◆ダニエル書  連続講解説教

「信仰に生きる少年ダニエル」  ダニエル書1章
 
序.
 主なる神はダビデに恵みの契約を更新してくださいました(サムエル下7章)。しかし、ソロモンの罪により王国が分裂し、その後、北イスラエルはアッシリアに、南ユダもバビロンに滅ぼされ、バビロン捕囚が始まります。

Ⅰ.バビロンに捕囚の民として連れて行かれたダニエル
 最初にバビロン捕囚が行われたのはBC605年のことです。その後第二回・第三回の捕囚が行われ、エルサレムは陥落します。ダニエルは最初のバビロン捕囚でバビロンに連れて来られました。そしてバビロンの王に仕えるようになるのはBC603年頃です(1:1-3)。
 そして「ダニエルはキュロス王の元年まで仕えた」のであり(1:21)、捕囚から解放される(BC538年頃)までのバビロン捕囚の全期間(60年以上)、ダニエルはバビロンにおいて仕えていたことになります。
 イスラエルの民はエジプトにおいて400年間奴隷とされ、重労働が課せられました。しかしバビロンでは違いました。イスラエルの民は、皆が奴隷として重労働を担わされたのではありません。ダニエルたちのように能力がある人たちは、責任ある地位が与えられたのです。
 しかしダニエル等はあくまで戦争捕虜として送られてきたのであり、バビロンの王ネブカドネツァルに従うことが求められ、自由は与えられませんでした。

Ⅱ.私たちがダニエル書に聴く意義
 つまりバビロンにおいてイスラエルの民たちは、①異国の地でバビロンの王に服従が求められ、②バビロンの王が自らの像を拝むように要求する中、主なる神への信仰を貫くことが求められました。
 今、日本では信教の自由が認められ、直接的に偶像崇拝が求められる状況にはありません。しかし、天皇は国家神道の祭司であり、為政者たちは戦争の道具として靖国神社を用いています。つまり、私たちがキリスト者として生きて行こうとするならば、天皇の背後にある国家神道と、靖国神社という偶像があることを忘れてはならず、バビロン捕囚期のダニエルたちの信仰から多くのことを学ぶことができます。

Ⅲ.主から与えられた信仰に生きるダニエルたち
 ダニエルたち4人の最初の試練は宮廷の肉類と酒を毎日食することでした。これらはレビ記の規定に反するか、偶像に献げられた可能性があり、「ダニエルは宮廷の肉類と酒で自分を汚すまいと決心」します(8)。
 ダニエルらは、「体に難点がなく、容姿が美しく、何事にも才能と知恵があり、知識と理解力に富み、宮廷に仕える能力がありました」(4)。これは、ネブカドネツァル王の判断ですが、これは同時に主なる神の導きにより、信仰の上においても、同様の能力が備えられました(参照:ウェストミンスター信仰告白14:1,2)。ダニエルたちは、神による救いの約束をしっかりと受け入れ、その上で、偶像に対する恐れをしっかり身に付けていたと言って良いかと思います。
 日本に生きる私たちも、このような感覚をもつ信仰が備えられることが求められています。誘惑はこうしたことの連続であり、小さなことに気が付かなければ、次第に大きな偶像と出会っても、「これ位は」となってきます。そのため、私たちは日頃から、主の御言葉である聖書に親しみ、偶像が私たちの心を蝕(むしば)む恐ろしさを確認することが求められています。

Ⅳ.主により必要は備えられる!
 信仰に生きる者に対して、主なる神は必要な賜物を備えてくださいます(17-20)。つまり主なる神は、イスラエルの民に対して、「罪を犯した結果、国が滅び、捕囚の民となったのだから、自らの力で耐えて、信仰を貫き通せ」とはお語りになりません。苦難の中に置かれるとき、信仰と共に、必要な賜物を授けてくださり、この試練を耐え抜く術をお与えくださいます。
 私たちは今、教会に集う者が少なくなる時代を迎えています。しかし私たちは、何もせずに困り果てるのではなく、主がお与えくださっている恵み、一人ひとりに与えられている賜物を確認し、それらに感謝をもって用いつつ、困難な中にあっても、信仰に生きることが求められています。
 私たちにはすでにキリストによる十字架の贖いが与えられ、神の国が約束されています。苦難の中にあっても、なお希望をもって信仰生活を続けて行きたいものです。
 
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 「夢に現れる主の主権」  ダニエル書2章
 
序.
 バビロンに捕囚の民とされたダニエルたちは二番目の試練に遭います。王が見た夢を、バビロンの占い師や賢者が説明することができないことに対するとばっちりです。

Ⅰ.夢により、主の御計画が示される
 聖書では、夢がキーポイントとなることがあります。創世記では、ヨセフが夢を見ました。その結果兄たちが激怒し、ヨセフは兄弟たちから殺されかけ、エジプトに売られることとなりました。しかしその後エジプト王ファラオの見た夢をヨセフが解き明かすことにより、イスラエルがエジプトに下るための準備のためであったことが明らかになりました(創世記37章~47章)。
 つまり聖書には、主なる神は夢により、ご自身の御計画を示されますが、この夢は解き明かされる必要があります。
 バビロンの王ネブカドネツァルが夢を見ました。そして占い師や賢者たちに対して、どのような夢を見て、それは何を意味しているのかを答えさせようとします。しかしこのとき、王はどのような夢を見たのかすら、語ろうとしません(3)。王が夢を見ても、どのような夢かが示されなければ、誰も解き明かすことはできません。そしてダニエル等も巻き添えとなります(12-3)。

Ⅱ.すべてを委ねて主に祈るダニエル
 このときダニエルは王のもとに行って、夢を解釈することを願い出ます(16)。
 そしてダニエルは、仲間たちに事情を説明した上で、天の神に憐れみを願い、その夢の秘密を求めて祈ります(17~18)。主の御計画・御業は、主がお語りになることにより初めて明らかになるのであり、そのために、主に委ねて祈ることが求められます。
 主はダニエルの祈りを、幻によって応えてくださいます(19)。幻は夢を解説した黙示と言って良いかと思います。
 このときダニエルは天の神をたたえ、祈ります(20~23)。知恵・力・知識は主なる神が持っておられるものであり、通常は奥義・秘義として私たちには隠されています。しかし神の持っておられる知恵・知識にこそ、私たちが恵みに生きる術があります。だからこそ私たちは主がお語りになる御言葉が解き明かされることにより、キリスト者として生きることができます。
 主なる神の御前に立つ私たちは、主の御霊に依り頼み、祈り求めることが求められています。そして私たちが聖書を読むときも、主の御前に祈りをもって、主にすべてを委ねつつ、主の御言葉に聴くことが求められます。主は御言葉をとおして、私たちに祈りに応えてくださいます。

Ⅲ.王の夢を解き明かすダニエル
 ダニエルが夢を解いたことを知ったネブカドネツァル王がダニエルに尋ねます。このときダニエルは最初に主なる神が秘密を明らかにして将来起こることを知らされたことを明らかにします(27~30)。その上で王が見た夢自体を語ります(31-36)。
 そして王の見た夢の解き証しを行います(37-41)。ここに4つの国が示されます。第一がバビロン、第二がペルシャ、第三がギリシャ、第四がローマと解釈されます。今の世界状況に合わせて解釈しても良いです。

Ⅳ.主の知恵は王をもひれ伏せさせる
 しかしここで大切なことは、神の国はすべての国を討ち滅ぼし、永遠に続くことであり、その現実をバビロンの王に示されたということです(44-45)。帝国や大国が時代と共に現れます。今も世界では大国が覇権争いをしています。しかしこれらの国々が永遠に栄えることはありません。栄枯盛衰があります。
 しかし主なる神が興される神の国は永遠に滅びることがありません。なぜならば神の御子キリストが十字架で罪に勝利し、サタンに勝利を遂げられたからです。そして人間の作り出すもののすべてを、主は討ち滅ぼし、神の栄光が私たちに示されます。
 エジプト王ファラオ同様に、夢が解き明網かされた王は、主の御力を受け入れ、主にひれ伏します(46)。多くの王・国を治める為政者は、自らが行いたいことを認める宗教的指導者を傍らに置きます。‘YesMan’です。しかしこのような状態では、主の御意志が示されることはありません。主なる神が、真に御自身の御業を国家的為政者に示そうとされるとき、それは異教徒であっても、主の御意志に聴き従い、ひれ伏す者とされるのです。
 選挙が行われている今、私たちは自らが主の御前に遜って祈りつつ、主の御言葉に聴くことが求められます。その上で、主の御言葉に謙虚に聴き従おうとする為政者を選挙することが求められています。
  
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「ネブカドネツァル王の像を拝めるか」  ダニエル書3章
 
序.
 ダニエルたちは、ネブカドネツァル王に重用され、王の下で仕えています。そうした中、バビロンの王ネブカドネツァルは、自らの像を造り、そしてすべての人に拝ませようとします。これは王の支配・権力を示すものです。

Ⅰ.第二戒で記されていることを覚えよ!
 そして王は、人々に、この像にひれ伏して、忠誠を誓わせます(5-6)。王は、自らが神として拝むことを要求することはしません。しかし、王が自らに忠誠を誓わせるために像を拝むことを要求します。これは王が神格化しているのと同じです。これは独裁であり、独裁者は自らが神の位に位置し、服従しない者を虐げます。
 主なる神は、十戒の第一戒において「あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない」と語り、さらに第二戒で、「あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない」と命令されます。
 十戒は、教派により区分が異なります。カトリック教会やルター派教会では、私たちが第一戒・第二戒と区別しているものを第一戒にします。そして私たちが語る第十戒(貪りの罪)を妻と財産に分けます。
 「なにものをも神としてはならない」と「刻んだ像を造ってはならない」を一つにすることにより、他の神として造られた像を拝んではならないとなり、出エジプト記における金の子牛のように、「これが主なる神である」として偶像を拝むこととなります。また同時に、神とされていなければ、ここでのネブカドネツァル王の像であっても、拝むことを否定しなくなります。
 しかし主なる神は、明確に第一戒と第二戒を区別して、主なる神以外に神としてはならないことを語ると同時に、いかなる像を造ることも禁じます。つまり、神であるか否かに関係なく、人の手で造られたいかなる像も拝んではならないのです。

Ⅱ.主なる信仰を貫く3人
 さて、ダニエルと共にバビロンに連れて来られた3名(ハナンヤ、ミシャエル、アザルヤ)は、ここではシャドラク、メシャク、アベド・ネゴと呼ばれています。3名は王の像を拝まないため、咎められます。
 3人は、ネブカドネツァル王の前に連れて来られ、王は像を拝むことを強要します(14-15)。王の名を語る独裁者は、自らの権力を揺るぎないものとするために、人々を権力により屈服させようとします。
 肉の弱さに生きる私たちは、こうした状況に置かれたとき、苦しみます。そして多くの場合、権力に屈してしまいます。
 しかし3人は主を信じ、主に委ねて、信仰を貫きます(16-18)。ここで3人は、「王の神々」と共に「王が建てた金の像」も拒絶します。つまり、第一戒と第二戒を区別して理解しており、これらを一つにまとめてはなりません。

Ⅲ.共にいて働いてくださる主なる神
 権力者に楯突くとき、懲罰を受けます。3人は燃えさかる炉に投げ込まれます。しかし主なる神は3人と共にいてくださり、彼らを守ってくださいます。王は、炉の中に入った3人と共に、4人目の神の使いである天使を見ます(25)。
 苦しみ・絶体絶命の状況の中にあっても、主なる神は共にいてくださり、助けてくださいます。このような奇跡は、新約の今、起こらないことでしょう。しかし私たちは、この出来事を、「今では起こりえない物語だ」と読み飛ばすのではなく、信仰的に読み取ることが求められます。
 主なる神は、その時そのとき、状況に応じて解決策をお示しくださいます。それは、3人のように究極の艱難から助け出される事ばかりではなく、苦しみが続くこともあります。殉教の死を遂げることもあります。しかし主なる神は、信仰者の苦しみをご覧になり、祈りをお聴きくださります。主なる神は、その時に一番良い答えをお与えくださいます。「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」(マタイ10:28)。私たちには神の国・天国の祝福が約束されています。

Ⅳ.私たちの信仰の背後におられる主なる神
 主の御言葉に聴き従い、他の神々に仕えることも王の像を拝むこともしなかった3人の姿を見て、王は神の存在を受け入れ、神の御力を受け入れざるを得ません(28-29)。
 私たちが信仰に生きるとき、私たちの信仰により主なる神が指し示されます。その結果、主なる神を受け入れざるを得ない状況に置かれたとき、ある者は主なる神を受け入れる者とされ、そうでなくても私たちの信仰の歩みを認めざるを得なくなります。
    
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「神の主権を自らの手に取るな」  ダニエル書3章31節~4章

 序.テキストの章・節の相違
 今日のテキストでは、新共同訳聖書(聖書協会共同訳)(3:31~33、4:1~34)と、新改訳・口語訳聖書(4:1~37)では、章・節の区分が異なります。これは翻訳の考え方の違いから来るものです。違いがあることのみご理解いただきたいと思います。

Ⅰ.夢は奥義である!
 夢により主の御計画が明らかにされます。夢は奥義であり、夢を見た人には主の真理が隠されています。そのために夢を解き明かす者が求められます。神の国の秘密は、人々には隠されていますが、解き明かされることにより明らかになります(参照:マタイ13:10-13)。このことは聖書が説教者により解き明かされる必要があることと同様です。

Ⅱ.預言者の思い悩み
 ダニエル書4章で示されている王の夢は、王が罪を悔い改めなければ主による裁きがもたらされることです。そのためダニエルは驚いた様子で、思い悩みます(16)。
 預言者も説教者も、主の御言葉に聴き従わない者には、主の刑罰としての裁きがもたらされることを宣告しなければなりません。ダニエルの思い悩みは、ベルテシャツァル王に、主による裁きがもたらされることを宣告しなければならないからです。
 このとき王は彼に、「この夢とその解釈を恐れずに言うがよい」と語ることにより、ダニエルは夢を解き明かし始めます(16)。

Ⅲ.主による裁き
 大地の真ん中の大きな木は(7-8)、ネブカドネツァル王であり、王の支配を意味しています(19)。
 しかし天使は天から下ってこなければなりません(10)。このことは、創世記11章において人がバベルに塔を建てたときのことのようです(11:4~7) 。地上でどれだけ大きな力を持ち、世界を支配したとしても、主の御支配の下には、取るに足らない存在であることを、認めなければなりません(参照:ウェストミンスター信仰告白2:2)。
 そしてこの大きな木は、主なる神により切り倒されます。このことがネブカドネツァル王にももたらされます。王がバビロンの偉大さを誇った途端に天からの裁きが下されます(25-30)。
 「そうしてお前はついに、いと高き神こそが人間の王国を支配する者で、神は御旨のままにそれをだれにでも与えるのだということを悟るであろう」(29)。

Ⅳ.いつまでも悔い改めを待っておられる主なる神
 しかし主なる神からの夢、そして奥義である御言葉は、主に逆らう者の裁きを語り終わるものではありません。
 「ただし、切り株と根は地中に残し
  鉄と青銅の鎖をかけて、
    野の草の中に置け」(12)。
 切り株と根が地中に残されることにより、再生することが可能です。罪を悔い改め、主なる神を信じることです。
 そのことがネブカドネツァル王にも起こります。「その時が過ぎて、わたしネブカドネツァルは目を上げて天を仰ぐと、理性が戻って来た。わたしはいと高き神をたたえ、永遠に生きるお方をほめたたえた。
 その支配は永遠に続き
 その国は代々に及ぶ。
 すべて地に住む者は無に等しい。
 天の軍勢をも地に住む者をも御旨のままにされる。
 その手を押さえて、何をするのかと言いうる者はだれもいない。
 言い終わると、理性がわたしに戻った。栄光と輝きは再びわたしに与えられて、王国の威光となった。貴族や側近もわたしのもとに戻って来た。こうしてわたしは王国に復帰し、わたしの威光は増し加わった」(31-33)。
 主なる神は、自らの力を誇り、主の御力をないがしろにする者に対して、罪の裁きを行われます。そこには例外はありません。
 しかし、その後罪を悔い改め、主への信仰を告白する者には、救いの御手を伸ばしてくださいます。主の御力を受け入れ、主に従うのに、早い遅いは関係ありません。
 今の時代、世界の為政者・指導者たち、彼らに取り巻く人たちに、主なる神はネブカドネツァル王が見た夢をお示しになっています。すでに救いに入れられた私たちは、この夢を解き証すことが求められます。
 世にあって、大きな声で人々に罪の悔い改めを語ることを躊躇し、思い悩みます。
 しかし主なる神は、このネブカドネツァル王が、「この夢とその解釈を畏れるに言うがよい」(16)と語ったように、福音を解き明かすときをお与えくださいます。私たちは、そのときに臆することなく、主を証しすることが求められています。
     
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「神の御力を知りながら侵す罪」  ダニエル書5章
Ⅰ.父ネブカドネツァルに起こったこと
 4章では、主なる神がバビロンの王ネブカドネツァルに夢で現れ、主の御業を啓示しました。バビロンの知者たちは誰一人王の夢を解釈できる人はいませんでしたが、ダニエルは、王の夢を解き証しました。そして、王が見た夢はダニエルが解き明かした通りに実現します。ネブカドネツァルは王位を剥奪され、社会からも追放されます(4:28-30)。そればかりか、ネブカドネツァルが主なる神を誉め讃え主を讃美すると、主は改めてネブカドネツァルに王として復権させてくださいました(4:31~34)。

Ⅱ.ペルシャツァルに示される神のしるし
 一方、息子であるペルシャツァルが王になったとき、こうした主なる神の御力は忘れ去られ、自らの権力を誇り、偶像を神々として誉め讃えます(5:1-4)。
 そうした中、一つのしるしが示されます。人の手の指が現れて、文字を書き始めます。夢とは異る主なる神の奇跡が、直接現れたのです。王は恐怖にかられて顔色が変わり、腰が抜け、膝が震えます(6)。
 主なる御業は、形を変えて、様々な仕方で啓示されます。「これは夢とは異なる」と語ることは方便であり、こうしたことから神の御力を顧みることが求められます。

Ⅲ.しるしを見て、神の御力を見ない罪
 このとき王妃が答えます。「お国には、聖なる神の霊を宿している人が一人おります。父王様の代に、その人はすばらしい才能、神々のような知恵を示したものでございます。……ダニエルという者で、父王様はベルテシャツァルと呼んでいらっしゃいました。このダニエルをお召しになれば、その字の解釈をしてくれることでございましょう。」(10-12)。
 ここで王妃の受け答えは、楽観的であり、ダニエルにこのしるしの意味を説き明かされれば、王は祝福を得るものだと思っていることですが、しるしの意味を知れば良いのではなく、主なる神の御支配・御力を受け入れることが求められています。
 さらに言えば、王妃がダニエルがネブカドネツァル王に夢の解き証しを行ったことを知っていたのであれば、王であるペルシャツァルが知らないはずがありません。
 ダニエルが夢を解き明かすことによって、主なる神が御力をもって存在されることが示されたにも関わらず、ダニエルの力を「神々の霊を宿している」(14)と語り、主なる神を無視し、他の神々の中に位置づけることは大きな罪です。

Ⅳ.目の前のしるしではなく、主なる神の御力を見よ!
 ダニエルはペルシャツァル王に語ります。「父王様は傲慢になり、頑に尊大にふるまったので、王位を追われ、栄光は奪われました。父王様は人間の社会から追放され、心は野の獣のようになり、野生のろばと共に住み、牛のように草を食らい、天から降る露にその身をぬらし、ついに悟ったのは、いと高き神こそが人間の王国を支配し、その御旨のままに王を立てられるのだということでした」(20-21)。息子であるペルシャツァルは、父親がどのようになったのかを知っています。つまりダニエルは王の夢を解き明かしただけではなく、主の御力がネブカドネツァルに及んだのです。
 そのためダニエルは「さて、ベルシャツァル王よ、あなたはその王子で、これらのことをよくご存じでありながら、なお、へりくだろうとはなさらなかった。天の主に逆らった」、「だが、あなたの命と行動の一切を手中に握っておられる神を畏れ敬おうとはなさらない」と語り叱責します(22-23)。
 主なる神の存在ばかりか、主なる神の御力を知りながらも、それを無視し、偶像を神として誉め讃えることは、主なる神を侮辱している行為です。
 ダニエルは、ネブカドネツァルが主なる神を受け入れ、悔い改めたように、ペルシャツァルに対しても、主の御力を受け入れ、自らの罪を悔い改めることを求めていたのですが、ペルシャツァルは傲慢のままであったため、主はペルシャツァルの治世を終わらせ、そして裁きを下します。
 主なる神は夢やしるしに現れます。しかし、その夢やしるしだけを気にして、その背後にある主なる神の御業を顧みなければ意味がありません。「イエスはお答えになった。『よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない』」(マタイ12:38-39)。
 私たちは目の前に示された事象を追い求めてしまいますが、その背後にあり世界を治める御力を持っておられる主なる神を畏れることが求められています。
      
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「主への信頼が揺らがないダニエル」  ダニエル書6章
序.
 ネブカドネツァルの後を継いだバビロンの王ペルシャツァルは、自らの罪の故に主の裁きにより殺されました(5:30)。このことをダニエルは、書かれた文字を次のように解き明かしていました。そして、バビロンは滅び、王国はメディアとペルシアに二分されました(5:28)。メディアのダレイオス王とペルシアのキュロス王が、どのような形でバビロンを統治していたのかはっきりしませんが、ダニエル書を読む限り、当初はダレイオス王が統治し、後にペルシアのキュロス王が統治していたように読み取ることができます。

Ⅰ.ダレイオス王の支配とダニエル
 ダレイオス王は、120人の総督、その上にダニエルを含む3名の大臣を置き、王国を治めさせました(1-4)。つまりダニエルは、ダレイオス王に次ぐ、ナンバー2の地位が与えられていました。
 自らの欲を求める者は、ユダヤ人であるダニエルのことを快く思いません。そのため大臣や総督は、政務に関してダニエルを陥れようと口実を探します(5)。しかし何も見つかりません。また、ダニエルがダレイオス王から信頼されているため、王の反対があればダニエルを失脚させることはできません。そのため彼らは、ダレイオス王であっても拒否することができない法律を提案します。「向こう30日間、王様を差し置いて他の人間や神に願い事をする者は、だれであれ獅子の洞窟に投げ込まれる、と」(8)。王は、自らの地位が堅固になり守られることでもあり、ダニエルを狙い撃ちにした禁令であることを見破ることができず、反対することなく禁令に署名します。

Ⅱ.信仰に生きるダニエル
 一方、この法律が発布されることにより、ダニエルは自らの信仰が試されることとなります。ダニエルは王が禁令に署名したことを知っており、ダニエルが主なる神を礼拝するときを彼らが待っていることも明らかです(11)。30日間、主なる神を礼拝することを控えれば、その地位は守られ、穏便に日々暮らすことができたことでしょう。
 しかしダニエルは家に帰るといつものとおり主を礼拝します(11)。これは勅令に違反する行為であり、単に習慣で行ったことではありません。つまりダニエルにとって、主なる神を信じて罪の赦しが与えられ、神の御国における永遠の生命が与えられることと比べるならば、勅令に反して獅子の洞窟に投げ込まれることは小さなことでした。
 つまり罪の故に肉に死に、永遠の滅びに落とされるはずの人間が、救われて罪が赦され、神の子として永遠の生命の約束に生きることが、どれだけすばらしいことであるかを、ダニエルは理解していたのです。
 これは良心の自由を貫く行為であり、ここに王への反抗の意思はありません(参照:ウェストミンスター信仰告白20:2)。
 恵みの契約に生きているダニエルを、主なる神は救い出してくださいました。
 私たちも、異教の国においてキリスト者として召されています。独裁者の支配や陰謀によって迫害が行われたり、戦争の最中に置かれるということは、今すぐはないでしょう。しかし日々の生活において、大なり小なり信仰が試されているかと思います。
 こうしたとき私たちは、自らの保身を考えてしまいます。しかしこうしたときにこそ私たちは、キリストの十字架の御業により罪が赦され、神の子としての永遠の生命が約束されていることを思い出し、主への信仰を貫くことが求められています。

Ⅲ.信仰に生きることこそ、真の伝道
 ダニエルは王の勅令を破りましたが、しかし王に逆らう行為ではありません(22-23)。このことをダレイオス王も理解しました。そのためダレイオス王は、ダニエルを獅子の洞窟から救い出し、ダニエルに代わって、ダニエルを陥れようとした者たちを獅子の洞窟に投げ込みました(25)。
 主なる神への信仰を貫いたダニエルを見たダレイオス王は、ダニエルに働く主なる神を受け入れ、信じる者とされました。そして主なる神をおそれかしこむように、全国に勅令を発布します(26-27)。
 教会では良く「伝道」することが求められます。しかし、真にキリストが証しされ、伝道となることは、もちろん伝えると言う行為も大切ですが、それ以上に私たち自身が信仰に生きることです。このことを私たちはダニエルより学ぶことができます。
 続けてダレイオス王は自ら信仰告白を行います(27)。信仰に生きるダニエルにより、ダレイオスは真に信仰を告白する者とされたのです。
      
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「ダニエルの見た第一の幻」  ダニエル書7章
 
序.第二部
 ダニエル書は7章から第二部に入ります。ダニエルは「わたし」と1人称を用いて語り、ダニエル自身が見た4つの幻について語ります。7章はベルシャツァルの治世元年(BC553)とあり、8章は同3年です。つまり5章においてペルシャツァルが幻を見て、その後主の裁きにより死を遂げていくことの前に位置します。

Ⅰ.幻を見るダニエル
 さてダニエルは一つの夢を見ました(1)。ダニエルは、ネブカドネツァル王の夢を解き明かしますが、ダニエル自身が答えたのではなく、主なる神が答えをダニエルに賜ったのであり、そのことがここで明らかになります(15)。主なる神が天使を遣わし、幻を解釈してくださいます(16)。
 ダニエルの幻には4つの獣が登場します。4つの大国のことであり、2章でネブカドネツァル王が見た夢に似ています。しかしこの7章は、2章の後の時代のことであり、ダニエルは神の御計画を顧みることが求められています。
 4つの国がどこかが問題なのではなく、4つの国がどのようになっていくのか、その後について解釈されなければなりません。

Ⅱ.キリストの御業と新約(終末)の時代が朧気に示される
 第四の獣には10本の角があり、強大な力を誇っています(4-8)。その後に、「王座が据えられ、『日の老いたる者』がそこに座し」ます(9)。これは主なる神御自身の臨在が示されます。
 天使は「見ていると、この角は聖者らと闘って勝った」(21)と語ります。第四の獣にある角が勝利を遂げる、これはイエス・キリストが逮捕され、十字架に架けられ、死を遂げること、また新約の時代におけるキリスト者の迫害を語っているかと思われます。
 しかし続けて語ります。「やがて、『日の老いたる者』が進み出て裁きを行い、いと高き者の聖者らが勝ち、時がきて王権を受けたのである」(22)。またダニエルの見た幻においても、「さて、その間にもこの角は尊大なことを語り続けていたが、ついにその獣は殺され、死体は破壊されて燃え盛る火に投げ込まれた」(11)と語られます。第四の獣は力を誇っていますが、殺されます。キリストは十字架の死から復活を遂げ、サタンに勝利し、主に従うキリスト者に勝利が与えられます。
 しかしその後も生き延びる獣があります。彼らの権力は主により奪われていますが、生かされ力を奮います。これが新約の時代です(12)。
 9~12節、そして21・22節を見ていると、第四の獣の時代と、主の勝利が錯綜しているようですが、これらのことは黙示として朧気に啓示されたことであり、成し遂げられたキリストの御業と新約の時代を顧みることにより、筋が通るのだと思います。

Ⅲ.主の支配と権威が明らかにされる
 9・10節は、さながら神の国における最後の審判のようです。キリストが来臨し、十字架の御業を完成するということは、最後の審判と神の国の完成が示されるということです。そのためすべての者が、聖・義・真実な主なる神の御前に立たされることが明らかになります。そしてすべての罪が明らかにされます。
 主の裁判があることが明らかになっても、罪に罪を繰り返す者たちがいます。最後の審判までは、彼らも生かされているのです。
 しかし主なる神の御力が明らかになり告白されます(13-14)。「人の子」であるイエス・キリストが指し示されています。イエス・キリストが、人としてお生まれになるのは、神の権威・威光・王権を受けた者としてであり、全世界の人々がキリストに従うことが求められています。
 キリストは来臨と十字架により御業を成し遂げ、神の右の座に座しておられます。今も、キリストの統治が私たちに示されているのです。

Ⅳ.終末の時代と神の国の到来
 第四の獣が世界を支配します。第四の獣には10人の王が立ちます。さらに一人の王は、他の3人の王たちを殺す暴虐ぶりです。これが終末の時代です(23-28)。
 そして彼は、いと高き神・神の子イエス・キリストに敵対し、キリスト者を苦しめ、迫害します。そのためキリスト者は、彼らの手に渡され、苦しめられます。彼は、神を冒涜し、神の民を迫害し、偶像崇拝を持ち込み、さらにキリスト者を殉教の死に渡します(25)。
 彼らの支配は、一時期・二時期・半時期、つまり三時期半のとき、続きます(25、参照:黙示録12:14)。この三年半とは、神の国が完成するのが7年に対して、その途中でその時を迎えるという、必ず終わりがあることを指し示しています。
 主が勝利を遂げり、第四の獣の支配は終わり、彼らは滅ぼされます(26-27)。そして、王権・権威・支配の力は、いと高き方の聖なる民、キリスト者に与えられます。そしてその国・神の国は、とこしえ永遠に続きます。
 主に逆らうすべての者たちは滅び、主に従う者は救い出され、神の国の栄光に入れられる約束が、私たちに示されています。
     
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「神の支配の下に生きよ!」  ダニエル書8章
序.2~7章はアラム語はあったが、8章ではヘブライ語に戻る
 ダニエル書も第7章から後半に入り、ダニエルの見た幻について学んでいます。
 またダニエルは2:4~7章までアラム語で記していましたが、8章からヘブライ語に戻ります。いくつか理由が考えられますが、第一の理由は、アラム語が当時の国際共通語であり、王の勅令・官僚文書等はアラム語で記されていました。そのため2~7章は、異邦の王たち(バビロン・メディア・ペルシア)に関わる物語や夢の解釈が中心で、国際的な文脈を持つためにアラム語が用いられたと考えられます。
 第二の理由は、2~7章は異邦の王国の興亡に関することが記されており、8章以降は、イスラエルに特化した終末の預言、神の国の完成が指し示されているためです。

Ⅰ.神の支配の下にある帝国
 さてダニエルは第二の幻を見ますが、幻の中でバビロンを離れ、エラム州の都スサにいます。ペルシア帝国の中心都市であり、ウライ川のほとりです。ペルシア帝国も主の御支配の下にあることを示しています。
 ダニエルの見た幻に一頭の御羊が現れます。御羊はメディアとペルシアであり、雄山羊はギリシアです(20)。そして、際だった一本の角はアレクサンドロス大王であると言われています。そしてアレキサンドリア大王が死去することにより、4人の将軍が立ち、帝国が分割されていきます(22)。
 主なる神は、この幻をダニエルに見せることにより、バビロンが滅びることが示されたように、どのような帝国でも、滅びることを語ります。そして雄山羊が御羊を打ち倒すことにより、主の御手にあって、メディアとペルシアがギリシアに滅ぼされていくことを物語ります。
 このことは、イスラエルが滅ぼされ、捕囚の民とされたダニエルたちが、異国の為政者にひれ伏すのではなく、救いをお与えくださる主なる神を信じ、主の御力に委ねて歩むように求めています。

Ⅱ.神の民を迫害する者と主による裁き
 「そのうちの一本からもう一本の小さな角が生え出て、非常に強大になり」(9)、と語られます。これはシリヤのセレウコス王朝から出て来るアンティオコス・エピファネスを指すと言われています。エピファネス(在位:紀元前175~164年)は、セレウコス朝シリアの王で、ユダヤ教への弾圧とマカバイ戦争の引き金となった人物で、ギリシア文化の強制や神殿の冒涜など、後世に強烈な影響を与えた政策で知られています。
 彼により神の民に対する激しい迫害が行われます(10-12, 23-25)。
 しかし幻は続けて語ります。「日が暮れ、夜の明けること2300回に及んで、聖所はあるべき状態に戻る」と(14)。夜と朝に聖所において献げ物が行われます。2300回ですから1150日(三年半に満たない日数)です。3年半が終わると、サタンの支配は終わりを遂げられていました(7:25)。迫害者の迫害も、主が定めておられ、必ず終わりの時を迎えます。そして迫害者たちも、
 「ついに最も大いなる者に敵対し
  人の手によらずに滅ぼされ」ます(25)。
 教会は、迫害者からの攻撃を受けますが、決して滅びることはなく、主なる神が主に逆らい・神の民に敵対する者を滅ぼしてくださり、神の民・教会は守られます(参照:ウェストミンスター信仰告白25:5)。

Ⅲ.聖所はあるべき状態に戻る
 「聖所はあるべき状態に戻る」と語られていることに注目しましょう(14)。ここでダニエルが幻の解釈を求めたときに、天使ガブリエルが登場します(15-16)。
 ガブリエルは、マリアに対する受胎告知に現れた天使です(ルカ1:19、26-28)。そしてガブリエルは、ダニエル書と受胎告知にしか登場しません。つまりダニエルの幻にガブリエルが登場したということは、ダニエルに示された幻がキリストによる救いを指し示しているということを意味します。つまり「聖所はあるべき状態に戻る」(14)は、キリストの十字架の御業において回復する神礼拝を指し示されています。
 主イエスは御自身の十字架による神殿の崩壊と回復を語られました(ヨハネ2:19~22、参照:ヘブライ9:11-14)。つまりダニエル8章は、地上の聖所の破壊を通して、天の大祭司キリストが現れることを指し示していますす。

結論.
 世界は、帝国・一人の独裁者により、戦争が行われ、迫害が行われます。このとき、聖所にも罪が持ち込まれ、腐敗します。
 しかし主なる神の支配は継続しています。そして、キリストの十字架の御業により、帝国も独裁者も滅ぼされ、腐敗した聖所も破壊されます。そして神の国に真の平和が実現し、真の神礼拝が取り戻されます。
 だからこそ私たちキリスト者は、今の世界や日本の動向に右往左往することなく、主の支配を信じて、主の御言葉に聴き、信仰生活を送ることが求められています。
      
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「主による約束と、契約を成就するキリスト預言」  ダニエル書9章

[ダニエル書の年代]
BC605年(1章) ユダ王国エルサレム陥落・ダニエルの捕囚開始(ユダの王ヨヤキムの3年)
BC603年(2章) ネブカドネツァル王の2年
3~4章
BC553年(7章) ベルシャツァル王の元年
BC551年(8章) 同3年
BC539年(5章) ベルシャツァル王・バビロン陥落
同年(9章) ダレイオス王の1年
BC538~534(6章) ダレイオス治下
BC538年 キュロス王の元年までダニエルは仕えた(1:21)
BC536(10~12章) キュロス王の3年


Ⅰ.主のよって約束された70年
 ダニエルの捕囚はユダの王ヨヤキムの3年(BC605)に始まります。そしてダレイオスの治世第一年(1)は、BC539年です。つまりバビロン捕囚となってから66年の年月が経っていました。 ここでダニエルはエレミヤ書を読みます(2、参照:エレミヤ25:11-13、29:10-14)。このときダニエルは、捕囚がもうすぐ終わりを告げることを知ります。そして預言書を読んだダニエルは、この70年間の捕囚が、イスラエルの罪に対する主の裁きであることを受け入れます(3-5)。

Ⅱ.イスラエルの悔い改め
 このときダニエルは「わたしたち」と語り始めます。主なる神は、預言者をとおしてイスラエルに悔い改めを迫りました。しかし、イスラエルは預言者の声に耳を貸さなかったのです。
 ダニエルは、イスラエルとしての悔い改めを語ります(4-11)。ダニエル自身は主の御声に聴き従ってきたわけであり、他のイスラエルの人々の罪として、責任を逃れることもできました。しかしダニエルは、「私たちは神に背きました」(9)……と、繰り返し語ります。主なる神がアブラハムと恵みの契約を結んでくださったのは、イスラエルという信仰共同体に対してであり、ダニエルはイスラエルの一員として悔い改めを行います。
 アブラハムに祝福を約束された神は、呪いも語っておられました(申命記28:1-2, 15,20)。
 またダニエルは、自らも主の御前には罪人であることを受け入れているからです。だからこそダニエルは「わたしたちの罪」として、悔い改めを行うのです(参照:ウェストミンスター信仰告白15:2)。
 ダニエルの悔い改めの祈りは、イスラエルを代表するものであり、主なる神は、ダニエルの祈りを受け入れ、和解と救いをお示しくださいます。

Ⅲ.天使ガブリエルにより示される幻
 ダニエルは、さらに主なる神への嘆願を祈り続けます(17-20)。このとき、天使ガブリエルが登場します(21)。ガブリエルは、ダニエル書8・9章と、受胎告知であるルカ福音書1章にしか登場しません。このことを理解すると、これから示される幻が、主イエス・キリストに関わることであることを、新約に生きる私たちは理解しなければなりません。
 つまりガブリエルが語る幻は、アブラハムに示された恵みの契約がメシアにより成就することを指し示していることとなります。

Ⅳ.メシア到来のときが示される!
 ガブリエルが幻を示します。ここで70週と出てきます(24)。主なる神の完全なる御業が示されるということです。最初に70年確認しましたが、主なる神が約束を守ってくださることを、ダニエルは自らの体験において確認することができました。それ故に、主が幻によって語られることを実現される方であることを実感しています。
 70は、象徴的な数字であり、主の完全さを示す数字です。このときが過ぎれば、主に対する逆らいは終わり、罪は封じられ、不義は償われると語ります。そして正義が到来し、聖なる者に油が注がれます(24)。ここでメシアであるイエス・キリストの到来が予告されます。
 そのため、「これを知り、目覚めよ」と語られます(25)。今がどのような時期であるのかを、確認することが求められています。

Ⅴ.キリストによってもたらされる恵みの契約の完成
 エルサレム復興と再建に7週とあるのが、捕囚からの解放のときか、エルサレム神殿再建のときか、考えるところですが、その後の62週の時を経れば、メシアであるキリストが到来する時がきます(25)。キリストの十字架により、神殿が3日で再建されます(ヨハネ2:19-22)。しかし、都と聖所は次に来る指導者の民によって荒らされます(26)。新約の教会における迫害が起こり、AD70年のローマによるエルサレム神殿の崩壊が起こります。
 最後に「彼」が出てきます(27、参照:創世記3:15、イザヤ52:14,15、同53章)。キリストが指し示されています。形ある神殿が崩壊し、いけにえと献げ物が廃しされることにより、旧約における秩序は完全に終了し、キリストによる霊的統治が行われます。
 ダニエルがイスラエルの罪を悔い改めたのは、イスラエルの民が、神を顧みることなく偶像崇拝を行っていた結果による主による裁きを受け入れたからです。キリストの十字架の御業が完成した新約に生きる私たちですが、今の社会の状況、教会の現実を顧みなければなりません。個人として、また信仰共同体である教会として悔い改めが求められています。そして霊的一致・一つの教会になることが求められています(使徒1-5章)。
       
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 「主なる神による主権と見えない戦い」  ダニエル書10章
 
序.
 ダニエル書は、1~6章ではバビロン捕囚となったダビデたちの信仰の戦いについて語られてきました。そして後半7~12章では、ダニエルが見た4つの幻について語られています。これらの幻は、いずれも終末を黙示するものであり、主の支配と勝利が指し示されています。

Ⅰ.ダニエルの祈りを聞き入れてくださる主なる神
 ペルシア王のキュロスの治世3年はBC536年ですが(1)、キュロス王の1年に最初のエルサレム帰還が行われた後、ダニエルはまだチグリス川の岸におり、帰還をしていませんでした(4)。
 ダニエルは断食し、祈り、嘆きながら主を求めていました(2-3)。これからどのようになるのか、分からない状態にあって、ただただ主に委ね、祈り求めていたと言って良いかと思います。
 このとき、天からの使者が現れ、ダニエルの祈りが天でどのように扱われていたかを明らかになります(5-6)。つまりここでは、神の民の祈りが天に届き、神の御使いが働くことが明らかになります。それと共に、悪しき霊的勢力が抵抗するという、目に見えない世界の真実が明らかにされます。

Ⅱ.祈りによる信仰の養い
 12 彼は言葉を継いだ。「ダニエルよ、恐れることはない。神の前に心を尽くして苦行し、神意を知ろうとし始めたその最初の日から、お前の言葉は聞き入れられており、お前の言葉のためにわたしは来た。」
 主なる神は、ダニエルの祈りをすべて聴いていてくださいます(12)。それは今に生きる私たちの祈りも同様です。祈っても、祈っても、聞き入れられないと思ってしまうこともあるかと思います。しかし、主はすべて聴いてくださっています。
 ただ、私たちの祈りに対して、主はすぐに聞き届け、答えてくださるばかりではありません。待たなければならないことがあります。
 ここでは21日間、ダニエルは待たされました(13-14)。祈りには忍耐が伴います。主なる神は、ATMのように、お金を求めれば自動的に引き出せるようなお方ではありません。ときには祈り始めてから何年も待たなければならないこともあります。時として、祈っていることが自己目的のためであり、主の御心に適わないときには「否」という答えが待っていることもあります。
 待つときに忍耐が伴います。待つことができずに主を疑うことも出てくるかも知れません。しかしこうしたときにこそ、揺るぎない信仰が求められるわけで、生きて働く主なる神を見上げることが求められています。
 私たちの祈りは、御言葉・聖礼典と共に、私たちの信仰の養いに非常に大切なものであり、主が用いてくださいます。私たちは、主の御前に静まり、御言葉に聴き、祈りを献げることが日々求められています(参照:ウェストミンスター大教理154)。

Ⅲ.主の御支配と勝利を信じる信仰に生きよう
 ここで、「ペルシア王国の天使長」(13)、さらに「ギリシアの天使長」(20)が出てきます。ここではそれぞれの国と解釈するのではなく、神の御国における主なる神が遣わす大天使長ミカエル(13)とサタンとの戦いと考えて良いかと思います。
 大天使長のひとりミカエルはダニエル書と新約聖書ユダ書9節、ヨハネ黙示録12:7で出てくるだけです。ミカエルはサタンとの戦いにおける神の勢力を代表する御使いです。
 ミカエルにあって、主がサタンに勝利を遂げられます(黙示録12:7-10)。ミカエルによる主の勝利はキリストの再臨の後、最後の審判において実現します。それは遅れではなく、主の定めておられる時であり、すべての神の民が集められるときを待たなければなりません。私たちは、神の御計画と摂理を受け入れることが求められます。
 主なる神は、御自身の清い目的に役立つように、罪・サタンを用いられるのであり、最終的に勝利を約束してくださっています(参照:ウェストミンスター信仰告白5:4)。
 ペルシアの王キュロスが支配し、バビロンが滅ぼされることにより、イスラエルの民の一部は、エルサレムに帰還を始めています。しかしそれがスムースにいっていません。主が約束された捕囚の期間70年が過ぎようとしている中、ダニエルは主の御業が遅いことを嘆くのではなく、自らの民の罪の悔い改めと主の恵みが示されるように祈り求めます。
 今に生きる私たちキリスト者も、目の前の現実を見ると、希望を持つことができず失望してしまうこともあるでしょう。世界を見渡せば、独裁者が支配し、力により、戦争により、支配を広げようと躍起です。私たちの身の回りを見ると、物価高となり、先が見通せなくなっています。さらにキリスト教会の現状を見ると、高齢化、教勢の減少、牧師・役員の減少しています。
 私たちは、目の前のことだけを見ていると失望してしまいます。今私たちは、改めて主なる神の御支配、救済の歴史、キリストによる十字架の御業、最後の審判により主がサタンに勝利を遂げ、神の民を神の御国に凱旋させてくださる、この大いなる御業を顧み、信じ、すべてを主に委ねて祈りつつ、日々歩むことが求められています。

        
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 「歴史を支配する神と終わりの日の確かな希望」
  ダニエル書11章2節~12章4節
 
Ⅰ.摂理に現れる主の御働き
 神が遣わした人が、ダニエルに語りかけます。「さて、お前に真理を告げよう」と。真理とは、真理の書(10:21)であり、神の永遠のご計画が記されています。それがダニエルに明らかにされます。
 今立てられているペルシャのクロス王の後、カンビュセス、スメルディス、ダリヨス・ヒュスタスペスが立ち、「第4の王」はクセルクセスです。また、「勇壮な王」はアレクサンドロス大王であり、大いに支配し、ほしいままに行動します(3)。しかし彼はその頂点に達したと思われた瞬間にくずおれます(8:8)。彼は急死して、その帝国は4人の将軍によって分割され、支配されることになります。彼には2人の息子がいますが、権力争いのために二人共、殺害されます。
 「南の王」(5)はプトレマイオス1世(BC323-285)で、「将軍のひとり」とはセレウコス1世(BC312- 280)と言われ、10~19節は、主としてアンティオコス3世(BC223-187)のことが語られています。21~35節では、アンティオコス4世エピファネス(BC175-163)の悪行について語られていきます。
 国・王の興亡、国々の争い、人間の野心のすべてが、偶然ではなく、神の御手の中にあり、神の御計画が歴史において実現することをこの11章で語っています(参照:ウェストミンスター信仰告白5:1)。

Ⅱ.苦難の中で清められる神の民
 そして神の民が激しい迫害を受けることが語られていきます(33-34)。熾烈な迫害が起こると、すべての神の民が同じように闘うことができるかと言えば、そうではありません。多くの場合、躓き、棄教する者たちがでます。
 また信仰の戦いを戦い抜いた者たちは、ときとして殉教の死にまで追いこまれます(35)。しかし私たち神の民は、体は殺しても、魂を殺すことのできない人たちを恐れることはありません(参照:マタイ10:26-31)。苦難は、神の民を苦しめ・滅ぼすためではなく、信仰が純化されるための訓練として与えられています(ウェストミンスター信仰告白5:5)。

Ⅲ.終わりの日の確かな希望
 12章に入ると、終末について語られていきます。「その時、大天使長ミカエルが立つ」(12:1)。ミカエルが、終末において、サタンに勝利を遂げてくださり、神の民を救い出してくださいます。そして「神はお前の民の子らを守護する」(1)と、力強く宣言してくださいます。しかし同時に、キリストの再臨のときまで、神の民の苦難は続きます。
 しかし「あの書」(1)である「命の書」(黙示録3:5)に名が記されている神の民は、神の永遠の選びにより、命の書に名が記されているからこそ、どのような迫害であっても、主の守りにより、戦うことができるものとされるのです。
 「多くの者が地の塵の中の眠りから目覚める。
  ある者は永遠の生命に入り
  ある者は永久に続く恥と憎悪の的となる」(2)。
 再臨したキリストによって行われる最後の審判について語られています。キリストが十字架の死から三日目の朝に甦られたように、すでに肉の死を遂げたすべての者に復活の命が与えられます。そして命の書に名が記された神の民・キリスト者は、永遠の生命・神の御国の祝福に満たされます。そして神に従わない者たちは永久に続く恥と憎悪がある、とはっきりと語ります。
 「目覚めた人々は大空の光のように輝き
 多くの者の救いとなった人々は
 とこしえに星と輝く」(3)。
 「目覚めた人々」とは、「賢い人たち・思慮深い者たち・悟りのある人たち」のことであり、生命に定められた人たちのことです。
 私たちは歴史の中に生きています。この歴史を刻む人間は、全的に堕落しており、罪を繰り返します。人々を支配しようとし、虐げます。そして世界は混乱の中に置かれます。そうした中にあっても、主の支配は揺るぎません。そして最後まで主の御言葉に従い、主による約束を信じて生きる者に、主からの祝福が約束されています。

Ⅳ.終末に生きる私たち
 そして最後に聖書は語ります。「ダニエルよ、終わりの時が来るまで、お前はこれらのことを秘め、この書を封じておきなさい。多くの者が動揺するであろう。そして知識は増す」(4)。最後の一文、協会共同訳では、「多くの人々は探求して知識を増やす」と訳します。多くの人たちが終末に恐怖を覚え、あることないこと、情報を集めます。しかし主がお語りになる御言葉に聞かなければ、真理にたどり着くことはありません。
 主はダニエルに、これらの幻を秘めておき、封じておくように命じます。人々が混乱するからです。これは私たちキリスト者も同様です。ある者たちは、終末の裁きを強調して神を信じるように迫ります。しかし主は、こうしたことを禁じておられ、秘めておくようにと語られます。
 主は、御計画されたことを、歴史において実現されます。そして主なる神を信じる私たちに、救いを実現してくださいます。
 私たちは、人々に恐怖に訴えるのではなく、主がお示しくださる福音を信じることにより与えられる救いを語り続けることが求められています。
         
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