスは息を引き取るにあたり、最後の言葉を大声で叫ばれます。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と。
 私は、これで罪人の罪の贖いが完成したという、主イエスがご自身の使命が果たされたことを、父なる神へ報告し、その上で、これからも主のご計画に従い、父なる神に仕えていくことを、「御手に委ねます」との言葉で語っているように思います。
 そして主イエスは、息を引き取られます。聖書は、「イエスは死んだ」とは記しません。いずれの福音書においても「息を引き取られた」と記します。「最後の息を吐き出す」といった意味であり、殺されたというよりは、主イエスご自身が自ら肉の死に与ったようなニュアンスがあります。
 つまり主イエスは、ユダヤ人たちによって殺されたのですが、ここに主なる神の御計画があり、主なる神の御計画を遂行し、私たちの救いを完成しようとする主イエスの意思が表れています。

Ⅳ.百人隊長の信仰告白
 主イエスが十字架で息を引き取り、主の御業を完成したとき、共に集っていた人たちは、そのままの状態でいることは許されません。百人隊長が応答します。「本当に、この人は正しい人だった」と(47)。主イエスの十字架とここに遂げられる死を見届けるとき、主イエスと共におられる主なる神を確認したのです。
 他に目を向けることなく、他者の様子をうかがうことなく、十字架の主イエスを直視するとき、ここに主なる神が共におられ、主の御働きの内に、主イエスがおられることがはっきりと示されます。
 私たちも今、主イエスの十字架と死に際して、ここに共におられ働いておられる父なる神の姿を見たのではないでしょうか。ここにこそ真理があり、救いがあります。
 今に生きる私たちも、御言葉により主の御業・私たちに救いを成し遂げてくださった主イエスを見ています。主の御業を受け入れ、信仰の道を歩み続けていきましょう。
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2024年受難節「墓に葬られるキリスト」 ルカ福音書23章50~56節  2024.3.27   
 
 Ⅰ.主イエスは十字架で死を遂げた!
 キリスト教会では、キリストが十字架で死を遂げ、三日目に甦られたことが非常に大切です。しかしこのことは同時に、死者の復活を信じることができない人たちにとっては、疑いの目を持ってみるところであります。実は死んでおらず、仮死状態であったとすることです。
 十字架は、処刑であると共に、見せしめです。そのため安息日が始まれば、そのまま放置され、安息日が終わる週の第一日(日曜日)の朝まで、野ざらしにされます。その後に囚人専用の墓地に葬られるのです。
 主イエスは、金曜日の夕方、息を引き取られました。春分の日ですので午後6時前後が日の入りであり、安息日が始まります。それまでに、墓に葬る必要があります。2~3時間位しかありません。つまり、①ローマ総督に許可を得ること、②遺体を十字架から下ろすこと、③遺体を墓まで持って行くこと、④墓穴を石で塞ぐこと、その上で自宅にまで帰らなければなりません。

Ⅱ.主イエスの遺体を引き取る議員ヨセフ
 ①準備していなければ、不可能な行動
 準備していなければ、不可能なことです。主イエスと行動を共にしていた弟子たちはそれどころではありませんでした。自分も捕まらないかと恐れ、機能不全の状態だったのではないでしょうか。また婦人たちは、その思いがあったとしても、当時、女性がこの対応を行うことは不可能なことでした。
 そうした中、主イエスの遺体を引き取り、墓に葬ることを申し出たのが、議員の一人のヨセフでした(50-51)。つまり、主イエスの裁判において、最高法院では全会一致で主イエスを十字架刑に定めたのではなく、反対者がいたことを、聖書は記しています。ただ、ヨセフ一人が反対していたのか、他にも反対者がいたのかは、聖書からは分かりません。しかし、圧倒的多数のユダヤ人たちは、主イエスを十字架刑に処することに賛成しており、その声に対抗するような状態ではなかったことは明らかです。
 しかし、主イエスが十字架に架かり、それから夕方までの間、彼は主イエスを信じていること、自らの信仰を行動で移すことを確認することができたのではないかと思います。そして、主イエスが十字架で死を遂げられたときか、その前に、総督ピラトの所に赴き、主イエスの遺体を引き取ることを願い出、許可されたのです。

Ⅲ.議員ヨセフの信仰
 主イエスの遺体を引き取るというヨセフの行動は、他のユダヤ人たちにも明らかになる、彼の信仰告白です。それは同時に、この行動の故に、ユダヤ人たちに迫害を受けることの覚悟をもって行った行動です。
 私たちが信仰を持つとき、ときに周囲の人たちの目、ときに迫害すらも覚悟することが求められます。しかし精神論において、「こうしなければならない。信仰の戦いに勝利しなければならない」と言っても、信仰を維持することは非常に困難です。信仰の戦いは、精神論ではありません。
 ヨセフは「神の国を待ち望んでいました」。このことが大切です。キリストの死と復活により与えられる復活の生命を顧みるとき、頑張って信仰を持つことは不要です。自らに与えられる死からの甦りと神の国における永遠の生命こそが、信仰の喜びです。
 そうすることにより、この議員の一人ヨセフと同じように、私たちも信仰を貫き、継続していくことが可能となります。

Ⅳ.主イエスの死を決定づける安息日
 ヨセフが主イエスの遺体を引き取り、墓に葬り、そして安息日を守ります。ウェストミンスター大教理問121では、安息日を覚えよということは、「キリスト教の短い要約を含む創造と贖いという二つの大いなる益を、感謝をもって覚え続けるようにされるからです」と答えます。私たちは主を礼拝することにより、罪の贖いと神の国の救いの喜びを繰り返し確認します。
 そして婦人たちも、安息日が開けた日の朝に、主イエスを葬るために行動します。彼女たちは、主イエスの復活の第一証人として、聖書に名を残すこととなります。
 しかし私たちがここで顧みなければならないことは、安息日が丸々、人々が安息したことにより、主イエスの遺体が、墓の中にあったという事実です。
 このことは何を意味しているかと言えば、その間、主イエスは遺体として葬られていたという事実です。
 主イエスは、死に打ち勝ち、罪に打ち勝ち、サタンに打ち勝ち、復活の体が与えられ、甦りました。議員であるヨセフが神の国を信じたように、私たちも、キリストによって与えられた罪の贖いを信じ、神の国における永遠の生命に希望をもって、歩み続けていくことが求められています。
 
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