| ◆フィリピの信徒への手紙 連続講解説教 |
| 「喜びの手紙」 フィリピ1:1~2 2026.4.12 ウェストミンスター信仰告白26:1 |
| Ⅰ.フィリピ書を読み始める フィリピ書はパウロの手によって記されました(1)。パウロ書簡は、ローマ書から始まり13書簡ありますが、そのうちのエフェソ書・フィリピ書・コロサイ書・フィレモン書は獄中書簡と呼ばれています。つまりパウロは、逮捕され、投獄状態にありつつ、教会へと手紙を書き送っていることとなります(参照:1:13-14、1:17)。つまり、現状は死と隣り合わせであり、先行きはまったく見えない状態で、手紙を書き送っていることとなります。 しかし同時に、フィリピ書は“喜びの手紙”とも呼ばれています。フィリピ書では「喜ぶ」・「喜び」という言葉が繰り返し語られているからです(16回)。死をも覚悟しているパウロが、なぜ喜びの手紙を書くことができたのかを、フィリピ書を読み進むことにおいて考えて行きたいと願っています。 Ⅱ.キリストの僕として生きるキリスト者 パウロが語る「喜び」とは、今の感情を語っているのではなく、イエス・キリストへの信仰に基づく喜びです。つまり私たちがイエス・キリストと出会い、救われると語るとき、それは、自らの力で勝ち取ったものではありません。 私たち自身は、行いにおいて・言葉において・心の中で罪人であり、罪の結果は死であり、滅びでした。しかしキリストと繋がることにおいて、キリストの十字架における死が、私たちの罪の刑罰であり、私たちはキリストにあって罪の贖いに与ることが許されたのです。これは、神が下してくださった決定によります。 ですからパウロは、自分自身のことを「キリスト・イエスの僕」と語ります(1)。「僕」は「奴隷」とも訳する言葉です。奴隷であれば、主人に仕えなければなりません。つまり私たちキリスト者は、主なる神の所有物となり、主のご命令に聴き従う者でなければなりません。このように語りますと、自由がなくなるように思われるかも知れません。 しかし、キリストの奴隷でなければ、私たちはどのようにして生きていたのかを考えなければなりません。つまりキリストと出会う前は、「自由」だったのではなく、罪の奴隷に生きていたのです。罪に奴隷として隷属していたため、罪を犯してしまい、罪の刑罰としての死と裁きを免れ得ない者だったのです。しかし、キリストの僕として生きる時、私たちは神の恵みに満たされ、神の子として、神の御国に招き入れられる者とされました。ここにこそ、真の自由があります。 私たちは今日、説教の後に聖餐の礼典に与ります。聖餐に与るとは、神の御国における神の晩餐に招かれ、キリストと共に食卓を共にすることが許されていることを確認することです。キリストとの交わりに生きる者とされているのです(参照:ウェストミンスター信仰告白26:1前半)。 私たちが生きることにおける本当の喜びとは、主なる神との交わりに生きることです。ですから、ウェストミンスター小教理問1では、問答します。 問1 人間の第一の目的は、何ですか。 答 人間の第一の目的は、神に栄光を帰し、 永遠に神を喜びとすることです。 つまり、この世における成功や健康・地位・権力・お金などは、永続的な喜びはパウロが語る喜びとはなりません。 Ⅲ.聖なる者たち パウロは、フィリピ教会の信徒たちを「キリスト・イエスに結ばれている聖なる者たち」と呼びます。 「聖なる者・聖徒」とは、自らの信仰によって清くなったのではありません。主なる神によって選ばれ、召し出し、そして信仰により義と認められ、聖とされたのです。つまり主なる神が、永遠のご計画に基づいて、私たち一人ひとりをお選びくださり、義と認められたのだからこそ、私たちの救いは、決定しています。そのため私たちの信仰が一時的に揺らいだとしても、主なる神にある救いの決定は変わることがありません。ここに救いの喜びがあります。 その上で、主は私たちに隣人を与え、教会をお与えくださいます。私たちは、主なる神と繋がっていれば良いのではなく、主がお与えくださった兄弟姉妹と共に、世を治め、キリストの教会を形成することが求められています(ウェストミンスター信仰告白26:1後半)。これは十戒における第一の板・第二の板においても説明できます(参照:出エジプト20:1~17、マタイ22:37~40)。 Ⅳ.神から与えられる恵みと平安 パウロは、フィリピ教会の聖徒たちに「恵みと平和が、あなたがたにあるように」と祈ります(2)。これは、他の手紙にも語られいます定型詩ですが、これは同時にパウロの語る福音の核心です。 主なる神から与えられる恵みは、罪人である死にゆく私たちに与えられた神の子として神の国への招きであり、そのために与えられるキリストによる罪の贖いです。そして恵みによって神との和解が与えられ、神の子とされました。このことにより私たちは、死からの解放、サタン・罪からの守られるという平安が与えられています。 私たちは目の前の危機・艱難・苦難に苛まれます。しかし私たちは、神の子として希望に生き、平安を保ち続けることができるのです。 パウロは投獄され、明日、声明が奪われる恐れもあるなか、喜びの手紙を記すことができるのは、このように主なる神による救いに与り、神の子として、天国における永遠の祝福が約束されているからです。 今、ここに生きる私たち一人ひとりも、この神からの恵みと平安に満たされています。定住の牧師がいなくなり、不安も多いでしょうが、なおも主なる神による恵みに満たされ、平安な日々を歩み続けて頂きたいと願います。 |
| 先頭に戻る 「説教」ページに戻る |
| 「あなたを思い起こし、神に感謝します」 フィリピ1:3~11 2026.6.14 ウェストミンスター信仰告白26:1 |
序. 著者であるパウロは、投獄されている中、フィリピの教会に主に感謝しつつ、喜びの手紙を書き送っています。 Ⅰ.感謝と喜びの祈りを献げるパウロ そしてフィリピ教会の信徒に対しても、神に感謝し、喜びの祈りを行っています(3-4)。フィリピ教会は、パウロが第二回宣教旅行のとき(AD50年頃)に建てた教会であり(使徒16章)、第三次宣教旅行にも立ち寄り(使徒20:6)、その後も交わりがありました。しかしフィリピ書の執筆はAD60~62年頃であります。フィリピ教会の状況をつぶさに理解していたかといえば、それほどまでには深い交わりではなかったと言えます。 それでもなお、パウロはフィリピ教会のことを覚えて、感謝することができるのです。それは、フィリピ教会の信徒たちが、最初の時から今に至るまで福音にあずかっているからです(5)。福音にあずかるキリスト者とされていることにより、霊的な交わり、聖徒の交わりが与えられます。聖徒の交わりは単なる人間的友情ではなく、福音によって結ばれた神の家族の交わりです。 Ⅱ.神が始め、神が完成する ここで、フィリピの信徒たちに関して、彼らの信仰が守られているのは、主なる神が善い業を始められた結果であると語ります(6)。つまり、教会に来て、御言葉を聞き、イエス・キリストによる罪の贖いと救いを受け入れるのは、一人ひとりの行動と決断の結果ですが、ここに主なる神が働いておられるのだと、パウロは語ります。つまり、一人の人が、神を信じ、救いにいたるとき、主が聖霊をとおして働きかけた結果です。 ですから改革派教会では、信仰を告白するとは、100%その人の行動・決断の結果ですが、同時に100%神の御業であると語ります。 そして信仰を告白し、キリスト者となった者は、キリストの日、キリストが再臨され、最後の審判を行い、神の民を神の国に導いてくださいます。 私たちは、「自分で信仰を保ち続けなければならない」、「礼拝に出席し続けなければならない」と思ってしまうことがあります。しかし、主なる神は私たちが神の国に入ることを決定しています。この感謝と喜びをもって、信仰生活を継続し、礼拝に出席するのではないでしょうか。 神は、私たちの一生懸命さを求めておられるのではなく、神が私たちを覚え、捉えて神の民として、神の御国にまでお招きくださいます。 だからこそ私たちが失敗しても、ときに罪を犯してしまっても、主の御前に頭を垂れ、悔い改め、信仰を新たにすることを主は喜んでくださいます。 私たちが神にすがりつくのではなく、神が私たちを捉え、離すことがないのです。 Ⅲ.神への知識と洞察力が伴う神の愛 パウロは、神さまが教会に導いてくださり、キリスト者とされた一人ひとりのことが大好きなのです(7-8)。だからこそ、フィリピ教会の会員一人ひとりのことを覚えて祈ります(9-10a)。 愛は神の知識・真理と切り離すことはできず、個人的な感情に留まりません。神の義・聖・真実に基づく、キリストの十字架の贖いによる罪の赦しが示されることにより、神の愛が示されます。このとき、罪の誘惑をを敏感に理解し、信仰から離れないように気を付けることが求められます。 主の義と義の道を歩むために備えられた律法としての十戒を理解することにより、私たちの日々の生活の中に忍び寄る様々な罪を理解し、避けたり、拒否することができるようになります。 Ⅳ.キリストの日に備えて生きる そしてパウロは祈りの最後に、キリスト者の最終到着点、生きる目的を明らかにします(10b-11)。キリスト者であっても、地上の生涯の間は、罪赦された罪人です。しかし、主によって義とされた私たちは、日々聖化され続けます。 信仰的に落ち込むこともあれば、後退しているように感じることもあるでしょう。しかし神が共にいてくださいます。そして苦しみをとおして信仰を確認することができ、聖化されます。私たちは信仰の度合いを、自分で考えてしまいますが、聖化は、主なる神によって与えられる恵みです。 パウロは、フィリピ教会の信徒に対して、主に感謝し、喜びを持って祈っています。それは主なる神が、神の尊い御計画に基づいて神を信じ、キリストの十字架による救いに導かれたことを知っているからです。そして主なる神は、キリストの日、神の御国の完成のときには、神の御国の門を開いて、私たちが凱旋することを喜びをもって待っていてくださいます。 私たちが主なる神への信仰にしがみつかなければならないのではなく、主が、私たちをしっかりと捕らえて、神の国にまで導いてくださいます。 パウロが、フィリピの教会の人たちのことを、神に感謝し、喜びを持ったように、私たちも、相互に、信仰の道にあることを、主に感謝し、喜びを共にしたいと願います。 |
| 先頭に戻る 「説教」ページに戻る |
|
|