| ◆コロサイの信徒への手紙 連続講解説教 |
| 「神からの恵みと平和」 コロサイ1:1~2 2026.2.15 ウェストミンスター信仰告白26:2 |
| Ⅰ.コロサイ教会と使徒パウロ 今日からコロサイの信徒への手紙を読み進めることとします。 コロサイの町は、小アジヤにあって、ラオデキヤなどと並ぶ町であり、コロサイ教会はエパフラスによって立てられた教会であると考えられています(1:7)。そして著者とされるパウロも(1:1)、一度も行ったことがない町でした(1:4、2:1)。 ただ批判的な神学者は、パウロの名を借りた他の者が手紙を執筆したと語ります。理由は、このコロサイ書において、他のパウロ書簡では用いられていない語彙が数多く用いられているからだと語ります。 私たちはこれからコロサイ書を読み進むのですが、コロサイ書に置かれた特別な状況も考えなければなりません。つまり、異端的な思想でありますグノーシスと呼ばれる思想があり、その教えに対する反駁をパウロは語ります。そのため、他のパウロ書簡において用いられていない語彙が用いられていても、気にする必要はありません。 たとえパウロが手紙の著者でなくても、パウロのことを良く知っている人物が手紙を記したと言えます。 さらに言えば、コロサイ書が神の御言葉である聖書に留められていることから、私たちは、コロサイ書を主なる神が私たちに語りかける御言葉として読べば良いのです。 Ⅱ.コロサイ教会とパウロを結びつけるエパフラス パウロとコリント教会を結びつけるのが、コロサイに教会を建て、自身もこのコロサイ出身であったエパフラスです。エパフラスは、コロサイ書が執筆されているとき、パウロの所に留まっています(4:12-13)。 また、「キリスト・イエスのゆえにわたしと共に捕らわれている、エパフラスがよろしくと言っています」と語られており(フィレモン23)、エパフラスはパウロと共に囚われの身となっています。つまりエパフラスはパウロと共に、迫害を恐れることなく、福音宣教に励んでいたのです。 そうであるならば、このエパフラスは、コロサイの教会のことを心配して、パウロに熱心に語っていたことではないでしょうか。また、これだけパウロに影響を受けているエパフラスであれば、コロサイの教会の人たちにも、パウロのことを語っていたはずであります。そうしたことから、パウロがコロサイ教会に、手紙を書き送ることとなったと言って良いかと思います。 Ⅲ.手紙が執筆された理由 パウロは、一度も伺ったこともないコロサイ教会に手紙を書き送ることとなったのは、コロサイ教会において、異端的な教えであるグノーシス思想が教会の中に持ち込まれ、教会が揺れていたからです。 グノーシスとは、ギリシヤ語で「知識」「認識」を意味しますが、グノーシス主義は,人間はグノーシス(霊知)を持つことによって救済されるという主張に立ちます。グノーシスという霊知をもたらすのがキリストであり,それを霊的直観によってとらえるように教えました。つまり信仰に、いわゆる精神論が持ち込まれます。 またグノーシス主義の特徴は,徹底した二元論にあります。すなわち,霊と肉・霊と物質を分けて,前者は純粋で神秘なもの,後者は罪を持ち堕落したものとします。 二元論になると、信仰が歪んできます。教会が健全に成長することができず、むしろ崩壊に向かいます。 この手紙をパウロは、兄弟テモテとの連署、つまりパウロ個人からの手紙としてではなく、教会としての公的な手紙として、コロサイ教会に手紙を書き送ります。 Ⅳ.霊的な交わりが行われるパウロ・エパフラスとコロサイ教会 パウロは、「コロサイにいる聖なる者たち、キリストに結ばれている忠実な兄弟たちへ」と語ります(1)。この時点で、コロサイ教会にグノーシスの影響がどれだけ及んでいるかは分かりません。しかし教会は現に存立し、そこに主への信仰に立つ忠実な信仰を持つキリスト者がいました。 そしてパウロは、キリスト者相互の霊的交流により、互いの信仰の養い、特にグノーシスと戦いながらも健全な信仰を保つようにコロサイの信徒たちを励まします(参照:ウェストミンスター信仰告白26:2)。 聖徒の交わりは、離れていても、文書や祈りにより、交わりを行うことができ、互いに励まし合いことができます。 そのために中会・大会的な交わりは、直接、集会等で出会うことと共に、互いの教会を覚えて、祈りあうことが大切です。 互いの教会が、弱り・小さくなる時代だからこそ、中会・大会、あるいは教派を超えた交わりを持ち、互いの信仰の養いをもつことが大切です。 |
| 先頭に戻る 「説教」ページに戻る |
| 「希望に基づく信仰と愛」 コロサイ1:3~5 2026.3.1 ウェストミンスター小教理問86 |
| 序. パウロは、エパフラスが伝道して立て上げたコロサイの教会に手紙を書き送っています。グノーシスという異端が教会の中に入ってきている最中、エパフラスがパウロに手紙で福音を語ることを、依頼したのだと考えられます。 Ⅰ.コロサイ教会のことを思うパウロ いわば教会の危機の時ですが、パウロはコロサイ教会の人たちを批判することはしません。パウロはむしろ、コロサイ教会の人たちが信仰に踏みとどまっていることをねぎらう言葉をかけているようです(2)。 そして続いて、「わたしたちは、いつもあなたがたのために祈り、わたしたちの主イエス・キリストの父である神に感謝しています」と語ります(3)。まったくキリスト者がいなかった街に、キリスト教会が立てられ、そこにキリスト者が集っていることはすごいことです。伝道したのはエパフラスですが、そこにキリスト者を起こしてくださったのは、主なる神の御業です。そのことをパウロは、主に感謝しています。 Ⅱ.キリスト・イエスにおいて持っている信仰 続けてパウロは「あなたがたがキリスト・イエスにおいて持っている信仰と、すべての聖なる者たちに対して抱いている愛について、聞いたからです」と語ります(4)。 コロサイ教会には異端が入り込んでいます。そうであっても、今なおキリストの十字架の贖いに与り、信仰の道を守っている兄弟姉妹がいます。このことが大切です。 ここで語ることは、主なる神とあなたがたという縦の関係です。十戒が語る第一の板に相当します。三位一体である主なる神のみを信じ、他の神々・偶像を拝むことなく、主なる神を忠実に礼拝して、主なる神との交わりが与えられています。 Ⅲ.聖なる者たちに対して抱いている愛 続けて語ることが、隣人に対する愛、横の関係です。信仰と共に、自己中心の生活から離れ、隣人に対する愛に生きること、これは十戒の第二の板に記されていることであり、「隣人を自分のように愛しなさい」と語られる主イエスの御言葉に従った歩みです(マタイ19:19)。 イエス・キリストに対する信仰、隣人に対する愛、この正しい縦と横の関係を形成することこそが、主なる神がキリスト者に求めておられる生き方そのものです。 コロサイ教会では、異端も入ってきて、問題も抱えています。しかし、信徒たちはキリスト者としての基本的な信仰をもって歩んでいるのです。 Ⅳ.信仰・愛の礎としての希望 パウロは続けて、「それは、あなたがたのために天に蓄えられている希望に基づくものである」と語ります(5)。キリスト者としての正しい信仰は、罪が赦され、約束されている神の御国の永遠の生命の希望に基づきます。 この希望は、主なる神による恵みの契約に基づくものであり、主なる神がキリストの十字架の御業により、私たちにお与えくださった祝福です。この救いの約束の希望に生きようとするとき、必然的に、三位一体の神への信仰が養われ、救いの希望に生きることから、自分だけではなく、隣人に対する愛が生じてきます。 パウロは、「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である」と語り(Ⅰコリント13:13)、信仰・希望・愛の三つがキリスト者として大切であると語られます。そしてここでも信仰・希望・愛が語られていると言われています。 しかしコロサイ書では、神により与えられた罪の赦しと神の国の希望に基づいて、主なる神への信仰が与えられ、隣人を愛して十戒に従った信仰が養われていると言ってよいかと思います。 ですから、信仰・希望・愛と並べるのではなく、希望に基づく信仰と愛、あるいは信仰と愛の礎としての希望と語った方が、良いのではないかと思います。 Ⅴ.希望を伝える福音宣教 そしてパウロは最後に「あなたがたは既にこの希望を、福音という真理の言葉を通して聞きました」と語ります(5)。罪の赦しと神の国における永遠の生命の約束に基づく希望は、福音としての御言葉の説教を聴かなければ生じません。つまり御言葉抜きの神秘的な信仰、超自然的な現象において神を信じることはなく、通常は、福音が伝えられ、その福音を受け入れることにより救いの希望が生じ、信仰が与えられます。 このように考えるならば、私たちが信仰に生きるとき、同時に福音を宣べ伝えることが大切です。 |
| 先頭に戻る 「説教」ページに戻る |
| 「福音は実を結び成長する」 コロサイ1:6~8 2026.3.8 ウェストミンスター小教理問90、大教理問159 |
Ⅰ.信仰が守られているコロサイ教会 パウロは、エパフラスが伝道したコロサイの教会に手紙を書き送っています。エパフラスは、コロサイ教会にグノーシスという異端が教会の中に入ってきていることが心配でしかたがなく、パウロに助けを求め、手紙を書き送ってもらっているのです。 キリスト者が信仰を維持し続けることは簡単なことではなく、困難なことです。そのためパウロは、コロサイの信徒の信仰が守られていることを、神に感謝します(3)。 この堅実な信仰と愛は、救いによる希望に基づいて与えられます(5)。 Ⅱ.福音が伝えられる事により、実は必ず結ぶ! パウロは、「あなたがたにまで伝えられたこの福音は、世界中至るところでそうであるように、あなたがたのところでも、神の恵みを聞いて真に悟った日から、実を結んで成長しています」と語ります(6)。 福音が伝えられると、必ず実は結んで福音を受け入れ信じるキリスト者が増え、一人ひとりのキリスト者の信仰が成長します。 福音とは、「良き知らせ」のことであり、イエス・キリストの十字架の贖いにより救いに与ることです。これが福音の中心です。同時に、聖書全体を神の御言葉として正しく解き明かすこと、聖書全体の歴史、救いの秩序正しい理解が深められることが求められます。 そのため、説教者・牧師の説教を語る姿勢が問われることとなります。ウェストミンスター大教理問159「神の言葉は、その職務に召された人々によって、どのように説教されなければなりませんか」。 答 御言葉の宣教に労するように召された人々は、健全な教理を、〔第一に〕折が良くても悪くても、熱心に、〔第二に〕人間の知恵の、心そそる言葉によらず、御霊と力との証明によって、わかりやすく、〔第三に〕神の計らいの全体を知らせて、忠実に、〔第四に〕聞く人たちの必要と能力に合わせて、賢明に、〔第五に〕神と神の民の魂への燃え立つ愛をもって、熱烈に、〔第六に〕ただ神の栄光と神の民の回心・教化・救いをめざして、真摯に、説教しなければなりません。 パウロは、「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。…忍耐強く、十分に教えるのです。…あなたは、どんな場合にも身を慎み、苦しみを耐え忍び、福音宣教者の仕事に励み、自分の務めを果たしなさい」と語ります(Ⅱテモテ4:1-5)。 説教者が聖書を忠実に解き証し、福音を伝えているならば、必ず実が結びます。この言葉は私たちに慰めとなります。今、世界中で、神を信じるキリスト者、毎週礼拝を献げる者が減っています。高齢化し、長老・執事が減り、若い人たちが少なくなっています。いわば諦めに近い状態です。しかし私たちも、主なる神の御業を信じ、御言葉を語り続けていくことが求められています。主なる神は、信仰が実を結び、キリスト者とされる者が現れること、信徒一人ひとりの信仰が養われ、成長することを約束してくださっています。洗礼者の数が問題なのではありません。教会に来られた方々が確実に信仰に導かれること、また教会に集う教会員が信仰の養いに与り続け、信仰の成長が与えられることが大切です。 Ⅲ.パウロに助けを求めるエパフラス しかしコロサイ教会はグノーシスの異端が混入し、教会全体が苦難の中に置かれています。こうした時にエパフラスは、教会の中で一人悪戦苦闘していません。パウロの下に赴き、現状を報告し、助けを乞います。それがこの手紙の執筆に繋がります。聖徒の交わりが、大切なことです。 今でも、教会が苦難に陥ると、自分たちの群だけで精一杯となります。そして視野が狭くなり、中会に出かけません。しかしこういう時にこそ、教会間の交わり・連携が求められます。互いに交わり、弱さを覚え、必要な助けを求め、祈り合うことです。 Ⅳ.教会間の交わりを増やし、信仰を客観視せよ! 視野が狭くなると、主観的になります。しかし神の知恵は、世界中の教会において宣べ伝えられています。それらを確認し、自分たちの信仰を告白したものが信仰告白です。福音を語るのも自己流ではなく、ウェストミンスター信仰規準に基づいて語ることが大切です。そうすると、異端的な考えの過ちを確認することができ、福音の実りと成長をもたらします。 そして私たち一人ひとりの持っている信仰も正されていきます。教会の危機のときにこそ、視野を広くして、中会・大会の交わりを行い、互いの信仰を確認し合い、祈り合うことが求められています。 |
| 先頭に戻る 「説教」ページに戻る |
| 「主に喜ばれる信仰」 コロサイ1:9~12 2026.3.15 ウェストミンスター小教理問86 |
| 序. パウロは、エパフラスが伝道し、今グノーシスといった異端の教えに苦しみを覚えるコロサイ教会に手紙を書き送っています。 Ⅰ.コロサイ教会に対するパウロの祈り そしてパウロはコロサイ教会のために祈ります(9a)。パウロは、神の国が約束された希望に基づく、イエス・キリストによる救いの信仰と聖なる者の間で抱いている愛が、コロサイ教会の信徒はあることを神に感謝しつつ、コロサイ教会の信徒たちの信仰が守られるようにと祈っています(4-6)。 そしてパウロは、コロサイ教会の信徒たちの信仰が守られるための礎として、神の知恵が与えられることを神に祈り、願います(9b)。神の御心は、一人ひとりが主の御前に罪を悔い改め、信仰に生き、神の御国の約束を受け入れることです。 このため御言葉である聖書を理解することが求められます。主の御心は、聖書を通してすべて私たちに啓示されています。私たちが聖書を読み、理解することにより、主によって与えられる救いの希望が深まり、私たちの信仰は養われ、隣人への愛が深まります。そして、誤った考えが教会の中に混入してきたとしても、信仰が守られることとなります。 一方祈りは、①主の栄光を讃えること、②主の恵みに感謝すること、③懇願、④執り成しの4種類が求められます。自らの願いや感情をぶつけるだけではありません。もちろん、艱難・試練の中に置かれたとき、思いを主なる神にぶつけることもあるかと思いますが、聖書に基づく主の約束に揺らぎがなければ、主なる神による加護を信頼し、すべてを委ねて祈ることができます。 パウロは、コロサイ教会のことを覚えて自分自身が祈ると同時に、コロサイ教会の信徒たちが、信仰に基づき、祈りの生活が行えるように願っています。 改革派神学校では、聖書知識に基づく信仰と、神の愛に基づく祈祷、そして信仰の証しである伝道は、一体であることを学びます。聖書に基づく真の知識は、私たちの信仰生活そのものの変化をもたらします。 Ⅱ.主に喜ばれる生活へ 聖書の知識に基づく主なる神への信仰が確かなものとされるとき、神の民にふさわしい生活へと変えられます(9b-10)。それは、神が聖霊をとおして、私たち一人ひとりの信仰を養い、聖化の歩みが始まることを意味しています。それは、私たち自身が主による救いに喜びをもって生きる者とされることであり、同時に、主御自身が神の国において喜びが満たされることとなります。 信仰生活に喜びが生じると、主の御言葉に従った歩みへと導かれていきます。それが実を結ぶということです。 律法としての十戒は、常に律法主義が混入する恐れがあります。十戒は、「ねばならない」と繰り返され、主への従順が求められているからです。しかし十戒が語ることは、十戒への従順の結果、救いが与えられ、主に喜ばれることではありません。 十戒の前文が語るとおり、主は奴隷であったイスラエルをエジプトから救い出した後に十戒をお与えくださいました。それと同様に、罪の奴隷としての死と滅びに定められていた私たちを、すでに主は救い出してくださっています。その上に主は、十戒に従うことを求めておられます。それは私たちが再び罪の道を歩むことがないように主が守ってくださっているからです。 十戒の戒めは、神の私たちへの愛に基づくものです(参照:マタイ22:37-40)。 Ⅲ.救いの希望に基づく忍耐 神による救いに喜びをもって信仰生活を送り、主なる神による喜びに与るとき、私たちは主なる神による救いの御業にしっかりと捕らえられていることとなります(11)。 つまり私たちは、主なる神の御力・神の栄光の力によってしっかりと守られています。そうであるならば、私たちの信仰と試練や艱難による忍耐は、主なる神によって守られ、導きが与えられることとなります。 そして神の御国に入れられるときまで、信仰が守られます。これが聖徒の堅忍です。日々の信仰生活の中に苦しみがあるからこそ、主による恵みの契約に基づく救いの約束があり、救いの契約書が有効であることは、希望と喜びとなります。 Ⅳ.神の国の相続者となる恵み 私たちが救われ、神の国における永遠の生命が与えられることは、神の国の相続者となることです(11b-12、参照:ローマ8:14-17)。 だからこそ、コロサイの信徒たちは今、教会内に持ち込まれようとしている異端による混乱がありますが、なおも主によって与えられた救いと信仰に、御父に感謝するように、パウロは祈りつつ呼びかけます。 教会の先行きが見えない今の時代に生きる私たちも、御言葉に基づく救いの希望に満ち、主を信じ、主に祈りを献げる信仰が求められています。 |
| 先頭に戻る 「説教」ページに戻る |
|
|